信心に託つけた 遊びを見直す

江戸庶民の楽しみ 85
信心に託つけた 遊びを見直す
  現代に比べると江戸時代は、閉塞した社会だと思いがちだが、遊びに関しては意外に自由で発展性があった。江戸っ子は、時間を持てあますこともなく、遊びをより豊かなものにしていった。彼らが日常、追い求めた遊びには、現代に十分通じるものがありそうだ。江戸の庶民の遊びがどのように移り変わっていったかを見ながら、これからのレジャーを考える際のヒントを探してみたい。
  江戸時代の初期(十七世紀の始め)、国民の大半を占めていた農民は、どんなことを日々の楽しみとして暮らしていたのだろうか。当時は、労働生産性が低くいため、人々は長時間働かなければならなかった。そのため、余暇を楽しむ時間はあまりなかったと、言われてきた。
 また、触書からも想像がつくようにお上の目も厳しく、おおっぴらに遊び回るというわけにはいかなかった。が、それでも彼らは、表向きは信仰や年中行事という体裁をとりながら、その実、けっこう、日常生活では望めない解放感や高揚感を味わっていた。そして、それが当時の下層階級の楽しみでもあった。
 こうした楽しみとは、単調な生活からのちょっとした逸脱といった程度のものでしかなかった。が、生活にメリハリを付けたり、気分転換をはかるという効果は大きかった。そして、それがレクリエーションの本質と言ってもいい。また、遊びが宗教的な活動に伴われていたことも大きな特徴である。特に、信仰と遊びが一体となった寺社参りは、かなり古くから行われていた。有名な「伊勢参り」などは、その代表である。
 また、江戸についても当初は歴史が浅く、京都とは違い、政治を中心に考えて形成された武士の町であったため、下層階級の人々が憩える場所や娯楽が少なかった。出かける場所といっても、社寺くらいのものだっただろう。加えて、幕府の命による祭事が盛大に行われていたこともあって、江戸庶民の行楽は、社寺への参詣から始まったという感が強い。
 江戸での遊びは、開幕のころから行われていた。江戸の三大娯楽と称された、吉原遊廓が1617年、また、歌舞伎芝居の興行や江戸勧進相撲は1624年に始まった。しかし、それらは、経済的にゆとりのある武士や商人に限られたものであった。当時の庶民(下層階級)は、その日暮らしでそのような遊びには縁が少なく、祭礼、開帳など信仰に関連する行事を見に行く程度。社寺の方でも大勢の人に来てもらおうと、サクラ(桜)を植えたり、縁日や見世物などの付加価値をつけたりした。
 いずれにせよ庶民の遊びは宗教活動を抜きにしては考えることはできない。もっとも、1704年に禁止された念仏講などは、僧俗入り交じった集団が夜、提灯をもって、火の用心を呼びかけて廻るという治安的な活動であった。が、これもやはり、庶民にとってはささやかな楽しみの一つだったことは間違いあるまい。
 十七世紀末ごろから、辻相撲や踊りを禁止する触れが度々だされていることから、庶民の遊びにも変化がでてきたことがわかる。十八世紀になると、富籤や見世物が盛んに行われるようになり、信仰よりも楽しみや息抜きの要素が前面に出てくる。人々が社寺とは関係ない所でも、娯楽や行楽を積極的に楽しむようになったのは、庶民が江戸の遊びの主役として登場する十八世紀後半から十九世紀初め頃からである。
 たとえば魚釣りが庶民の間でもてはやされたのは、天明年間(1781~88年)あたりからであり、向島に花屋敷(百花園)が開かれ、巣鴨や染井などの植木屋で見せる作り物(菊人形等)に人気が集まったのは文化年間(1804~17年)である。また、寛政年間(1789~1801年)に登場した寄席も文化年間から大勢の人々が通いはじめた。
 十九世紀は、地震や火事、疫病などが多く、政情が安定していたとは言えないが、逆にだからこそと、庶民の遊びは以前にもまして活発になっていった。当時の盛り場が庶民で賑わっていたことは、幕末期に浅草を訪れたアルミニヨンが「寺に通じる非常に美しい通りにわれわれが達した時には、無数の老若男女がぞろぞろと群れ歩いていたので、われわれとしても馬を降りなければならなかった」(『イタリア使節の幕末見聞録』大久保昭男訳・新人物往来社)と書いていることからもわかる。
 江戸時代の遊びで、もっとも特徴的なことは、信仰より快楽を追求する傾向が徐々に強まってはいったものの、その根本にはやはり信仰心が横たわっていたという事実である。一方、現代人はレジャーに、宗教色が見えるのを嫌う。その代わり、教養とか健康とかいった要素を期待する人が多いようだ。
 もっとも、現代においても、本人は無自覚なのだろうが、宗教に近い感覚でレジャーに出かける人が増えはじめている。近年、流行している自然回帰型レジャーは、言いかえれば信仰への第一歩である。また、近頃、盛んになっている中高年の登山は、やがて「巡礼」「四国八十八箇所のお参り」へと進化しはじめている。
 二十世紀以降、日本人の生活は、宗教的な制約や関わりから離れ、ある意味で宗教から開放された。しかし、心の奥底では、信仰心を完全に捨てきれず、むしろ、どこかでそれをよりどころにしたいと望んでいる人も少なくない。大量の情報が行き交い、高度にIT・AI化された社会下で、人々の不安やストレスはむしろ増大している。
 そんな時に教養や健康を求めるレジャーを続けていても、楽しみも半減、休息を取った気もしなくなる。我々日本人が今、もっとも必要としているのは、今までとまったく別の、心の安らぎが得られるようなレジャーだろう。そこで注目したいのが、江戸時代の庶民を遊びの世界に導き、開放していった「信仰心」を伴うレジャーである。

