好景気につられて盛り上がる十年冬のレジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)221
好景気につられて盛り上がる十年冬のレジャー
 東京は暮れから続いて正月の人出が目に付き、景気が上向いているらしい。市民が浮かれている間に、日本の侵略戦争は進んでいる。国内の政治は、軍部の影響力が強く、岡田内閣は安泰である。二月に「天皇機関説」が国会で問題化したが、市民の多くはどのようなことなのかがわからないだけに、関心を示さなかったようだ。
 「天皇機関説」は、現在でも、このことを論ずるのはなかなか難しいと感じ、その注釈を考えているうちに時間が経ってしまった。機会があれば、再度試みたいが、たぶん無理であろう。参考になればと(https://nihonsi-jiten.com/tennou-kikansetu/)を示すことにした。
 「天皇機関説」は軍部内の勢力争いに利用され、八月、軍部の内部対立から陸軍軍務局長永田少将刺殺される。

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昭和十年(1935年)一月、関東軍、熱河・チャハル省境で宋哲元軍と交戦(23)、正月の人出多く、興行も盛況
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1月1日A 尾張の国から千名の「笑の使者」入京
  1日ka 尾久停車場の近くに大なる神社あり。参詣の人雑遝せり
  3日A 日本劇場「パンテージ・ショウ」連日満員
  3日A 帝国劇場等「クレオパトラ」他満員御礼
  5日a 「どっと出たり 年末年始 鉄道の客」、明治神宮初詣、元日七十五万、三箇日で百十万
  6日y 初水天宮、陣羽織姿の異形参詣団
  7日a 出初式、七千名の消防組員の分列・木遣行列など宮城前に堂々、非常時消防陣
  7日a 日比谷の広場で凧揚げ大会、50枚の大凧
  9日y 浅草帝国館「退屈男」他と林長二郎実演舞踏、満員御礼                   11日a スキー列車増発上野から2本新宿から1本
  12日a 春場所初日、大衆デー超満員
  21日a 川崎大師、赤痢禍解消の霊験、参道にあふれる人波例年に変わらぬ賑わい
  22日A 大相撲昭和に入って新記録的盛況の春場所
  24日a 東京館「ロイドの大勝利」他連日満員
  31日Y 両国国技館で東洋拳闘争覇行われる

 「祝いこみまァす」「ハァ五万歳」「春はァまたァ・・目出たくもお家様へ七福神が・・ポンポン、ポン、がァ参るウー」とはじまる、『尾張万歳』、正月を目指して「約千人」入京。「ヘエお目出とう御座います」と万歳下駄というほゝ歯の高下駄の音をたてゝ門松をくぐる、縁起もので、正月には欠かせぬ風物詩として生きている。
 この年の恵方は、丹那トンネル開通を反映して、東京から熱海や伊豆方面の温泉へ出かける人が増加、特に西伊豆はホクホクの新春景気となった。市内では、明治神宮の初詣が元日「七十五万」、代々木・原宿駅の午後二時から三時までに降車客が2万人を突破した。国鉄から見た年末年始の人出は、昭和三・四年以来のもので黒字の新記録だという。
 荷風は二日、銀座の不二氷菓店に夕食に入ったが「大入にて空席殆無し」の状況。また、六日も銀座は、「人出おびたゞしく百貨店の入り口あたりは押返さるるほど」であった。正月の人出は多く、「映画館、寄席なども元旦、二日は超満員」、劇場では前年に切符が売り切れたところもあるほど、「ここ数年来みられない景気」。
 中でも、日本劇場の『パンテージ・ショウ』は連日満員御礼、正月以後も「好評につき二の替わり」A⑮の広告が出ている。ただ、興行面でのトラブルが何度もあって延期や中止もあったが、二月になっても人気は落ちなかった。
 また、大相撲も、初日から盛況で「好取組みに大入」A⑭、「九時には既に木戸止めの盛況」a(21)、昭和に入って新記録的盛況とまで書かれている。一月は、映画や演劇なども満員の広告が多く、市民レジャーは活況を呈していた。

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昭和十年(1935年)二月、築地に東京中央卸売市場完成⑪、天皇機関説問題化⑱、景気を反映して追儺式盛大
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2月1日ka この頃銀座辺の飲食店は大小善悪の別なく繁盛する
  5日a 節分列車、成田へ五十四本、四・五万人で満員
  5日A 豆まきの新風景、紅毛追儺合戦で盛り上がる、人出は吉原神社五万、浅草観音三万五千、深川八幡三万二千、目黒不動三万、鬼子母神二万三千、増上寺二万二千、その他西新井薬師等の合計三十二万八千人
  9日ka 広小路点灯頃の雑沓銀座通に劣らず
  11日a 芝浦スケート場、銀盤の女王フリツチ・ブルガーに陶酔、観客の大部分は学生
  12日a 力強い建国の行進 帝都を練る赤誠十万
  16日A 日比谷公会堂で児童合唱団を加えてマーラーの大曲初演
  17日a 浅草電気館・新宿帝国館、入江たか子主演「貞操問答大会」満員御礼
  20日Y 東京劇場「勧進帳」他満員日延べ
  20日Y 日比谷映画劇場「私と女王様」他好評続映

 景気が上向いているのだろう、追儺式に活気がある。恒例化した俳優や力士の年男に変わって、パンテージ・ショウの美女6名を引っぱり出したのは両国の回向院。護国寺では、アメリカ大使館やニューヨークタイムス特派員が年男。「鬼も笑わせる 稀な楽しいお祭騒ぎ」となった。主な寺社の人出は、警視庁の報告で32万8千人。これらに成田山や川崎大師などの人出を合わせると50万人を優に超す。
 「建国祭は、十年の歳月を送って遂に我等日本人をあげての年中行事となった」。市内では明治神宮靖国神社など8ヶ所で催され、上野公園には「在郷軍人、青少年団のカーキ色の服、学生の金ボタン、エプロン姿の国防婦人会」等々「あらゆる階級を網羅した日本人」が割り込む隙間もないくらい押し寄せた。式後、落語家ら芸人3百名を含む1万人は、ラッパ隊を先頭に上野の山を下り宮城へと向かった。この光景を撮影しようと外国トーキー班が飛び回っていた。

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昭和十年(1935年)三月、東京発声映画製作所設立(21)、衆議院天皇機関説排撃の国体明徴を決議(23)、花見を前にレジャー気運を規制
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3月3日A 浅草松竹「母の愛」他満員御礼
  9日A 渋谷駅の名物忠犬ハチ公13歳で死去
  11日a 日露戦争三十周年祝賀式、宮城前に晴れやかな雑踏
  12日a 花見の取締り方針を示達
  12日a 米穀自治管理法案、賛否両大会会場超満員
  15日A 神宮競技場で全米学生対抗アメリカンフットボール初開催
  20日a 松竹経営映画館で総罷業決行
  20日a 飲酒「一石二鳥」と女給に禁止命令
  31日A 高島屋で開催中の「大山元帥展」人気白熱につき日延べ

