花見どころではない昭和十九年三月四月の市民

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)258
花見どころではない昭和十九年三月四月の市民

 砂糖の配給が無くなる。甘いものを食べる楽しみは、映画や演劇などの娯楽より強烈に欲するものである。その楽しみさえ、ままならない状態になった。酒については、配給が「一世帯に月二合(五合から) 家庭用麦酒は据え置き」A⑪となる。
 料亭・待合など店閉め、歌舞伎座・帝劇・日劇等が閉鎖、新聞の夕刊廃止など、廃止できそうなものは廃止する。全国で店閉める料亭・待合が九千八百軒もある。ほぼ一万軒であり、よくそれまで営業していたものだと。それに伴って、芸妓・女給が約一万八千人も転職することになるそうだ。    
 四日の朝刊には、「歴史を飾る料亭も 寄宿舎や事務所に 頼もしいこの転進ぶり」との見出しがある。とうとう伝統の食文化も断絶、とは言っても、庶民は信じていたであろうか。真偽の程はあるものの、高級軍人らは何不自由なく、美味しい料理を食べていたと噂していた。あるところには、何でもあって、そのおすそ分けを貰っていた人のいたことも確からしい。
 その一方で、「郵便局も日曜無し」、電車も「日曜も平日通り」、と休日をなくしている。形ばかりの対応、実質が伴わなければ意味のないことが抜けている。
 六日の朝刊、「前線の奮戦に御感一入り」「畏し陸軍作戦畫を天覧台覧」さらに「栄光に輝く廿九作品」が見出しで続く。戦争記録画は、従軍画家などによって描かれたものである。戦争行為を賛美するとされるこれらの作品、その評価はいまだに確立をしていない。

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昭和十九年(1944年)三月、砂糖の家庭配給停止①歌舞伎座・帝劇・日劇等閉鎖①、新聞の夕刊廃止⑥、高級劇場が閉鎖されたが、大衆娯楽の映画・演劇は観客が激増
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3月1日A 「きょうから休業 各劇場は早くも閉鎖」
  4日A 「あす店閉める料亭・待合、九千八百軒、芸妓・女給約一万八千人は転業」
  4日A 買出し一斉取締 何ぞ四万人で十二万貫
  6日A 東京都武装大継走、日比谷公園を帰着点として12キロ、二千人の青少年参加
  6日A 「享楽追放、初の明るい日曜」
  10日Y 多摩川園で「鹵獲兵器展」蓋あけ
  11日Y 陸軍記念日 軍国絵巻、靖国神社から宮城前へ
  18日A 「急にふえた『切符の行列』 やめよう“今のうち”の旅行」
  25日A 旅行制限、通勤専用の列車八十一本を増発、急行は十七本を廃し
  31日A 「緊急旅行は確保“前日申告制”も実施」
                                                
 三日、早朝から終電まで買出しの取り締まりが行われた。主要各駅での買出し者は4万人、その内4千人が厳重説諭、悪質なものは検束。意外と大目に見ていると思ったら、4万人の8割が女性、それも工員や勤め人の妻であったという。担いでいる量も一人当たり2~4貫(7.5~15キログラム)、それでも全体では12万貫(450トン)にも達する。東京に入荷する蔬菜が一日に22~23万貫しかない、買出しがこれだけあれば「野菜が少ないはず」だと。
 高級劇場の閉鎖は五日からと決められていたが、松竹と東宝系の劇場は、一日から休業した。8劇場の休業によって、都電が2百輌少なくてすみ交通の足が緩和されるとのことA②。その根拠は、8劇場の収容人員が15,975人、興行は昼夜二回あるところもあるから約3万人の交通量が減るとの計算。実際は、算出したような数字にはならなかったと思われる。それより、8劇場だけで毎日1万人を超える観客がいたことのほうが感心する。
 「享楽追放」後の日曜、五日の市内の状況は、「閑散な百貨店」に続き、銀座通りも人通りが少なく、築地の料理店も待合もひっそり。ただ、浅草は、「大衆娯楽街には爆笑」と、映画も演劇も驚くほどの人出であった。
 旅行制限が決まると、「“今のうち”の旅行」が急にふえ、『切符の行列』が駅にできた。切符の売出しは午前四時半から、両国駅では、販売を初めても列は長くなることがあっても縮まらず、正午になっても1千人の行列が続いた。「旅行制限」A(25)は、「緊急旅行は確保」と、重要旅行者の乗車券だけは優先確保するという“前日申告制”を実施。四月からは、近距離でも証明書がなければ列車に乗れなくなる。

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昭和十九年(1944年)四月、国民学校児童に一食七勺の給食開始①、「“花より防空”用意はよいか」と花見を牽制するが、市民は食べることが大変で花見どころではなくなった。
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4月2日A 明るくあけた“旅行制限”第一日、ガラ空き早朝列車
  4日Y 巨人勝利で「戦う日本野球」後楽園で開幕
  8日A 空襲警報一下「喫茶店は救護所」早変わり
  11日A “足の制限”自動車も遊覧併行線取止め
  13日A 映画興行は平日3回、日曜・祭日は4回許す
  24日Y 靖国神社臨時大祭、招魂の御儀
  26日A 空地はもうないか、今が種子の蒔き時だ
  28日A 催物入場税簡素化、入場料二円以上2割
  29日A 五月人形の広告
  30日A 観兵式、代々木練兵場に拝観の民草十数万
  30日na 「銀座の表通りに屋台店が、ずらりと」

 一日の新橋演舞場、『さんまと兵隊』『てのひら』初日八分の入り。明治座幸四郎仁左衛門)、邦楽座(新生新派)も開場するが、惨憺たる入りと。この頃はロッパも愚痴るほど入りと客種が悪い、十四日には「幕切、拍手なし、初めての現象。客席に子供が駆け回って鬼ごっこしてる始末」と。さらに、二十四日の靖国神社遺族招待では、『さんまと兵隊』は「まったく受けつけず、弱っちまい、全然スピードを落とし、噛んで含める式に演る」と。芸能は、軍関連への慰問が多くなり、役者も試練を迎えることになる。
 「“花より防空”用意はよいか」A③と、花見を牽制。「桜も微笑む無心の歓声」や「前線に一目見せたい花便り」A⑰と写真はあるが、花見の賑わいに関する記事は一切ない。
 警戒警報発令中の七日、東京料理飲食業組合普通喫茶部の一同は、防空服に身を固めて警視庁保安課を訪れた。市内にある千余軒の喫茶店は、防空警報発令と同時に営業停止、お客を外に避難させ、直ちに「臨時救護所」を開設、女店員に死傷者の応急救護にあたることを、申し入れた。要は、喫茶店の営業を残そうとする苦肉の策である。
 高見順は、二十二日に吉原で「営業停止令をうけた待合のうち、いわゆる場末の十七ヶ所だけが再開を許され・・・玉の井等の私娼窟と同じく無税・・・吉原の公娼は、十二割の税」。「再開は産業戦士の『慰安』という見地からであろうが、実際・・・戦争景気の重役連中の遊び場・・・ほんとうの産業戦士には、『只今満員で・・・』とことわっているらしい」、「十七ヶ所の再開は私娼奨励ということにもなる。花柳病の蔓延が恐れられる」ということを聞いた。
 旅行制限によって、混雑がかなり解消されていると思われるのに、「自動車にも遊覧併行線取止め」と「足の制限」。対象は、遊覧や買出し、またこれを助長すると認められる路線。市民の移動は容易ではなくなっていたが、天長節の観兵式には、代々木練兵場に「拝観の民草十数万」が集まったと。
 買出しにブレーキをかける一方、「空地はもうないか、今が種子の蒔き時だ」と食料生産を奨励。永井荷風も五日、「後庭に野菜の種をまく」。清沢洌は、二十七日「畠をやる。ほとんど空閑地のないまで、隅から隅までものを植えた」。新聞には、「食べられる若葉、野菜入りお粥」A(29)と、食べられるものは何でも食べろと言わんばかり。ただし、その調理になんと1時間以上もかかるらしい、どのくらいの人が挑戦したか。
 現代、北朝鮮の困窮を他人事としているけど、戦時末期は首都の東京でさえ、雑草まで食べていたことを忘れてはならない。

