『東京音頭』が流行る八年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)215
東京音頭』が流行る八年夏
 「東京音頭」は、有楽町の商店街によって不景気を吹き飛ばすため、前年に「丸の内音頭」という名で作られた。それまでなかった都会風の盆踊りとして、日比谷公園での盆踊り大会で披露された。なお、この盆踊り大会は美松百貨店の広告で、百貨店で売られている浴衣を購入しなければ参加できなかったと、『墨東綺譚』(永井荷風)に記されている。
 翌年年七月、「東京音頭」と改題して発売された。発売にあたっては、市民が誰でも歌えるように改詞された。「東京音頭」は替え歌がつくりやすいこと、また歌詞は卑猥さを連想させることもあって爆発的に流行した。その後も、秋になっても人気が後を引き、十月の早慶戦の入場券を徹夜で求める観客が、「東京音頭」で夜を明かしたという話しもあるくらいだ。
 「東京音頭」は盆踊の流行と共に全国的に広がっていった。翌年も、「東京音頭」は夏の東京で踊られ、日比谷の盆踊りに見物人が3000人集まったという。「谷津海岸の空陸実弾応酬演習見物に三十万」「横浜の大観艦式、海岸はお花畑「無慮百万」の拝観者」「満州事変二周年記念日、靖国神社の慰霊祭、日比谷で盛大な慰安会」などの戦時色のイベントが催されるなか、「夕涼み興行取締り、出演者許可も厳重」となるが、盆踊りは抜け穴になっていたようだ。

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昭和八年(1933年)七月、戸塚早大グランドで初ナイター⑩、暑さに負けず市民レジャーは盛況
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7月4日Y 戸塚球場に、拳闘界未曽有三万の大観衆
  8日y 夕涼み興行取締り、出演者許可も厳重
  9日ka 浅草寺四万六千日の賽日を看る
  11日Y 戸塚早大グランドで初ナイター
  11日Y 深川八幡の盆踊り
  13日ka 夜銀座通草市賑かなり
  16日Y 藪入りの国技館、超満員の盛況
  17日A 日曜日とかさなり藪入りの浅草賑わう
  22日Y 「うだる暑さ 川開き人出百万」
  24日A 「海もうだる」と逗子海岸の賑わい
  26日Y 銀座で防空演習、「見物人で一ぱい」
  26日Y アッパッパ全滅
  27日ka 竈河岸辺防空演習にて賑かなり
  31日y 明治天皇祭、映画・花火などで神宮賑わう
                                                
 三日、戸塚球場での日仏拳闘戦は、拳闘界未曽有の「三万」人の観客。その一週間後、野球の初ナイターが行われた。試合は早大二軍対早大新人ということで、団扇を持った観客でスタンドが埋められた。同日、横浜で日仏拳闘最終戦が行われ「一万五千人」も集まっている。
 この年の藪入りは、「日曜日とかさなり」浅草が賑わいを取り戻した。二十一日の川開きは、「人出百万」とある。なお、警視庁警戒線内に64万人(陸上51万人・水上13万人)と発表されている。事件・事故は、「案外に少なく」救護者30人・迷子1・窃盗6・泥酔1・スリ1であった。七月は、非常暑かったので市民レジャーは月初めから活発、海水浴はもちろん、防空演習まで納涼気分で多くの人が出た。

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昭和八年(1933年)八月、第一回防空演習⑨、盆踊りの東京音頭大流行
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8月5日y 歌舞伎座弥次喜多金比羅道中記」連日満員御礼
  8日y 日比谷で武藤元帥葬送
  8日Y 谷津海岸の空陸実弾応酬演習見物に三十万
  10日ka 銀座、人出おびたゞしく、在郷軍人青年団其他弥次馬いづれもお祭騒ぎの景気なり
  16日a 深川八幡の祭礼、神輿六十二基永代橋を渡る
  17日Y 納涼大会で花火の事故多発
  26日y 横浜の大観艦式、海岸はお花畑「無慮百万」の拝観者
  28日Y 国技館の納涼園、日曜で超満員
                                                 戦争を身近に感じはじめたこともあって、七日の谷津海岸の空陸実弾応酬演習は、三十万人もの「観衆」があった。昼前にはじまった演習は、夜になると「光りの交叉の只中に 銀色・空襲の敵機」「物凄い火焔を吐いて」の砲弾、歓呼の声と拍手に迎えられた。京成電車は、9万人を輸送し10万円の収入となった。
 荷風の十四日の日記に、「飯倉八幡宮祭礼にて馬鹿囃子の音夜ふけまで聞ゆ」とあるように、盆踊が盛ん。特に、東京音頭がこの夏からものすごい勢いで流行、広場があればやぐらを建て、夕方から浴衣がけの老若男女が踊り狂った。また、八月に入っても納涼大会で花火があちこちで催され、十六日には事故が起きた。品川では、海中仕掛け花火「水中金魚」を打ち揚げに失敗、炸裂し重傷者一名。京王閣では「早打ち煙火」打ち揚げ中炸裂し、20数名の死傷者を出す。
 二十五日、横浜で大観艦式、「展開する海の行進」を見ようと、山下公園から山手の高台にかけて、「赤、青、黄、白のパラソル」のお花畑を形成した。水上は「二十数艘の内外大汽船、千数百艘の艀船や伝馬船に至るまで満船飾を施して港内は目も覚むるばかり」、そこへ161隻の「海国日本の縮図を描き出」すパレード。この日の横浜は、「百万の観衆湧く」。

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昭和八年(1933年)九月、市民のレジャー気運は高く、秋の行楽は盛ん
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9月2日y 震災記念堂へ参拝の人、六十万
  2日ka 三十軒堀河岸通の縁日を見歩き
  3日y 五大学リーグ戦開幕
  4日y 院展・二科・版画の三展蓋あけ
  10日y 踊り子争議めでたく大団円
  10日y 東京六大学リーグ戦開幕
  19日y 満州事変二周年記念日、靖国神社の慰霊祭、日比谷で盛大な慰安会
  25日A 「けふ郊外の人出」池上電車、一万五千など
  26日y 三日の黒字二十万円、押し出した人百九十万
  28日y 「東京音頭」封切り
  28日y 浅草松竹館「刺青判官大会」満員日延べ 

 九月は関東大震災の追憶からはじまる。本所被服厰跡には「六十万」人もの人が参拝。盛大な記念式典が行われ、一日の賽銭は5千4百円、震災記念館の入場者は2万2千人。また一日から、読売新聞社は八月中に何度か掲載していた、「海底写真」の「展覧会」を開催。
 十八日は満州事変二周年記念日、靖国神社で慰霊祭が営まれ、日比谷で盛大な慰安会が催された。市民の行楽活動は盛んで、秋季皇霊祭に日曜と出かけた人は「百九十万」人、秋になって最高の人出となった。おかげで鉄道は20万円もの黒字となった。
 三十日の新聞広告欄は、栗拾い・梨もぎ・いもほり・茸狩、ハゼ釣り・ボラ釣りなど、秋の行楽たけなわ。ちなみに、追浜園の芋堀りは30人以上の団体は無料とし、豊島園では栗が拾い放題、武蔵嵐山の栗拾い・茸狩は往復乗車券付で2円(池袋から往復1円50銭)、芝浦の乗合船ハゼ釣り80銭(餌付)。