空襲の恐怖でも娯楽を求める昭和二十年二月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)264
空襲の恐怖でも娯楽を求める昭和二十年二月
 この年の冬は室内の水が凍るという寒さ、食料だけでなく燃料も不足、清沢洌は八日、「三十年の東京生活で知らない。炭はなく、本年の寒さは誰にもこたえる。本年の冬を通じ、先頃、一俵の木炭の配給があっただけである」と、当時の状況を記している。
 二月には、東京への空襲が本格的になる。とうとう豆撒きもなくなり、出かけるところがなくなっている中、一日から二十日まで、日比谷公園で「B29機体展覧会」があった。十一日の祭日、古川ロッパは「B29の巨体を見て、『これぢゃあとても敵はない』と言い乍ら、すっかり憂鬱になって帰るわけ。何という愚挙」ともらしている。あまりにも大勢の市民がB29を見に訪れたため、有楽町駅では切符を買うのに二十分も行列しなければならなかった。
 好奇心だけでなく、面白いものを求めているのだ。多少怖くても楽しもうとする市民は、少なからずいる。逆に、恐怖を忘れたり逃れるため、求めるものもある。映画や演劇などは、空襲が迫っている中での逃避として、鑑賞することも否定できない。自分では芸術を堪能するとしていても、深層ではやはり恐怖を無視することが出来ない為である。
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昭和二十年(1945年)・二月、B29約130機空襲で7万人以上罹災(25)、撃墜したB29の野外パノラマを大勢の市民が日比谷公園で見る。
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2月1日Y 日比谷公園で「B29曝し物」
  2日A 「勝利の日まで享楽お預け 停止中のの遊休施設は挙げて戦力化」
  4日T 松阪屋で東京都日用品交歓会開催し盛況
  18日A 大曲観世能舞台で都民慰安能「放下僧・鬼界島」など二十日から三日間開催

 ロッパの日記二日、「・・・外は、ビュービュー嵐のやうな風の音。ブーウと来た。八時前だ。ラヂオ『敵機一機』風が強いのに御苦労な。服着て、オーバ着て、防空頭巾被って茶の間へ。八時半前に、一機は関東東部に爆弾投下して南方海上へ退去ときいて、寝袋になって床へ半身もぐり込む。又空に爆音。・・・」と、空襲への恐怖を記している。
 三日、松阪屋で東京都日用品交歓会。午前九時の開場前から行列ができ、来訪者の多くが中高年の女性、開場と同時に陳列場に殺到という現代のバーゲンセールを彷彿させた。人気は、靴、時計、厚地のモンペになるもの、台所用品、子供の着物などであった。価格は、闇なら五百円する豪華な女物帯が五十円など格安であったが、ゲートルなど必需品は安くはなかった。
 四日、高見順の日記によれば、「映画館街にはやっぱり人が出ている」と。
 戦局は日増しに悪化、流言が増加してきた。また、このまま戦意向上を押しつけるだけでは行き詰まりを感じたのか。二日付の新聞には、「勝利の日まで享楽お預け」と出しておきながら、ロッパの七日の日記には、「娯楽の変貌は又甚しく、最近、警視庁の寺沢が、軽演劇のシミ金などを呼んで、時局がかうなったから、アチャラカを許す、大いに辷ったり転んだりしろと申し渡したと言ふことである。」
 ロッパの九日の日記に「弁当を食って、次のセットへ行かうとしてると、プーウとサイレン。然し、芝居と違って、撮影は平気で続行。」と、空襲を無視している。そして、翌日の日記では、「・・・九時四十分、プーウー。でも驚かず、オープーンへ・・・青空に、ブーンブーンと、銀色に光るB29一機、高射砲の射撃を浴びつゝ、悠々と通る。何うにもならねえのか。と皆空を仰ぐ。僕、B29といふものの姿を見たのは初めて。撮影にかゝると、又一機、今度は逆のコースで、西から南へ向って飛び行く、友軍機が追ってゐたが、悠々と去りぬ。」と、空襲を悠長に構えている。
 十一日の日記では「二時半プーと来て起される。ラヂオの情報が、今迄の『東部軍情報』をやめて、『東部軍管区情報』と長くなった。折角おなじみになった言葉を更めることもあるまいに、こんなことばかり考えている奴があるんだな。十三分で解除。又寝る。」と、空襲情報を余裕を持って観察するようになっている。
 十二日の日記は、前記したB29について「・・・日比谷公園を抜け、旧音楽堂前のB29の展覧会を見る。馬鹿な話だ。デカバチもないB29の傍に、小さな日本機が置いてある。・・・」だが、何とも言えない心境になったのであろう。
 十三日の日記には、同様な心境であろう「・・・井ノ頭公園を横切って--何と此の公園の森が伐られて、木の根ばかり、樺太の如き光景となり果てゝゐる。・・・」と、記している。
 しかし、空襲の恐怖は十六日の日記に「プーと鳴るので眼が覚める。まだ夜半かと思ったら、七時だ。ラヂオをかける。『敵小型機の数編隊は」と来た。や、それでは艦載機か、ハッとして、子供ら、母上を防空壕へ追ひ込み、僕も入る。・・・又もや、ラヂオは、小型機とB29と両方で何十機とかが来ると告げる。こりゃいかんと、あはてゝ壕へ入る。敵機らしき唸り、それに被せて、高射砲の音、さんざ響くうちに、ドカンバチンと、何処か近くへ落ちたやうな音がした。・・・大庭の伜が伝令。便所を機銃らしいものでやられてしまった、・・・ラヂオは、再び小型機五十機の編隊来ると告げた、いけません、又壕へ入る。・・・」と、やはり身の危険は感じていた。
 さらに十八日の日記では「夜半敵機頭上通過と来ては全く快眠出来ない。八時半頃起きる。壕内に一夜を明した子供ら食事中。新聞の戦果を見る。苦しい苦しい。『読売報知』の如きは、『本土再侵襲は必至、敵機動部隊一応後退か』と、何っちの新聞だか分らない標題を揚げてゐる。くさくさしちまふ。・・・」と、日本軍に対しての不満を、真実を伝えられない新聞に当たっている。
 二十一日の日記「・・・ドカン! と地ひびきのする音、爆弾だ、何処だらう、新宿か、もっと遠くだらうか--然し、もう行っちまった、又寝る。生きた心地はしない。九時まで寝る。新聞には『硫黄島に敵上陸』の大見出しで、何紙も書き立てゝいる。・・・それにしても、敵機もうるさ過ぎるではないか、こんなに、執拗に毎日何人もの人が、命惜しまず来るものだらうか、それがアメリカ国民の気魄だらうか。いやいや、これも或る個人の利益のために躍らされてゐる人々の姿ではなかろうか。敵も味方も、結局は、軍の、政治家の犠牲ではないのか。・・・七時半過ぎ、ラヂオ、海洋吹奏楽団の放送、第一が『硫黄島陸海軍の歌』といふ、呆れたな。上陸された硫黄島の歌だ。・・・」と、やりきれない気持ちを示している。
 空襲の恐怖は二十五日の日記で「ブーウーで目が覚めた。八時前だ。便所へ入り、いきんでると、空襲のサイレン。うわ、いけない。途中打ち切り、・・・外は雪ますます盛、手紙を書いてゐると、『B29らしき数目標、南方海上より東進しつゝあり、その先頭は遠州灘に向ひつゝあり、その本土到着は、約二十分後なるべし』と来た。・・・皆を急かして壕へ入った。・・・B29の五編隊、それに小型機が又別に来て、丁度頭上を、通る。バッバッといふ高射砲の音、一時は全く生きた心地ではなかった。・・・」と、空襲の対応について記している。
 その空襲は、高見順の二十七日の日記に記されている。彼は、二十五日の空襲でまだ煙の上がっている神田周辺を歩き、「焼け跡はまだ生々しく、正視するに忍びない惨状だ」と、「だが、男も女も、老いも若きも、何かけなげに立ち働いている。打ちのめされた感じではない。そうした日本の庶民の姿は、手を合わせたいほどけなげさ、立派さだった」と誉めている。その後に、「日比谷映画劇場の前を通ったが、そこでやっている東宝映画の『海の薔薇』という衣笠貞之助演出の間諜(かんちょう)映画を見ようという人たちが物すごく長い行列を作っていた」と。さらに、二十八日には浅草を訪ねて、「映画を見にきた人々で雑踏している。この、人間の逞しさ。軽演劇のかかっている小屋から、朗らかな音楽が聞こえてきた。この、生活の逞しさ」とも綴っている。
 

