遊びにも不景気浸透か五年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)202
遊びにも不景気浸透か五年春
 東京市統計書にスポーツ関連の資料がある。昭和五年の「スポーツ観衆人員職業別」を見ると、当時の動向が数値でわかる。陸上競技(日独対抗)の観衆は8,639人、最も多いのもは学生で44%、次いで銀行会社員19%である。ラクビー蹴玉(京大対明大)の観衆は4,577人、最も多いのは学生で51%、次いで銀行会社員15%である。大相撲春場所の観衆は7,515人、最も多いのは商人で25%、次いで学生で15%、銀行会社員13%である。これらが一般的な傾向と断言できないものの、大きく異なるものではないだろう。
 これらの数値から想定すると、新聞に取り上げられているスポーツ関連の記事表現とかなりの差異を感じる。スポーツが盛況になっていることは確かであろうが、職工労働者や店員などへの浸透は控えめに判断しなければならないだろう。なお、この職業分類に、軍人の項目があるものの、その割合は低い。
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昭和五年(1930年)四月、ロンドン条約締結⑳、市電ストライキ⑳、復興祭を上回る花見の人出
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4月7日A 「きのうの花見 人出二百五十万」
  7日ki 新宿の電車終点まで散歩。ここらは夜店が出て非常に賑わっていた
  9日A 花祭行列、浅草公園から賑わう日比谷へ
  12日a 神宮外苑の体育運動大会に「花と入り乱れた 三万の女子 春のスポーツを飾る」
  12日a 演劇・映画「暗い世相と反対に 独占的の繁昌振り」
  14日A 六大学野球「春のリーグ戦 きのう序幕」満員で入場できない人夥し
  20日y 今春人出の新記録「押し出した二百万」
  20日A 絶好の運動日和に陸上庭球水泳の人気素晴らしく、野球は満員の盛況
  21日A 「市電一万の従業員 整然たる総罷業」
  28日Y 上野の名宝展、雪舟デー入場者一万五千人」
                                                
 四月に入って花冷え、神武天皇祭の日は雨。市民も一息ついたのか六日の日曜には「人出二百五十万」と、ドッと外に出た。上野駅の乗降客は30万人、新宿駅が22万人など、復興祭を凌ぐ人出となった。ことに、「上野の山は五十万」人、飛鳥山は「三十五万人(迷子129人)」の人出は過大と思われるが、動物園の入場者3万7千人、海と空の博覧会に4万人、豊島園2万人など、行楽の人出はこの年の最高となった。その翌日も人出があり、綺堂は、新宿の夜店が非常に賑わっていたと日記に書いている。
 十二日の東京朝日新聞に、長谷川如是閑(大正デモクラシー期の代表的論客)は、演劇・映画「暗い世相と反対に 独占的の繁昌振り」に「不思議ではない理由」を次にように述べている。
「暗い世相に反比例して劇場が異常な繁盛繁昌ぶりをみせてゐるのは決して不思議でない、今日の如き社会状態は一種の過渡期であって、この過渡期において民衆は過去の手工業時代の娯楽を失ひつゝある、場所とか根気とか長い時問を必要とする娯楽たとへば謡曲とかびわとかさうしたものの次第に隔絶して自ら大衆的な娯楽に走る結果となる、自然劇場が非常な勢ひをもって人々を集めてくるのだ、近頃の劇場狂景気時代の根源は大きくいへばそこにあると思ふ、それと同時に近年の失業地獄が劇場を賑かにしてゐることをいはなくてはならない、最近家には一人や二人の失業者を抱へてゐない家はないといっていゝ、然るに我國の社会状態はいまだに家族制度を保有してゐる、だから失業者は親とか兄弟とか親類といふやうなものから多少に拘らす補助を受けてゐる、早くいへば小遣銭がある、いくら就職運動に忙がしいといったところが、やはり暇があって身をもてあし、気分がいらいらして家にに落ついてゐることもできないからまづ活動でも見よう、といふことになるのだらう、この点家族制度の無い欧米諸国では失業即ちあすの寝床にも困る、いふわけだから、同じ失業でもその深酷さが違ふ、先年日露戦當時の好況に続く不景気から非常に失業者が殖えた、その際は書物が非常に売れたさうだ、失業状態が今日ほどではなかったので家にこもって本でも読んでゐればその中にはどうにかなっていったものらしい、要するに家族制度といふ崩れかゝった支柱が僅かに極端なる失業地獄の現出を食いとめてゐる、その結果が劇場の狂景気となって現れたのであると私は説明する」とある。
 春の人出は続き、映画館だけでなく、六大学野球「春のリーグ戦」も満員で入場できないほどであった。二十日は、市電のストライキにもかかわらず、市内は賑わいを失わず、「絶好の運動日和に陸上庭球水泳の人気素晴らしく、野球は満員の盛況」であった。
 永井荷風の二十八日の日記に「四時頃となれば毎日のように紙芝居というもの門外の小径に来り拍子木鳴して近隣の子供をあつめて飴を売る」と。自転車の上に大きな菓子箱を乗せ、それを「芝居の舞台のように見せ」「人物立木など描きし」紙を使って「台詞を述るなり」。前年あたりから来るようになったと書いている。この頃、最初の平絵式紙芝居が作成され、年末には『黄金バット』が登場し、大人気となる