買い出しレジャーの昭和十九年一月二月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)257
買い出しレジャーの昭和十九年一月二月
 大東亜戦争が始まって三年目の正月を迎えたが、まだ戦争は続く。勝ち目のないことは政府も軍部もわかっていなかったのであろうか。日常生活は、破綻をきたしているが、国民は政府に何も言いえない状況であった。時代の先端を行く東京市民ですら、ただ命令されるがままに困窮生活を続けている。どこまで我慢できるかを探っているようだ。
 「さあ・主婦も戦列へ」A(27)との見出し、戦地へ赴くのかと思うかもしれないが、さすがにそのようなことはない。「帝都一月の内職者数 三十万を突破 収入はあげて貯蓄へ」と、女性を働かせようとしている。「僅かな時間で 月収三十円 仕事は戎衣縫い」(注・じゅうい 戦争関連の衣類だが、民製品も)の見出し。そして、「童心を戦力化せよ」もある。国民、総動員体制を目指している。
 この頃になると、戦争にプラスになりそうなら、できることは何でも行い、少しでも戦力を増強させたいのだ。とは言っても、締めつけだけでは無理なので、その捌け口が遊びであること、レジャー自粛を叫ぶものの全面否定はしていない。締めつけは徐々に表れており、やはり出歩く人は減っている。
 東京では、一月に疎開命令がだされる。東京が空襲されることを予想しているが、人々はまだ実感が無かったのであろう。そのためか、大相撲や演劇などは、大勢の人が詰めかけ盛況だったらしい。
 二月になると、遊興等はもっての外との禁止的高率へ増税となる。またも、なされるがままに受け入れる市民。
 十七日、米機動部隊がトラック島を空襲する。日本海軍は、艦船43隻と航空機270機を失うという重大な損失を被る。この事実は、国民には知らされず、勝っているとの報道に、半信半疑ながら従っている。戦果などに触れて、非国民とされるより、関しないことが安全と心得ていた。それでも、招集前の結婚式が豪華になっていることは、何を意味しているのであろう。
 官製イベントは、定期的に催され、動員されているのも恒常化している。市民の関心事は食べ物、空腹が何よりも最大の問題になっている。配給では足りずに、郊外への買い出しが日常化した。単純計算すれば、市民の半数以上が一月に一回、買い出しに行っていることになる。

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昭和十九年(1944年)一月、初の疎開命令を実施(26)、正月気分は盛り上がらず寂しい年明けだが、市民のレジャー気運はまだ健在。
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1月2日A 「明治神宮奉拝の民草」
  2日A 成田山の初詣、十万人
  4日A 伊勢神宮へ二十七万人 お正月三日間の参拝者
  5日A 阪妻の剣に殺到する超人気「剣風練兵館
  6日A 「泊込みで切符買い 自粛未だし 年末年始の旅行」
  8日a 「早朝より跪拝の群れ きょう新春の奉戴日」
  9日A 「陸軍始観兵式」代々木原頭に十数万人
  10日A 春場所初日、大衆席から雛壇まで、家族連れで埋まる 
  13日ro 「川崎のりかえ・・三十分も行列・・大師駅からバス、これ又大行列で三十分の待ち」
  14日A 後楽園大サーカス15~17日、木下サーカス入場料大人1円80銭小人75銭
  18日A 戦争に勝つためだ 旅行は取りやめ、四月より約四割値上げ
  24日A 勤労逃げる有閑娘、婦道の恥じたよ
  27日Y 銀座で「白衣勇士慰問家庭演芸大会」
  27日A 熱海温泉の休湯日、月に3日、八の付く日
  28日A 殖える屋台店取締り
  28日Y 国際劇場で三十一日に拳闘試合

 二日付Aの一面見出しに「明治神宮奉拝の民草」と、東條首相らの参拝写真。写真を見ると、初詣の混雑は例年よりやや少なめである。三面には「戦いに休みなし」と、工場へ向かう人々が続く写真。正月気分は、前年より盛り上がらず。寂しい年明けであった。
 また、清沢洌の日記に、「熱海は死んだような静けさだ。味かん一つ店に出て居らぬ・・・無論、魚もない」とあることから、年末年始の旅行が無くなった訳ではない。三箇日に伊勢神宮へ「廿七万人」も訪れ、全国的にはかなり人の動きがあった。
 『初笑五十三次』『歌う紙芝居』などを演じているロッパの有楽座は、二日の時点で夜の部が二十日まで売り切れ、千秋楽まで大入りであった。「この正月は、この二、三年のうちで一番の混みようだという。客席のなかに詰められた客は、小便にも出られず、悲鳴をあげる騒ぎだという」と、高見順は七日の日記に書いている。正月の人出は続いていて、八日の奉戴日は、皇居前に「早朝より跪拝の群」と、陸軍の観兵式に「十数万人」も集まったそうだ。とすれば、浅草や上野などには大勢の市民が出歩いただろう。
 また、松阪屋では「日本海軍展覧会」A④が四日から十六日まで、正月の人出を迎えた。大相撲春場所は、「大衆席から雛壇まで賑やかな家族連れの観客で埋まる」A⑩と。十五日からは後楽園で木下大サーカス。新春興行の歌舞伎座(9円40銭~1円10銭)、東京劇場(水谷八重子)、明治座(天の綱島)、新橋演舞場曽我廼家五郎)、東京宝塚劇場雪組)、帝国劇場(新国劇)など、新聞には興行の広告が数多くあり、市民の遊び心を誘っていた。
 ジリジリと戦局は行き詰る、二十六日に疎開命令がだされた。市内では、開業許可の不要な簡易な食堂が増加の一方であるため、「屋台店へ取締り」。また、「野菜の買出し公認問題、産地側は反対」A(28)と揉めている。荷風の二十九日の日記に、浅草六区は「灯火と共に音楽の響起こりて公演は忽騒しき夜の世界に移り行けり」とある。

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昭和十九年(1944年)二月、米軍トラック島大空襲⑰、市民の気持ちを無視して、レジャー禁止への圧力を強める。
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2月1日na 「寿劇場へ行く、満員」
  4日A 「敵撃滅の豆撒き」豆は生、食料増産の一助に
  6日A 寸地も遊ばすな、いま植付けの最好季
  8日A 新しい衣料切符、有効は2年間
  12日A 紀元節日比谷公園で帝都の奉祝大会
  14日Y 学徒一万・撃敵祈願行進
  14日na 「広い歌舞伎座は満員だ。客の顔触れは・・・芸者の派手な姿などは見られず、戦闘帽の産業戦士らしい姿が多い
  15日A 国民映画入賞決まる
  16日A 「遊興等はもっての外」「間接税 きょうから禁止的高率へ」入場料に六~二十割、遊技場も四割
  21日Y 「買出部隊抹殺せよこの醜状」埼玉では平日二万人、休日には四万人
  21日A 百貨店の開店時間を30~60分繰り下げ
  24日A 「買出し撲滅へ積極果断」
  26日A 料理屋、これでよいか 非統制物資の買い漁り