 十日、荷風は、「日露戦役記念祭挙行の由。近隣の家人皆出払いて門巷却て閑静なり」と日記に書いている。陸軍記念日日露戦争三十周年祝賀式は、九段下から陸軍軍楽隊の行進などが催され、市内の人出は賑やかであった。天候に恵まれていたのはその頃までで、お彼岸に入ると雪が降るなど行楽の勢いにブレーキがかかった。
 また、警視庁は花見を前にして、早くも取締り方針を示達。団体の仮装、トラックによる人の輸送、山車、踊屋台及び道路上の囃子や楽隊等々いずれも御法度、取締りを徹底させようと各署に通牒を発した。中でも、カフェーやバーで花見気分を味わうこと「絶対にまかりならぬ」と、現代ではわけのわからぬものもある。
 松竹経営映画館で総罷業決行、「トーキーに追われる楽士 いよいよ背水の陣」である。東京発声映画製作所が設立され、観客も新しい映画を望んだ。そして、アメリカ漫画映画「ポパイ」が上映され人気を呼ぶなど、人々の嗜好の変化が見られた。

 

何故か人出のある九年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)220
何故か人出のある九年秋
 夏からの人出は、何故か減らない。特別なレジャーやイベントがあるわけではない。あると言えば、大リーガー選抜チームが来日したくらいである。十月には、警視庁が学生・未成年のカフェー・バー出入りを禁止した。また、市電ストライキも行なわれた。それでも、市内には出歩き、遊ぶ人が多かった。
 野球人気は高まる一方で、それに油を注ぐような、大リーグ選手との試合が催された。試合というより、野球ショー、「スコアブック微塵 炸裂した本塁打 なで斬り『弾丸球』に 六万の大観衆ただ夢心地」とある。力量の違いから、全く相手にならない、その対応を面白おかしく記事にしている。そして、十二月には、職業野球団大日本東京野球倶楽部(プロ野球)が結成される。

 国内全体では、東北が凶作という事もあって、決して景気は良くない。にもかかわらず、東京の街は去年よりも賑やかで、歳暮の商店売り上げもそこそこらしい。そして、暮れ(二十四日)の皇太子誕生日には、大勢の人が宮城前に集まり、「万歳の嵐」とある。

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昭和九年(1934年)十月、警視庁が学生・未成年のカフェー・バー出入りを禁止⑥、市電のスト中であるが市民レジャーは意外と活発
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10月6日y 明治座「悪縁」他初日以来連日満員御礼
  10日Y 歌舞伎座「豊百三代記」他満員御礼
  10日ka 此日午後に花火の響を聞く、九段の祭礼
  13日Y 雨のお会式大景気、人出七十万
  15日a 青空に浮かれて、市民の大移動、各駅の臨時列車も超満員、新宿駅三十万人の乗降客
  18日y 浅草帝国館「林長二郎の舞踏三ツ面」果然満員御礼
  25日y 大勝館「今宵こそは」他満員御礼
  25日y 帝国劇場等「勝利の朝」他満員御礼
  28日y 泣きそうな空の下、淋しい早慶戦
  29日Y 神楽坂、早稲田・法政の凱旋行進乱舞

 ストライキは十三日まで続いていたが、荷風の日記によれば十三日も「散歩の人織るが如し」と、市民は出歩いていた。また、古川ロッパも、「市電ストライキが又起こってるというにもかかわらず大入満員」と、七日の日記に書いている。
 十二日のお会式は、時折小雨の降るという天気にもかかわらず、万灯が512個も集まり、前年より「廿五万人」も多い「人出七十万」。盛況の割には、大きな事故もなく、賽銭泥棒が28人捕まった程度であった。十四日は秋晴れ、「新宿駅は三十万人」の乗降客、ハイキングの流行もあって、各駅の臨時列車も超満員となった。
 優勝争いとは関係なくても盛りあがるのが早慶戦。この年は例年より観客の集まりが遅く、ようやく観客席が埋まるような状況だった。試合は、勝敗も応援も早稲田の勝ち、凱旋行進は神楽坂へと向かった。六大学野球リーグ戦の優勝は法政、法政も神楽坂へと凱旋。二重の凱旋に神楽坂は「乱舞のカクテル」となったが、混乱なく沸き返った。なお、銀座では、慶大生が早稲田の校歌を歌って歩いている人を「卅余名」で袋叩きにした。

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昭和九年(1934年)十一月、渋谷に東急百貨店開店①、大リーグ来日で興奮、スポーツは盛ん
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11月3日Y 日比谷新音楽堂米国野球選手歓迎会に一万数千
  3日y 浅草電気館等「帰去来峠」他満員御礼
  3日ro 常盤座「物日で大入り満員」『凸凹』他
  4日A 日本劇場等「水戸黄門」他満員御礼
  4日y 秋晴れの外苑、体操祭や音楽行進
  4日a 明治神宮へ人波正午までに卅万
  5日y 神宮球場六万の観衆、日米野球に興奮熱気
  10日Y 日比谷菊祭、入場料30銭
  11日Y 日米野球第三戦、六万大観衆ただ夢心地
  18日a 浅草電気等「修羅時鳥」他満員御礼
  21日y 帝展淋しく店閉い、入場者二十万人割る
  24日y 歌舞伎座で東北凶作義援コロンビア実演大会、会員券3~1円
  26日A 日比谷新音楽堂で全日本柔道選士権大会
 
 二日、ベーブ・ルースをはじめとする大リーガー選抜チームが来日。日比谷新音楽堂で歓迎会、神宮球場の第一戦から「六万観衆」が興奮して観戦。ただ、試合内容は、日本選手は三振の連続、八回まで外野に飛球さえ出ないという力量の差、新聞Y⑪には「米軍の退屈三人男」というイラストまで載せられていた。それでも、毎試合球場は満員、観客は大満足であったのだろう。
 この年、神宮競技の開催はないが、三日に神宮奉祝体育大会が行なわれ、体操祭にはラジオ体操の実演や運動会等が行なわれた。7日には、「都下男子中等学校生徒六万五千人の明治神宮遥拝式は来る七日秩父宮殿下の台臨を仰いで・・・」y④とある。
 スポーツは盛んであるが、展覧会、帝展は不景気のため入場者・売り上げとも「がた落ちの有様」。前年の21万9千人より約二万人の減少、売り上げは13点減少し75点。
 二十五日、荷風は、「此日早朝砲声の如き爆音を聞く。思うに祭礼の花火なるべし。乱世には花火の音も強激となり機関砲の響に似通うも是非なき次第なり」と記している。