娯楽禁止が緩む昭和二十年一月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)263
娯楽禁止が緩む昭和二十年一月
 昭和20年(1945年)に入ると、戦局の悪化は米軍に対してだけでなく、中国でも始まっていた。しかし、軍部はまだ「本土決戦」に望みを抱いていた。国民のすべてが死ぬまで戦うというスローガン、「一億玉砕」はそれを端的に表している。
 空襲におびえる市民の心を支えていたのは、偽りの戦果、戦意向上の叱咤激励に加えて、ラジオから流れる娯楽番組や映画・演劇などであった。その日の食べ物にことを欠く毎日、着の身着のままの生活ではあるが、焼け残った映画館には長蛇の列ができ満員と、市民が大勢出かけている。特に、戦況の悪化がハッキリとしてくると、これまでの娯楽禁止が緩和され、市民のレジャー気運は高まったようにも見える。
 年が変わっても、レジャー関連の新聞記事は減少し続けた。戦果の記事は、事実をそのまま伝えていない。また、市民生活の耐久を進めようとする記事しかない。そこで、当時の状況を古川ロッパの日記を中心に紹介したい。
注・Aは東京朝日新聞朝刊・aは夕刊
  Yは読売朝日新聞朝刊・yは夕刊
  Tは東京日日新聞朝刊・tは夕刊
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昭和二十年(1945年)・一月、米軍ルソン島上陸⑥、B29白昼東京を爆撃(27)、空襲にも馴れて正月気分を味わおうとする市民。
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1月2日Y 「社頭に誓う“神風”の闘魂」明治神宮の初詣
  2日A 「父さん隠し芸・・防空壕の正月楽し」
  6日A 「禁酒もしよう、旅行も自粛、ビールは二円、入場税大衆向きも総て十割」
  9日Y 陸軍始観兵式精鋭数万、八年ぶりの宮城外苑
  23日A 「ラジオはもっと面白くならぬか」
  26日A 「四日に一度の入浴とする 男湯の日と女湯の日とする」
  26日A 「おいもは立派な兵器」

 元日の新聞Tには、国民の気持ちを引き締めるため、「この上は何れ遠からず帝都の真中に敵の爆弾が落下するであろうから、その時を待つほかあるまい」と書かれている。これまで恒例であった元日興行は、禁止されたようだ。新聞には正月らしさが皆無の中、二日付Aで「藁座敷・父さん隠し芸、工夫一つで 防空壕の正月楽し」との記事がある。正月を防空壕の中で過ごさざるをえないこと、市民の不満はないのであろうか。
 ロツパは三日の日記に、「今日は天気もよし、人出が多い。此の一日二日ブウと来ないので、そろそろ人出だ。人間てものは全く現金なものだ。渋谷から、東横へ。客はもう行列してゐる。・・・これならいつもの正月と変わりなし」と。
 四日も電車が大混雑、ロツパの東横映画劇場は大満員、「江東の新国劇も頗る良好、浅草の各座も大入りとのこと」。
 五日付新聞Aで、「遊閑者なき勤労体制 機動配置に強力な体制」と、「女子も新規徴用」「勤労義勇軍を活用」など、掛け声だけとなりそうな記事がある。
 六日付Aでは、「“戦増税”と日常の生活」「耐乏で“納税一本” 禁酒もしよう、旅行も自粛」と続く。「ビールは二円」など、入場税大衆向きも総て十割と、またも締めつけ。
 七日付Aには何と「日曜朗話集」として、「元日に「防空祝勝常会」「“肥料まき”してくれたB29」との記事。内容は、B29が落とした爆弾が肥溜めに落ち、爆発で飛び散り、肥料を播いてくれたということ。これを朗話とする感覚、ブラックユーモアをどの位の人が受け入れたのであろうか。
 ロッパの九日の日記には、「慣れるということは、全く恐い。近頃の東京都民の、空襲を恐がらないこと、又、敵機が去れば、もう忘れたかの如きのんきさ。我自らも、そうなのだが、まことに馴れは恐ろしい」とある。
 『初春一番手柄』等を公演している東横映画劇場は、九日まで大満員。翌十日は、高見順の日記によれば、銀座通りに夜見世出ており、参詣した虎の門金比羅も健在、「人出がある」と。
 正月気分が抜けたのか、ロッパの日記は、十日からは客足が落ちたことが書かれている。
 なお、高見順の十四日の日記には、「日比谷映画劇場の前へ・・・長い列」とある。
 ロッパの日記十六日には、「・・・ポーウーと来た。あれ、午前十時の来訪とは珍しい。ラヂオ『敵一機は関東地区へ侵入』と言ってる時には、もう高射砲ズドンズドン。食事する。食っていゝ、考へてゐたら可笑しくなり、ふき出した。『敵が上空にゐると言ふのに飯食ってるんだからね。』・・・」
 当時の東京の情景を、「電車が滅茶々々にこわれている。窓硝子はなく、椅子席の布がない。窓は乗客が強いてこわすものであり、布は盗んで行くのである。電車が遅いといっては、無理に破壊するのだそうだ」。十六日、清沢洌は「敵に対する怒りが、まず国内に向かっている」と思った。荒廃しているのは、人心だけではない。市内は、日中の人出はあるものの、夜になると気味の悪いように街中に全く人通りがなくなり、不吉な感じさえするようになった。
 二十三日付新聞Aに、「沖縄に又五百五十機 二日間で百五十機屠る」とある。ほかに「三空母を大破炎上 神風隊 台湾沖に出撃」など、日本軍の戦果などを連日伝えている。戦果に市民は不信を感じ始めているかもしれないと、当局も察し始めたか。そのためか、とうとう、「ラジオはもっと面白くならぬか」との記事A(23)が出る。市民は何となく戦況の変化を感じ、不安を紛らわす面白いものを求めていることは確かであろう。
 ロッパの日記二十三日、「・・・昨夜寝て間もなくである。ブーブーと急しさうなサイレン、やれやれ、ラヂオを入れる、ねむくて半分トロトロし乍らきいていたが、おなじみの『ヒト機』なので、起きる気せず、西方へ行ったといふところ迄で、あと寝ちまひ、解除を知らず。」
 二十六日付Aに、「明朗生活へ当局の配慮」「一等は十万円止まり 賞金代わりに酒、煙草も考慮」と、富籤の記事がある。
 ロッパは二十七日の日記に、「映画館の前には、長蛇の列。目下『勝利の日まで』上映中、大変な当り。だから見ろ、今回の東横は出しものが悪いのさ、いゝものやれば必ずもっと来るのさ」と、書いている。
 二十八日付Aには、「帝都にB29約七十機 重要工場被害なし」との記事。重要工場以外の被害については触れていない。
 ロッパの日記二十八日、「・・・昨日の空襲では、丸の内に大分爆弾が落ち、朝日新聞社も硝子が全部こはれた由、有楽座も危い、山水楼は炎上したとのこと、又銀座方面も被害ありたる模様、驚いたな。・・・はしゃいで、いろいろやると客は笑に飢えてゐて必要以上に笑ふ。でも、底に不安が漂ってゝ妙な気分・・・」
 ロッパの日記三十日、「・・・今日は自腹で二百円ばかり切り、僕が此の慰問を提供する。・・・田浦着、横須賀海軍航空隊へ。加藤司令と会ふ。見た目一万人(五千人といふが)の前で、久々マイクロフォンで歌ひ出す・・・」