 「敵撃滅の豆撒き」、豆は煎って食べないように、生のまま撒いて後で植え、食料増産の一助にしなさいと。豆撒きの行事は、禁止されていない。空き地は、「寸地も遊ばすな いまが植付けの最好季」A⑥と、ジャガイモの植付けを奨励。食料難だけではない、「新しい衣料切符 有効は二年間」A⑧と生活は厳しくなる一方である。
 ところが、新聞の広告には、結婚調査や婚礼礼服などが掲載されている。まだ結婚式は盛大に執り行われていたのだろう。翌年の6月になっても、「空襲下の結婚式場をのぞく“いま時”と驚くほどの繁盛ぶり」であった。三越地下の式場では艶やかな振袖姿の花嫁を見ることができ、まさに地上とは別世界が展開していた。
 建国記念日は、「宮城前に紀元節を壽ぐ赤子の万歳」や「奉祝大会」「航空戦力昂揚へ堂々少年大会」などと、まるでレジャー記事のような紹介。少年大会は百校五千人もの生徒動員。また、都下中等学校百校一万人が「見よこの撃滅魂」と、靖国神社明治神宮に必勝祈願、女子部も三十余校一千二百名が朝七時半に宮城前に集合し、30キロメートルを踏破し、午後四時に靖国神社で解散。様々なイベントが催され、学生生徒の人数は詳細だが、一般市民の数は不明。
 十六日から間接税が禁止的高率に上がり、「遊興等はもっての外」と。5円以上の食事には8割の税金、劇場などの入場料1円未満でも6割、3円未満10割、5円以上になると20割。射的場やローラースケートなどの遊技場でも4割の税金をかけた。これで、レジャーがどのくらい減少するか。
 市内の百貨店の開店時間を30~60分遅らせることが決まった。それは、九時の開店前に二千五百名程度が訪れており、開店後30分に六千五百名も入店、通勤時の混雑を増していた。この措置で、百貨店の従業員(約八千人)も出勤時間が遅れるため、勤時間帯の交通混雑が緩和される。目的は交通混雑防止策とあるが、早朝からの百貨店通いをなくそうとしたことは明白
 「買出し撲滅へ積極果断」、かなり成果があったように書かれているが、「不埒な“自転車部隊”」や「休日には一万人減らぬ買出部隊」とも続く。また、「料理屋 これでよいか 非統制物資の買漁り」A(25)と、市民の買出しだけではない。食糧事情の悪化は深刻化を増しているがゆえに、埼玉への買出しが休日には四万人と、買出しも買い漁りもなかなか減らない。

買い出しもレジャーの昭和十八年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)256
買い出しもレジャーの昭和十八年秋
 十二月には、太平洋戦争を始めて三年目に入る。アメリカとの戦争前、中国での戦争では、日本本土での戦火はなく、東京市民はまるで他人事のようであった。しかし、ここに至って、我が身のことと感じるようになってきた。それにもかかわらず、政府や軍部に批判を向けようとはせず、困窮生活を押し進めている。
 それは、生活物資の欠乏が当たり前になり、十二月の「靴の“修理券”」に象徴されるように、靴を配給することすらできなくなっている。さらに、労働力の不足だけではなく、とうとう兵力も不足していることが明らかになった。十月の学徒出陣に至り、戦争を続けることは困難になっていたこと、東京市民はわからなかったのであろうか。
 現代でも、十月の時期になると、出陣学徒壮行会は取り上げられ、昭和十八年十月二十一日の明治神宮外苑競技場で第一回学徒兵入隊が催された映像を生々しく見ることとなる。東條英機首相や岡部長景文相らの出席をもとに、入隊学生を中心に十万人が集まり、その様子は、勇壮とも、悲壮とも、見る人に深く印象づけるようだ。そして、考えさせられるのは、学徒出陣をどう受け継いでいくか、それを重い課題として考えていくということである。たぶん、未来永劫に同じ見解が延べられるであろう。
 学徒の出陣をさせなければならない状況、重大な局面を迎えている中で、東京市民のできることは限られていたと考えたい。当時の市民は日々の生活に追われており、戦時体制に順応することしかできなかったと。その中でも、人々は楽しむことを忘れずに生きていた、ということ、としか言いようがない。

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昭和十八年(1943年)十月、日本軍ソロモン群島から撤退②、東京放送劇団初放送③、連休は各方面で非常な混雑が予想され、一層の自粛を促される。
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10月6日y 帝国劇場「都会の船」他好評絶賛
  7日ro 有楽座「大満員・・『おばあさん』は、実によく受ける」
  8日y 後楽園で白衣の運動会、九千名参加
  13日ro 慰問で池貝鉄工所へ、川崎大師へお参り
  15日y 靖国神社臨時大祭
  17日A 「勝敗は問題外 感激の早慶野球」壮行試合に2万の学徒
  21日a 明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」、ラジオで中継

 十月に入ってすぐ、「不急旅行は止めよう」A①と、十四日付A「連休へ足の制限を強化 検査に帰省する学生へ親心」と、東鉄では一日の時刻改正以来“足の制限”を強化。十四日から靖国神社臨時大祭がはじまり、ことに十六、十七の連休は各方面共非常な混雑が予想されるので、一層の自粛を促している。
 しかし、収穫の秋に、市民が行楽や買出しに出ないはずはない。「買出部隊にお灸」A⑲、「埼玉でも藷持出し禁止」A(21)と、買出しを「身勝手で乱す決戦生活」と批判し、野菜の配給が十分にゆきわたらないのは、買出しのせいだとでも言いたげである。が、その原因は買出しではなく、官製の配給制度に欠陥があった。そのうえ、役人たちが不正に処理したため、市民には食料が届きにくくなっていた。したがって、買出しは、不備だらけの配給制度を補う、市民の自助努力であったとも言えよう。
 有楽座は、五日の初日が『おばあさん』『エリス島』で四時開演に「ビッシリ」、二十八日の千秋楽までほぼ満員の連続。なお、東宝劇場の新国劇歌舞伎座の六代目の芝居が当たり、その他の劇場はよくなかったと、ロッパは二十七日の日記に書いている。十七日、「浅草は珍しく人出・・・木馬館へ。安来節を見に入る。トリの大和家姉妹がやっている。この頃安来節がまた復活し、ここと橘館でやっている・・・他の小屋では見られぬ昔ながらの一種卑わいなもの」と、高見順は記している。
 十六日、早稲田・慶応の野球選手の壮行試合が「二万人」の学徒に見守られて行われた。この試合が戦前最後の早慶戦となる。二十一日、「出陣学徒壮行会」が夕刊の一面トップで掲載された。明治神宮外苑競技場には、77校○○名まま)を見送る友人や後輩など男女学生「六万五千」に父兄らを含めて「計十万人」が詰めかけた。「学徒部隊の行進に、拍手、拍手、歓声、歓声、十万の眼からみんな涙があふれた。涙を流しながら手を打ち帽を振った」とある。

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昭和十八年(1943年)十一月、兵役法改正交付①、米軍ギルバード諸島に上陸(21)、レジャーに託つけて買出し。
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11月3日A 「けさ明治節 朝九時一斉に民草の奉拝」
  8日y 日比谷公園で大東亜結集国民大会、二万五千名
  10日ka 虎の門金比羅祠の縁日にてあたり賑やか
  11日na 「お酉さまの人出で混んでいる」
  15日Y 後楽園で学徒空の進軍大会、誓い固し十万人
  15日na 「向島の高木神社・・賑やかな人出」
  18日na 「今日は向島秋葉神社の祭」
  28日y 帝都防空警備演習実施

 清沢さえも、二日「朝例により百姓」、三日「朝百姓・・・ビワの木を十円で買って植う」、四日「朝、三時間・・・豆を植う」、七日「おさつを掘って蔵す」と、食べ物の確保に大変である。ロッパは五日、「食うもの全く無くなった。戦争当初、随分ひどい事になったと思ったが、あの頃は天国」と書いているように、食料難はさらに深刻になっていた。
 「釣師装ふ買出」A⑮は、釣りをするのは自由だったので、それを隠れ蓑に取締りの目をごまかそうとした。熱海での取締りでは、ミカンの買出しが2千人(ミカン11.25トン)、鮮魚は不良であったが、それでも千余人(魚類2.250キログラム)の買出し客が捕まった。なお、熱海の先の網代という漁師町には、500人が釣りの名目で宿泊していたという。熱海の手前には、湯河原、真鶴、小田原、また、網代の先には宇佐美、さらには伊東と、ミカンの産地や魚のとれる場所が続いている。一体どのくらいの人々が東京から買出しに出かけていたのだろう。
 買出しは、いくら禁止しても、あの手この手と市民は智恵をめぐらす。「言訳は聞きませんぞ野菜買出しに千葉の取締強化」A(24)という見出しでもわかるように、依然買出しは続いている。帝都常会で「年末の贈答買出し廃止」A(26)を議決したとあるが、これもむろん徹底させることはできなかった。
 東京市民は、江戸っ子気質を受け継いで、宵越しの金を持たない性分の人が多かったのか、三十一日付の新聞Aで「悪いぞ!東京都」と、全国で貯蓄が最も少ないとたたかれている。たしかに東京の人の貯蓄は目標の三割も達成されず、全国でも最下位、一位の県の半分にも満たなかった。東京は娯楽がたくさんあって、金の使い道には困らない。

