欲しがりません勝つまでは、レジャー自粛の昭和十七年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)252
欲しがりません勝つまでは、レジャー自粛の昭和十七年秋
 十一月には、銭湯の開店が午後三時となる。乗車指定券を持たぬ人の「週末、祭日の旅行禁止」。年末、一等、食堂は停止、特急座席指定も取りやめ。そして、十一月十四日の正午、市内のいたる所から梵鐘や半鐘が一斉に鳴り響いた。一体何なのであろうかと、不安を抱いた人もいただろう。それは、梵鐘や半鐘が金属類特別回収に供されることから、最後の響として鳴らされたものである。その数は、梵鐘150、半鐘500もあった。これは、昭和十七年五月に出された金属回収令による強制譲渡命令によるものであろう。
 戦況が悪化するものの、国民には実態が伝えられていない中、神宮大会が挙行された。その様子は、「十萬観衆揃つて體操」「天覧の神宮大会に参列して 見たり日本の真姿 感銘深し力強い集団訓練」などの見出しで記されている。語気は強いものの、十七年の正月当時の迫力や勢いが感じられない。先行きの不安は、古川ロッパの日記にも見られるようになった。
 日本の勝利が危うくなってきたことは、新聞を冷静に見ていれば感じるところがあったであろう。十一月十五日付の読売新聞社東京日日新聞社朝日新聞社各紙に「国民決意の標語」募集の広告もその一つである。この募集は、「大東亜戦争一周年記念」の企画で、企画は大政翼賛会、情報局が後援したもので、32万以上の応募があった。
 選ばれた標語に「欲しがりません勝つまでは」がある。この標語から、どのような気持ち、これからの行動が思い浮かぶであろうか。作者は、国民学校(現在の小学校)五年の少女であると発表された。すぐに取り上げられ、戦時中にはあまりにも有名になり、「欲しがりません勝つまでは」が浸透した。そして、作者である少女は、読売報知新聞に児童のインタビューまでも掲載された。
 標語は、ひとり歩きを始めると、歌(山上武夫作詞、海沼実作曲)になり、ポスターになり津津浦浦に張られた。なお、少女は標語の誕生の真実を誰にも言えなかったと、後日語った。この標語を実際に作ったのは彼女の父親で、娘の名前を使って応募していたのだ。

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昭和十七年(1942年)十月、都新聞・国民新聞合併し東京新聞となる①、帝都防空総合訓練開始⑤、三連休でも遠出ができず市内で遊ぶ市民。
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10月4日y 六大学野球、最後のリーグ戦始まる
  9日a 銭湯十一月から三時開店
  9日a 小石川後楽園傷痍軍人練成運動会、約一万人参加
  13日a 戦時色のお会式 正午までに二万六千
  16日y “三日続きの休日”各種運動やハイキング
  17日a 靖国神社臨時大祭第二日、遺族三万
  19日a 羽田飛行場で慰霊飛行
  19日A 神田で路上体育運動大会開催運動会
  25日Y 早稲田、慶応を降す
  30日a 明治神宮練成大会、戦士三万

 二日、「オペラ館の演芸はいつもの軍歌剣劇とやら称するもの何の面白きところも無けれど見物相応の入なり」と、娯楽を求める市民が大勢いたことを荷風は記している。八日初日の日劇も「ついに日劇新体制以来のレコードを破った由」と、ロッパは気をよくした。演し物は、『歌うロッパ』『園芸百科事典』で、二十一日の千秋楽まで満員が続いた。特に十六日は、「靖国神社祭礼で世間は三日休みが続く由。日劇も九時開場でもう大満員」。十八日は「靖国祭で日曜、人出は大変。日劇、一回目からは大満員・・・今日は又レコード破りの大満員らしい」。
 郊外での行楽を制限された市民は、市内で過ごさざるを得なくなっている。行き先を失った人々は道路を使って、「路上体育運動大会」を開くという、切羽詰まった状況になっている。そして、ロッパの日記のように「何処へ行っても、誰に逢っても、暗いかおして、戦争は何うなるのでしょう、空襲はあるんでしょうな」とそんな話ばかりになっていたようだ。