空襲下のレジャー昭和十九年十一月十二月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)262
空襲下のレジャー昭和十九年十一月十二月
 十一月に入っても、新聞の記事は政府や軍部の都合の良いものだけ、当時の状況を古川ロッパの日記から紹介したい。
 十一月六日、「今朝の新聞で昨日の東京空襲は、B29一機襲来、投弾せずとのことでホッとした。・・・高飯村といふ土地の小学校へ着く。教室をぶっこ抜いた会場で、マイクなし、子供ばっかりの千人ばかりの前で、『歌ふロッパ』抜粋版をやる。・・・牛乳やビスケットが出たのはよかったが、肝腎の食事は、期待に反して、芋々々の芋ばかり。食事後、校庭で、東京からの疎開児童たちと一緒に写真を撮る。東京の子供たちが、一目で見分けられた。やっぱりいゝかほしてゐる。が、一緒に写真を撮っても、かなしさうに、なつかしさうに手や足をつかむのだ。こっちも涙を催した。親のところへ帰りたからう、疎開児童に東京の人の姿を見せることは罪だ。
 十五日、「・・・庭の防空壕の水をかいだすので、町会からポンプを借りて、ガチャンガチャンやってゐる。・・・戦争を、こんなに身近にしみじみと感じるのは、全く近頃のことである。今迄の何年間かは、戦争とわれ/\の間には、何の位かのへだゝりがあった。それが、今日は、もはや隣りの出来事となり、家内の出来事となってゐる。」
 二十四日、B29が111機襲来した。北多摩郡武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所、江戸川  区、荏原区、品川区、杉並区、保谷町、小金井町、久留米村、東京港などが、東京での初空襲(サン・アントニオ1号作戦)に見舞われ、死者は224人。以後アメリカ軍は十一月三十日、芝区、麻布区日本橋区葛飾区を空襲する。とうとう十一月には東京が戦場となった。
 ロッパの日記によれば、二十六日「ラヂオ、レイテ湾の戦果を告げるが、東京来襲のB29は、撃墜七機では心細い。・・・ラヂオ『敵機帝都上空にあるも空襲警報発令までは高射砲を発射せず以上』何のこったか・・・」とある。翌日は「一時近く空襲警報。国民服、ゲートル、鉄兜で座布団かぶり、一人庭の水漬け防空壕へ入る・・・ラヂオでは今日も損害軽微と言ってゐる・・・」とある。
 二十七日、ロッパは、東宝現代劇を見に東横映画劇場へ行った。芝居を「見てゝも今にもブーウと来るんぢゃないかという気がするし、芝居てものも、この当分は辛いな」。
 三十日、「帝都には敵は一機も入れない、鉄壁の陣だと誇っていた軍は、何をしてゐるのだ。ラヂオは『帝都上空』といふのに馴れてしまったのではないか。此の惨害を、何うして呉れる。レイテ湾の戦果を感謝する一方、都民は皆、軍を恨んでゐるのに違ひない。
 今朝は、新聞も来ず、郵便も来ない、人生にかういふ日を、かう度々迎へるものか。ラヂオは、今晩B29二十機位の編隊、波状攻撃で、帝都上空高々度より盲爆、数ヶ所に火災、と伝へたのみ。一機も落とせないのか。かくて東京は何うなる?
 十二月に入って、空襲は本格的に始まる。ロッパの日記は、又聞きもあるので信頼性が高いとは言えないものの、市民の心情を伝えるものでもあろう。
十二月三日、「・・・東京は今日午後又々空襲があり、七十機来たとの報に、慄然とす。七時のニュース・・・今日二時-三時、敵機来襲七十機、爆弾と焼夷弾を落とした。これを迎撃して、その十五機を撃墜せり、わが方の損害、例によって軽微とのみ。・・・」
 五日、「朝刊に、敵機十五機撃墜の戦果に、更に五機を加へ、その他三十機に損害を与へたニュース、こんなことで、ひるむ敵でもあるまい、心配は依然たり。」
 七日、「昨日の午後一時偵察機に来り、今晩は三四機が来て、焼夷弾を落し、一ヶ所に火災を生じたとのみ、先づ大したことはないやうなので少し落ち着く。」
 八日、「・・・きけば、今月七・八・九の三日間、興行物は休みを命じられた由。敵に嘲はれる、いやな政治だ。」
 十九日、「ニュースによると、今夜のは少数機来焼夷弾を落し、火災を起さしめたるも、すぐ消したといふことで、間もなく解除。」
 二十五日、「隣組から垣根・塀を取り外せといふ話が出たときいた。近隣と往来出来るやうにしろと言ふのが目的らしい。空襲時の容易には違ひなかろうが、庭などへどんどん他人が入って来たりする生活というものは、考えたゞけで、ぞっとする。日本人は何うしてかう忠義顔をすることにばかり走るのか、何卒、もう忠義なことは分かったから、自分のことだけもっとちゃんとして呉れないか。」
 二十七日、「九時のニュースは、今日の敵機中四十一機を撃墜したと伝えた。やったな、と喜んでいる九時十五分頃、ブーウと又来ました。来たぞ!・・・十時二十分頃、解除となった。」
 二十八日、「昼すぎだったか、ドドンといきなり高射砲の音がした、警報も出ないから、まさかと思ってたら、表から入って来たものが、今B29が上空に悠々と飛んでゐたと言ふ。呆れた。
 二十九日、「・・・皆顔合せれば、たちまち空襲の話、もはや闇も食もない。・・・今日より東横の正月公演前売開始、中々成績よく、行列なりし由。喜んでいる。」
 三十日、「・・・今暁の空襲で、柳橋辺りに焼夷弾落ち、火災大分ひどかった話をきく、実に、悲しい話ばかりで、やりきれない。・・・先日、新兵器による-無人機的空襲-敵本土襲撃の話をきいたが、さてはそれがほんとうだったか、と嬉しい。・・・菊田の話では、陸軍記念日のモットーは、今年は『撃ちし止まむ』であったが、来年はぐっと趣きが変わり、『明朗敢闘』となる由。又今日、海軍さんの意見でも、一月中位に、もっと娯楽は明朗なるべしといふ方針になるだらうと、いふことであった。」
 三十一日、「『では今年の放送を終ります。良年を迎へ下さい』。然し、間もなく『東部軍情報/\』と始まった。敵は京浜地区に侵入、と言ってる間に、ブルーンブルーンといふやうなB29の唸り、カン/\と退避の半鐘。高射砲ドン/\と響く。・・・ラヂオは、新年の祝詞のやうなことを喋ってゐる。それにダブって、ブーンブーンと飛行機の音だ。何たる大晦日、何たるお正月。・・・」