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昭和十八年(1943年)十二月、学徒出陣①、競馬開催中止を決定⑰、戦局の悪化を知らぬ市民は、生活の困窮度が増しているのに前年と変わらぬ新年を向かえようとしていた。
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12月8日a 「宮城前を埋む赤子の群」
  8日y 靖国神社へ、玉砂利ふみしめて社頭の人波
  10日A “戦う玩具”を認定
  13日A 「小国民総蹶起東京大会、代々木原頭十万」
  14日y 客は七、八分増、百貨店へ繰出す人波
  15日Y 歳末年始「不急旅行は戦争妨害」切符制限
  15日Y 紅白全館「海軍」依然大盛況
  25日ro 「前売は実に有楽座のレコードを破り、一日で二万六千円・・アチャラカ三本立の魅力」
  28日y 「輸送決戦、これでいゝのか」東京から地方へ出る駅はひどい混雑
  31日na 「浅草は暗く、人もまばら」

 三日、ロッパは「銀座に出てみる。まっ暗だ。ぞろぞろと不気味な人通り・・・バアへ入ってみる。それでも客はいる、わけの分らない酒を飲まされて、うごめいている」のを見ている。高見順は二十日、「満員の盛況」な新橋のニュー・トーキョーで、「すき焼きでビール二杯」飲んでいる。
 市民には、「正月用のお酒 各戸へ五合づつ」A⑦配給された。「門松は小枝で」A⑨と、正月は簡素にとさかんにアピールしているが、実際には「門松がどしどし」A(24)の写真を見てもわかるように、小枝どころではなく大きなマツが写っている。政府の建前、「前線に正月なし」Aがそのまま見出しになっている。が、新聞をよく見ると、正月の飾り物などを売る「年の市」の賑やかな雰囲気が掲載されている。
 「癌は買出部隊」A⑯と、業を煮やしたのか、今度は鉄道輸送の面から非難を浴びせられた。が、「まだ止まらぬ買出し」A(26)と、湯河原、熱海、埼玉、群馬、千葉での買出しの状況が書かれている。正月用の酒や米などいろいろな食べ物が、買出しで確保されたに違いない。
 禁止、忠告、取締まり、厳罰と形を変えて再三圧力がかけられるが、買出しは一向に止む気配がない。レジャーは、解放感、人との交流、駆け引き、スリルなどがたくさんあればあるほど楽しい。買出しは、息苦しい東京の生活から脱出できるという解放感、農家の人との世間話や情報の交換という交流、さらに美味しい食べ物を手に入れようとの交渉、警察の目を潜って持ち帰るスリルとサスペンス(?)。買出しは、レジャーに代わりうるものであったことはまず間違いあるまい。

まだ残っている東京の楽しみ  昭和十八年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)255
まだ残っている東京の楽しみ  昭和十八年夏
 国民の耐久生活は、限界を超えていた。東京にはいろいろの物資が集まっていたが、配給制での食料だけでは生きていけない。九月には、小学生が配給に並ぶどころか、買出しに出かけるので社会問題になる。食料難は、動物園にもおよび、動物に与える餌も不足。表向きは、空襲時にライオンなど猛獣の脱走に備えてを薬殺しなければならないとしている。
 では、どれだけの楽しみが残っていたかを、禁止されたものから示す。なお、禁止されても、しぶとく残っているものもあるのは、当然であろう。
7月4日A 「旅行会に大鉄槌」鉄道当局を通じ解散を要望
  4日Y 決戦“銀座八丁”老舗四十軒も店を閉づ
  13日A お盆の帰省も制限
  14日y お盆の注意、屋外の提灯はいけません
  31日Y 年中行事を止めよう、官庁の催し物も五分の一に調整
8月21日A 「自粛値違反に営業許可を取消 目に余るカフェーなど」
9月12日A 「警報中は興行中止 劇場、映画館へ指示」
  23日A 藷堀大会ご法度
  26日A 駒沢ゴルフ場を閉鎖
  30日A 「お料理は出せない」酒場やカフェーの取締規則が改正

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昭和十八年(1943年)七月、経済市況の放送中止①、空襲警報下でも汽車や電車は運行、敵機を見たら停止(21)、市民レジャーに多少の陰りが。
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7月4日A 「旅行会に大鉄槌」鉄道当局を通じ解散を要望
  4日Y 決戦“銀座八丁”老舗四十軒も店を閉づ
  7日y 昭和通りでこんなに収穫、神田区戦時農園
  13日A お盆の帰省も制限
  14日y お盆の注意、屋外の提灯はいけません
  14日y 都営四プール開く
  15日A 「増産の盆踊り楽し」
  16日Y 観客も俳優も待避、藪入りの娯楽街緊張
  23日ro 有楽座「今夜も大満員」『芋と官軍』他
  26日Y 学徒航空蹶起大会、後楽園に十万を集める。
  31日Y 年中行事を止めよう、官庁の催し物も五分の一に調整

  「旅客自粛まづまづ まだ耐えない不心得者」A③と、さらに旅行を制限しようとしている。まだ、「温泉巡り、聖地参拝」と称して観光客を募集し、団体旅行の世話をする旅行会社があった。「旅行会に大鉄槌」と、解散が命じられた。また、「お盆の帰省も制限」、「生徒の団体旅行に制限」A⑭。修学旅行でも正課以外、理由のない団体旅行は認められなくなった。このように先手を打って、旅行規制を行っているが、効果の方はいま一つのようだ。十一日には、近郊への買出部隊は影を潜めたものの、湘南温泉地行きの指定乗車券は早朝に売り切れている。
  断腸亭日記によると、九日の浅草の四万六千日は参詣人が少なかったようだが、三十日の上野「広小路の両側に屋台店でて夜遊びの人出賑なること銀座に優れり」と。また、有楽座の『芋と官軍』『長崎』は、夜の部の満員は多かったが、マチネーの入りは良くない。レジャーに多少の陰りが見えてきた。
  十五日付Aで、横浜市の工場で行われた盆踊りの写真が掲載され、盆踊りの盛んなことがわかる。さらに、八月十四日付にも「宿寮で盆踊り大会」とある。盆に田舎に帰省できない人のために、工場内で盆を迎えられるようにしたという話だ。
 また、「夏を明るくトンカラリ」と「“ぼんぼり”に賑はう久我山町会の夏祭」A⑮と、写真を添えた記事がある。この祭りは、明治二十九年以来疫病除けの夏祭として、土地の人々に親しまれていると。いずれにしても、まだ祭りの夜店があちこちで行われている。

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昭和十八年(1943年)八月、戦時衣生活簡素化実施⑩、夏のレジャーは帰省。
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8月3日A 「土俵に練る攻撃心」と街中でも鍛練の道はある
  10日y 工場街の飲食店朝五時開店
  14日A 「自粛せぬ帰省客 お盆列車に氾濫 上野駅では卒倒騒ぎ」
  21日y 町内揃って銃剣術
  22日y 神宮夏期大会ひらく

  「土俵に練る攻撃心」、練成は海や山だけで行うものではなく、街中でも鍛練の道はあると。町の一隅に土俵が作られ、町会の行事として行うことを勧めている。これは、昔から行われていた素人相撲で、要は、海や山へ出かけるなとのことだろう。
 旧のお盆、帰省する数日間は想像を絶した混雑。驚くのは意外にも子供連れが多いことで、駅では非番の者たちまで動員する始末であった。旅行自粛の呼びかけは、ある程度浸透したとはいうものの、市民の行為は政府にとっては無軌道とも思われ、腹立たしさを感じていたに違いない。正確な戦況を知らない市民は、春の行楽に続いて夏のレジャーも楽しもうとしていた。
 「自粛値違反に営業許可を取消 目に余るカフェーなど」A(21)と、それまでカフェーなどで提供する料理や飲食物には自主価格を設けさせ、業者の自粛を求めてきた。だが、これには法的根拠がなく、罰則規定もないのをいいことに、暴利を貪る違反者が続出したので急挙取締まることとなった。とはいうものの、市民の中には、“ぼられる”のを承知の上で遊び行く人々が多くいたこともまた確かである。
 「永久に薫るアッツの雄魂」という見出しで、戦没者名の紹介に紙面の多く費やした。これ以後、新聞に戦没者の名前がたびたび登場するようになる。我が国は非常時であるが、東京は、映画・演劇や酒場にカフェー、今風に言えばグルメに温泉と、あらゆる遊びがまだ健在だった。

