涼を求める行楽が増えた五年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)203
涼を求める行楽が増えた五年夏
 小僧さんたちの労働環境が変化しているのか。浅草を始めとする街頭からやぶ入りを楽しむ小僧さんたちが減少しているらしい。七月十六日付の東京朝日新聞に「時代の歩みに押し消されて」とあり、「この頃の小僧さんは月に一、二度の休みが多いので、やぶ入の日に出歩くのは小僧臭く見えるから気取って外出しないものもおおいさうだ」との記事がある。
 では何処へ出かけたか、涼を求めてプールや海水浴へと向かった。この年の夏も暑く、大勢の人々が郊外へと繰り出した。東京府では、許可した水泳場以外では一切水泳を禁止し、違反者には過料が課せられることになっていた。しかし、勝手次第に泳ぐ人がいて、七月の溺死者は40人に上り、注意喚起した。
                                           ───────────────────────────────────────────────
昭和五年(1930年)七月、麻雀屋の新設禁止⑩、市内の細民4万1千世帯18万6千人Y(29)、街頭からやぶ入り風景が消えた
───────────────────────────────────────────────
7月2日Y 国技館富士登山大納涼開場
  11日A 神宮プール賑やかに開かれる
  11日A 警視庁、麻雀屋新設を禁止、市内937店
  12日ki 姉やおえいは麹町通りへ出て、盂蘭盆の供え物を買って来た
  14日y 「海へ山へ三十万」逗子の「海の家」は午前中に満員
  14日A 「プール大人気は神宮外苑」2時間20銭
  16日ki 表には、「お精霊様のお迎ひお迎ひ」の声がしきりに聞こえる
  16日a 「街頭から消えたやぶ入り風景」小僧さん達は郊外へ海へ、午前中に五十万人
  16日A 「浜町公園の盆おどり」
  21日A 「雨の川開き でも人出三十五万人」陸上二十万、大川十五万
  28日A 「暑熱を越えて」野球に汗
  27日A 芝浦埋立地で、失業者の宝探し大繁盛、5・6円のものが出ると
 
 月半ばから暑くなり、十三日の日曜は、房総方面に両国から3万人、京成電車は5万人などの乗客があり、「海や山の初混雑」A⑭となった。藪入りには「小僧さん達は 郊外へ海へ」と、「午前中に五十万人」が市内から出かけた。そのため、「さびしい藪入りの浅草」と街頭から藪入りの風景が消えてしまった。
 だんだん旧習が廃れるなか、綺堂は、草市が麹町の表通りに出ていたことを十二日に、十五日には「お精霊様のお迎いお迎い」との声がしきりに聞こえると日記に記している。また、浜町公園ではかなり盛大に盆おどりが行われた。
 二十日、綺堂の日記によると四時頃には雨がやんだが、六時半過ぎにはまた雨が降り始めた。そのような天気のなか行われた川開き、「人出三十五万人」もの人出があった。
 芝浦の埋立地に70余のバックネット、代々木原にも20余、「暑熱を越えて」野球に汗を流している様子が二十八日付の新聞に紹介されている。暑さを反映して、高島屋が「アッパッパ? 婦人用50銭より子供用30銭より」と、新聞広告Aを出した。

───────────────────────────────────────────────
昭和五年(1930年)八月、「露店時代」の出現、早くも八十七箇所Y(21)、水泳、野球、相撲と、不況や暑さに負けぬ市民
───────────────────────────────────────────────
8月4日A 「久し振りの快晴で押し出した人波 五、六十万人に上る」
  4日A 神宮プール、芝プールでは人が「黒くひしめき合って」
  8日A 「公園の野球 ついに禁止さる」野球時代の大痛事
  8日A 明治座「国産愛用」大笑会、連日満員御礼
  16日ki 平河天神の裏門外で素人相撲 近所の子供や若い者が集まって取り組む 見物人は群集してゐた
 18日y「今夏のレコード きょうの人出海へ山へ七十万人」、正午までに逗子鎌倉に東京から一万五千等

