レジャーは活発に見えるが先が不安な九年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)219
レジャーは活発に見えるが先が不安な九年夏
 梅雨明けが遅れ、天候が不純なため、市民の行楽活動は低調。それでも、市内で遊ぶ人が多かったらしく、劇場や映画館の入場者は増加し、この年の年間入場者数は400万人にも及んだ。
 地域の夏のイベントは少ないようで、市民の八月四日の夜から五日の暁にかけて非常時青年の意気を示す、江戸川区青訓練生の連合野外攻防演習の記事が掲載されている。徐々にこのようなイベントが目立ちはじめ、市民を動員する人数も多くなってきた。また、市民に灯火管制(夜間の空襲に備えて、照明の使用を制限する)を指示するようなことも始まっている。
 この九月には、室戸台風の被害、東北地方の凶作が伝えられ、明るい話題が少なかった。  
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昭和九年(1934年)七月、斉藤内閣総辞職③岡田内閣成立⑧、第一回電気商品見本市開催③、高島屋百貨店が全館冷房の広告⑥、天候不順ではあるが市民レジャーは活発
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7月5日ka 汐留川貸船大繁昌なり
  9日A 目黒音頭大会、祐天寺裏で2千人以上
  11日a 鎌倉海水浴開き「海の喫茶店百数十軒」
  15日ro 常盤座「次郎長」他大満員
  16日A 鎌倉「海の謝肉祭」でカーニバル行列
  18日y 「気狂い天気」お盆の興行街は大当たり
  19日a シネマパレス「にんじん」他大好評続映
  19日a 常盤座「隣の八重ちゃん」他満員御礼
  23日A 川開き小雨、「炸裂する江戸の華」人出は舟と陸と合せて四十四万
  30日a 「お待かねの夏空 海へ山へ朗かな群」富士山に一万二千人の登山者

 梅雨空があけず、川開きは日延べされ、二十二日時々小雨が降る中で行われた。花火は「炸裂する江戸の華」と素晴らしかったが、人出は「四十四万」人とやや淋しいものであった。
 天候はすぐれなくても、海水浴シーズンに向けて準備が進められている。十日には鎌倉で海開き、十五日には「海の喫茶店百数十軒」が「海の謝肉祭」と称しカーニバル行列を催した。梅雨があけると猛烈な暑さ、二十九日の日曜は35℃を超えた。東京駅からは湘南方面に臨時列車が30本、8万人もの人が出かけるだろうと。両国駅から房総方面に10万人、新宿駅からも初御目見得の藤沢行きの臨時急行など小田急線が満員。
 「湘南海浜の日曜風景」は、「おっとせいの繁殖期における海豹島の光景」。この年の女性の水着は「金太郎の腹掛のような」スタイル、「背中美」時代が遅ればせ日本にもやって来たとある。そのような水着の「マネキン」に素人カメラマンが人だかり、注文に応じポーズを取ってくれるがモデル料は無料。ただし、水着の端にはハッキリと商品名が付いていた。

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昭和九年(1934年)八月、大泉市民農園開園①、同潤会江戸川アパート完成⑯、日活・日興の18映画館突如総罷業(25)、海水浴客は最高の人出、市内の興行も堅調
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8月3日ka 近年銀座通には種種なる浮浪人無頼漢徘徊せり。衰世の状況推して知るべし
  4日Y 谷津と大森の海水浴場で宝探しやお土産
  6日y 蒸風呂列車でも満足 海へ!海へ!逃避
  9日y 多摩川花火大会
  13日Y 谷津海水浴場、松竹少女歌劇スターのサイン・デーで入場者十五万
  13日Y 井の頭公園の花火大会十五日
  14日A 王子権現の祭、天下公認の大喧嘩
  19日y 浅草帝国館等「三日月の健」他満員御礼
  26日y 東京劇場、青年歌舞伎劇納涼興行「本朝 廿四考」他連日満員の為二十八日まで日延

 八月に入り、市民の関心は海水浴。読売新聞は自社主催の谷津遊園・大森八幡海岸の海水浴場に、宝探しや演芸などの余興で誘った。十二日は松竹少女歌劇スターのサイン会開催。水の江ターキー、西条エリ子、三田絹代などへ歓声をあげて殺到し、「十五万」の人が訪れたという。
 この年最も人出があったのは五日で、省線だけの客が午前中に「ザット四十七万人」もあった。電車は「蒸風呂」状態、鎌倉・逗子の海水浴客が「三万人」と前年より6千人多く、この年最高。そのため、「日曜で暑し、今日は海へとられて、とても入りはあるまいと思ってたが、何うして中々の満員だ」と『海・山・東京』(松竹座公演)に出ていたロッパは日記に記している。
 荷風も四日、「東京劇場及歌舞伎座見物の群集帰りをいそぎて外に出で来る混雑の光景を観望す」と。十二日も「晴れて暑し。正午華氏92度なり。夜銀座納涼例の如し」と、市内は賑わっている。芝居もなかなかな堅調、ロッパは「涼しいから今日は海へ客をとられないだろうと思ってたら果たして大入満員」と十九日の日記に書いている。それでも映画の方は、トーキーが主流となるなか、楽士の馘首から日活・日興の18映画館でストライキがはじまった。

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昭和九年(1934年)九月、雨中の三都連合防空演習五十万人参加①、市電ストライキ⑤、東北地方の冷害、九州・西日本の干害などくらいニュースが多く、レジャー気運は沈滞か
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9月2日y 秋雨欷く記念堂の慰霊祭
  6日Y 市電ゼネスト、交通地獄を現出
  9日y 日米対抗陸上競技大会、火蓋を切る、観衆三万
  9日y 六大学野球リーグ戦開幕
  13日y 常盤座「一本刀土俵入」他満員御礼
  16日y 浅草電気館等「仂討嬬恋坂」他満員御礼
  24日a 二十数日振りの秋晴れ、足どり軽く野外へ新宿から二十五万人
  29日Y 銀座「蚤の市」開く五日間

 一日、本所被服厰跡の記念堂では恒例の慰霊祭、秋雨の降るなか、また震災から十年以上経っており、訪れる人の出は湿りがちであった。それに対し、三都連合防空演習は、「五十万人」の参加をもって雨中決行された。土砂降りにもかかわらず、銀座通りにいた荷風は「雨中係わらず演習見物の男女絡繹たり」と記している。ロッパは、「灯火管制のわりには満員」と。
 五日、市電がゼネストに突入。職員1万余人の解雇、給料を半分近く減らして再雇用などに対抗しての行われた。電車の遅れや不通は当然のこと、運転した電車が事故を多発、それこそ「交通地獄」となった。ストの続くなか、神宮外苑競技場で日米対抗陸上競技大会、「三万」の観衆を集めて開催。また、六大学野球リーグ戦がはじまった。
 映画・演劇は盛況であるが、さすがにスト中ということ、雨が多く、行楽活動は低調である。十八日、荷風は、「終日雨歇まず、此頃銀座通夜十一時に至れば人通り稀になりてカフェーはいづこも客足途絶えがち」と聞いている。二十一日に関西地方を襲った室戸台風の被害の大きさを知った市民は、出歩くのを控える傾向が強くなった。なお、台風一過の日曜、二十三日は二十数日振りの秋晴れ、新宿駅から「二十五万人」、上野から「十一万」の人出があった。