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昭和十八年(1943年)九月、米豪連合軍がニューギニアに上陸④、上野動物園、空襲時の混乱に備え、ライオンなどの猛獣を薬殺、供養式④、買出しはレジャーの様相。
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9月7日A 劇場でも国民儀礼
  11日y 中山道をゆく王子区女子青年団銀輪隊、一万
  12日Y 日本野球“秋の陣”開く、巨人が阪神に屈伏
  12日A 「警報中は興行中止 劇場、映画館へ指示」
  19日y 戸田橋で滑空訓練、一万七千名若人を集め
  21日Y 航空日、羽田飛行場「献納式の圧巻」
  23日A 藷堀大会ご法度
  26日A 駒沢ゴルフ場を閉鎖
  30日A 「お料理は出せない」酒場やカフェーの取締規則が改正

 一日付Aで「野菜、果物の買出し業務用は御法度 あすから一般も制限」とある。当時の市民は、アッツ島での敗北で日本が危機に瀕していることを理解できなかった。新聞は、「輸送を乱すのは利敵だ」A④と、買出しはまるで戦争犯罪人ように書き立てている。さらに、「これでよいのか、野菜買出し」A⑥、「米の買出しに厳罰」A⑧、「童心蝕む野菜買出し」A⑬など、買出しに再三圧力をかけているが、それでも買出しが途絶えることはなかった。なぜそれまでにして人々は買出しに出かけたのであろう。それは、食料が不足も深刻だが、より美味しいものが食べたかった。さらに、「藷堀大会ご法度」の記事には興味深い話が書いてある。それは農家の方でも「藷堀大会」を催して、歓迎して東京からの買出しを受け入れている。つまり、買出しは、レジャーの様相が濃くなっていた。
  劇場でも開演前に全員直立不動、国民儀礼を行うようになる。その上、幕間を利用して臨時啓発宣伝を行ったり、廊下に壁新聞を掲出したりしたらしい。この程度のことは、楽しいこととセットなので誰もが我慢して受け入れた。が、「警報中は興行中止」となる。警戒警報の発令と同時に興行中止し、客は追い出されることになった。もちろん、だからといって、映画や演劇を見る人がいなくなるということはなかった。
 とうとう都内唯一のゴルフ場「駒沢ゴルフ場」も九月いっぱいで閉鎖という事態になった。それにしてもプレーするとなると、まる一日たっぷりかかるゴルフ、一体どんな人が、戦時下に悠長にゴルフなどしていたのだろう。
 酒場やカフェーの取締規則が改正され、「お料理は出せない」と。「なくなる一品料理」A(22)と、大衆食堂のメニューが減少した。このように市民への規制を強化する一方、「“夕食一人前三十円”  まだ怪しからぬ高級料理店」という記事(十一月七日付A)もある。この記事は、市民を憤らせ、自粛させようという意図が見え隠れする。しかし、見方を変えると、東京にはまだいろいろな食べ物があることを証明、つまり金さえ出せば旨いものが食べられたのである。高級料理店の規制がどの程度守られたかは、まったくもって闇の中だった。

規制を掻い潜り遊ぶ  昭和十八年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)254
規制を掻い潜り遊ぶ  昭和十八年春
 四月の連合艦隊司令官山本五十六戦死は、戦局の悪化を示したものだ。米軍の攻勢によって海上の制空権を奪われ、物資輸送船舶は沈没させられ、原料の輸入が滞りしはじめた。そのため、物資不足は、「消える銀座の“古き殼"」Y4/4と街路灯までが応召となり、壮行会が催されている。産業すべてにわたって物資が不足、兵器を造るのにも事欠く状況になった。
 四月の東京六大学野球が廃止などレジャー自粛が強化された。それだけでなく、映画や演劇の観客数は前年よりが減少、行楽活動も交通機関利用の自粛で減っている。しかし、行楽シーズンになると、日頃抑えられていた人がこの時とばかり繰り出し、例年と変わらぬような賑わいを見せた。ただ、以前と多少違うは、行楽を兼ねて買出しをする人が増えていくことである。
 「この際、帰省はやめ、盆踊りも工場で」は、労働者は東京に残って働けというより、盆踊りをしてもよいとのお墨付きと解釈
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昭和十八年(1943年)四月、連合艦隊司令官山本五十六戦死⑱、東京六大学野球廃止(28)、呆れ返る遊覧客と買出し部隊で連休の各駅は大混乱
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4月4日Y 「連休の行楽客 天罰覿面の醜態」
  6日A 「駅に立往生の乗客“敵前行楽”はほんとに自粛せよ 苦々しい連休の人出」
  14日ro 有楽座『南方だより』『父と大学生』『ロッパ捕物帳』「大満員、毎日売切れだ」
  21日y 新案貯蓄移動講演隊、神田で初公演
  22日A 「旅行を慎め 東鉄の“足の注意”」発令
  25日y 靖国神社臨時大祭第二日、両陛下御拝に輝く、参拝者で賑わう
  30日Y 天長節観兵式、代々木原頭に十数万の培覧者

 三日四日は、春の連休。その前日二日の東京・上野・新宿各駅は早朝から終日まで、遊山客・ハイカー・買出し部隊が押し寄せ、物凄い混雑であった。鉄道当局から出された「足の自粛」の要望なんか馬耳東風。上野駅のごときは午後二時、ついに乗車券の発売を中止となった。
 その様子は、「用事の客は立ち往生“敵前行楽”を追拂う 列車は鈴なりの遊覧群」A④と。旅行自粛は強く要請されたが、東京駅も遊覧客でごった返し大混雑、切符発売を制限したにもかかわらず混乱が続いた。各列車とも普通の休日の二倍から三倍という、まさに鈴なりの状況が見られた。小田原、熱海、三島、日光などの観光地は大混雑、東京付近の遊覧地の混み様は尋常なものではなかった。その結果、「行き大名の帰り乞食 旅館は超満員、乗り遅れて野宿」と、出かけたのはよいが泊まる宿がなかったり、帰る列車に乗れなかった人が多数でた。
 また、市内の映画や演劇が大盛況であったことは、古川ロッパ永井荷風の日記からもわかる。このレジャー状況は、戦争をしているということをほとんど忘れさせるほどで、市民も、その時ばかりは日頃の鬱積を吹き飛ばしたに違いない。たぶん、東京周辺の行楽地は、その年最大の人出を記録しただろう。
 六日になっても「“敵前行楽”はほんとに自粛せよ」との記事、レジャーは戦争中に不要なものなのか。長期間の戦争を続けるためには、国民が年に数回、息抜きのレジャーをしないことには精神的に行き詰まってしまう。この春の行楽は、精神衛生上非常に大きな意味を持っていた。しかし、政府や軍部の高官たちのどれだけが、そのことに気づいていただろうか。
 八日付Aに「花影を踏んで登校行進」と、はじめてサクラの写真が掲載された。以後、花見を誘うような記事はない。ただ、「帝都の花まつり」と、大仏教会が日比谷音楽堂で催した「灌仏会」の記事が小さくある。また、「“花吹雪”に偲ふ勇士の心」A⑨という見出しで、上野動物園の混雑した写真がある。これらから推測すると、花見はひっそりと行われていたに違いない。
  二十四日は靖国神社臨時大祭、二十五日が日曜と連休、再び混雑が予想され、またも「旅行を慎め 東鉄の“足の注意”」。市民のレジャー気運の盛り上がりは、ロッパの日記からもわかる。二十四日は、「東宝劇場前が大した人だかり、女の子十重二十重の行列、長谷川一夫の前売り初日」。二十九日、「天長節の人出は大したもので、ホーム人の波、中々乗れない」とある。