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昭和九年(1934年)十二月、丹那トンネル開通①、職業野球団大日本東京野球倶楽部の創立(26)、ワシントン海軍軍縮条約破棄(29)、東北が凶作で暗さはあるが市内に人出
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12月3日y スキー相談所店開き
  6日y 浅草松竹等「春江の結婚」満員御礼
  8日ka 銀座通り早くも歳末の光景を呈す。今宵もまた松坂屋の前にて群集中街娼の徘徊する
  12日A 東京劇場で東北救済観劇デー「阿難と呪術師の娘」他盛況
  15日Y 浅草三社様の注連市、夜の十二時から暁方までの取引が廿万円
  24日a 皇太子誕生日に、宮城前で大妻高女を先頭に二万人「万歳の嵐」
 
 五日、例年より早い初雪。どの新聞も、東北凶作の惨状を示し、救済を強く呼びかけている。それに応えるように、東北救済観劇デー、百貨店出も上野松坂屋松屋高島屋などで歳末買い物義金、等々で市民の善意が寄せられている。多方面から義金が集められているが、焼け石に水のようで、悲惨な状況は年の瀬と共に増していった。
 それに対し、市内は歳末にしてはレジャーもそこそこ盛況、浅草三社様の注連市も「夜通し藪れんばかりの景気」。皇太子の誕生日には、大妻高女二千人を先頭に、都下中女・小学校・少年団等「二万人」が宮城前に訪れ、祝福の万歳の嵐。デパートの人出は、「不景気はどこ吹く風」A(28)と活況。大晦日荷風も「雨激しく降りしきる街上には行来の人雑遝し夜店はテントを張りて商いをなす。本年の歳暮は去年よりも賑なり。商店の売行きもあしからずと云う」と、日記に書いている。  

レジャーは活発に見えるが先が不安な九年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)219
レジャーは活発に見えるが先が不安な九年夏
 梅雨明けが遅れ、天候が不純なため、市民の行楽活動は低調。それでも、市内で遊ぶ人が多かったらしく、劇場や映画館の入場者は増加し、この年の年間入場者数は400万人にも及んだ。
 地域の夏のイベントは少ないようで、市民の八月四日の夜から五日の暁にかけて非常時青年の意気を示す、江戸川区青訓練生の連合野外攻防演習の記事が掲載されている。徐々にこのようなイベントが目立ちはじめ、市民を動員する人数も多くなってきた。また、市民に灯火管制(夜間の空襲に備えて、照明の使用を制限する)を指示するようなことも始まっている。
 この九月には、室戸台風の被害、東北地方の凶作が伝えられ、明るい話題が少なかった。  
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昭和九年(1934年)七月、斉藤内閣総辞職③岡田内閣成立⑧、第一回電気商品見本市開催③、高島屋百貨店が全館冷房の広告⑥、天候不順ではあるが市民レジャーは活発
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7月5日ka 汐留川貸船大繁昌なり
  9日A 目黒音頭大会、祐天寺裏で2千人以上
  11日a 鎌倉海水浴開き「海の喫茶店百数十軒」
  15日ro 常盤座「次郎長」他大満員
  16日A 鎌倉「海の謝肉祭」でカーニバル行列
  18日y 「気狂い天気」お盆の興行街は大当たり
  19日a シネマパレス「にんじん」他大好評続映
  19日a 常盤座「隣の八重ちゃん」他満員御礼
  23日A 川開き小雨、「炸裂する江戸の華」人出は舟と陸と合せて四十四万
  30日a 「お待かねの夏空 海へ山へ朗かな群」富士山に一万二千人の登山者

 梅雨空があけず、川開きは日延べされ、二十二日時々小雨が降る中で行われた。花火は「炸裂する江戸の華」と素晴らしかったが、人出は「四十四万」人とやや淋しいものであった。
 天候はすぐれなくても、海水浴シーズンに向けて準備が進められている。十日には鎌倉で海開き、十五日には「海の喫茶店百数十軒」が「海の謝肉祭」と称しカーニバル行列を催した。梅雨があけると猛烈な暑さ、二十九日の日曜は35℃を超えた。東京駅からは湘南方面に臨時列車が30本、8万人もの人が出かけるだろうと。両国駅から房総方面に10万人、新宿駅からも初御目見得の藤沢行きの臨時急行など小田急線が満員。
 「湘南海浜の日曜風景」は、「おっとせいの繁殖期における海豹島の光景」。この年の女性の水着は「金太郎の腹掛のような」スタイル、「背中美」時代が遅ればせ日本にもやって来たとある。そのような水着の「マネキン」に素人カメラマンが人だかり、注文に応じポーズを取ってくれるがモデル料は無料。ただし、水着の端にはハッキリと商品名が付いていた。

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昭和九年(1934年)八月、大泉市民農園開園①、同潤会江戸川アパート完成⑯、日活・日興の18映画館突如総罷業(25)、海水浴客は最高の人出、市内の興行も堅調
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8月3日ka 近年銀座通には種種なる浮浪人無頼漢徘徊せり。衰世の状況推して知るべし
  4日Y 谷津と大森の海水浴場で宝探しやお土産
  6日y 蒸風呂列車でも満足 海へ!海へ!逃避
  9日y 多摩川花火大会
  13日Y 谷津海水浴場、松竹少女歌劇スターのサイン・デーで入場者十五万
  13日Y 井の頭公園の花火大会十五日
  14日A 王子権現の祭、天下公認の大喧嘩
  19日y 浅草帝国館等「三日月の健」他満員御礼
  26日y 東京劇場、青年歌舞伎劇納涼興行「本朝 廿四考」他連日満員の為二十八日まで日延

 八月に入り、市民の関心は海水浴。読売新聞は自社主催の谷津遊園・大森八幡海岸の海水浴場に、宝探しや演芸などの余興で誘った。十二日は松竹少女歌劇スターのサイン会開催。水の江ターキー、西条エリ子、三田絹代などへ歓声をあげて殺到し、「十五万」の人が訪れたという。
 この年最も人出があったのは五日で、省線だけの客が午前中に「ザット四十七万人」もあった。電車は「蒸風呂」状態、鎌倉・逗子の海水浴客が「三万人」と前年より6千人多く、この年最高。そのため、「日曜で暑し、今日は海へとられて、とても入りはあるまいと思ってたが、何うして中々の満員だ」と『海・山・東京』(松竹座公演)に出ていたロッパは日記に記している。
 荷風も四日、「東京劇場及歌舞伎座見物の群集帰りをいそぎて外に出で来る混雑の光景を観望す」と。十二日も「晴れて暑し。正午華氏92度なり。夜銀座納涼例の如し」と、市内は賑わっている。芝居もなかなかな堅調、ロッパは「涼しいから今日は海へ客をとられないだろうと思ってたら果たして大入満員」と十九日の日記に書いている。それでも映画の方は、トーキーが主流となるなか、楽士の馘首から日活・日興の18映画館でストライキがはじまった。