 三日は快晴、市内から海に出かけた人波「五、六十万に上る」。市内でも、神宮プールや芝プールをはじめとしてプールは大勢の人で混み合った。豊島園は、ウオーターシュート目当ての家族連れ3千人で賑わった。次の日曜も、湯河原にいた綺堂は、「町は相応に賑わっていた」書いているので、十日も海はかなりの人出があったものと思われる。十七日はこの夏最大の人出「七十万人」、市民のレジャー気運は不景気に負けていない。
 「公園の野球 ついに禁止さる」と、学生以外の若者にも野球が流行ってきたがそのため場所がない。公園はもってこいの場所であるが、広い面積を占拠し、他の利用者に危険である。そのため、日比谷公園では、十年前(大正十年)に野球が禁止された。それが、他の公園まで広がったことになる。当時の市民スポーツと言えば、素人相撲ぐらいしかなかった。素人相撲は、あちこちで行われていたようで、綺堂も七時ころ入浴してから知人と、平河天神の裏門外で素人相撲があるというので見に出かけた。自主的な行事なのか、近所の子供や若い者が集まって取組むもので、見物人は群集していた。
 小僧さんの休日が月に二日以下の時代、夕方から素人相撲が催され、またそれを見物する人々がいた。なんとのんびりした社会なのだろうか。市内に居住している人の大半(自区内就業率80%以上)は、通勤時間がほとんどなく、仕事が終われば、すぐ帰宅。汗だくで帰れば、銭湯に入り、夕食となる。その後の時間は、ラジオ放送とでも考えられるが、当時のラジオ視聴者は12万人(世帯とする)程、まだ全世帯の半分どころか3割にも満たない。下層であればあるほど暇となり、近隣での楽しみを求める。
 週休二日が当たり前の現代、休日は何倍増えたであろうか。夕方の楽しみも、帰宅にかかる時間を考慮すると、その気持ちのゆとりは昭和五年当時に優るであろうか。時代の違いと言ってしまえば、それまでのことであるが、同じようなゆとりを持つことができないのであろうか。昔が良くて、現代が悪いなどと決められるものではないが、当時の大衆の楽しみを理解する上で、是非とも熟考すべきであろう。

───────────────────────────────────────────────
昭和五年(1930年)九月、米価暴落⑩、東洋モスリン閉鎖でストライキ(26)、失業者を救う宝探しに臨時露店
───────────────────────────────────────────────
9月2日a 被服厰跡に震災記念堂落成式「朝来の参拝者幾十万」
  9日A 品川から大森にかけて、失業者が海老取り賑わい「海の幸」と喜ぶ
  11日A 東京劇場「怪異談牡丹燈籠」大好評連日満員御礼
  12日A 八重洲口から日本橋までの素人夜店、大持てで「夢ならさめるな」
  21日A 「絶好の秋空 水陸に勇む若人」全学生水上競技、六大学リーグ戦、競漕大会
  21日A 「来たり行楽の秋 近郊と一泊地案内」
  29日y 早立二回戦喪、観衆殺到し、入場券忽ち売切三万余
                                                
 この年は関東大震災からの復興祭が催され、一日に被服厰跡で震災記念堂落成式もあって、追悼に訪れる人は「朝来の参拝者幾十万」と市民の関心は高かった。
 品川から大森の海岸へかけて、海老取りの賑わいが紹介されている。七月にも、芝浦埋立地で失業者が5・6円もする宝物(震災時の遺物)を掘り起こしている記事があった。不景気の暗い記事が多いなか、「失業者を喜ばす『海の幸』」と。夢があることから「海老取り」の記事は、かなりとオーバーに書かれているような気もする。
 また、「夢ならさめるな 大持ての素人夜店」の記事も同様。八重洲口から日本橋までの通りに、フリーマーケットが許され、そこそこ繁盛しているらしい。さらに十一月にも、銀座に新しい露店街が開店し、発明夜店などと呼ばれ、おもしろそうなものが出品され人気を博した。市民の自主的な活動が制約されるなか、不景気を乗り越えようとする市民の行動は、切羽詰まっていてもどことなく楽しさを感じさせる。