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昭和十八年(1943年)五月、アッツ島で守備隊全滅(29) 、市民の楽しみは、行楽よりも食べることに。
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5月3日A 市内各地で「コドモ大会」等が催される
  3日T 日曜は町内揃って楽し町会錬成運動会
  10日A 「つゝじの下『戦ふ人』の団欒」と近隣の来訪を呼びかける
  10日A 全国千四百開場で日本体操大会を開催、参加人員は二百五十万人、市内では6ケ所で催された
  10日Y 夏場所、初日から波乱の勝負
  11日A 花より食べよう不忍池の蓮根を戦う台所へ
  16日A 「雄大な国立公園に うち建つ健民寮」、勤労青年や学徒の心身練成に
  24日Y 故山本元帥の出迎え、東京駅から十五万の堵列
  27日Y 夏場所双葉山輝く覇業で終わる

 レジャーの自粛を唱えることが、逆に市民が遊んでいることを宣伝していることに気づいたのか、四月末頃からレジャーに関する記事が激減。しかし、一日、古川ロッパ一家は友人家族を誘って豊島園に出かけた。高見順は、二日の銀座で「日曜なので人が出ている」のを見ているように、五月になっても、市民のレジャーは続いていた。
  二日付Aで、煤煙を吹き出す煙突に鯉のぼりを掲げた写真を掲載。鯉のぼりを揚げるところが少なくなってきた。二日、六義園早稲田大学童話会の「こども大会」が児童約五百人とその保護者を集めて開催。また、日比谷公会堂東京市主催の「端午の節句」、その他、市内3ヶ所でも同様の催しが行われた。「童心進軍」A⑥と、空襲に備えて開かれた隣組子供会の様子を写真入りで紹介。市内では、町会内の隣組子供会まで結成されていた。
 「つゝじの下『戦ふ人』の団欒」と、戸山学校のツツジが満開で、近隣の来訪を呼びかけるというめずらしい記事。ただ、市民の関心は、「花より食べよう 不忍池の蓮根を戦う台所へ」、と食糧の方へと向けられていた。日比谷公園の花壇に麦が植えられており、キャベツが大きな葉を広げ、訪れた人も花より野菜の方に関心を向けていたのかもしれない。
 高見順の十一日の日記に、「勤労報国隊というのを女給さんたちが作っていて、田村町の方の印刷工場へ二人ずつ一週間交替で手伝に行っているそうだが、工場の女工さんたちは、流行歌ばかり歌っていて、はかばかしく仕事をしない。さぼってばかりいる。一生懸命やるのは、臨時の女給さんたちばかり、そういう話を聞いた。女給さんたちさえ知らない流行歌を女工さんは実によく知っているそうだ」と、女給さんの話が書かれている。

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昭和十八年(1943年)六月、市電市バス値上げ①、国葬で興行物は休みだが、浅草公園一帯は正月三ヶ日の人出。
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6月4日y 神田区民の祈願祭、神田神社で挙行
  5日A 根岸馬場を閉鎖
  6日Y 日比谷公園で山本元帥の国葬、参拝の人出三十九万七千余、沿道に十七万二千余
  22日y 羽田神社の神輿、海軍へ献納式
  25日A 「一般客はお断り千葉県の各海水浴場」
  26日t 消える早稲田名物、戸塚球場の鉄骨も応召
  26日A 「この際、帰省はやめ、盆踊りも工場で」
  27日ro 有楽座「六月が此の好成績は意外」

  朝日新聞の戦局の見出しを拾うと、六月一日「アツツ島の忠魂に続け」、二日「アツツの複仇・一億総突撃」、三日「アツツ島、最後の突撃」となる。今なら、戦局のさらなる悪化を客観的にわかるが、当時の大衆にはほとんど伝わらなかったのだろう。五日には、日比谷公園山本五十六元帥の国葬が盛大に催された。当日の興行物はすべて休みとなったにもかかわらず、浅草の「公園一帯の人出は正月三ヶ日の如し」であったこと、荷風は確認している。
 また、ロッパの三日の日記から、「二十割の税上がり以後、一時は火の消えたようになった花柳界も、又すっかりもとに戻り、今夜の席を申し込んでも満員だった」とある。有楽座の『バランガ』『映画の世界へ』が十一日から二十七日までほぼ大満員と、演劇などの盛況がわかる。

  歴史ある横浜の根岸馬場が閉鎖となった。「お相撲も輸送協力  地方巡業取止め」A⑦となる。「甦生する神宮野球場 宿泊設備を設けて練成道場に」A⑪、大学野球の檜舞台として花やかな球史を綴った神宮外苑野球場は、六大学野球リーグ戦の中止によって、練成道場として再生されることになった。そして、早稲田名物、戸塚球場も解体されてしまった
 もっとも、もうレジャーなどできなかったといえば、「歩けお山も決戦型 霊峰へ自然木の金剛杖ついて」A⑲とある。白木八角塗りの金剛杖は姿を消し、原始林から刈りだされたシラカンバやツツジなどが、それまでの金剛杖の代わりとして数万本切り出されたという。当時の登山者は50~60万人もいたらしいから、人々は信心に託つけて出歩いていたことがわかる。
 銀座も夜になると電気が消え、七時を過ぎると真暗になった。が、人通りがなくなったわけではない、「おでん屋は午後六時開店」A5/⑯とあるように、勤め帰りに一杯やる人がかなりいた。なお、大衆相手の酒場やビアホールは、席に着くまでに2~3時間も前から行列した。そのため、行列の順番を二円位で売ろうという不心得者も出てきた。そこで、「酒場、ビアホールは順番票での行列解消」A24をしようと、順番票を考えたようだが、所詮、役人の考えること。
 避暑や帰省の自粛が勧められている。まだ海水浴へ、しかも泊まりがけで行こうとする市民が少なからずいた。そこで、千葉県内の各海水浴場は、この夏は統制のとれた団体を除く一般客には、貸家や貸間はしないという申し合わせがだされた。また、「この際、帰省はやめ、盆踊りも工場で」という記事。これは、労働者は東京に残って働けというより、盆踊りをしてもよいと読める。当時も、盆踊りはかなり高い人気があったのだろう。

レジャーの制約が進む  昭和十八年冬

 江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)253
レジャーの制約が進む  昭和十八年冬

 元日の新聞Aは、東條首相の決意「益々攻勢を持続」が一面を飾った。二日Aは「交わす合言葉も逞し“米英を撃滅しよう”戦ふ新年・虚礼を捨て必勝へ進発」との見出しで、「“勝つて、勝つて、勝ち抜いて敵を降参させませう”と全国民が氏神の前に誓ふ」とある。
 実際は、正月、ニューギニアでブナの日本軍全滅。二月、南洋方面の要、カダルカナル島から撤退。三月、ダンビール海峡で日本輸送船全滅。惨憺たる日本軍の被害は国民に伝わっていない。

 市民レジャーは、朝風呂が無くなるだけでなく、色々な切符制が始まる。映画館劇場の節電休館がはじまり、「物見や遊山は止せ」との回覧板。制約は多くなるが、市民は息抜きをしたくて出歩いている。
 と言うのも、朝日新聞の報道は、三月二十八日付「英艦隊奇襲の特殊潜航艇十勇士」、二十九日付「数を恃み連日出撃」、三十日付「熱田島沖で三艦撃破」、三十一日付「敵二百機を撃隊破」、四月一日付「米空軍拡張計画に陰影」、二日付「陸鷲東部印度の連爆」と、そのまま全てを信じないとしても、とても日本軍が負けているとは思えない。
    
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昭和十八年(1943年)正月、ニューギニアでブナの日本軍全滅②、配給米五分搗⑦、戦争の緊張からの息抜きをしたい市民。
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1月2日A 明治神宮に必勝を祈る参拜者の群れ
  2日ro 「浅草は、何と早朝興行午前七時開場を、各館一斉に試みたそうだ・・ガラガラだった」
  4日A 羽織、袴で愛国カルタ会開催
  4日A 「いろは」四十組の纏を押し立て、宮城・靖国神社に奉拝
  5日a 「さすが勝抜く正月 断然多い神詣」
  7日a 四日早い春場所 ザン切り頭の決戦熱闘譜
  8日Y 邦楽座「水の江滝子公演」連日満員御礼
  9日y 陸軍始観兵式、代々木原頭に十万余の陪観者
  10日A 初場所初日「徹夜の角狂 不埒な焚火」
  14日A スキー持ち込み許可制
  16日A 朝風呂なし客足なし、決戦下静かな藪入り
  19日A 一円の入場料に六十銭税金
  25日Y 大相撲千秋楽、双葉山前人未到の七度目の全勝
  28日y 帝国劇場の新国劇「汪精衛」他連日満員
                                                