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昭和九年(1934年)九月、雨中の三都連合防空演習五十万人参加①、市電ストライキ⑤、東北地方の冷害、九州・西日本の干害などくらいニュースが多く、レジャー気運は沈滞か
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9月2日y 秋雨欷く記念堂の慰霊祭
  6日Y 市電ゼネスト、交通地獄を現出
  9日y 日米対抗陸上競技大会、火蓋を切る、観衆三万
  9日y 六大学野球リーグ戦開幕
  13日y 常盤座「一本刀土俵入」他満員御礼
  16日y 浅草電気館等「仂討嬬恋坂」他満員御礼
  24日a 二十数日振りの秋晴れ、足どり軽く野外へ新宿から二十五万人
  29日Y 銀座「蚤の市」開く五日間

 一日、本所被服厰跡の記念堂では恒例の慰霊祭、秋雨の降るなか、また震災から十年以上経っており、訪れる人の出は湿りがちであった。それに対し、三都連合防空演習は、「五十万人」の参加をもって雨中決行された。土砂降りにもかかわらず、銀座通りにいた荷風は「雨中係わらず演習見物の男女絡繹たり」と記している。ロッパは、「灯火管制のわりには満員」と。
 五日、市電がゼネストに突入。職員1万余人の解雇、給料を半分近く減らして再雇用などに対抗しての行われた。電車の遅れや不通は当然のこと、運転した電車が事故を多発、それこそ「交通地獄」となった。ストの続くなか、神宮外苑競技場で日米対抗陸上競技大会、「三万」の観衆を集めて開催。また、六大学野球リーグ戦がはじまった。
 映画・演劇は盛況であるが、さすがにスト中ということ、雨が多く、行楽活動は低調である。十八日、荷風は、「終日雨歇まず、此頃銀座通夜十一時に至れば人通り稀になりてカフェーはいづこも客足途絶えがち」と聞いている。二十一日に関西地方を襲った室戸台風の被害の大きさを知った市民は、出歩くのを控える傾向が強くなった。なお、台風一過の日曜、二十三日は二十数日振りの秋晴れ、新宿駅から「二十五万人」、上野から「十一万」の人出があった。
 

人出だけが盛り上がる九年の春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)218
人出だけが盛り上がる九年の春
 春の出来事は「帝人事件」、齋藤内閣の総辞職の原因となった事件であるが、起訴された全員が無罪となっている。訳のわからない事件で、倒閣を目的に捏造されたのではと、考えられるが実態は不明のまま。市民も、烟に巻かれたままであった。
 人々のストレスは、どこかで発散しようとタイミングをねらっていた。それを花見に託つけて爆発したのが、この年春であった。東京市民だけでなく、周辺の農村部までにも広がった。なぜか都心に近在の農民が上京して盛り上がるだけでなく、近在でも負けずに騒いでいたようだ。
 そして、五月に東郷元帥の死去に続く国葬、荘厳ではあるが市民は託つけて出歩いていたようだ。天候や不景気、イベントが少ないこともあって、人出はあるものの市民のレジャー気運は低調であった。街中は、平穏ということであろうが、右翼の街頭アピールが多くなり、市内に殺伐とした雰囲気を感じるようになった。       
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昭和九年(1934年)四月、帝人事件おこる⑱、忠犬ハチ公銅像除幕式(21)、サクラの開花と共に盛り上がる市民のレジャー活動
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4月2日a 「かきいれ時を雨無常」 
  2日A 「お上りさん」急増、宿屋は千客万来
  3日ka 祭日なれば銀座通り田舎漢の尤往来甚し
  9日a 花見第一日パッと咲かぬ桜、どっと出た人波
  10日A マーカス・ショー期限切れ査証に物言い
  15日A 延長ならず、マーカス・レビュー打止め
  16日A 上野動物園に七万五千人、飛鳥山に十五万人の人波
  23日y 東京六大学リーグ戦はじまる、二万の人出
  27日ro 今日は靖国神社の祭で大分入りがある
  28日a 早慶戦興奮興奮の渦、八時に内野席売切れ
  30日a 大観兵式、代々木原頭の偉観
 東京へは地方から、花の便りに先駆けて「お上りさん」が押し寄せ、宿屋は大繁昌。神武天皇祭の日、宮城から銀座通りへとお上りさんが右往左往している様を、「田舎漢の尤往来甚し」と荷風は日記に記している。       
 八日、「パッと咲かぬ桜」に「どっと出た人波」と花見の第一日。上野には「十万人」もの人出、おかげで「留置場まで花見景色、スリ、カッパライ等で上野署ごった返す」A⑨始末となった。十五日、満開のサクラに上野は「三十万」、飛鳥山に「十五万人の人波」、この年最高の人出を記録。東鉄管内だけで140万人、142万人の私鉄や自動車での人を加えると300万人を突破、「六年ぶり、花見新記録」a⑰となった。その日の行楽は花見だけでなく、動物園、潮干狩り、成田講、陸上競技、ボートレースなどにわたり、また、「デパート巡り十五銭」の切符を使ってのショッピングもあった。
 成田講の記事は、「成田講くづれも 酔つて踊つて 花と牧草の三里塚」と、周辺の郊外でも大勢の人々が浮かれていたと。「花の三里塚の花見客歓迎アーチをくぐれば茶店、お土産やが江の島以上のうるささ、オートバイ軽術の見世物までかかつてお祭り気分、そこへ近在の若い衆が笛、太鼓に赤い長じゆばん花がさの道化ばやし、手に酒だるを乗せ手製の造花で飾つた牧歌的な農村青年のお花見も混る。どこから出張したのか、芸者連の流し、御法度のネオンの影の『唄はしてよ』少女もやつて来て踊つてゐる、場所のいい茶店御法度境内の芝生に「さざえのつぼやき」の大看板をかけた千葉県水産農会の際物の出店がある」。・・・
 二十二日から東京六大学リーグ戦開幕。初戦は帝大対立教、押し寄せた観客は「二万」と少なかった。が、二十七日の早慶第一戦は、午前八時に内野席券が売り切れるという人気。

