規制を掻い潜り遊ぶ  昭和十八年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)254
規制を掻い潜り遊ぶ  昭和十八年春
 四月の連合艦隊司令官山本五十六戦死は、戦局の悪化を示したものだ。米軍の攻勢によって海上の制空権を奪われ、物資輸送船舶は沈没させられ、原料の輸入が滞りしはじめた。そのため、物資不足は、「消える銀座の“古き殼"」Y4/4と街路灯までが応召となり、壮行会が催されている。産業すべてにわたって物資が不足、兵器を造るのにも事欠く状況になった。
 四月の東京六大学野球が廃止などレジャー自粛が強化された。それだけでなく、映画や演劇の観客数は前年よりが減少、行楽活動も交通機関利用の自粛で減っている。しかし、行楽シーズンになると、日頃抑えられていた人がこの時とばかり繰り出し、例年と変わらぬような賑わいを見せた。ただ、以前と多少違うは、行楽を兼ねて買出しをする人が増えていくことである。
 「この際、帰省はやめ、盆踊りも工場で」は、労働者は東京に残って働けというより、盆踊りをしてもよいとのお墨付きと解釈
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昭和十八年(1943年)四月、連合艦隊司令官山本五十六戦死⑱、東京六大学野球廃止(28)、呆れ返る遊覧客と買出し部隊で連休の各駅は大混乱
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4月4日Y 「連休の行楽客 天罰覿面の醜態」
  6日A 「駅に立往生の乗客“敵前行楽”はほんとに自粛せよ 苦々しい連休の人出」
  14日ro 有楽座『南方だより』『父と大学生』『ロッパ捕物帳』「大満員、毎日売切れだ」
  21日y 新案貯蓄移動講演隊、神田で初公演
  22日A 「旅行を慎め 東鉄の“足の注意”」発令
  25日y 靖国神社臨時大祭第二日、両陛下御拝に輝く、参拝者で賑わう
  30日Y 天長節観兵式、代々木原頭に十数万の培覧者

 三日四日は、春の連休。その前日二日の東京・上野・新宿各駅は早朝から終日まで、遊山客・ハイカー・買出し部隊が押し寄せ、物凄い混雑であった。鉄道当局から出された「足の自粛」の要望なんか馬耳東風。上野駅のごときは午後二時、ついに乗車券の発売を中止となった。
 その様子は、「用事の客は立ち往生“敵前行楽”を追拂う 列車は鈴なりの遊覧群」A④と。旅行自粛は強く要請されたが、東京駅も遊覧客でごった返し大混雑、切符発売を制限したにもかかわらず混乱が続いた。各列車とも普通の休日の二倍から三倍という、まさに鈴なりの状況が見られた。小田原、熱海、三島、日光などの観光地は大混雑、東京付近の遊覧地の混み様は尋常なものではなかった。その結果、「行き大名の帰り乞食 旅館は超満員、乗り遅れて野宿」と、出かけたのはよいが泊まる宿がなかったり、帰る列車に乗れなかった人が多数でた。
 また、市内の映画や演劇が大盛況であったことは、古川ロッパ永井荷風の日記からもわかる。このレジャー状況は、戦争をしているということをほとんど忘れさせるほどで、市民も、その時ばかりは日頃の鬱積を吹き飛ばしたに違いない。たぶん、東京周辺の行楽地は、その年最大の人出を記録しただろう。
 六日になっても「“敵前行楽”はほんとに自粛せよ」との記事、レジャーは戦争中に不要なものなのか。長期間の戦争を続けるためには、国民が年に数回、息抜きのレジャーをしないことには精神的に行き詰まってしまう。この春の行楽は、精神衛生上非常に大きな意味を持っていた。しかし、政府や軍部の高官たちのどれだけが、そのことに気づいていただろうか。
 八日付Aに「花影を踏んで登校行進」と、はじめてサクラの写真が掲載された。以後、花見を誘うような記事はない。ただ、「帝都の花まつり」と、大仏教会が日比谷音楽堂で催した「灌仏会」の記事が小さくある。また、「“花吹雪”に偲ふ勇士の心」A⑨という見出しで、上野動物園の混雑した写真がある。これらから推測すると、花見はひっそりと行われていたに違いない。
  二十四日は靖国神社臨時大祭、二十五日が日曜と連休、再び混雑が予想され、またも「旅行を慎め 東鉄の“足の注意”」。市民のレジャー気運の盛り上がりは、ロッパの日記からもわかる。二十四日は、「東宝劇場前が大した人だかり、女の子十重二十重の行列、長谷川一夫の前売り初日」。二十九日、「天長節の人出は大したもので、ホーム人の波、中々乗れない」とある。

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昭和十八年(1943年)五月、アッツ島で守備隊全滅(29) 、市民の楽しみは、行楽よりも食べることに。
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5月3日A 市内各地で「コドモ大会」等が催される
  3日T 日曜は町内揃って楽し町会錬成運動会
  10日A 「つゝじの下『戦ふ人』の団欒」と近隣の来訪を呼びかける
  10日A 全国千四百開場で日本体操大会を開催、参加人員は二百五十万人、市内では6ケ所で催された
  10日Y 夏場所、初日から波乱の勝負
  11日A 花より食べよう不忍池の蓮根を戦う台所へ
  16日A 「雄大な国立公園に うち建つ健民寮」、勤労青年や学徒の心身練成に
  24日Y 故山本元帥の出迎え、東京駅から十五万の堵列
  27日Y 夏場所双葉山輝く覇業で終わる

