何故か人出のある九年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)220
何故か人出のある九年秋
 夏からの人出は、何故か減らない。特別なレジャーやイベントがあるわけではない。あると言えば、大リーガー選抜チームが来日したくらいである。十月には、警視庁が学生・未成年のカフェー・バー出入りを禁止した。また、市電ストライキも行なわれた。それでも、市内には出歩き、遊ぶ人が多かった。
 野球人気は高まる一方で、それに油を注ぐような、大リーグ選手との試合が催された。試合というより、野球ショー、「スコアブック微塵 炸裂した本塁打 なで斬り『弾丸球』に 六万の大観衆ただ夢心地」とある。力量の違いから、全く相手にならない、その対応を面白おかしく記事にしている。そして、十二月には、職業野球団大日本東京野球倶楽部(プロ野球)が結成される。

 国内全体では、東北が凶作という事もあって、決して景気は良くない。にもかかわらず、東京の街は去年よりも賑やかで、歳暮の商店売り上げもそこそこらしい。そして、暮れ(二十四日)の皇太子誕生日には、大勢の人が宮城前に集まり、「万歳の嵐」とある。

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昭和九年(1934年)十月、警視庁が学生・未成年のカフェー・バー出入りを禁止⑥、市電のスト中であるが市民レジャーは意外と活発
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10月6日y 明治座「悪縁」他初日以来連日満員御礼
  10日Y 歌舞伎座「豊百三代記」他満員御礼
  10日ka 此日午後に花火の響を聞く、九段の祭礼
  13日Y 雨のお会式大景気、人出七十万
  15日a 青空に浮かれて、市民の大移動、各駅の臨時列車も超満員、新宿駅三十万人の乗降客
  18日y 浅草帝国館「林長二郎の舞踏三ツ面」果然満員御礼
  25日y 大勝館「今宵こそは」他満員御礼
  25日y 帝国劇場等「勝利の朝」他満員御礼
  28日y 泣きそうな空の下、淋しい早慶戦
  29日Y 神楽坂、早稲田・法政の凱旋行進乱舞

 ストライキは十三日まで続いていたが、荷風の日記によれば十三日も「散歩の人織るが如し」と、市民は出歩いていた。また、古川ロッパも、「市電ストライキが又起こってるというにもかかわらず大入満員」と、七日の日記に書いている。
 十二日のお会式は、時折小雨の降るという天気にもかかわらず、万灯が512個も集まり、前年より「廿五万人」も多い「人出七十万」。盛況の割には、大きな事故もなく、賽銭泥棒が28人捕まった程度であった。十四日は秋晴れ、「新宿駅は三十万人」の乗降客、ハイキングの流行もあって、各駅の臨時列車も超満員となった。
 優勝争いとは関係なくても盛りあがるのが早慶戦。この年は例年より観客の集まりが遅く、ようやく観客席が埋まるような状況だった。試合は、勝敗も応援も早稲田の勝ち、凱旋行進は神楽坂へと向かった。六大学野球リーグ戦の優勝は法政、法政も神楽坂へと凱旋。二重の凱旋に神楽坂は「乱舞のカクテル」となったが、混乱なく沸き返った。なお、銀座では、慶大生が早稲田の校歌を歌って歩いている人を「卅余名」で袋叩きにした。

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昭和九年(1934年)十一月、渋谷に東急百貨店開店①、大リーグ来日で興奮、スポーツは盛ん
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11月3日Y 日比谷新音楽堂米国野球選手歓迎会に一万数千
  3日y 浅草電気館等「帰去来峠」他満員御礼
  3日ro 常盤座「物日で大入り満員」『凸凹』他
  4日A 日本劇場等「水戸黄門」他満員御礼
  4日y 秋晴れの外苑、体操祭や音楽行進
  4日a 明治神宮へ人波正午までに卅万
  5日y 神宮球場六万の観衆、日米野球に興奮熱気
  10日Y 日比谷菊祭、入場料30銭
  11日Y 日米野球第三戦、六万大観衆ただ夢心地
  18日a 浅草電気等「修羅時鳥」他満員御礼
  21日y 帝展淋しく店閉い、入場者二十万人割る
  24日y 歌舞伎座で東北凶作義援コロンビア実演大会、会員券3~1円
  26日A 日比谷新音楽堂で全日本柔道選士権大会
 
 二日、ベーブ・ルースをはじめとする大リーガー選抜チームが来日。日比谷新音楽堂で歓迎会、神宮球場の第一戦から「六万観衆」が興奮して観戦。ただ、試合内容は、日本選手は三振の連続、八回まで外野に飛球さえ出ないという力量の差、新聞Y⑪には「米軍の退屈三人男」というイラストまで載せられていた。それでも、毎試合球場は満員、観客は大満足であったのだろう。
 この年、神宮競技の開催はないが、三日に神宮奉祝体育大会が行なわれ、体操祭にはラジオ体操の実演や運動会等が行なわれた。7日には、「都下男子中等学校生徒六万五千人の明治神宮遥拝式は来る七日秩父宮殿下の台臨を仰いで・・・」y④とある。
 スポーツは盛んであるが、展覧会、帝展は不景気のため入場者・売り上げとも「がた落ちの有様」。前年の21万9千人より約二万人の減少、売り上げは13点減少し75点。
 二十五日、荷風は、「此日早朝砲声の如き爆音を聞く。思うに祭礼の花火なるべし。乱世には花火の音も強激となり機関砲の響に似通うも是非なき次第なり」と記している。

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昭和九年(1934年)十二月、丹那トンネル開通①、職業野球団大日本東京野球倶楽部の創立(26)、ワシントン海軍軍縮条約破棄(29)、東北が凶作で暗さはあるが市内に人出
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12月3日y スキー相談所店開き
  6日y 浅草松竹等「春江の結婚」満員御礼
  8日ka 銀座通り早くも歳末の光景を呈す。今宵もまた松坂屋の前にて群集中街娼の徘徊する
  12日A 東京劇場で東北救済観劇デー「阿難と呪術師の娘」他盛況
  15日Y 浅草三社様の注連市、夜の十二時から暁方までの取引が廿万円
  24日a 皇太子誕生日に、宮城前で大妻高女を先頭に二万人「万歳の嵐」
 
 五日、例年より早い初雪。どの新聞も、東北凶作の惨状を示し、救済を強く呼びかけている。それに応えるように、東北救済観劇デー、百貨店出も上野松坂屋松屋高島屋などで歳末買い物義金、等々で市民の善意が寄せられている。多方面から義金が集められているが、焼け石に水のようで、悲惨な状況は年の瀬と共に増していった。
 それに対し、市内は歳末にしてはレジャーもそこそこ盛況、浅草三社様の注連市も「夜通し藪れんばかりの景気」。皇太子の誕生日には、大妻高女二千人を先頭に、都下中女・小学校・少年団等「二万人」が宮城前に訪れ、祝福の万歳の嵐。デパートの人出は、「不景気はどこ吹く風」A(28)と活況。大晦日荷風も「雨激しく降りしきる街上には行来の人雑遝し夜店はテントを張りて商いをなす。本年の歳暮は去年よりも賑なり。商店の売行きもあしからずと云う」と、日記に書いている。