天保9年1838年
1月 市村座で『伊達競全盛曽我』大出来大当たり
2月 回向院で勧進相撲
3月 回向院での井の頭弁財天開帳(変死人細工ノ見世物)を含め開帳4
4月 市村座で『本朝廿四孝』杜若大当たり大入り
閏4 中村座で『文武蔵(ブンブ)両刀扇讐』大当たり
閏4 市村座で『戌(アタリ)歳里見八熟(ブサ)梅』大入り大当たり
5月 回向院での淡島大明神開帳(「海獣」ノ見世物出ル)を含め開帳2
6月  山王権現祭礼                    
8月 都々逸坊扇歌が寄席で都々逸を歌い流行する      
9月 中村座で『貢十人切』評判よく大入り         
10月 回向院で勧進相撲
10月 湯島天満宮祭礼に山車練物出て、見物人群集する    
12月 町家での売笑や隠売女の取り締まり、好色本の店頭販売も禁止
浄瑠璃結城座で興行
☆この年のその他の事象
春頃 雑司ヶ谷感応寺境内に千本の桜が植えられる
○斎藤月岑『東都歳事記』刊行    
○各種の奢侈禁止、風俗の取締りに関する法令が出る
                          
天保10年1839年
1月 町火消出初式が禁じられる  
2月  中村座で『岩井歌曽我対面』大入り
3月 河原崎座で『国姓爺合戦』大入り(海老蔵ラノ衣装代ガ千両ニ)    
3月 亀戸天神開帳を含め開帳6
3月 回向院で勧進相撲                  
4月  中村座で『義経腰越状』大入り80余日打ち
夏頃 回向院での川崎平間寺開帳(十一間ノ宝船七福神籠細工出ル)を含め開帳2
6月 江ノ島弁財天開帳、江戸より参詣者多し、       
6月 市村座で『仮名手本忠臣蔵』大当たり
9月 神田明神祭礼
10月  湯島天神社の富籤興行を許可  
11月 素人家での寄席を禁止
11月 回向院で勧進相撲                  
浄瑠璃結城座で興行
☆この年のその他の事象
5月  渡辺崋山逮捕、高野長英自首 
12月 水野忠邦が老中首座になる   
12月 屋敷内に、神社をみだりに勧進することを禁止
人情本の流行が最盛期を迎える  
 
天保11年1840年 
春頃 元飯田町世継稲荷開帳を含め開帳5          
2月 回向院で勧進相撲
3月 河原崎座で『勧進帳』大入り才牛百九十年の寿         
4月 根津権現山内駒込稲荷開帳を含め開帳6
5月 山王・神田二社の祭礼で町人の服装華美を禁止
5月 花火を取締る 
6月  山王権現祭礼、(夜宮雨天ニモ関ワラズ西王母ノミ引キ出シ人ヲヒキ殺ス)                     
8月  中村座で『祇園祭礼信仰記』『恋湊博多諷』大当たり
8月  芝田町八幡宮祭礼、町々より山車練物出す            
8月  新たな道場、縁日が禁止される 
10月 浅草寺本堂修復成就で開帳、道俗群集する       
10月 寄席を規制(前年令再令)  
10月 回向院で勧進相撲
12月 神田明神に両目を出し入れする少年が見世物に出る   
浄瑠璃結城座で興行
☆この年のその他の事象
1月 府内の爆竹を禁止
4月 雑司が谷感応寺境内に田安家が千本桜を奉納する

天保12年1841年
1月 河原崎座で『恋相撲和合(ヤワラギ)曽我』好評大当たり
1月 回向院で勧進相撲
3月 上落合村などで御釜踊り流行  
3月 浅草寺開帳(驢馬ヤ曲鞠ナドノ見世物デ賑ワウ)を含め開帳4 
4月 芝神明宮内の開帳に壬生狂言の見世物出る                    
夏頃 回向院での高田善光寺開帳を含め開帳5        
8月 不忍池新土手の茶屋などが風紀を乱すと残らず撤去
8月 市村座で『種花蝶色成秋』大当たり
秋頃 浅草寺での箱根金剛王院開帳(瀬戸物細工ノ見世物出ル)を含め開帳2   
9月 浅草に人馬ともに宙を舞う釣り馬の見世物 
9月 両国に茶碗を噛み割るなどの歯力の見世物
9月 神田明神祭礼、付祭が16ヶ所から3ヶ所に改められる 
10月 虫送り・風送りと称して芝居同様の人集めを禁止
10月 城濠での釣り禁止       
11月 河原崎座で『菅原伝授手習鑑』七人男大当たり     
11月 回向院で勧進相撲                  
11月 女義太夫が36人逮捕      
11月 昌平黌の講演が再開され庶民に聴講が許可
12月 浅草寺歳の市、詣人尠し
○吉原の遊女4593人
浄瑠璃結城座で興行
☆この年のその他の事象
5月 天保の改革が始まる
5月 市中の寄席76軒
5月 物価引下げ令
10月 堺町から出火、市村座中村座焼失、12月に江戸三座が浅草猿若町に移転が命じられる
12月 江戸の女髪結を禁止