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昭和十七年(1942年)十一月、家庭用蔬菜の登録制販売が実施⑯、酉の市に賑わう飲食店へ監視隊「殺人焼酎はないか」⑯、帝都1万9千の中小商工業者転業成功と発表(21)、レジャー自粛が進む割には市内の人出は盛んとなる。
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11月4日a 明治神宮練成大会終る、七万の観衆
  4日a 明治神宮へ敬虔な人波
  5日ro 日比谷映画街で「歌う狸御殿」を見る「狂気映画である」
  11日a 乗車指定券を持たぬ人の「週末、祭日の旅行禁止」十四日から実施
  14日y 国技館「大東亜戦跡めぐり菊花大会」
  19日Y 日本野球争覇戦終わる、燦たる巨人軍

 三日明治節、「この夜十二時より酉の市なり。浅草上野辺の電車は昼の中より乗客おびただしく乗る事能わざる由」と。また、五日は、「水天宮戌の日の賽日にて参詣の人織るが如し」と、永井荷風は、この頃、市内の人出が多いことを記している。
 鉄道省は、行楽旅行・買出部隊抑制のため随時、乗車券発売制限・乗越禁止などを指示。十四日から、乗車指定券がないと週末・祭日の旅行ができなくなった。また、同日の正午、市内の梵鐘150、半鐘500が一斉に鳴鐘。金属類特別回収に供されるため、最後の響であった。
 十六日、「仲店を過るに人さして雑遝せず酉の市の熊手持つ人も多からず」と、荷風の見た二の酉で、メチルアルコールが入った焼酎の監視があった。もちろん闇で売られているもので、飲めば命をなくすことになるが、以後も売られ続けた。

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昭和十七年(1942年)十二月、大東亜戦争開戦一周年記念国民大会開催⑧、カダルカナル島撤退を決定(31)、レジャーはもちろん、年末の慌ただしさも沈滞。
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12月7日Y 多摩川畔で「近代立体攻防演習」六十万の見学 
  9日a 大東亜戦争開戦一周年記念大会開催
  12日A 年末、一等、食堂は停止、特急座席指定も取りやめ
  16日a スキー持込み禁止 二十五日から

 大東亜戦争開戦一周年の前々日、多摩川畔で「近代立体攻防演習」が催された。演習に先立って、117両の「愛国戦車献納命名式」。続いて演習の戦車戦、航空部隊の反復急降下などが行われた。その光景は、「六十万見学者を感激の坩堝にたゝきこんだ」とある。
 七日付の読売新聞の見出しを追うと、「戦場精神、この目この耳」「多摩川は人の怒濤」「立体戦見学・日の丸弁当一色」「愛国戦車初陣の奮戦」「明日ぞ感激の日 必勝の決意 最高潮などが続く。これらの見出し、記事から感じるのは、勇壮な軍事パレードとあるものの、先行きの勝利の喜びではなく、切羽詰まった悲壮感である。
 八日も、大東亜戦争開戦一周年を記念し、盛大な催しがあった。この日、ニューギニアのパサブアでは日本軍が全滅。市民は、記念防空演習に駆り出されていた。
 十六日に帰京したロッパは、「ついに! あゝついに風呂のガスを除られてしまった!」と、数少なくなった楽しみを奪われ嘆いている。ガスの使用量が割当になり、割当量を超過するとガス供給の停止を受ける。ほんの少しでもオーバーすると一ヵ月間ガスを止められるという厳しいもの。超過になって止められた家が軒並み出現したという。
 荷風の二十七日の日記から、「東武鉄道停車場には日曜日にかぎり近県の温泉遊山場行の切符を売らぬ為にや人甚しく雑遝せず。興行町もさほどに騒しからず世の中追々真底より疲労し往くが如し」と。また、ロッパは銀座通りに出て、「人は出てるが実に何も買いたいものがない」と記している。
 二十九日、清沢洌煙草屋や汽車切符の前に長蛇の如く行列す・・・八時過ぎ電車に乗れば酔どれ、吐瀉山の如し」と書いている。三十一日、荷風新橋駅付近街灯薄暗く寒風吹きすさみ行人また稀なれば大晦日の夜とも思われず。銀座通も同じなるべし」と、不安な年の瀬を感じていた。