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昭和九年(1934年)五月、井の頭公園に動物園開園⑤、片岡知恵蔵主演映画「忠臣蔵」連日超満員、郊外への行楽は低調だが市内でのレジャーは盛ん
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5月2日Y 両国国技館で拳闘「堀口対トミー」観客二万
  4日a 野趣満々たる新宿祭、時代祭など繰出す
  6日a 日本劇場「一日だけ淑女」他満員御礼
  6日A 「銀座異変」コリント商売御法度
  11日a 夏場所初日目前に珍しい「相撲祭」開催
  12日a 大相撲、早朝から階上席は相当の入り
  17日ro 三社祭の太鼓の音がひゞき、夏祭りの景気
  20日A 片岡知恵蔵主演映画「忠臣蔵」連日超満員
  21日a 夏場所十日目大入満員
                                                
 一日、メーデーは左右分裂、芝公園と芝浦で開かれた。警察の取締りも以前のような激しさは感じられず、市民の関心も薄れているようだ。その一方で、「白鉢巻白襷黒紋付に袴をはきたる壮漢十四五名竹刀を打振り街上を練り行く。巡査も見ぬ振り・・・街頭にて悲憤憤慨慷慨の演舌をなすものあり。宛然幕末の光景なり」と、荷風は二十三日の日記に記している。
 新宿祭、三社祭神田祭など市内では様々な行事や興行が行われている。イベントはあるものの、熱気は感じられず、レジャー気運は低調であった。そのような中で注目を集めたのがエノケンの『青春水滸伝』と片岡知恵蔵主演の映画『忠臣蔵』。片岡知恵蔵が満員の御礼に映画館を訪れ挨拶するので、人気は沸騰。三十一日aにも富士館・帝都座・神田日活・麻布日活の満員御礼広告。討ち入りの行われた季節でもないのに流行るのは、『忠臣蔵』が俗に“鉄砲”言われるように不景気を反映してのことだろう。

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昭和九年(1934年)六月、東郷元帥の国葬⑤、地下鉄浅草から新橋まで開通(21)、国葬によって前月のレジャー気運は持続
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6月2日a 鮎解禁第一日、多摩川沿岸に二千名が繰出す
  4日ka 此夜銀座通の雑遝平日優る。明日東郷大将国葬につき学校官衛皆休業するが故なるべし
  6日A 日比谷公園で東郷元帥の国葬、沿道「驚異的な人出百八十四万七千余人」
  6日a 日本劇場「一日だけ淑女」他満員御礼
  7日A 富士館・帝都座等「忠臣蔵」満員御礼
  11日y 隅田・浜町・錦糸の三プール開く
  14日A 浅草公園付近の五百軒近くの無許可「モーロー露店一掃」
  15日a 日本劇場の非常時国策映画「大号令」人気
  18日a 今が見頃の堀切菖蒲園
  26日a 市民農園、耕作は自由、八月から開園
  28日A 猛夏序曲、昨夜は84度(摂氏29度)皆、涼を求めて戸外へ
                                                
 六月のメインイベントは、五日の東郷元帥国葬。人出は葬儀の前日からあり、葬儀当日は、日比谷公園から沿道に「驚異的な人出」となった。新聞には、堵列した人々の後の行動について触れていないが、銀座や浅草などに流れて行くことは想像にかたくない。ロツパの日記に、「市内の大劇場は皆休みであるが、浅草はアクどい・・・やっぱり此ういう日は浅草の書入れになる」とある。
 市民レジャーは、鮎解禁にはじまり、花菖蒲の見ごろなど恒例の行楽がある。ロッパが『にんじん』を十一日に見て、評判だけあって中々いいと日記に書いているように、劇場や映画館なども梅雨に入った割には活発だ。ただ、新聞には、やたらと自殺の記事が多く、暗いムードが漂っていた。
 

レジャー気運が一転して落ち込む九年冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)217
レジャー気運が一転して落ち込む九年冬
 インフレ政策の続く中、軍需産業の発展と財閥の満州への投資増加によって、企業と軍部との結びつきは一層進んだ。四月の帝人事件で斉藤内閣が総辞職するように、政党内閣の指導力は低下し、国民の声を反映するものではなくなっていた。国政は、軍部の方針を受け、官僚が辻褄合わせをするという体制が整えられていった。
 産業の発展は、労働者の実質賃金の低下によって支えられ、一部の層を富ませるものであった。それでも、軍需産業の振興は、下層労働者の失業を減らすとともに、東京のサラリーマン層にはインフレの恩恵をある程度与えた。それは東京市民のレジャーにも反映され、以前よりカフェーや観劇などが盛んになり、スポーツに関心が向けられた。
 前年の暮れは、大いに盛り上がった東京市民、年が明けたら潮目が変わったようだ。新聞紙面では、レジャー気運が続いているように記している。確かに、人の動きは、さほど落ちていないがレジャー気運の高まりが無くなった。古川ロッパ永井荷風は、そんな市民の動向を日記に綴っている。こちらの方が、実感がこもっている。

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昭和九年(1934年)一月、日比谷に東京宝塚劇場が開場①、レジャー気運の冷めた正月
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1月4日ka 浅草雷門、「新春遊楽の男女雑遝し。路傍には蜜柑の皮紙屑散乱」
  5日A 三箇日、御慶事と上天気で どこもホクホク顔
  5日A 富士館等日活系「彌次喜多」他満員御礼
  9日a 日本劇場「踊る1934年」他満員御礼
  10日a 在郷軍八万、代々木から宮城へ奉祝大行進
  13日y 大相撲春場所初日「大衆デー大当たり」
  16日a 浅草興行街、藪入りだけ「定員超過」大目にと嘆願
  17日y 藪入りに賑わう大相撲、五日目
  18日a 銀映座・芝園館等「ママはパパが好き」新春興行が連日大入御礼の為各等半額
  27日A 東京鉄道局、初心者向けの週末スキー列車を走らす、一泊して費用6円程度
  28日Y 市川競馬、三万のファンの中「八百長」と殺到

 「昨暁明治神宮へ参拝・・・正月気分が今年程、希薄だったのは初めてだ・・・世間も段々そうなって来るのではあるまいか」と古川ロッパは元日の日記に書いている。また、永井荷風も、三日の夜の銀座は「寒風烈しければ人通り少なし」と記している。
 それでも、三箇日の人の動きは、交通機関から見ると前年より活発である。京浜電車の乗客は28万余で三割増、京成電車は50万近くこれまでの最高、市電はさほどでなかったがバスは8千3百円もの増収であった。また、興行界も「ホクホク」で、日活の観客は六割増、暮れに開場した日本劇場は3千人の定員に5千人近く入るという盛況。「非常時の正月はまずは目出たく素晴らしい景気」であった。
 日活系映画館の『彌次喜多』などが満員御礼のように、金龍館の『凸凹世界漫遊』も元日から大入りだった。劇場は前年より二割以上も観客が増え、映画館も入りがよい。警視庁は、藪入りを前に16館の映画館に収容定員を守るよう指導a⑭。それでは書き入れ時が水の泡となってしまうので、浅草興行街は藪入りの十五日に了解を付け、客をすし詰めにした。
 二十日、銀座に出かけた荷風は、「露店の商人も店をたたみ散歩の人も少なし」と記している。また、二十五日も銀座通り「風なけれど寒気甚しいければ銀座通も今宵は人出少し」とあるように、月末になって市民のレジャー気運は覚めたようだ。