  元日の新聞Aは、東條首相の決意「益々攻勢を持続」が一面を飾った。二日Aは「交わす合言葉も逞し“米英を撃滅しよう”戦ふ新年・虚礼を捨て必勝へ進発」との見出しで、「“勝つて、勝つて、勝ち抜いて敵を降参させませう”と全国民が氏神の前に誓ふ」など威勢がよい。写真も、「明治神宮に必勝を祈る参拜者の群れ」を掲載。
  三箇日の人出は、明治神宮靖国神社が前年より二割強増え、伊勢神宮参詣列車や湘南方面は前年と変わらず。また、成田山、川崎大師などは相変わらず賑やかであったが、全体としては遠出が減って一割から三割減のようだ。市内の盛り場は、映画や演劇などの景気が良かった。『猿飛佐助』などを公演している有楽座は、「今年は又輪をかけたよさ」とロッパの日記にあり、七日まで大満員。
 大相撲の人気も過熱していた。初場所から、早朝から日没までに全取り組を終了することになった。そのため、番付外の力士の卵は取組が多すぎて、場所四日前の七日から相撲を取った。また、初日は十日であるが、その切符を求める人は前夜から押しかけ、両国署の警官によって全員が追い払われた。ところが、埼玉、神奈川などから訪れた約千名は、帰るにも電車がなく、三々五々分かれて徹夜。“絶対に防空資材など燃やさぬようにと”との厳重警告にもかかわらず、冬空の寒さには耐えきれず、3~40ヶ所の資材は焚き火にされてしまった。
 週末から休日にかけての旅行は依然と盛ん、東京鉄道局では輸送調整を図るため、上野発十一時三十五分以降の列車には上野・大宮間からスキーの車内持ち込みを禁止。但し「スキー持込承認証」所持の者には一人一台限り認めた。食糧事情が悪化しているさなか、スキーに出かけられる人は、市民の一割もいなかったが、贅沢な遊びとして禁止にはなっていなかった。
  その一方で、非常時ということで朝風呂はなくなった。朝刊Aに、「朝風呂なし客足なし 決戦下静かな藪入り」、浅草六区でも人出は平日と変わりないと。また、両国、上野、新宿各駅も平日並みの人出であったとある。が、どうも腑に落ちない。ロッパの日記に「藪入りの臨時マチネー」、十六日は「夜の部大満員」とある。
 ロッパは十七日「新聞見てビックリ、煙草値上げ・・・光十八銭が三十銭はむごい」と。十九日は、「『闇』以外に品物は無し、又、物の値段てものが、此う狂っては、高いも安いもないわけである」と、書いている。十九日付Aには、「外食せずに頑張らう 勝ち抜く新設計 一円の入場料に六十銭税金」。生活に欠かせぬ食料にも物品税が課せられ、外食料金や入場料も値上げされることは必死である。

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昭和十八年(1943年)二月、カダルカナル島から撤退開始①、東京府内の映画館劇場交代で月二回の節電休館を始める③、戦時下にもかかわらず、遊覧客は減らず。
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2月2A 「紙芝居へ監視隊 漫画はなくなります」
 5日A 「豆はなま・撒くは産業戦士」市内の節分
 5日Y 邦楽座水の江滝子公演「愉快な音楽会」他満員御礼
 5日A 風呂も切符制へ
 7日Y 国技館で古式相撲、超満員
 9日A 威勢良く海軍省へ神輿獻納
 12日A 紀元節靖国神社などに「各種団体十二万人」
 22日A 「戦う輸送に席を譲れ」列車改正にも減らぬ遊覧客
                         
  紙芝居は、子供に与えるの影響が大きいため三月から審査が始まる。「紙芝居へ監視隊 漫画はなくなります」というお達し。とうとう、紙芝居にもいろいろなチェックが入り、軍部の眼鏡にかなったものしか許されない。面白いだけの漫画は、戦争遂行の妨げになると。
  「風呂も切符制へ」と、朝風呂が制限されるのはともかく、市民の数少ない楽しみの一つである入浴さえ、再検討をしなければならない事態となった。そのような状況下でも、「豆はなま・撒くは産業戦士」と、市内各地では「豆まき」が行われていた。ただ、撒いた豆はすべて拾い集め、春になったら畑に蒔くのである。
  六日付Aで「雪原の朝におゝ出た 金冠匂ふ“黒い太陽”」と、この日七時五十分に皆既日食があった。日食については、すでに一月から連日のように報道され、娯楽の制限されるなか大勢の人が関心を持ち、学生たちを中心にあちこちで観測された。
 「威勢良く海軍省へ神輿獻納」と、東京市荒川区町屋の若衆一同は、春祭りを前に神輿の応召を決意。そこで、奉納を前に、決別を込めて威勢よく担いだとある。このほかにも、市内各地で神輿獻納が続いた

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昭和十八年(1943年)三月、ダンビール海峡で日本輸送船全滅①、第一回防空服装日⑩、「撃ちてし止まん」は不人気、まだレジャーを求める市民に自粛の呼びかけ。
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3月1日A 日比谷公会堂で「ひな祭り会」子供三千名
  4日A 「“お山参り”も行軍に衣替え」
  9日A 数寄屋橋畔忠魂碑小公園で決戦型紙芝居公演会
  11日Y 陸軍記念日、軍楽隊銀座などの繁華街行進
  11日Y 多摩川園で「世界戦争展覧会」開く
  14日y 日本野球優勝大会、外来語排撃新用語で開幕
  18日A 2942種類あるオモチャの贅沢物を一掃し錬成型500点内外に絞る
  23日A 「物見や遊山は止せ 空襲必至の季節 翼賛会から『回覧板』」

 「六根清浄の“お山参り”も戦力増強の一点を目指して新時代の脱皮を敢行」と。まだ“お山参り”は健在。それも、行軍に託つけてのハイキングであることは間違いない。
 六日、「この比公園の興行場午後より夕方近くいづこも満員大入。夜は到て見物少なくなりしと云」と、荷風
  日本教育紙芝居協会は、「うちてし止まむ教育紙芝居大公演会」を九・十日、数寄屋橋畔忠魂碑小公園で実演。この日は火曜、午前九時から午後四時まで開催しているが、子供たちは学校に出かけたはず、一体誰が見たのだろうか。
 陸軍記念日、国民服に戦闘帽のロッパは、「防空日だから、国民服のこと、女はモンペ又はズボンのことということ・・・表を歩いてる人々は、半分も実行してはいなかった」のを見ている。またその日は、東宝劇場の『桃太郎』や帝国劇場の『撃ちてし止まむ』が無料招待。『撃ちてし止まむ』はいつもは不入りだが、無料のため帝劇が満員。ロッパは五日の初日に、「愚劇だし、第一それを上演することすら嫌でたまらない位のものだから」とぼやいている。『桃太郎』についても、十四日の日曜日でさえ「入りは平均五十六パーセント」であった。
 「物見や遊山は止せ」との回覧板。「陽春四月ともなれば、戦時下とはいひながら、やはり旅行、遠足が多くなり、家を明けたり、輸送機関を混乱させることが予想される。しかしいい陽気すなわち空襲の好機ともいえる」と。市民は、また自粛を言っている程度の認識であろう。
 と言うのも、日本軍の敗走にもかかわらず、朝日新聞の報道は、二十八日付「英艦隊奇襲の特殊潜航艇十勇士」、二十九日付「数を恃み連日出撃」、三十日付「熱田島沖で三艦撃破」、三十一日付「敵二百機を撃隊破」、四月一日付「米空軍拡張計画に陰影」、二日付「陸鷲東部印度の連爆」と、とても負けているとは思えない書き方、市民に戦争の緊迫感は起きていない。