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昭和十九年(1944年)十一月、B29東京を夜間空襲(29)、一億憤激米英撃摧運動を受けてか、市民は空襲警報覚悟でレジャーを楽しむ。
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11月2A 浅草松竹「親分子分」他、新劇物大好評
 8日A 日比谷公会堂「神風特別攻撃隊比島沖海戦」本日特別公開
 11日Y 後楽園にて大相撲秋場所初日、観衆七千余
 20日A 秋場所八日目、初めての満員御礼
 20日A 雑炊食堂を二十四日で廃止、都民食堂に看板替え、420軒、1日55万食
 30日A 煙草一人7本で正月用も特配、酒類値上げ

 一日午後、空襲警報発令、B29が1機東京初来襲。空襲警報が解除されぬまま二日となる。五日にもB29が1機来襲。十日から後楽園で大相撲秋場所がはじまった。空襲警報を覚悟しての観衆は七千余もいた。十八日は休業。翌日、八日目は秋場所初めての満員御礼。

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昭和十九年(1944年)・十二月、七日から三日間学校は休校⑦、空襲警報が日常化するなか、正月公演の前売は中々成績よし。
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12月16日A 日没後の「遮光」は厳禁
  18日Y 餅入り小包の取り扱い中止
  18日Y 映画・演劇昼だけ、正午開館三回興行六時終了
  24日Y 壽ぐ御誕辰、御慶色溢る大内山、朝より都立中等学校生徒等行進

 東京は、空襲警報が日常化している。そのような状況下、「十万坪の錬成地」A②と豊島園の広告がある。日没後の「遮光」は厳禁と、夜間の活動は完全に制限されてしまった。十七日は浅草歳の市であるが催されたであろうか、荷風は、北風が寒く一日外出をしなかった。三十一日の新聞Aでは、エノケンの『天晴れ一心太助』の映画広告が目につく。
 

レジャーが少なくなる昭和十九年九月十月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)261
レジャーが少なくなる昭和十九年九月十月
 レジャーに関する記事だけでなく、市民生活の状況も少なくなる中で、当時の状況を探るには古川ロッパの日記を頼らざるを得ない。
九月二日、「馬鹿な役人が、マイクロフォン使用を禁じたので、先月あたりから、東京だけは、一切使用してゐない。今日久しぶりで、マイクなしで歌ってみたが、返って、心持よし、よく動けて快い。これでこそ、ほんとうの歌だといふ気がした。」
九月九日、「今日きいて、つくづくもう情けなくなったことは、糞尿汲取り人夫がゐなくなり、各家庭で糞尿の始末をすることになったといふこと。もう、此処迄来ては、ああ戦争は勝ちたいもの。」
九月十四日、「女房と子供二人は、熱海へ一晩泊まりで出掛けた。・・・東横へ行く。此処は、客がいゝが、江東へ移ったらひどいだろう。・・・」
九月十六日、「清水金一々座の石井敏が来ての話に、シミ金は目下技芸証を警視庁に取上げられて休んでいるといふ、而も、新宿松竹座出演の二日目に、見に来た警視庁の元吉といふ役人(保安課検閲係)が、清水金一を、座の表に呼び、脚本をまるめて、それで顔を打ちたる由。義憤を感ず。小役人ども、のぼせてやがるな、しゃくにさはる。」(注:清水金一 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E9%87%91%E4%B8%80
九月三十日、「・・・大宮島の玉砕ニュースが発表された由。夜の客は大満員。ニュースのことまだ知らぬのであらう、よく笑ひ、喚声をあげる。・・・玉砕ニュースが発表されたときいてから、芝居をしてゝも、そのことばかり思われて、全くやってる気がしない。一方又、父島や硫黄島へも敵機しきりに来襲するらしく、不安つのる。全く、玉砕する人の気持も、人ごとではなく思ってみる。日本よ! 起きて!」
十月一日、「江東劇場千秋楽。・・・今日はヘンな千秋楽で、昼のみ興行して夜は休み、といふ申し合せの由、座に着くと、何と大行列、こんな日でも大満員だ。フィナーレで、全員に起立して貰ひ、黙祷を捧げませうと僕。『海行かば』をボックスでやらせる。」
十月二日、「・・・芝浦の陸軍兵器本廠へ慰問、芝浦埋立地。ウィスキーを一罎呉れたが、カラフト製の『オアシス』といふイカものなので、がっかり。食堂で豚カツ等で御馳走。五時半から倉庫の中で何千人かの前で始まる。帰りに、車で築地に出て、(陸軍のガソリン車)ビールを御馳走になり・・・」
十月七日、「・・・新宿第一劇場、初日だが、何しろ宣伝不足だ、入り悪し、打込みで六七分の入り、クサる。一時開演、でもどんどん入って、軽く満員、大分立っている客もある。雨が激しく、舞台にポトポト雨漏りがする・・・」
十月九日、「・・・庭の防空壕を水浸しにしてしまひ、殆んど天井に届かん・・・二時開演、猛烈な行列・・・警視庁連見物・・・」
十月十四日、ロッパは、陸軍の慰問で歌舞伎座へ。映画漫談一席、山根寿子と愛国行進曲を合唱して、サントリー七年二本と菓子一箱の礼。新宿第一劇場に戻ると満員。「新聞に、悪い戦果のでた日は、入りが悪く、いいニュースのでた日は、入りがいゝ╶─╴一般にそういうことは言えると思う」と日記にあるが、台湾沖の大戦果は誤報。フィリピン沖の戦果も誤報連合艦隊の壊滅的な敗北であった
十月十七日、「十二時前に出る。座は、もう大行列の大満員・・・廊下に『中日に近くなると舞台での行儀が悪くなり、袖や裏のオシャベリが盛んになるといふ劇団があるさうです、うちのことことぢゃああるまいな』と書いて掲示。二回目の『兵隊』のあたまで、又出た小戦果、万歳三唱。客も戦果に馴れたか、あんまり喜びもしない
十月二十四日、「今日は防訓で、晴れたから都内は急しい、芝居も昼だけで、夜は休み。・・・ラヂオは盛んに、『訓練空襲警報』と叫んでゐる。飛行機しきりに飛ぶ。ラヂオ又叫ぶ『訓練空襲警報解除』、訓練でも解除は気持ちがいゝ。」
十月二十六日、「・・・今昼は徴用戦士招待で、(座の方は一回分損するわけ)一般客を入れない。・・・夜の部、大満員・・・」
 以上、古川ロッパの日記から見ると、東京への空襲が始まっていないことから、制約された中で市民が遊んでいる。ただ、身の危険が徐々に迫っていることは感じられる。市民が楽しめる場所は監視された劇場位しかなくなり、それでも公演している劇場は、どこも盛況であることも確かである。