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昭和九年(1934年)二月、日比谷映画劇場は50銭均一で開場①、目立つのは官製イベントで市民レジャーは沈滞気味
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2月4日A 品川埋立地で防空ページェント
  4日A 池上本門寺「豆まき競艶」、成田山の賑わい十五万人「不夜城の盛況」
  5日Y 帝国劇場「東洋の母」他満員御礼
  5日ka 十一時頃の浅草公園は内外とも人影稀
  7日a 珍しや、二月の消防出初式華やかに開催
  9日A 日比谷公園で名木、名花の「梅の展覧会」
  12日a 建国祭「街には十万の奉祝行進」
  16日A 築地東京劇場「仇討心中噺」他満員御礼
 
 池上本門寺など著名な寺社では歌舞伎役者や女優を呼び、恒例の豆まきは年々派手になっている。また、成田山追儺式は、「十五万人」で不夜城の盛況と賑わいを増した。建国祭には大勢の人が動員され市内は賑わったがたが、十二日の金龍館は「流石に入り悪し。然しエノケンの方よりいいとか」とロツパの日記にある。また、荷風は「浅草公園は内外ともに人影稀にてむかしの吉原の大引過に似たり。公園内の飲食店は十一時に戸を鎖すと云う」と五日の日記に記している。二月の市民レジャーは、停滞気味である。

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昭和九年(1934年)三月、地下鉄、銀座まで延長開通③、ビール値上げ⑰、人気のマーカス・レビュー団話題を提供、昨今の世相「女給廃れてダンサーふえ、運動競技場増す」a⑬
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3月1日A マーカス・レビュー団に警視庁のお叱言
  2日Y 満州国新帝即位大典祝「帝都の夜揺らぐ」
  4日a 地下鉄開通で「もぐら銀ブラ大賑わい」
  7日y 地久節「女軍行進」約一万人、馬上姿も
  7日a エノケン、余計な演出で「大目玉」
  19日y 「行楽の序曲」上野十万人、新宿駅廿万
  21日a シネマパレス「会議は踊る」他満員御礼
  25日A 帝国劇場等「世界大戦を語る」連日満員
  25日A 帝国館等「夢みる頃」他満員御礼
 
 三日、地下鉄が銀座まで延長開通した。そのためか、翌四日は「日曜日なれば街上到処散歩の家族男女の群雑遝すること甚し」と、銀座を歩く人が増えたのを荷風は見ている。ロッパも、「エノケン大江美智子の出ている公園劇場あたりは大入り」と。この月は、大きなイベントがなかったこともあって、市民の関心は映画や演劇に向けられていた。
 アメリカから訪れたマーカス・レビュー団に「へそを隠せ、乳を覆え」の記事。前年出されたエロ演芸取締規則は、「股下二寸」と下の方についてだけ制限、ズロースの股上については何ら制約していない。つまり、ズロースの丈を短くすれば「ヘソ」が出る、ましてや乳房を出すなどということなど、考えもおよばなかったらしい。また、「おへそを露けにむきだしていること、『これはお客さん達に失礼で面白くないね』」などという完全にずれた感覚で取締。したがって、観客は無粋な警視庁の口出しによって、マーカス・レビューの良さを味わうことができなかった。さらに、翌月、大当たりのマーカス・レビュー、滞在延長は認められず打ち切られた。
 

レジャーたけなわに向かっての八年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)216
レジャーたけなわに向かっての八年秋
 渡満する東京部隊の初年兵○○○○名・・・東京駅発不定期一〇〇五列車、見送り三万人、まるでオリンピック選手見送りのような熱気を伝えている。もちろん、見送りの人々が全てそのような気持ちではなかったと思われる。戦争は、泥沼に進んでいるが、市民は不安や恐怖を感じていないのだろうか。まだ戦争の実感はなく、遠くの戦いを応援する感覚だろう。市民のレジャーを見ていると、何ら関係ないような生活を呈している。

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昭和八年(1933年)十月、早慶戦の球場内で乱闘(22)、市内は秋を楽しむ市民で雑踏
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10月1日ka 烏森神社の縁日を見る
  3日a 小学校先生の運動競技、神宮外苑競技場に一万二千
  6日Y 日比谷新音楽堂で「声楽と舞踏の夕」1万数千の観衆
  12日ka 会式にて省線電車は終夜運転す。一同は会式の光景を観んと烏森停車場に赴きしが余は老体なれば独家にかへる
  13日Y お会式、人出四十四万、万灯百の淋しさ
  18日y 神嘗祭の人出、上野駅から十万をはじめ、市内も秋を楽しむ群れで雑踏
  23日Y 早慶戦、六万人の観衆の中、「早大応援団の暴状」・「林檎事件」起きる
  28日y 明治神宮体育大会開幕、全国一万の選手
                                                
 十二日のお会式(池上本門寺)は、午前中に雨が振っていたことから、例年より少し淋しい「四十四万」人の人出。この年は、「非常時のお会式」と特別警備隊が初出動のためか、事件は賽銭泥棒11件、不良5件、酔っ払い3件、スリ2件、迷子2件と少なかった。ただ夕方、「死のう」団14名が本堂脇でパンフレットを配布しようとして捕まる。また、お題目を忘れたのか、「ヨイヨイ」と東京音頭を歌う組が幾つかあったとか。児童虐待防止法の施行で名物の物貰いに子供の姿がなかったなど、話題にことを欠かなかった。
 十七日は「爽冷の旗日」、十五日が日曜であったことから市内はもとより郊外へと市民が出かけた。市内では、上野動物園に「十一万」、帝展に「一万」の大入り、スポーツは明立野球戦をはじめラグビーやテニスなどが行われた。郊外へ向かう臨時列車は、上野駅から日光・塩原・軽井沢・水上・筑波・長瀞へ、東京駅から熱海へ、新宿駅から中央線が増発された。
 二十二日、「一進一退、六万の観衆は興奮の最高調に息づまるような早慶第三回の最終回を一点の差で迎えた慶應軍、井川の一撃はカーンと左翼に飛んで劇的凱歌・・・刹那 三塁側スタンドから飛び出した早大生」と慶大生らの小競り合いがはじまった。ことは、8回に審判に抗議した水原に三塁側がリンゴを投げつけ、それを早大応援団側に投げ返されたのに立腹、早大応援団が慶応側に謝罪を要求。乱闘は「夜の銀座・血の早慶戦」に続き、「両大学生百数十人検束」という事態にまで発展した。
 なお、銀座の「此の騒ぎのおこりは学生泥酔して私服巡査を常人と見誤り、多勢にてなぐり掛けし処に制服の巡査駆せ付け」と聞く。さらに「余の親しく目撃せし処を記さむに、慶応義塾の学生七八人英国海軍士官二人を取巻き、無理に其手を捉え、覚束なき英語にて何やら叫び立つる有様に弥次馬追々集り来る。英国士官は遂に学生の手を振払いほうほうの体にて土橋巡査派出所の方へ逃げ去りたり」と、荷風は記している。