欲しがりません勝つまでは、レジャー自粛の昭和十七年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)252
欲しがりません勝つまでは、レジャー自粛の昭和十七年秋
 十一月には、銭湯の開店が午後三時となる。乗車指定券を持たぬ人の「週末、祭日の旅行禁止」。年末、一等、食堂は停止、特急座席指定も取りやめ。そして、十一月十四日の正午、市内のいたる所から梵鐘や半鐘が一斉に鳴り響いた。一体何なのであろうかと、不安を抱いた人もいただろう。それは、梵鐘や半鐘が金属類特別回収に供されることから、最後の響として鳴らされたものである。その数は、梵鐘150、半鐘500もあった。これは、昭和十七年五月に出された金属回収令による強制譲渡命令によるものであろう。
 戦況が悪化するものの、国民には実態が伝えられていない中、神宮大会が挙行された。その様子は、「十萬観衆揃つて體操」「天覧の神宮大会に参列して 見たり日本の真姿 感銘深し力強い集団訓練」などの見出しで記されている。語気は強いものの、十七年の正月当時の迫力や勢いが感じられない。先行きの不安は、古川ロッパの日記にも見られるようになった。
 日本の勝利が危うくなってきたことは、新聞を冷静に見ていれば感じるところがあったであろう。十一月十五日付の読売新聞社東京日日新聞社朝日新聞社各紙に「国民決意の標語」募集の広告もその一つである。この募集は、「大東亜戦争一周年記念」の企画で、企画は大政翼賛会、情報局が後援したもので、32万以上の応募があった。
 選ばれた標語に「欲しがりません勝つまでは」がある。この標語から、どのような気持ち、これからの行動が思い浮かぶであろうか。作者は、国民学校(現在の小学校)五年の少女であると発表された。すぐに取り上げられ、戦時中にはあまりにも有名になり、「欲しがりません勝つまでは」が浸透した。そして、作者である少女は、読売報知新聞に児童のインタビューまでも掲載された。
 標語は、ひとり歩きを始めると、歌(山上武夫作詞、海沼実作曲)になり、ポスターになり津津浦浦に張られた。なお、少女は標語の誕生の真実を誰にも言えなかったと、後日語った。この標語を実際に作ったのは彼女の父親で、娘の名前を使って応募していたのだ。

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昭和十七年(1942年)十月、都新聞・国民新聞合併し東京新聞となる①、帝都防空総合訓練開始⑤、三連休でも遠出ができず市内で遊ぶ市民。
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10月4日y 六大学野球、最後のリーグ戦始まる
  9日a 銭湯十一月から三時開店
  9日a 小石川後楽園傷痍軍人練成運動会、約一万人参加
  13日a 戦時色のお会式 正午までに二万六千
  16日y “三日続きの休日”各種運動やハイキング
  17日a 靖国神社臨時大祭第二日、遺族三万
  19日a 羽田飛行場で慰霊飛行
  19日A 神田で路上体育運動大会開催運動会
  25日Y 早稲田、慶応を降す
  30日a 明治神宮練成大会、戦士三万

 二日、「オペラ館の演芸はいつもの軍歌剣劇とやら称するもの何の面白きところも無けれど見物相応の入なり」と、娯楽を求める市民が大勢いたことを荷風は記している。八日初日の日劇も「ついに日劇新体制以来のレコードを破った由」と、ロッパは気をよくした。演し物は、『歌うロッパ』『園芸百科事典』で、二十一日の千秋楽まで満員が続いた。特に十六日は、「靖国神社祭礼で世間は三日休みが続く由。日劇も九時開場でもう大満員」。十八日は「靖国祭で日曜、人出は大変。日劇、一回目からは大満員・・・今日は又レコード破りの大満員らしい」。
 郊外での行楽を制限された市民は、市内で過ごさざるを得なくなっている。行き先を失った人々は道路を使って、「路上体育運動大会」を開くという、切羽詰まった状況になっている。そして、ロッパの日記のように「何処へ行っても、誰に逢っても、暗いかおして、戦争は何うなるのでしょう、空襲はあるんでしょうな」とそんな話ばかりになっていたようだ。

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昭和十七年(1942年)十一月、家庭用蔬菜の登録制販売が実施⑯、酉の市に賑わう飲食店へ監視隊「殺人焼酎はないか」⑯、帝都1万9千の中小商工業者転業成功と発表(21)、レジャー自粛が進む割には市内の人出は盛んとなる。
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11月4日a 明治神宮練成大会終る、七万の観衆
  4日a 明治神宮へ敬虔な人波
  5日ro 日比谷映画街で「歌う狸御殿」を見る「狂気映画である」
  11日a 乗車指定券を持たぬ人の「週末、祭日の旅行禁止」十四日から実施
  14日y 国技館「大東亜戦跡めぐり菊花大会」
  19日Y 日本野球争覇戦終わる、燦たる巨人軍

 三日明治節、「この夜十二時より酉の市なり。浅草上野辺の電車は昼の中より乗客おびただしく乗る事能わざる由」と。また、五日は、「水天宮戌の日の賽日にて参詣の人織るが如し」と、永井荷風は、この頃、市内の人出が多いことを記している。
 鉄道省は、行楽旅行・買出部隊抑制のため随時、乗車券発売制限・乗越禁止などを指示。十四日から、乗車指定券がないと週末・祭日の旅行ができなくなった。また、同日の正午、市内の梵鐘150、半鐘500が一斉に鳴鐘。金属類特別回収に供されるため、最後の響であった。
 十六日、「仲店を過るに人さして雑遝せず酉の市の熊手持つ人も多からず」と、荷風の見た二の酉で、メチルアルコールが入った焼酎の監視があった。もちろん闇で売られているもので、飲めば命をなくすことになるが、以後も売られ続けた。

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昭和十七年(1942年)十二月、大東亜戦争開戦一周年記念国民大会開催⑧、カダルカナル島撤退を決定(31)、レジャーはもちろん、年末の慌ただしさも沈滞。
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12月7日Y 多摩川畔で「近代立体攻防演習」六十万の見学 
  9日a 大東亜戦争開戦一周年記念大会開催
  12日A 年末、一等、食堂は停止、特急座席指定も取りやめ
  16日a スキー持込み禁止 二十五日から

 大東亜戦争開戦一周年の前々日、多摩川畔で「近代立体攻防演習」が催された。演習に先立って、117両の「愛国戦車献納命名式」。続いて演習の戦車戦、航空部隊の反復急降下などが行われた。その光景は、「六十万見学者を感激の坩堝にたゝきこんだ」とある。
 七日付の読売新聞の見出しを追うと、「戦場精神、この目この耳」「多摩川は人の怒濤」「立体戦見学・日の丸弁当一色」「愛国戦車初陣の奮戦」「明日ぞ感激の日 必勝の決意 最高潮などが続く。これらの見出し、記事から感じるのは、勇壮な軍事パレードとあるものの、先行きの勝利の喜びではなく、切羽詰まった悲壮感である。
 八日も、大東亜戦争開戦一周年を記念し、盛大な催しがあった。この日、ニューギニアのパサブアでは日本軍が全滅。市民は、記念防空演習に駆り出されていた。
 十六日に帰京したロッパは、「ついに! あゝついに風呂のガスを除られてしまった!」と、数少なくなった楽しみを奪われ嘆いている。ガスの使用量が割当になり、割当量を超過するとガス供給の停止を受ける。ほんの少しでもオーバーすると一ヵ月間ガスを止められるという厳しいもの。超過になって止められた家が軒並み出現したという。
 荷風の二十七日の日記から、「東武鉄道停車場には日曜日にかぎり近県の温泉遊山場行の切符を売らぬ為にや人甚しく雑遝せず。興行町もさほどに騒しからず世の中追々真底より疲労し往くが如し」と。また、ロッパは銀座通りに出て、「人は出てるが実に何も買いたいものがない」と記している。
 二十九日、清沢洌煙草屋や汽車切符の前に長蛇の如く行列す・・・八時過ぎ電車に乗れば酔どれ、吐瀉山の如し」と書いている。三十一日、荷風新橋駅付近街灯薄暗く寒風吹きすさみ行人また稀なれば大晦日の夜とも思われず。銀座通も同じなるべし」と、不安な年の瀬を感じていた。