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昭和十九年(1944年)九月、旅行証明書廃止①、美術展覧会中止(28)、後楽園で戦中最後の野球が行われ、また、市民のレジャーが少なくなる。
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9月日11 A「買出し、大口へくだす鉄槌」、特殊方面への大口買出しを認める
 16日A 大勝館「日本の河童」他満員御礼
 21日Y 日本野球最後の野球、後楽園で阪神産業3A対2巨人朝日
 21日Y 連休日に東鉄の旅行制限
 23日A 東横映画劇場「山雀物語」大好評
 28日A 超高速でお芝居や音楽、新橋運輸部から芸能隊繰出す
 29日Y 繰り出す火叩き、中野区八幡神社決戦秋祭

 十九日、古川ロッパは江東劇場に初日出演のため、十時過ぎに省線に乗ったが本も読めないほどの混雑。錦糸町駅を出ると、客が劇場に向かって列をなしていた。夜には防訓があるので早めに開演しようとした時、サイレンが鳴り公演中止。すぐに客を帰して、押しつぶされそうな電車にまた乗って帰宅。『波止場』『宝船』などの演し物は、翌日から千秋楽までほぼ満員であった。また、東横映画劇場のエノケン一座による『山雀物語』も大好評。大勝館も満員御礼の広告を出している。
 二十五日、ロッパの近所でお祭があった。神輿を担ぐ掛け声が「ワッショイ」ではなく「ヨイサヨイサ」と海軍式で、これが「癪にさわる」と拘っている。中野区八幡神社でも秋祭、まだ地域の祭は続いている。

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昭和十九年(1944年)十月、レイテ沖海戦失敗(24)、市民は誤報とも知らず、戦果に浮かれレジャー気運を高めていた。
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10月4日A 新橋演舞場船弁慶」大好評
  6日A 邦楽座「女の子いる波止場」大好評
  6日A 日比谷公会堂で東響演奏会「ブラームスピアノ協奏曲第一番」
  8日A 「旅客よ、もっと自粛しよう」
  21日Y 「一億憤激米英撃摧国民大会」日比谷で開催
  24日A 靖国神社秋季例祭「一億官民の神社参拝を」
  26日Y 中野区の町会で追撃旗行列

 外国映画『帰郷』が日比谷映画人形町松竹・辰巳松竹で上映日の広告A①。まだ外国映画を見ることができ、十四日付Aには評論も出ている。新橋演舞場の『船弁慶』が大好評、邦楽座の『女の子いる波止場』大好評と日比谷公会堂で東響演奏会の『ブラームスピアノ協奏曲第1番』と続く。
 新宿第一劇場ロッパの『おばあさん』と『歌と兵隊』は、初日満員、以後も満員が続く。また、三日から八日まで、軍人とその家族への労をねぎらう軍人援護強化運動で、献金芸能大会が催された。
 

遊ぶ意欲が衰退する昭和十九年七月八月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)260
遊ぶ意欲が衰退する昭和十九年七月八月
 東條内閣は、独裁的な権限で戦争を遂行してきたが、七月に総辞職。国民は、辞職の本当の理由を知ることはもちろん、新たな内閣を選ぶこともできなかった。大局的に見れば、戦争に勝ち目のないことは見えていたが、新小磯内閣は戦争をやめる決断ができなかった。戦場では戦闘を続け、敗走に次ぐ敗走を続けた。「サイパン島で日本軍戦死者4万人を超える」など、無駄とも言える戦死者を増やし、国力を消耗した。
 遊ぶことの引締め、そろそろ限界に達してきたようだ。働け、働けとの掛け声、休日をなくしても、実際に労働しなければ意味がない。「休業返上は行き過ぎ、仕事もないのに日曜出勤は時間も無駄」A(25)との記事が出てきた。それではどうするかとなると、最も緊急なこと、食べ物を求めることになり、自給のために菜園を耕作することが思い浮かぶ。
 「疎開跡に“穣り”競ふ隣組農園」A⑬、本所平川橋横川町の隣組は、七十五世帯で疎開した跡地に“勝つための菜園”作り、収穫物を配給をするとの記事がある。耕すのは姐さん被りの主婦、少しでも食糧事情を補おうとする姿を示す写真もある。とはいえ、誰もができることではないため、食べ物に困窮すれば、心ない「菜園荒らしは国民の敵」と七月A⑪・八月A(26)などの記事がある。
 また、多少の危険を侵しての買出しもある。買出しは、「大口買出しは厳重に取り締まる」八月A(31)がある一方で、「腐る薯の山、輸送力なく路上にジャガイモ」八月A(26)もある。統制が利いているようではあるものの、明らかに綻びが出始めている。
 ロッパの八月二十六日の日記には、「今日砧へ見学に来た何々海軍大佐・少佐の二人にお供して、無声も共に、自動車で渋谷の、いとう旅館へ。支那料理が北京亭から届いたが、ウイはアイデアルとニッカで、どうも辛い、でも、飲み、少し酔って」とある。この料理の食材は、どのようなルートで入るのであろうか。注(無声は徳川無声、ウイはウイスキーの略)