 レジャーの自粛を唱えることが、逆に市民が遊んでいることを宣伝していることに気づいたのか、四月末頃からレジャーに関する記事が激減。しかし、一日、古川ロッパ一家は友人家族を誘って豊島園に出かけた。高見順は、二日の銀座で「日曜なので人が出ている」のを見ているように、五月になっても、市民のレジャーは続いていた。
  二日付Aで、煤煙を吹き出す煙突に鯉のぼりを掲げた写真を掲載。鯉のぼりを揚げるところが少なくなってきた。二日、六義園早稲田大学童話会の「こども大会」が児童約五百人とその保護者を集めて開催。また、日比谷公会堂東京市主催の「端午の節句」、その他、市内3ヶ所でも同様の催しが行われた。「童心進軍」A⑥と、空襲に備えて開かれた隣組子供会の様子を写真入りで紹介。市内では、町会内の隣組子供会まで結成されていた。
 「つゝじの下『戦ふ人』の団欒」と、戸山学校のツツジが満開で、近隣の来訪を呼びかけるというめずらしい記事。ただ、市民の関心は、「花より食べよう 不忍池の蓮根を戦う台所へ」、と食糧の方へと向けられていた。日比谷公園の花壇に麦が植えられており、キャベツが大きな葉を広げ、訪れた人も花より野菜の方に関心を向けていたのかもしれない。
 高見順の十一日の日記に、「勤労報国隊というのを女給さんたちが作っていて、田村町の方の印刷工場へ二人ずつ一週間交替で手伝に行っているそうだが、工場の女工さんたちは、流行歌ばかり歌っていて、はかばかしく仕事をしない。さぼってばかりいる。一生懸命やるのは、臨時の女給さんたちばかり、そういう話を聞いた。女給さんたちさえ知らない流行歌を女工さんは実によく知っているそうだ」と、女給さんの話が書かれている。

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昭和十八年(1943年)六月、市電市バス値上げ①、国葬で興行物は休みだが、浅草公園一帯は正月三ヶ日の人出。
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6月4日y 神田区民の祈願祭、神田神社で挙行
  5日A 根岸馬場を閉鎖
  6日Y 日比谷公園で山本元帥の国葬、参拝の人出三十九万七千余、沿道に十七万二千余
  22日y 羽田神社の神輿、海軍へ献納式
  25日A 「一般客はお断り千葉県の各海水浴場」
  26日t 消える早稲田名物、戸塚球場の鉄骨も応召
  26日A 「この際、帰省はやめ、盆踊りも工場で」
  27日ro 有楽座「六月が此の好成績は意外」

  朝日新聞の戦局の見出しを拾うと、六月一日「アツツ島の忠魂に続け」、二日「アツツの複仇・一億総突撃」、三日「アツツ島、最後の突撃」となる。今なら、戦局のさらなる悪化を客観的にわかるが、当時の大衆にはほとんど伝わらなかったのだろう。五日には、日比谷公園山本五十六元帥の国葬が盛大に催された。当日の興行物はすべて休みとなったにもかかわらず、浅草の「公園一帯の人出は正月三ヶ日の如し」であったこと、荷風は確認している。
 また、ロッパの三日の日記から、「二十割の税上がり以後、一時は火の消えたようになった花柳界も、又すっかりもとに戻り、今夜の席を申し込んでも満員だった」とある。有楽座の『バランガ』『映画の世界へ』が十一日から二十七日までほぼ大満員と、演劇などの盛況がわかる。

  歴史ある横浜の根岸馬場が閉鎖となった。「お相撲も輸送協力  地方巡業取止め」A⑦となる。「甦生する神宮野球場 宿泊設備を設けて練成道場に」A⑪、大学野球の檜舞台として花やかな球史を綴った神宮外苑野球場は、六大学野球リーグ戦の中止によって、練成道場として再生されることになった。そして、早稲田名物、戸塚球場も解体されてしまった
 もっとも、もうレジャーなどできなかったといえば、「歩けお山も決戦型 霊峰へ自然木の金剛杖ついて」A⑲とある。白木八角塗りの金剛杖は姿を消し、原始林から刈りだされたシラカンバやツツジなどが、それまでの金剛杖の代わりとして数万本切り出されたという。当時の登山者は50~60万人もいたらしいから、人々は信心に託つけて出歩いていたことがわかる。
 銀座も夜になると電気が消え、七時を過ぎると真暗になった。が、人通りがなくなったわけではない、「おでん屋は午後六時開店」A5/⑯とあるように、勤め帰りに一杯やる人がかなりいた。なお、大衆相手の酒場やビアホールは、席に着くまでに2~3時間も前から行列した。そのため、行列の順番を二円位で売ろうという不心得者も出てきた。そこで、「酒場、ビアホールは順番票での行列解消」A24をしようと、順番票を考えたようだが、所詮、役人の考えること。
 避暑や帰省の自粛が勧められている。まだ海水浴へ、しかも泊まりがけで行こうとする市民が少なからずいた。そこで、千葉県内の各海水浴場は、この夏は統制のとれた団体を除く一般客には、貸家や貸間はしないという申し合わせがだされた。また、「この際、帰省はやめ、盆踊りも工場で」という記事。これは、労働者は東京に残って働けというより、盆踊りをしてもよいと読める。当時も、盆踊りはかなり高い人気があったのだろう。