太陽暦が始まる明治六年

江戸・東京庶民の楽しみ 102
太陽暦が始まる明治六年
一月徴兵令/十月征韓論西郷隆盛ら下野/十一月内務省設置
・改暦がもたらした大混乱
 明治五年十二月三日が突然、明治六年正月元日となったため、庶民は大混乱に陥ったものと推測される。改暦が布告され、市中に知らされたのは、十一月の半ばに入ってからである。庶民が改暦を周知し、理解したのはそれからで、初めのうちはどういうことになったのかなかなか実感できなかったのではないか。なにしろ、気づいた時には、正月まであと半月もなかったのだから。
 まず、当時の勘定は盆と暮れであったから、大晦日がなくなってしまうと、集金が満足にできない。それに、暮れには正月を迎えるための買い物をするが、突然、正月がくることになったために、それもできない。また、一番の稼ぎ時であった「暮れ」がなくなってしまったことによって、正月用品を買うことさえままならない人も出てきた。ともかく、本来あるべき十二月が、突然消えてしまったことで、狐につままれたような気分になった人が大勢いたようだ。大方の庶民は正月の用意もままならず、社会的にも認知されないまま行われた。たとえ、表面的な正月の飾りつけや挨拶は行われたとしても、気分は乗らなかっただろう。それまで、忙しい暮れがあって、その中の色々なことにけじめをつけて新鮮な気分で正月を迎えていた。この江戸時代から続いた習慣がなくなったことによって、新年とはいっても、実質、あまりおめでたい気分になれなかったのだろう。また季節も、これからまだまだ寒くなるという時期で、新春を祝うという気分にはほど遠かった、と思われる。
 そこで、このような味気ない正月を迎えた明治六年、政府は旧暦の正月元日(新暦の一月二十九日)を神武天皇即位日という祝日に定めた。これによって人々は旧正月を祝うことができることになった。現在でも、地方によっては旧正月(月遅れの正月)を祝うところがある。政府は翌年は神武天皇即位日(旧暦の一月一日)を名称を紀元節とし、二月十一日とした。
 しかし、この新暦は庶民の間では不評で、なかなか浸透しなかった。たとえば、江戸時代のベストセラーであった暦(こよみ)、明治になっても旧暦の暦は五百万部も売れたのに、新暦なってからの売行きは半分くらいに減少した。この新暦の不人気は長く続き、明治七、八年になっても新暦の売れ行きは増加しなかった。たかが暦とはいっても、生活習慣を変えるということは、非常に大変だということがわかる。
太陽暦になっても気分は旧暦
 そのようなわけで、暦は新しくなっても、人々の行楽活動は旧暦にしたがって行われるものが多く、江戸の気分はまだ色濃く残っていた。政府は、そうした人々の気持ちを察したのか、旧暦の元旦を神武天皇即位日として祝日に定めた。これによって、人々は一月遅れで、本当の正月を味わうことができた。そしてこれは、いわゆる旧正月として今も続いている。
 開帳は春を待って三月から始まったが、花見は当然のことながら四月にならなければできなかった。この年の上野の花見は、前年にも増して多くの茶屋が並び、賑わいを増した。また、開帳も盛大に繰り広げられて、特に深川永代寺での成田山不動尊の開帳には、茶屋や食堂などが600軒、見世物が18軒も出されている。開帳には、見世物がつきものであったが、この年の見世物はあちこちで数多く興行された。
 その中には、四月末頃から催された銃剣会があった。幕末の剣豪、榊原健吉が誰にも顧みられなくなった武術にもう一度光を当てようと企画したものである。趣向も講釈師の宝井馬琴などが張りのある声で進行役を演じ、開演を知らせる鳴り物もホラ貝から太鼓に変わった。ところが、これが見世物として意外なほどの大当たりを取り、浅草左衛門町河岸、五月には表神保町、猿若町等、六月にはさらに多くの場所で興行された。種目も、剣術に加えて柔術馬術、鎖鎌、薙刀など様々な武術が、型を披露したり、試合形式をとるなどして見世物に加わった。当初はさすがに武術らしい厳しさがあったが、何度も続けて見ればさすがに飽きられた。すたれはじめると他の見世物と同様、堕ちるのも速かった。女性の長刀を相手にしているくらいは良かったが、観客の興味をつなぐためエログロを売り物とするいかがわしい剣術ショーと化し、やがて、姿を消した。
・庶民の好みは変わらない
 招魂社祭礼は、新暦になっても同じ五月に催され、ブスケはそれを見ている。一日目は、天皇が親宰し近衛兵が参列して行われる宗教儀式で始まる。続く競馬は一日中続くが、馬場が狭いこともあって、本場イギリスの競馬とは比べものにならないものであった。ブスケの関心はむしろ、馬場の周りに設けられた簡単な桟敷の観衆の方に向けられた。「人々はそこに積み重なり、下にもぐり込み、鳥がとまり木にとまるように並ぶ。人々は木に登り、もはや人間の頭でできた壁だけしかつづいていないといった具合になる。時々、重さのために骨組がこわれ、恐ろしい混乱が生じ、そこから多くの者がちんばをひいてでてくる」と、当時の凄まじい観覧状況が見えてくる。また、それらの庶民見物から離れた場所に、昔の大名や高級官吏たちが着飾った妻や娘とともに座っていたという記述もある。