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昭和十九年(1944年)七月、サイパン島で日本軍戦死者4万人を超える⑨、東條内閣総辞職⑱小磯・米内内閣成立(23)、戦局の劣勢を反映するかのように、休日も遊ぶ雰囲気がなくなりつつある。
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7月2日A 富士講の再現、混合杖にすがって決戦姿、山開き
  2日A 豊島園プール広告あり
  4日A “普通夜行”に指定制、東鉄、夏の旅行制限
  11日A 菜園荒らしは国民の敵
  12日A 豊島園プール広告あり
  17日Y 共立講堂「ベンガルの嵐」盛況
  20日A 万国博入場券償還、1冊(10円券)が9円
  22日A 種まきを急げ
  25日A 休業返上は行き過ぎ、仕事もないのに日曜出勤は時間も無駄

 「富士講の再現、混合杖にすがって決戦姿」。まだ“山開き”が行われているが、登山者数は不明。東鉄は夏の旅行制限の一環として「“普通夜行”に指定制」十一日から実施。
 「『雑炊食堂』を採点する」との記事A⑬。都内の雑炊食堂のうち46軒を調べたもの、店の美しいのは百貨店内の食堂、味はともかく箸が立つ濃度の店は8軒。中には、椅子のない立ち食いの店も多く、調理用具が不衛生など、すべてを満足できたのは日本橋の百貨店の雑炊食堂1軒だけだそうだ。また、客の方も、食べ残しをする人が多く「並ぶお客も口を慎め」とあるが、不味いのであろう。ロッパの十七日の日記に、「やせたやせた、皆人々がやせて行く」ように、食料難は深刻化を増している。
 「休業返上は行き過ぎ、大増産も健民にあり」と。仕事もないのに日曜出勤していないか、体の休養にもならず時間の無駄使いであるとのこと。市民の多くは、休日に遊んでもよいという雰囲気がなくなってしまったからであろう。が、一方では、二十一日に清沢洌のように「久し振りにゴルフをやる」人もいた。

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昭和十九年(1944年)八月、学童集団疎開第一陣④、連合軍パリへ入る(25)、市民は夏らしいレジャーを忘れたようで、警報と共に閉場される映画館で過ごす。
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8月4日A 秋の院展は中止、他の団体も同一歩調か
  8日A 鎌倉で海水浴禁止
  9日A 銭湯値上げ、大人12銭小人6銭
  26日A 腐る薯の山、輸送力なく路上にジャガイモ
  26日A 菜園荒らし一ヶ月で579件
  30日ro 「東横の前売今日より、行列の好況」
  31日A 大口買出しは厳重に取り締まる
  31日A 国民酒場に“切符制”一日六万人利用

 二日、荷風は、日本橋から銀座にと歩き、飲食店で営業しているのはブランタンぐらいであるが、露店は賑やかであったと。三日、「六区の興行物警報と共に閉場したりと見え公園に接する凡ての横町より群集俄にあふれ出でゝ四方に散乱す。吾妻橋際の広場より橋の上は群集の衣服にて見渡すかぎり白き布をひろげたるが如し」と日記に記している。
 十日の断腸亭日記には「六区の興行町も薄暗く人の行来少く観音堂の周囲は真の闇なり。帰途地下鉄に乗らんと松屋の建物に入る東武電車より降り来る人々群をなせり。老若男女一人として野菜の荷を負はざるはなし」と。続いて、「虎の門にて地下鉄より町に出るに金比羅の縁日にて夜も早や十時過なるに町の片側に植木屋の店連りて涼みながらに遊歩するもの尠からず・・・都人の風懐よろこぶべし」とある。
 「鎌倉で海水浴禁止」、これは軍事上からのもので、レジャーを禁止したわけではない。地元民及び地元の各種学校は、江の島を除いて警察の許可が必要である。夏休みや納涼など、夏のレジャーに関する記事は皆無。あるのは、新橋演舞場『逃げた鶯』が好評の為続映Y⑲、新宿第一劇場の『瞼の母』A好評など、広告だけ。二十七日、ロッパは「ドイツは、いよいよ娯楽を全面的に封鎖したとのニュース。日本は、そこ迄行っちゃいない。とは言うものゝ、又役人どもが、すぐにドイツの真似を」と心配した。
 

それでもレジャーを求める市民・昭和十九年五月六月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)259
それでもレジャーを求める市民・昭和十九年五月六月
 市民への制約や禁止などが続々と続いていても、楽しむところがあちこちに残っており、東京は魅力ある街であった。特にレジャーは、制約が厳しくなればなったで、市民は順応し、買出しまでも楽しみにしてしまう強かさを持っていた。なぜ戦況に関心を向けなかったのであろうか。それは、朝日新聞の五月の一面に記された戦闘に関する見出しを読めば、無理もないと思われる。
五月一日には、「パレル北方進出 敵背後を脅威 戦車隊も敵陣深く突入」。
  二日、「寡勢、敵艦隊を撃破 バリ島沖 ソロモン等に偉動」。
  三日、「空母一を撃破 敵の卅数機を撃墜」。
  四日、「鄭州許昌攻略」「潁上も奇襲占領」。
  五日、「河南の大殲滅戦 敵六万を蹂躙」。
  六日、「仇敵撃滅に邁進」「臨汝、郟県を攻略」。
  七日、「戦区の強化に狂奔 華北奪還の夢」。
  八日、「登封県城に進出 敵七万を包囲」。
  九日、「防衛陣地を突破 洛陽の外郭へ」。
  十日、「陸海軍、四月中の航空戦果 屠る七一六機」。
 十一日、「登封を占領 一部は伊陽に到達」。
 十二日、「伏牛山脈中に完封 十個師殲滅」。
 十三日、「京漢全線の打通成る」「湯軍の主力潰滅」。
 十四日、「中支軍、猛進撃 第五戦区深く突入」。
 十五日、「洛陽八キロに迫る」。
 十六日、「荒鷲、遂川飛行場を猛攻 四十五機以上屠る」。
 十七日、「魚雷艇群へ突撃 必殺の先制、六隻を屠る」。
 十八日、「嚴たりラバウル要塞 不動の堅陣錬磨の精鋭」。
 十九日、「パレル飛行場砲撃 空陸一斉に急進撃開始」。
 二十日、「白兵戦で猛攻撃」「南に北に精鋭の奮戦 囮で敵機を翻弄」。
二十一日、「ウラウ(ニューギニア)上陸の 敵に潰滅的打撃」。
二十二日、「重砲パレル猛撃」「一斉攻撃の火蓋」。
二十三日、「敵機動部隊 南鳥島を空襲 卅二機以上を撃墜す」。
二十四日、「パレル周辺敵廿師 全くの潰滅状態 死傷八千、我が鹵獲莫大」。
二十五日、「洛陽全く孤立す 敵屍、俘虜四万四千余」。
二十六日、「洛陽城を完全占領 敵屍、俘虜六以上」。
二十七日、「大鳥島に空襲 卅機撃墜、二機撃破」。
二十八日、「河南の戦果に栄光 俘虜六千二百卅 貴き犠牲、我戦死八十名」。
二十九日、「パレル残存陣地 最高点制圧」「ビアク島空襲頻り 三日間に延二百十余機」。
 三十日、「北方戦線 荒天狙ふ執拗の敵機」
三十一日、「コマヒ激闘再開 敵の反撃を悉く粉碎」。
 以上の見出しからわかることは、揺るぎない攻勢の戦果を伝えており、それゆえ、市民は戦争を身に迫るものと感じていない。なお、月末の方になると潮目の変わり始めることを感じる記述が出てくる。六月には、ノルマンディ上陸成功とドイツの劣勢が明らかになる。日本も、マリアナ沖開戦で空母と飛行機の大半を失う等、苦境に入るが、国民には事実が伝えられていない。

