不景気と満州事変でレジャー気運が陰る六年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)207
不景気と満州事変でレジャー気運が陰る六年夏
 不景気に戦争、それに加えて天候不順は、市民のレジャー活動を抑止させる。例年より行楽の人出が少なく、イベントも少ないような気がする。大きな事件はないものの、国民に事実をあまり知らせない万宝山事件が起きていた。満州侵略気運の醸成にもなる万宝山事件、着々と戦争への歩みが進められていた。それでも、天候に恵まれれば、海や山への人出はそれなりにあり、賑わいを呈していた。市民は停滞した気運を晴らそうと、レジャーに向かうが、満州事変勃発でその気運も押さえ込もうとする報道が多くなる。
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昭和六年(1931年)七月、万宝山事件発生②、長雨で市民レジャーは沈滞
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7月5日ka 水天宮の賽日にて賑なり
  10日A 大納涼国技館「山陽遊覧」五日より
  16日a 「雨、浅草を賑わす」藪入りの人出
  16日a 鉄道は泣面わす 冷涼で臨時列車中止
  17日A 浜町公園で盆踊り、一万人の人出
  18日M 「久しぶりの晴れで 銀座の賑わい」
  18日ka 掘割の橋の上に人多く立ちて花火を見る
  19日A 川開き、数十万位の人出、酔っ払い4件、迷子5件、スリ被害3件
  20日A 「プールへ海へ 蒸がまの底にうめく 都会人は押出す」
  23日A 「雨空を眺め 避暑地泣き出す 貸家貸間ガラ空き」
  26日A 「陽光朗らかに輝くプール・・・芝公園の婦人プール開き」
  26日A 市の納涼大会、隅田公園で花火で幕開け、毎夜八月末日まで

 市民の不景気感はさらに浸透。中元が近づくと、米や砂糖の目方をごまかすなどの不正な商人が摘発された。この年の藪入りは雨、おかげで浅草は「各映画館、レビュー館あらゆる興行は平日より一回増して午前九時から四回の盆興行」。入場人員を監視する警察官は、いつもの三倍に増員して満員の館内を巡った。公園内の飲食店も相応の景気、一杯5銭のアイスクリームが売れていた。それに対し、鉄道は日光や熱海などに向かう臨時列車を運転中止にするという状態。遠出が減ったのは、天候だけのせいではなく、不景気が大きく影響している。
 市民レジャーは、浜町公園の盆踊りに「一万人の人出」、川開きには「数十万位の人出」と、あまりお金をかけずに行っている。芝浦埋立地を歩いた荷風は、「掘割の橋の上に人多く立ちて花火を見る」と、十八日の日記に書いている。当日の事故は、酔っ払い4件、迷子5件、スリ被害3件、遊覧船衝突による死傷者5名と、人出の割には少なかった。
 十九日、やっと夏らしくなった。日曜ということで市内30余のプールは、どこも大変な賑わい。また、海へも、鎌倉3万5千人、逗子2万人など人出があった。しかし、臨時列車は満員どころか半分程度しか座席が埋まらなかった。二十三日付で、「雨空を眺め 避暑地泣き出す 貸家貸間ガラ空き」と、長雨によってレジャー気運は湿っている。

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昭和六年(1931年)八月、羽田空港飛行機の発着開始(25)、一日から夏のレジャーが本格化
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8月3日A 「ごった返した きのうの日曜日」「はじめての暑さに各駅押すな押すな」
  7日A 「明日は市川の大花火」
  8日A 神宮プールで日米水上競技開催、三日間
  10日m 湘南方面は今夏第一の人出、逗子海岸は午前中に四万余人の賑わい、市内プールは芋を洗うよう
  12日A 「深夜の愛宕山、眠られぬ人々で一ぱい」この年第二の暑さ
  17日m 月島海水浴、賑う子供天国
  17日M 不忍池で流灯会
  17日A 前日の房総の人出、最高を記録、京成電車三十五万人の乗降客
  27日A リンドバーグを迎え、上野駅から歌舞伎座までの沿道は身動きのできぬ混雑
  30日A 日比谷で故濱口雄幸民政党葬に十五万人参列
  31日A リンドバーグ夫妻歓迎会、三万収容の日比谷新音楽堂が立錐の余地なき

 それでも八月に入ると、二日は「初めての暑さに各駅押すな押すな」の混雑、やっと夏らしい海や山の賑わいが伝えられた。以後、「深夜の愛宕山、眠られぬ人々で一ぱい」と、暑さは本格化。
 七日から、初めての日米水上競技大会が開催された。
 この夏の人出が本格化し、九日は湘南方面が賑わい、十六日は、特に房総方面が多く、京成電車は乗客が35万人に達し、この年の海へは最高の人出。十五日を過ぎても暑く二十三日まで雨が降らなかった。
 リンドバーグ大佐は、北太平洋横断飛行に成功、根室に二十四日到着。二十六日の上野駅は、英雄を一目見ようとする市民が、到着の一時間前以上から群集し、会見会場の歌舞伎座までの沿道は身動きのできぬ混雑。さらに、三十日のリンドバーグ夫妻の市民歓迎会は、3万人収容の日比谷新音楽堂が定刻前から、立錐の余地もないほどとなった。なおその前日、日比谷公園では故濱口雄幸民政党葬が催され、市民「十五万人」が参列、賽銭は150円を超えると伝えられた。

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昭和六年(1931年)九月、地下鉄2キロまで5銭に値下げ⑮、満州事変勃発⑱と不景気で市民レジャーの影は薄くなる
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9月2日a 関東大震災8周年、本所の震災記念堂へ供養に十五万人参拝
  13日A 六大学リーグ戦開幕、正午過ぎてスタンド満員
  13日A 中等校陸上大会 百六十余校が参加 神宮競技場
  25日a 均一品で 秋の売出し戦 デパート戦術 大衆消費者相手に方針変へ
  25日a 「きょうの郊外の人出」満州事変と不景気で遠出は振るわず
  26日A ルンペン運動会、賞金目当ての滅茶苦茶競争
  28日T 法立戦中止でファン騒ぎ、観客一万数千の内千数百名スタンドへ

 十二日に六大学リーグ戦が開幕、第一回戦の明法戦は正午過ぎてスタンドが満員となる盛況。スポーツ観戦は、野球だけでなくボクシングも人気が出はじめた。二十四日から六大学拳闘リーグがはじまり、入場料は一円と50銭とある。チケットは、市内のスポーツ店と大学の拳闘部で発売。満州事変を前にして、人々をスポーツで盛り上げようとする中等校陸上大会、どこまで自発的であったか。動員するように開催されている。
 満州事変の報道に紙面が割かれ、「きょうの郊外の人出」との見出しで行楽状況を紹介するが、その取り扱いは小さい。彼岸の中日は、「満州事変と不景気がたたって遠出の方はあまり振わず」とあるが、市内および周辺の人出はそれなりにあった。以後も市民の行楽は続いたが、新聞は満州事変の前線状況を優先して伝えるようになる。