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昭和八年(1933年)十一月、東京競馬場開設⑱、芝浦アイススケート場開場(25)、スポーツは盛んになっているが、演劇には弾圧がはじまった
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11月9日Y 明治神宮体育大会、三日に終了し五万五千円の収入、内入場料五万二千円
  13日y 故朝香宮妃殿下御葬儀、市内の興行自粛
  19日y 府中、東洋一の東京競馬場で初競馬
  20日ka 過日舞踏場検挙ありてより市中いづこの舞踏場も客足落ちたりと
  22日a 帝都座等「丹下左膳」他満員御礼
  23日Y 歌舞伎座の「源氏物語」突如上演禁止
  26日y 芝浦、東洋一の室内スケートリンク開場
  27日A 田園調布グランドの拳闘試合入場者三万、歌舞伎なみの料金

 十一月に入っても市民レジャーは活発である。三日に終了した明治神宮体育大会は、前年より2万3千円も多い5万2千円(73%が野球)の入場料収入。前年の経費不足額が3千円であったことから、この年の利益はかなりあっただろうと書かれている。なお、総観客数は記されていないが、有料入場者は10~20万人程度と推測される。
 二十二日、警視庁は、歌舞伎座での『源氏物語』公演を禁止。理由は「禁中生活がそのまま出ていること・・・登場人物が皇族であること・・・右翼方面の抗議運動が想像・・・」、それに「当局の気に病むのは 有閑階級の腐敗」。それに対し、坪内逍遥などが顧問となり、一年もの準備した「苦心の研究も闇へ」、「死んでも上演したい 坂東簑助氏泣いて語る」。ちなみに、前売り切符1万枚は、ほとんど売り切れていた。
 同じ二十二日、東京駅では満州へ向かう初年兵を見送る「三万人の大群集が押掛け」た。入場券を1万5百枚売った時点で発売停止とともに改札停止、見送り人は「改札口を破り助役らを袋叩き」。「渡満兵輸送に大醜態」ということになった。また渋谷駅では、「世界の名犬に」なったハチ公のために「晩餐会」が開かれた。

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昭和八年(1933年)十二月、京成電車上野駅乗り入れ⑩、皇太子誕生(23)、有楽町に日本劇場が開場(24)、師走の市内は皇太子誕生奉祝も加わり賑わいをさらに増した
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12月4日A 七大学ラクビー戦、早大対明治は競技場満員
  5日Y 上野動物園にバイソン入り、入園料割引
  5日ka 水天宮の賽日にて電車通雑遝甚し
  9日ka 入谷の町の夜店を見、鬼子母神に賽す
  11日y 日比谷に三劇場近く開場
  16日a 浅草歳の市
  25日y 皇太子誕生「宮城前の人波」
  25日Y ダンスホール税二百円、倍額決定
  25日y 春場所を控え 力士争奪戦 東西協会雲行き急
  30日Y 奉祝の人出「実に四十万」宮城に向けて提灯行列など賑わう
                                                
 上野動物園に入ったバイソンが公開され、六日から五日間入園料割引(大人15銭が10銭・小人10銭が5銭)となった。もっとも、話題性はあったが季節がら大勢の人が押し寄せるには至らなかった。それより、荷風の見た水天宮の祭の方が賑わっていただろう。
 十一日の読売新聞夕刊の「日曜娯楽」には、「映画とレヴユウのファンへの大きなお年玉は、近く開場される東京寳塚劇場、日本劇場、日比谷劇場の三館だらう。この三館に入場し得る人数を合計すると約一万近くになり、これらが揃つて、日比谷公園近くに並び立つといふことは、最近の興行界の偉観である。」と当時の娯楽の情況を記している。演劇には弾圧が始まったが、映画とレヴユウには、本格的な引締めがまだ始まっていない。
 その情況は、日本劇場・・東洋一の偉観、詰めれば 優に五千人収容。日比谷劇場は工専費卅万円、収容人員二千人の映画(専?)門の小屋。寳塚劇場の定員は三千名、階下から三階まで全指定、ボックス四円・一階二階二円と一円五十銭・三階一円と五十銭、約五百人が働く。
 松竹も黙つてゐられなくなつたので、歌舞伎座でレヴユウ興行、引き続き浅草松竹座に渡して、がつちり。観劇料は二円八十銭・一円八十銭・八十銭。なお、「松竹桃色争議」謹慎者も、スター争奪戦に加われたようだ。
 二十三日に皇太子誕生。翌日は「宮城前の人波」、「中学校、女学校、小学校の生徒が校旗を、青年団が団旗を捧げ 万歳を三唱しては入れ替わり出てゆく」。二十九日の夕方には、提灯行列をはじめとする奉祝の人出実に「四十万」、靖国神社芝公園明治神宮外苑・上野公園・深川猿江公園の五ヶ所から「計七万余名」の奉祝提灯行列隊が宮城を目指した。銀座は歳末のグランド・セールと重なり、押し寄せる人のため「夜店をのぞくことも何も出来ない」混雑であった。
 