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昭和十九年(1944年)五月、国民酒場開設⑤、大相撲は後楽園スタンドをはみ出しすほどの大入り。
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5月1日Y 鉄獅子部隊、帝都行進、五百輌の大戦車部隊
  1日A 料理店の「夕食は4円まで」、2円以下であったものが実情を促して
  2日A 体育も、空の決戦へ備え野球・庭球を返上
  8日A 大相撲夏場所初日、満員の後楽園
  13日ro 「『芝居道』は・・各館共大満員・・芝居も、前売・指定席制度・・格座とも好成績」
  15日A 夏場所、日曜日は5万人を容れる大スタンドがはみ出し初日以来の大入
  16日A 料理店の等級実施(一から四等まで)
  19日A 「工場娯楽は裃を抜いて」「名指しを待つ芸能人」
  24日Y 千秋楽、国技館時代より多い十日間で四十万
  29日A 外苑競技場で航空体育大会、観覧席に輝く母の瞳、観戦部隊十万

 七日、高見順は、「大森の疎開の様子を見に行く・・・惨憺たり。商店街へ出る。理髪店、古本屋、映画館のほかは、閉店。開けているところも、品物がなく閉店と同じ。惨憺たり」と。市内のかつての商店街は、疎開させられどこも廃墟のようになっていた。
 七日は大相撲夏場所初日、後楽園は満員。十四日の日曜日は、5万人を収容するという大スタンドがあふれるほど、初日以来の大入り。この相撲人気は、他に楽しめるレジャーが少なくなったためである。なおそれなのに、「きのふも千秋楽休場 大相撲夏場所千秋楽の取り組みは十八日も中止となった。」A⑲と、相撲も大幅に制限された。では力士はどうしたか、「夏場所千秋楽とともに二葉山、玉の海一門の力士は・・・造船所に・・・勤労奉仕」A⑲などと、力士たちはあちこちに勤労奉仕出向いていた。
 この月の市民が参加できたレジャー的な大きなイベントは、他に二十八日の航空体育大会ぐらいしかない。ただ、このイベントも動員された人がおり、外苑競技場の「観覧席に輝く母の瞳 観戦部隊十万」も集まったとされている。
 「ガラ空き列車」A⑩と、旅行制限が徹底したらしたのは結構だが、少なくなれば良いというものではないとの記事。それでいて、三日も駅に並んだが切符が買えずに用事を断念したとの声A⑨もある。
 厳しい制限が進むなか、レジャーがストレスを増すような例も報告されている。ある工場娯楽の会場では、最前列の女工さんたちが漫才師が一言しゃべることに笑うのを、後に座っている工場長や幹部が「おかしくもないことをそんなに笑うな」と釘を刺す。そのうち笑いが途切れ、途中から静まってしまう例を、「工場娯楽は裃ぬいで」と指摘する。せっかくのレジャーが逆効果、かえって欲求不満になりそうだ。

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昭和十九年(1944年)六月、ノルマンディ上陸成功⑥、マリアナ沖開戦で空母と飛行機の大半を失う⑲、ロッパの十八日の日記によれば「この頃の市民は、おもしろいことに飢えている」。
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6月9日A 浅草松竹 榎本健一「突貫駅長・明日赤飯(あしたのおまんま)」3.4円、1.58円
  11日A 激増する定期旅客、東京では四人に一人は必ず省線に乗る
  12日Y 神田の町会で防空体育会
  13日A プール8カ所開場(九時~十八時、十八時以降は団体専用、一人10銭)、ボート場3カ所開場
  13日Y 「戦意昂揚 まず明るい配給」夏祭も復活
  18日ro 「銀座へ出る。実に何もない。開いている店の方が珍しい
  21日A 日比谷公会堂の日独交換大音楽会、入場券売切
  24日A 「“ウイスキーの国民酒場”新設」来月一日開館、国民酒場は158軒
  26日A 神宮プール開き

 日本人は出歩きが多すぎる、特に東京では毎日、四人に一人は必ず省線に乗ると。四月から旅行制限したものの、定期券利用者が増えて効果があがらないらしい。千葉県の買出し取締りによれば、まだ一日1万貫(37.5トン)を下らぬジャガイモが都内に入っている。買出しは依然続いており、買出しの食料は摘発されたジャガイモだけでない。
 十日に生ビール専門の15軒を含む、23軒の国民酒場が増設された。七月一日からウイスキー専門の国民酒場32軒が新設される。ウイスキー1杯60CCの値段は1円、一店一日250人までしか飲めない。市内の国民酒場は、合わせて158軒となる。なお、酒場利用者は一日約6万人もいて、いつも行列をしなければならなかった。そこで、行列しなくても飲めるように、八月には「国民酒場に“切符制”」が導入される。が、あまり効果はなかったようだ。
 

花見どころではない昭和十九年三月四月の市民

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)258
花見どころではない昭和十九年三月四月の市民

 砂糖の配給が無くなる。甘いものを食べる楽しみは、映画や演劇などの娯楽より強烈に欲するものである。その楽しみさえ、ままならない状態になった。酒については、配給が「一世帯に月二合(五合から) 家庭用麦酒は据え置き」A⑪となる。
 料亭・待合など店閉め、歌舞伎座・帝劇・日劇等が閉鎖、新聞の夕刊廃止など、廃止できそうなものは廃止する。全国で店閉める料亭・待合が九千八百軒もある。ほぼ一万軒であり、よくそれまで営業していたものだと。それに伴って、芸妓・女給が約一万八千人も転職することになるそうだ。    
 四日の朝刊には、「歴史を飾る料亭も 寄宿舎や事務所に 頼もしいこの転進ぶり」との見出しがある。とうとう伝統の食文化も断絶、とは言っても、庶民は信じていたであろうか。真偽の程はあるものの、高級軍人らは何不自由なく、美味しい料理を食べていたと噂していた。あるところには、何でもあって、そのおすそ分けを貰っていた人のいたことも確からしい。
 その一方で、「郵便局も日曜無し」、電車も「日曜も平日通り」、と休日をなくしている。形ばかりの対応、実質が伴わなければ意味のないことが抜けている。
 六日の朝刊、「前線の奮戦に御感一入り」「畏し陸軍作戦畫を天覧台覧」さらに「栄光に輝く廿九作品」が見出しで続く。戦争記録画は、従軍画家などによって描かれたものである。戦争行為を賛美するとされるこれらの作品、その評価はいまだに確立をしていない。

