レジャーたけなわに向かっての八年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)216
レジャーたけなわに向かっての八年秋
 渡満する東京部隊の初年兵○○○○名・・・東京駅発不定期一〇〇五列車、見送り三万人、まるでオリンピック選手見送りのような熱気を伝えている。もちろん、見送りの人々が全てそのような気持ちではなかったと思われる。戦争は、泥沼に進んでいるが、市民は不安や恐怖を感じていないのだろうか。まだ戦争の実感はなく、遠くの戦いを応援する感覚だろう。市民のレジャーを見ていると、何ら関係ないような生活を呈している。

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昭和八年(1933年)十月、早慶戦の球場内で乱闘(22)、市内は秋を楽しむ市民で雑踏
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10月1日ka 烏森神社の縁日を見る
  3日a 小学校先生の運動競技、神宮外苑競技場に一万二千
  6日Y 日比谷新音楽堂で「声楽と舞踏の夕」1万数千の観衆
  12日ka 会式にて省線電車は終夜運転す。一同は会式の光景を観んと烏森停車場に赴きしが余は老体なれば独家にかへる
  13日Y お会式、人出四十四万、万灯百の淋しさ
  18日y 神嘗祭の人出、上野駅から十万をはじめ、市内も秋を楽しむ群れで雑踏
  23日Y 早慶戦、六万人の観衆の中、「早大応援団の暴状」・「林檎事件」起きる
  28日y 明治神宮体育大会開幕、全国一万の選手
                                                
 十二日のお会式(池上本門寺)は、午前中に雨が振っていたことから、例年より少し淋しい「四十四万」人の人出。この年は、「非常時のお会式」と特別警備隊が初出動のためか、事件は賽銭泥棒11件、不良5件、酔っ払い3件、スリ2件、迷子2件と少なかった。ただ夕方、「死のう」団14名が本堂脇でパンフレットを配布しようとして捕まる。また、お題目を忘れたのか、「ヨイヨイ」と東京音頭を歌う組が幾つかあったとか。児童虐待防止法の施行で名物の物貰いに子供の姿がなかったなど、話題にことを欠かなかった。
 十七日は「爽冷の旗日」、十五日が日曜であったことから市内はもとより郊外へと市民が出かけた。市内では、上野動物園に「十一万」、帝展に「一万」の大入り、スポーツは明立野球戦をはじめラグビーやテニスなどが行われた。郊外へ向かう臨時列車は、上野駅から日光・塩原・軽井沢・水上・筑波・長瀞へ、東京駅から熱海へ、新宿駅から中央線が増発された。
 二十二日、「一進一退、六万の観衆は興奮の最高調に息づまるような早慶第三回の最終回を一点の差で迎えた慶應軍、井川の一撃はカーンと左翼に飛んで劇的凱歌・・・刹那 三塁側スタンドから飛び出した早大生」と慶大生らの小競り合いがはじまった。ことは、8回に審判に抗議した水原に三塁側がリンゴを投げつけ、それを早大応援団側に投げ返されたのに立腹、早大応援団が慶応側に謝罪を要求。乱闘は「夜の銀座・血の早慶戦」に続き、「両大学生百数十人検束」という事態にまで発展した。
 なお、銀座の「此の騒ぎのおこりは学生泥酔して私服巡査を常人と見誤り、多勢にてなぐり掛けし処に制服の巡査駆せ付け」と聞く。さらに「余の親しく目撃せし処を記さむに、慶応義塾の学生七八人英国海軍士官二人を取巻き、無理に其手を捉え、覚束なき英語にて何やら叫び立つる有様に弥次馬追々集り来る。英国士官は遂に学生の手を振払いほうほうの体にて土橋巡査派出所の方へ逃げ去りたり」と、荷風は記している。

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昭和八年(1933年)十一月、東京競馬場開設⑱、芝浦アイススケート場開場(25)、スポーツは盛んになっているが、演劇には弾圧がはじまった
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11月9日Y 明治神宮体育大会、三日に終了し五万五千円の収入、内入場料五万二千円
  13日y 故朝香宮妃殿下御葬儀、市内の興行自粛
  19日y 府中、東洋一の東京競馬場で初競馬
  20日ka 過日舞踏場検挙ありてより市中いづこの舞踏場も客足落ちたりと
  22日a 帝都座等「丹下左膳」他満員御礼
  23日Y 歌舞伎座の「源氏物語」突如上演禁止
  26日y 芝浦、東洋一の室内スケートリンク開場
  27日A 田園調布グランドの拳闘試合入場者三万、歌舞伎なみの料金