『東京音頭』が流行る八年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)215
東京音頭』が流行る八年夏
 「東京音頭」は、有楽町の商店街によって不景気を吹き飛ばすため、前年に「丸の内音頭」という名で作られた。それまでなかった都会風の盆踊りとして、日比谷公園での盆踊り大会で披露された。なお、この盆踊り大会は美松百貨店の広告で、百貨店で売られている浴衣を購入しなければ参加できなかったと、『墨東綺譚』(永井荷風)に記されている。
 翌年年七月、「東京音頭」と改題して発売された。発売にあたっては、市民が誰でも歌えるように改詞された。「東京音頭」は替え歌がつくりやすいこと、また歌詞は卑猥さを連想させることもあって爆発的に流行した。その後も、秋になっても人気が後を引き、十月の早慶戦の入場券を徹夜で求める観客が、「東京音頭」で夜を明かしたという話しもあるくらいだ。
 「東京音頭」は盆踊の流行と共に全国的に広がっていった。翌年も、「東京音頭」は夏の東京で踊られ、日比谷の盆踊りに見物人が3000人集まったという。「谷津海岸の空陸実弾応酬演習見物に三十万」「横浜の大観艦式、海岸はお花畑「無慮百万」の拝観者」「満州事変二周年記念日、靖国神社の慰霊祭、日比谷で盛大な慰安会」などの戦時色のイベントが催されるなか、「夕涼み興行取締り、出演者許可も厳重」となるが、盆踊りは抜け穴になっていたようだ。

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昭和八年(1933年)七月、戸塚早大グランドで初ナイター⑩、暑さに負けず市民レジャーは盛況
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7月4日Y 戸塚球場に、拳闘界未曽有三万の大観衆
  8日y 夕涼み興行取締り、出演者許可も厳重
  9日ka 浅草寺四万六千日の賽日を看る
  11日Y 戸塚早大グランドで初ナイター
  11日Y 深川八幡の盆踊り
  13日ka 夜銀座通草市賑かなり
  16日Y 藪入りの国技館、超満員の盛況
  17日A 日曜日とかさなり藪入りの浅草賑わう
  22日Y 「うだる暑さ 川開き人出百万」
  24日A 「海もうだる」と逗子海岸の賑わい
  26日Y 銀座で防空演習、「見物人で一ぱい」
  26日Y アッパッパ全滅
  27日ka 竈河岸辺防空演習にて賑かなり
  31日y 明治天皇祭、映画・花火などで神宮賑わう
                                                
 三日、戸塚球場での日仏拳闘戦は、拳闘界未曽有の「三万」人の観客。その一週間後、野球の初ナイターが行われた。試合は早大二軍対早大新人ということで、団扇を持った観客でスタンドが埋められた。同日、横浜で日仏拳闘最終戦が行われ「一万五千人」も集まっている。
 この年の藪入りは、「日曜日とかさなり」浅草が賑わいを取り戻した。二十一日の川開きは、「人出百万」とある。なお、警視庁警戒線内に64万人(陸上51万人・水上13万人)と発表されている。事件・事故は、「案外に少なく」救護者30人・迷子1・窃盗6・泥酔1・スリ1であった。七月は、非常暑かったので市民レジャーは月初めから活発、海水浴はもちろん、防空演習まで納涼気分で多くの人が出た。

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昭和八年(1933年)八月、第一回防空演習⑨、盆踊りの東京音頭大流行
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8月5日y 歌舞伎座弥次喜多金比羅道中記」連日満員御礼
  8日y 日比谷で武藤元帥葬送
  8日Y 谷津海岸の空陸実弾応酬演習見物に三十万
  10日ka 銀座、人出おびたゞしく、在郷軍人青年団其他弥次馬いづれもお祭騒ぎの景気なり
  16日a 深川八幡の祭礼、神輿六十二基永代橋を渡る
  17日Y 納涼大会で花火の事故多発
  26日y 横浜の大観艦式、海岸はお花畑「無慮百万」の拝観者
  28日Y 国技館の納涼園、日曜で超満員
                                                 戦争を身近に感じはじめたこともあって、七日の谷津海岸の空陸実弾応酬演習は、三十万人もの「観衆」があった。昼前にはじまった演習は、夜になると「光りの交叉の只中に 銀色・空襲の敵機」「物凄い火焔を吐いて」の砲弾、歓呼の声と拍手に迎えられた。京成電車は、9万人を輸送し10万円の収入となった。
 荷風の十四日の日記に、「飯倉八幡宮祭礼にて馬鹿囃子の音夜ふけまで聞ゆ」とあるように、盆踊が盛ん。特に、東京音頭がこの夏からものすごい勢いで流行、広場があればやぐらを建て、夕方から浴衣がけの老若男女が踊り狂った。また、八月に入っても納涼大会で花火があちこちで催され、十六日には事故が起きた。品川では、海中仕掛け花火「水中金魚」を打ち揚げに失敗、炸裂し重傷者一名。京王閣では「早打ち煙火」打ち揚げ中炸裂し、20数名の死傷者を出す。
 二十五日、横浜で大観艦式、「展開する海の行進」を見ようと、山下公園から山手の高台にかけて、「赤、青、黄、白のパラソル」のお花畑を形成した。水上は「二十数艘の内外大汽船、千数百艘の艀船や伝馬船に至るまで満船飾を施して港内は目も覚むるばかり」、そこへ161隻の「海国日本の縮図を描き出」すパレード。この日の横浜は、「百万の観衆湧く」。

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昭和八年(1933年)九月、市民のレジャー気運は高く、秋の行楽は盛ん
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9月2日y 震災記念堂へ参拝の人、六十万
  2日ka 三十軒堀河岸通の縁日を見歩き
  3日y 五大学リーグ戦開幕
  4日y 院展・二科・版画の三展蓋あけ
  10日y 踊り子争議めでたく大団円
  10日y 東京六大学リーグ戦開幕
  19日y 満州事変二周年記念日、靖国神社の慰霊祭、日比谷で盛大な慰安会
  25日A 「けふ郊外の人出」池上電車、一万五千など
  26日y 三日の黒字二十万円、押し出した人百九十万
  28日y 「東京音頭」封切り
  28日y 浅草松竹館「刺青判官大会」満員日延べ 

 九月は関東大震災の追憶からはじまる。本所被服厰跡には「六十万」人もの人が参拝。盛大な記念式典が行われ、一日の賽銭は5千4百円、震災記念館の入場者は2万2千人。また一日から、読売新聞社は八月中に何度か掲載していた、「海底写真」の「展覧会」を開催。
 十八日は満州事変二周年記念日、靖国神社で慰霊祭が営まれ、日比谷で盛大な慰安会が催された。市民の行楽活動は盛んで、秋季皇霊祭に日曜と出かけた人は「百九十万」人、秋になって最高の人出となった。おかげで鉄道は20万円もの黒字となった。
 三十日の新聞広告欄は、栗拾い・梨もぎ・いもほり・茸狩、ハゼ釣り・ボラ釣りなど、秋の行楽たけなわ。ちなみに、追浜園の芋堀りは30人以上の団体は無料とし、豊島園では栗が拾い放題、武蔵嵐山の栗拾い・茸狩は往復乗車券付で2円(池袋から往復1円50銭)、芝浦の乗合船ハゼ釣り80銭(餌付)。