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昭和十九年(1944年)三月、砂糖の家庭配給停止①歌舞伎座・帝劇・日劇等閉鎖①、新聞の夕刊廃止⑥、高級劇場が閉鎖されたが、大衆娯楽の映画・演劇は観客が激増
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3月1日A 「きょうから休業 各劇場は早くも閉鎖」
  4日A 「あす店閉める料亭・待合、九千八百軒、芸妓・女給約一万八千人は転業」
  4日A 買出し一斉取締 何ぞ四万人で十二万貫
  6日A 東京都武装大継走、日比谷公園を帰着点として12キロ、二千人の青少年参加
  6日A 「享楽追放、初の明るい日曜」
  10日Y 多摩川園で「鹵獲兵器展」蓋あけ
  11日Y 陸軍記念日 軍国絵巻、靖国神社から宮城前へ
  18日A 「急にふえた『切符の行列』 やめよう“今のうち”の旅行」
  25日A 旅行制限、通勤専用の列車八十一本を増発、急行は十七本を廃し
  31日A 「緊急旅行は確保“前日申告制”も実施」
                                                
 三日、早朝から終電まで買出しの取り締まりが行われた。主要各駅での買出し者は4万人、その内4千人が厳重説諭、悪質なものは検束。意外と大目に見ていると思ったら、4万人の8割が女性、それも工員や勤め人の妻であったという。担いでいる量も一人当たり2~4貫(7.5~15キログラム)、それでも全体では12万貫(450トン)にも達する。東京に入荷する蔬菜が一日に22~23万貫しかない、買出しがこれだけあれば「野菜が少ないはず」だと。
 高級劇場の閉鎖は五日からと決められていたが、松竹と東宝系の劇場は、一日から休業した。8劇場の休業によって、都電が2百輌少なくてすみ交通の足が緩和されるとのことA②。その根拠は、8劇場の収容人員が15,975人、興行は昼夜二回あるところもあるから約3万人の交通量が減るとの計算。実際は、算出したような数字にはならなかったと思われる。それより、8劇場だけで毎日1万人を超える観客がいたことのほうが感心する。
 「享楽追放」後の日曜、五日の市内の状況は、「閑散な百貨店」に続き、銀座通りも人通りが少なく、築地の料理店も待合もひっそり。ただ、浅草は、「大衆娯楽街には爆笑」と、映画も演劇も驚くほどの人出であった。
 旅行制限が決まると、「“今のうち”の旅行」が急にふえ、『切符の行列』が駅にできた。切符の売出しは午前四時半から、両国駅では、販売を初めても列は長くなることがあっても縮まらず、正午になっても1千人の行列が続いた。「旅行制限」A(25)は、「緊急旅行は確保」と、重要旅行者の乗車券だけは優先確保するという“前日申告制”を実施。四月からは、近距離でも証明書がなければ列車に乗れなくなる。

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昭和十九年(1944年)四月、国民学校児童に一食七勺の給食開始①、「“花より防空”用意はよいか」と花見を牽制するが、市民は食べることが大変で花見どころではなくなった。
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4月2日A 明るくあけた“旅行制限”第一日、ガラ空き早朝列車
  4日Y 巨人勝利で「戦う日本野球」後楽園で開幕
  8日A 空襲警報一下「喫茶店は救護所」早変わり
  11日A “足の制限”自動車も遊覧併行線取止め
  13日A 映画興行は平日3回、日曜・祭日は4回許す
  24日Y 靖国神社臨時大祭、招魂の御儀
  26日A 空地はもうないか、今が種子の蒔き時だ
  28日A 催物入場税簡素化、入場料二円以上2割
  29日A 五月人形の広告
  30日A 観兵式、代々木練兵場に拝観の民草十数万
  30日na 「銀座の表通りに屋台店が、ずらりと」

 一日の新橋演舞場、『さんまと兵隊』『てのひら』初日八分の入り。明治座幸四郎仁左衛門)、邦楽座(新生新派)も開場するが、惨憺たる入りと。この頃はロッパも愚痴るほど入りと客種が悪い、十四日には「幕切、拍手なし、初めての現象。客席に子供が駆け回って鬼ごっこしてる始末」と。さらに、二十四日の靖国神社遺族招待では、『さんまと兵隊』は「まったく受けつけず、弱っちまい、全然スピードを落とし、噛んで含める式に演る」と。芸能は、軍関連への慰問が多くなり、役者も試練を迎えることになる。
 「“花より防空”用意はよいか」A③と、花見を牽制。「桜も微笑む無心の歓声」や「前線に一目見せたい花便り」A⑰と写真はあるが、花見の賑わいに関する記事は一切ない。
 警戒警報発令中の七日、東京料理飲食業組合普通喫茶部の一同は、防空服に身を固めて警視庁保安課を訪れた。市内にある千余軒の喫茶店は、防空警報発令と同時に営業停止、お客を外に避難させ、直ちに「臨時救護所」を開設、女店員に死傷者の応急救護にあたることを、申し入れた。要は、喫茶店の営業を残そうとする苦肉の策である。
 高見順は、二十二日に吉原で「営業停止令をうけた待合のうち、いわゆる場末の十七ヶ所だけが再開を許され・・・玉の井等の私娼窟と同じく無税・・・吉原の公娼は、十二割の税」。「再開は産業戦士の『慰安』という見地からであろうが、実際・・・戦争景気の重役連中の遊び場・・・ほんとうの産業戦士には、『只今満員で・・・』とことわっているらしい」、「十七ヶ所の再開は私娼奨励ということにもなる。花柳病の蔓延が恐れられる」ということを聞いた。
 旅行制限によって、混雑がかなり解消されていると思われるのに、「自動車にも遊覧併行線取止め」と「足の制限」。対象は、遊覧や買出し、またこれを助長すると認められる路線。市民の移動は容易ではなくなっていたが、天長節の観兵式には、代々木練兵場に「拝観の民草十数万」が集まったと。
 買出しにブレーキをかける一方、「空地はもうないか、今が種子の蒔き時だ」と食料生産を奨励。永井荷風も五日、「後庭に野菜の種をまく」。清沢洌は、二十七日「畠をやる。ほとんど空閑地のないまで、隅から隅までものを植えた」。新聞には、「食べられる若葉、野菜入りお粥」A(29)と、食べられるものは何でも食べろと言わんばかり。ただし、その調理になんと1時間以上もかかるらしい、どのくらいの人が挑戦したか。
 現代、北朝鮮の困窮を他人事としているけど、戦時末期は首都の東京でさえ、雑草まで食べていたことを忘れてはならない。