天保13年1842年 
2月 江戸の寄席15軒に限定、賭博厳禁
2月 料理茶屋21余ヶ所取り払い
2月 回向院で勧進相撲
春頃 深川八幡での成田不動尊開帳(乱杭渡リ等ノ軽業大当タリ)を含め開帳5
3月 吉原以外の売女が禁止される  
3月 唄浄瑠璃三弦の女師匠の弟子取り禁止
3月  山王権現祭礼、大喧嘩あり
3月 武家屋敷での賭博禁止     
5月 社寺境内寄場での浄瑠璃禁止
5月 矢場女を禁止         
5月 花火職の玉屋と鍵屋が「大川通り花美からくり」の代銀を30匁に限られ、竹花火の仕入れが禁じられる
夏頃 回向院での南都法隆寺開帳を含め開帳4
6月 東両国広小路で浪花菊川一座軽業興行、大入り
6月 七代市川団十郎が江戸払い(奢侈ノ罪)
6月 絵双紙売買規制        
6月 願い済み以外の葭簀張(ヨシズバリ)水茶屋が全て撤去される
7月 猿若町に薩摩座開場『菅原伝授手習鑑』興行
7月 旅稼ぎ役者規制        
7月 10両以上の石灯籠・手水鉢・盆栽などの製造販売が禁止される
9月 猿若町市村座『寿亀(チョバンゼイ)荒木新舞台(シマタイ)』大当たり、中村座も興行開始
9月 猿若町結城座開場『仮名手本忠臣蔵』上演
10月 回向院で勧進相撲
12月 河原崎座も移転命ぜられる
☆この年のその他の事象
4月 初物売買禁止、高利貸借禁止
6月 風紀を乱すと『偐紫田舎源氏』の版木が没収される

天保14年1843年
1月 回向院で勧進相撲
1月 中村座で『鶴千歳万代曽我』『本朝廿四孝』大入り
4月 吹上御殿上覧相撲       
5月  猿若町河原崎座興行開始『仮名手本忠臣蔵
7月 市村座で『名(ナニ)橘御未刻(オヤツノ)太鼓』大当たり
9月 神田明神祭礼
10月 回向院で勧進相撲
11月 河原崎座で『稚(オサナ)軍法振袖(ショウゾク)武蔵』大当たり
○四宿の飯盛女1348人
☆この年のその他の事象
5月 大名・旗本のために棄捐令でる 
6月 町人の武術稽古を禁止
夏頃 溜池の端に馬場をつくる    
閏9 阿部正弘が老中、水野忠邦罷免

天保15年1844年 
1月 回向院で勧進相撲
1月 品川宿の飯盛女が検索される  
春頃 浅草本蔵寺での上総国藻原妙光寺開帳を含め開帳2
3月 『夜鷹場所附細見』評判となるが三日で絶版となる
春頃  両国の見世物(独楽回シ竹沢藤治ノ手品トカラクリ)、秋まで多数訪れる  
3月 中村座で『姿花寝(ヤヨイノ)鏡山』初役大当たり      
4月 鶏市という闘鶏場が禁止となる 
6月  山王権現祭礼
5月 両国橋西広小路の芝居小屋が倒壊し多くの死傷者が出る
6月  芝金杉円珠寺開帳
7月 中村座で『昔(ムカシムカシ)尾岩怪談』大出来大当たり
7月 河原崎座で『追善いろは実記』大当たり        
秋頃 越後生まれの侏儒(シュジュ)に踊りを踊らせ見世物にする  
10月 三十三年ぶりに巣鴨染井の菊細工が再興、大評判                                
10月 回向院で勧進相撲                  
10月 王子稲荷開帳                    
○亀戸天満宮開帳を含め開帳2(開帳期間不明)

天保年間
○堀切村の小高伊左衛門の花菖蒲が有名になり、見物人多数
○月琴の愛好者が増える
日本橋四日市翁稲荷明神、霊験あらたかと群集する
○文政年間に盛んであった神社仏閣の富興行、天保の末には止む
○田畑村の赤白いろいろな梅が数百咲く梅園、毎春遊覧多し  
○女義太夫、芸よりも容貌が評判となる           
☆その他の事象
日蓮宗のお会式の造り花が名物に