遊ぶ意欲が衰退する昭和十九年七月八月

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)260
遊ぶ意欲が衰退する昭和十九年七月八月
 東條内閣は、独裁的な権限で戦争を遂行してきたが、七月に総辞職。国民は、辞職の本当の理由を知ることはもちろん、新たな内閣を選ぶこともできなかった。大局的に見れば、戦争に勝ち目のないことは見えていたが、新小磯内閣は戦争をやめる決断ができなかった。戦場では戦闘を続け、敗走に次ぐ敗走を続けた。「サイパン島で日本軍戦死者4万人を超える」など、無駄とも言える戦死者を増やし、国力を消耗した。
 遊ぶことの引締め、そろそろ限界に達してきたようだ。働け、働けとの掛け声、休日をなくしても、実際に労働しなければ意味がない。「休業返上は行き過ぎ、仕事もないのに日曜出勤は時間も無駄」A(25)との記事が出てきた。それではどうするかとなると、最も緊急なこと、食べ物を求めることになり、自給のために菜園を耕作することが思い浮かぶ。
 「疎開跡に“穣り”競ふ隣組農園」A⑬、本所平川橋横川町の隣組は、七十五世帯で疎開した跡地に“勝つための菜園”作り、収穫物を配給をするとの記事がある。耕すのは姐さん被りの主婦、少しでも食糧事情を補おうとする姿を示す写真もある。とはいえ、誰もができることではないため、食べ物に困窮すれば、心ない「菜園荒らしは国民の敵」と七月A⑪・八月A(26)などの記事がある。
 また、多少の危険を侵しての買出しもある。買出しは、「大口買出しは厳重に取り締まる」八月A(31)がある一方で、「腐る薯の山、輸送力なく路上にジャガイモ」八月A(26)もある。統制が利いているようではあるものの、明らかに綻びが出始めている。
 ロッパの八月二十六日の日記には、「今日砧へ見学に来た何々海軍大佐・少佐の二人にお供して、無声も共に、自動車で渋谷の、いとう旅館へ。支那料理が北京亭から届いたが、ウイはアイデアルとニッカで、どうも辛い、でも、飲み、少し酔って」とある。この料理の食材は、どのようなルートで入るのであろうか。注(無声は徳川無声、ウイはウイスキーの略)

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昭和十九年(1944年)七月、サイパン島で日本軍戦死者4万人を超える⑨、東條内閣総辞職⑱小磯・米内内閣成立(23)、戦局の劣勢を反映するかのように、休日も遊ぶ雰囲気がなくなりつつある。
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7月2日A 富士講の再現、混合杖にすがって決戦姿、山開き
  2日A 豊島園プール広告あり
  4日A “普通夜行”に指定制、東鉄、夏の旅行制限
  11日A 菜園荒らしは国民の敵
  12日A 豊島園プール広告あり
  17日Y 共立講堂「ベンガルの嵐」盛況
  20日A 万国博入場券償還、1冊(10円券)が9円
  22日A 種まきを急げ
  25日A 休業返上は行き過ぎ、仕事もないのに日曜出勤は時間も無駄

 「富士講の再現、混合杖にすがって決戦姿」。まだ“山開き”が行われているが、登山者数は不明。東鉄は夏の旅行制限の一環として「“普通夜行”に指定制」十一日から実施。
 「『雑炊食堂』を採点する」との記事A⑬。都内の雑炊食堂のうち46軒を調べたもの、店の美しいのは百貨店内の食堂、味はともかく箸が立つ濃度の店は8軒。中には、椅子のない立ち食いの店も多く、調理用具が不衛生など、すべてを満足できたのは日本橋の百貨店の雑炊食堂1軒だけだそうだ。また、客の方も、食べ残しをする人が多く「並ぶお客も口を慎め」とあるが、不味いのであろう。ロッパの十七日の日記に、「やせたやせた、皆人々がやせて行く」ように、食料難は深刻化を増している。
 「休業返上は行き過ぎ、大増産も健民にあり」と。仕事もないのに日曜出勤していないか、体の休養にもならず時間の無駄使いであるとのこと。市民の多くは、休日に遊んでもよいという雰囲気がなくなってしまったからであろう。が、一方では、二十一日に清沢洌のように「久し振りにゴルフをやる」人もいた。

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昭和十九年(1944年)八月、学童集団疎開第一陣④、連合軍パリへ入る(25)、市民は夏らしいレジャーを忘れたようで、警報と共に閉場される映画館で過ごす。
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8月4日A 秋の院展は中止、他の団体も同一歩調か
  8日A 鎌倉で海水浴禁止
  9日A 銭湯値上げ、大人12銭小人6銭
  26日A 腐る薯の山、輸送力なく路上にジャガイモ
  26日A 菜園荒らし一ヶ月で579件
  30日ro 「東横の前売今日より、行列の好況」
  31日A 大口買出しは厳重に取り締まる
  31日A 国民酒場に“切符制”一日六万人利用

 二日、荷風は、日本橋から銀座にと歩き、飲食店で営業しているのはブランタンぐらいであるが、露店は賑やかであったと。三日、「六区の興行物警報と共に閉場したりと見え公園に接する凡ての横町より群集俄にあふれ出でゝ四方に散乱す。吾妻橋際の広場より橋の上は群集の衣服にて見渡すかぎり白き布をひろげたるが如し」と日記に記している。
 十日の断腸亭日記には「六区の興行町も薄暗く人の行来少く観音堂の周囲は真の闇なり。帰途地下鉄に乗らんと松屋の建物に入る東武電車より降り来る人々群をなせり。老若男女一人として野菜の荷を負はざるはなし」と。続いて、「虎の門にて地下鉄より町に出るに金比羅の縁日にて夜も早や十時過なるに町の片側に植木屋の店連りて涼みながらに遊歩するもの尠からず・・・都人の風懐よろこぶべし」とある。
 「鎌倉で海水浴禁止」、これは軍事上からのもので、レジャーを禁止したわけではない。地元民及び地元の各種学校は、江の島を除いて警察の許可が必要である。夏休みや納涼など、夏のレジャーに関する記事は皆無。あるのは、新橋演舞場『逃げた鶯』が好評の為続映Y⑲、新宿第一劇場の『瞼の母』A好評など、広告だけ。二十七日、ロッパは「ドイツは、いよいよ娯楽を全面的に封鎖したとのニュース。日本は、そこ迄行っちゃいない。とは言うものゝ、又役人どもが、すぐにドイツの真似を」と心配した。