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昭和五年(1930年)五月、映画演劇の客は減ったが、スポーツ観戦は盛況
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5月2日a メーデーの大示威 一万五千の労働者
  14日a 「人気遂に沸騰した きょうの慶明決勝戦 十一時早くもすし詰めの入場者」
  15日Y 上野の名宝展、美術館最高記録の入場者
  16日a 相撲夏場所初日、朝から満員の民衆デー
  18日a 早慶戦火ぶたを切る、ギッシリ満員の神宮球場
  19日T 日本橋街頭でボール投げの百二十人引致
  23日A 「驚くべき鉄道の減収、昨年に較べて一日十一万円減、生々しい不況反映」
  25日A 極東選手権大会開催
  25日A 大相撲十日目、朝来大入り
  27日A 極東選手権大会二日目、日華野球試合はスタンド満員の盛況
  28日a 大海戦二十五周年、陸上軍艦などが昭和通り行進
  29日A 極東選手権大会五日目、神宮プールは開会前に 一万人のスタンド満員
  31日A 神田日活等「嘘から嘘」他満員御礼

 四月までは市民の行楽気運は高く出歩いていたが、五月は映画の入りも捗々しくない。活気のあるのは、新聞紙上を賑わす学生野球などのスポーツくらい。スポーツへの市民の関心が高まった理由は、入場料金が安いことにありそうだ。二十五日からの極東選手権大会は、六日間にわたって行われ、野球試合や神宮プールは満員になるなどの盛況。大会の総観客数は「五十万人」で、12万円の収入があった。これから一人当たりの入場料を単純に計算すると24銭、大相撲初日の民衆デーより安い。
 「驚くべき鉄道の減収、昨年に較べて一日十一万円減、生々しい不況反映」と、市内で過ごす人が多く、郊外へ出かける人が減少した。大相撲夏場所では初日の民衆デーを楽しむように、市民はなるべくお金を使わないように遊んでいる。

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昭和五年(1930年)六月、若槻全権入京に東京駅周辺歓迎の人々群衆⑱、「すごい野球狂時代」の到来
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6月1日A 極東選手権大会終わる、観衆五十万人、入場料十二万円
  7日A 「空き地という空き地へ 真夜中から争奪戦」すごい野球狂時代
  13日ka 山王の祭礼にてあたり賑なり
  15日ki 若い衆や子供が神輿をかつぎ廻っていた
  16日A 「山王さまのお祭り始まる」
  18日ki 麹町五丁目の稲荷の縁日で賑わっていた
  26日A 帝国劇場「曽我廼家五郎」日延べ、連日引続き売切れの大好評
                                                
 これまで野球は見るだけの人が圧倒的に多かったが、学生以外にも行う人が出てきた。ただ、市内に野球のできる場所が少ないこともあって、先月、日本橋の路上でキャッチボールをしていた店員が120名も引致され、内80人に2円もの罰金が課せられた。そのためか、場所探しが大変で、空き地を求めて、真夜中から激しい争奪戦が繰りひろげた。なお、野球とは言っても、「印半纏の連中がコンクリートの上でキャッチボール」という野球のまねごと、草野球であることは言うまでもない。
 「山王さまのお祭り始まる」。綺堂は、十八日、麹町五丁目の稲荷で草花一鉢を買い、賑わっていた由。十九日も往来がいつもより賑わっていたのを、四谷を散歩しながら見ている。
不景気は興行にも及んできたらしく「盆興行には各座とも値下げ」Y(24)、これは大正六年 以来のこと。「吹きすさぶ不況の大嵐」Y(25)との見出し、牛乳屋さんの廃業が日に5・6軒、牛肉も売れずなど、連日のように不景気の記事がある。