 二日目は、真昼間、城の高台から風変わりな様々な色のでる花火が打ちあげられている。煙の花束からは、紙製のパラシュートや飛魚、公家の冠などとともに、西欧人なら羞恥を感じるようなものまでが飛び出した。三日目の相撲は、男性、特に兵隊が熱狂的に好むが、婦人にはあまり魅力の有るものではないように、ブスケは感じている。当時の日本人の娯楽は、西欧人の目には全く異質なものと映ったようで、特に庶民の行動は理解しがたいものだった。ブスケは、見すぼらしい恰好だが上流階級よりもむしろ楽しげに遊ぶ庶民、またそうした人々のあっけらかんとした性感覚など、当時の庶民の生き生きとした様子を記している。
 江戸時代と同じような見世物としては、回向院に活人形の化け物(約9m大黒天の巨像)が出ている。下谷元おなり道東側裏で、手妻軽業綱渡りの入る歌舞伎狂言が芝居として興行されている。また、川崎大師では、虎と豹の見世物が出現。覗きからくりは、年が明けても開帳などで催されていることから前年来の人気が続いているものと思われる。新しい見世物としては、浅草金龍山境内で、電気見世物と銘打った、水樽のなかに電気を通して、樽底に黄金を置き、それを鉄箸にて挟み取らせるというような興行も行われた。秋になると、芝山内茶店の庭に菊の造物がでるなど、他にもたくさんの見世物が出された。なお、それらの中には、この年、東京府が禁止した不具者の見世物もひそかに続けられていた。
 暦が変わっても、七夕は七月七日に行われた。とはいえ当時の人にとっては、七夕は長らく秋の気配を感じる行事であったわけだ。それが季節外れの七夕に変わってしまって、おそらく気分ものらなかったのだろう。斎藤月岑は、『武江年表』に「短冊竹の上に立つる甚だし」と書いている。季節に対応した方がよいと考えられたのか、六月の日枝神社祭礼は七月に変更。大川の花火も七月にしてかえって賑わったように、旧来の日付にとらわれず最適なシーズンに移行している。
 十月、流行しているウサギの飼育数が調査された。市内で91,418羽、飼育人23,286人であった。飼育人の内訳は、華族42人、士族2,703人、僧侶4人、平民20,537人となっている。ウサギブームは、悪徳商人が不良外人と結託して、一儲けしようと企てられたらしい。禁止したが、流行が止みそうにないもので十二月、一羽に一円を課税した。それでブームは一時鎮静するものの、翌年にはまた再発した。

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明治六年(1873年)の主なレジャー関連の事象
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1月○官令、五節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)を廃止神武天皇即位・天長節を祝日に
1月○神武天皇様御即位を以て紀元と定め、祭典執行する
1月H蠣殻町有馬邸へ水天宮を遷座、連日参詣人著し、毎月5日は祭日/郵便報知新聞
2月○四谷荒木町、本郷春木町、深川富岡町門前仲町、芝新堀町等に狂言芝居興行の免許
2月H両国西小路の芝居(中島座、喜昇座)は取り払い
2月B浜町一丁目に梅園、茶亭設け遊観客を招く/武江年表
3月B浅草寺町経王眼病守護日朗上人像、上野慈眼堂、谷中大円寺瘡守薬王菩薩の開帳
3月B上野花見の頃、山内茶屋舗、去年よりも多数出店する
3月○数寄屋橋門櫓の取り壊し布告、以後、各城門櫓が取り壊される
4月B深川永代寺で成田山、小石川白山大乗寺鬼子母神愛宕下鏡照院本尊身代不動尊の開帳
4月B大川端川口橋の西に池鯉鮒明神観音堂が営まれ参詣人多数
4月B小網町二丁目小あみ稲荷祭礼、飾り物あり、参詣多数
4月B新大橋西詰を菖蒲町と呼び、水天宮や中島座が移される
4月B撃剣会で剣術や柔術馬術試合興行する、府はその後禁止
5月B回向院で高野山弘法大師開帳、参詣多数、活人形化け物等見世物が多数でる
5月B馬喰町北郡代屋敷跡で鈿女命秋葉合祭の社建立、あづま狂言芝居(実は歌舞伎)興行
5月B筋違橋御門内広場、覗きからくり等の見世物ができる
5月T浅草境内の写真師、夜間でも撮影でき来客多し/東京日日新聞
5月○東京府、五公園設立の計画を提出
6月B高皇産尊等を芝山内へ移す際、旗を立て車をひき囃子を入れ沿道が賑わう
6月○上野広小路の麦湯店許可/東京市史稿
6月H両国川開きに特別列車
7月T第六大区小八区北本所表町等に水泳道場開設
7月B大川で花火、水陸ともに賑わう。橋下は水菓子船・影芝居など流れ、橋上は麦湯・甘露水・氷水店連なり/+新聞雑誌
7月B松平下総守邸跡に伊勢大神宮建立、山造り松桜植え茶亭補修し、後に見世物場となる
8月B連雀町新町屋で繰芝居興行
8月S暑中氷店、東京に普及/新聞雑誌
9月B本小田原町安針町水神祭礼、淡路町二丁目善神王宮祭礼
9月B芝山内茶店の庭に菊の造物できる
9月B新井村梅照院薬師如来開帳
9月S寄席の手踊り禁止
10月○市内の兎9万余羽、飼育者2万3千人余
11月B招魂社御祭礼、競馬や相撲の催しあり
11月B天長節、酒や食物が下賜され、これより祝日に日の丸の国旗を出す習いとなる
11月E守田座が新聞記事を脚色した世話物を初演する/日本演劇史年表
12月○東京府、貸座敷渡世規則・娼妓規則・芸妓規則を制定する
12月○東京府、飼育ウサギに税金を課す