 十一月に入っても市民レジャーは活発である。三日に終了した明治神宮体育大会は、前年より2万3千円も多い5万2千円(73%が野球)の入場料収入。前年の経費不足額が3千円であったことから、この年の利益はかなりあっただろうと書かれている。なお、総観客数は記されていないが、有料入場者は10~20万人程度と推測される。
 二十二日、警視庁は、歌舞伎座での『源氏物語』公演を禁止。理由は「禁中生活がそのまま出ていること・・・登場人物が皇族であること・・・右翼方面の抗議運動が想像・・・」、それに「当局の気に病むのは 有閑階級の腐敗」。それに対し、坪内逍遥などが顧問となり、一年もの準備した「苦心の研究も闇へ」、「死んでも上演したい 坂東簑助氏泣いて語る」。ちなみに、前売り切符1万枚は、ほとんど売り切れていた。
 同じ二十二日、東京駅では満州へ向かう初年兵を見送る「三万人の大群集が押掛け」た。入場券を1万5百枚売った時点で発売停止とともに改札停止、見送り人は「改札口を破り助役らを袋叩き」。「渡満兵輸送に大醜態」ということになった。また渋谷駅では、「世界の名犬に」なったハチ公のために「晩餐会」が開かれた。

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昭和八年(1933年)十二月、京成電車上野駅乗り入れ⑩、皇太子誕生(23)、有楽町に日本劇場が開場(24)、師走の市内は皇太子誕生奉祝も加わり賑わいをさらに増した
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12月4日A 七大学ラクビー戦、早大対明治は競技場満員
  5日Y 上野動物園にバイソン入り、入園料割引
  5日ka 水天宮の賽日にて電車通雑遝甚し
  9日ka 入谷の町の夜店を見、鬼子母神に賽す
  11日y 日比谷に三劇場近く開場
  16日a 浅草歳の市
  25日y 皇太子誕生「宮城前の人波」
  25日Y ダンスホール税二百円、倍額決定
  25日y 春場所を控え 力士争奪戦 東西協会雲行き急
  30日Y 奉祝の人出「実に四十万」宮城に向けて提灯行列など賑わう
                                                
 上野動物園に入ったバイソンが公開され、六日から五日間入園料割引(大人15銭が10銭・小人10銭が5銭)となった。もっとも、話題性はあったが季節がら大勢の人が押し寄せるには至らなかった。それより、荷風の見た水天宮の祭の方が賑わっていただろう。
 十一日の読売新聞夕刊の「日曜娯楽」には、「映画とレヴユウのファンへの大きなお年玉は、近く開場される東京寳塚劇場、日本劇場、日比谷劇場の三館だらう。この三館に入場し得る人数を合計すると約一万近くになり、これらが揃つて、日比谷公園近くに並び立つといふことは、最近の興行界の偉観である。」と当時の娯楽の情況を記している。演劇には弾圧が始まったが、映画とレヴユウには、本格的な引締めがまだ始まっていない。
 その情況は、日本劇場・・東洋一の偉観、詰めれば 優に五千人収容。日比谷劇場は工専費卅万円、収容人員二千人の映画(専?)門の小屋。寳塚劇場の定員は三千名、階下から三階まで全指定、ボックス四円・一階二階二円と一円五十銭・三階一円と五十銭、約五百人が働く。
 松竹も黙つてゐられなくなつたので、歌舞伎座でレヴユウ興行、引き続き浅草松竹座に渡して、がつちり。観劇料は二円八十銭・一円八十銭・八十銭。なお、「松竹桃色争議」謹慎者も、スター争奪戦に加われたようだ。
 二十三日に皇太子誕生。翌日は「宮城前の人波」、「中学校、女学校、小学校の生徒が校旗を、青年団が団旗を捧げ 万歳を三唱しては入れ替わり出てゆく」。二十九日の夕方には、提灯行列をはじめとする奉祝の人出実に「四十万」、靖国神社芝公園明治神宮外苑・上野公園・深川猿江公園の五ヶ所から「計七万余名」の奉祝提灯行列隊が宮城を目指した。銀座は歳末のグランド・セールと重なり、押し寄せる人のため「夜店をのぞくことも何も出来ない」混雑であった。