江戸の終焉・明治七年

江戸・東京庶民の楽しみ 103
江戸の終焉・明治七年
・『武江年表』が終わる
 『武江年表』には、明治二年、三年と月日がたつにつれて、祭と開帳の記載が増加した。江戸が東京になっても、別に町並みが変わった訳ではなく、生活形態もほとんど昔のままであった。したがって、庶民には、江戸時代の楽しみに加えて、新しい楽しみが日に日に加わっていくように感じたのだろう。町には、スピーディな人力車が走り回り、ランプ、メリヤスのシャツとズボン下、肉食やラムネなどの目新しいものが次々に現れ、話題を集めていった。
 しかし、このような庶民にとっての幸福な時代は長続きしなかった。政治的な空白のために、一時的な自由な行動が許されているように見えただけで、庶民への締めつけは徐々に始まっていた。その皮きりとして、明治四年、ポリス三千人を市中に配し、昼夜の区別なく巡査させはじめた。翌年には、二月に外国人が見物すると気になるとのことで淫奔劇を禁ぜられ、十一月に軽犯罪法の前身である「違式註違条例」を発布している。以後、徴兵令、児童の道路上遊戯の警告、諸芸人に賦金を課す、行政警察規則公布など着々と統制が進められていた。そうした中で、東京の庶民が比較的安定した生活が営めたのは、米価が明治二、三年高騰したものの、以後は下落し、大きな値上がりをしなかったことなどが大きい。
 それを大きく変わったと感じたのは、『武江年表』を綴っていた斉藤月岑であろう。『江戸名所図絵』を刊行した月岑にとって、旧暦から新暦に変わり、月毎の記述に趣がなくなり、『武江年表』を書き続ける気力が削がれたのだろう。また同時に、江戸時代の終焉を感じ、三百年ほど続いた筆記を明治六年で終わらせたのではなかろうか。
・新しい街、東京の出現
 東京の街は、京橋から新橋の間にレンガ家屋が300戸も建ち並び、二月にはこれまたレンガ三階建てのビルが日本橋に完成するなど徐々に変貌していった。また二月には、前年完成した万世橋のたもとにサクラが植えられ、ここが府下で最も人が集まる場所となったようだ。人力車が3万台以上も走り回る東京に、八月、二階建て乗合馬車が浅草雷門から新橋の間(料金一人10銭)での運行を開始した。十二月には、銀座を中心に街路の両側にガス灯が設置され、次第に明治らしい雰囲気を持つ東京が形成されつつあった。
 上野の花見が一層賑わしくなったのも、明治になってからである。それまでも花見は許されていたが、歌舞音曲の禁止に加えて夜間立入禁止と制限が多く、桜の下でドンチャン騒ぎができるような状況ではなかった。それが明治二年に開放されたことによって、山内には掛茶屋が元山王台(西郷銅像付近)に約60軒、清水堂あたりに50軒、摺鉢山付近に60軒程度設けられ、庶民が自由にレクリエーション利用できるようになった。なお、上野が正式に公園として指定されたのは、前年の六年のことである。四月には東照宮へ参拝客が非常に多く、賽銭が二日間でカマスで40にも達したという。カマス一つが3円余になることから見て、一万人以上が訪れていることは明らかである。上野の賑わいは花見時だけでなく、府社となった東照宮の祭礼が五月三十一日・六月一日に催され、夏の不忍池はハスの花が少ないとあるが訪れる人は多かっただろう。十一月には「上野公園の清境に白粉塗った化物」という新聞記事が載るように、場末の呼び込み小屋もできていた。
・安くて手頃な寄席人気高まる
 ところで当時、江戸時代の見世物と同様、庶民に高い人気があったのが寄席である。幕末から明治初めにかけても三遊亭圓朝らが活躍しており、まずまずの興行成果を納めていた。圓朝は、この頃から、ニュース性のある落語を高座にかけはじめ、時流に乗った話芸を展開させた。明治六年には、落語家が292名(その他に講釈師185名)が存在、七年には221軒の寄席が興行していたらしいことから、江戸時代と同程度、100万人以上の観客があったものと推測される。五月、本所石原町の寄席魚清では、観客が入りすぎて二階の床が落ち、鉄瓶の湯をかぶって火傷した人が出るという騒ぎが起きている。
 当時、圓朝と並んで人気があった松林伯円は、パン屋の木村屋の二階にある銀座亭の店開きに公演している。寄席は、各町内にあって、その数の多さからもわかるように、仕事が終わってからでひょいと出かけられる、そんな手軽さが魅力だった。また、料金も安く、庶民の手軽な娯楽として興行され、部屋の造りや演目にも江戸の匂いが色濃く残っていた。その一方で、十月、京橋の松邑亭では新聞記事を題材にした講談を伯円が演じるなど、新しい試みも喝采を得ていた。十一月には、大阪から上京した竹沢弥七が、浅草田原町三俵亭で普通の三味線の二倍の大三味線を自由に弾きこなし、またたく間に人気者となった。
 この時期になると、駕籠を見ることもなくなった庶民は、日々に大きく変化する東京を肌で感じはじめていた。時代の流れに何の抵抗もできない庶民は、そうした変化に対応していかざるをえない精神的な葛藤を娯楽によって解消しはじめた。人々が一生懸命遊んだのは、明治になって所得があったり、生活が改善されたりしたからではない。彼らを折々の行楽や江戸の名残をとどめる寄席や見世物へと向かわせたのは、社会の変化に不安を感じ、心の安らぎを求めたことと無関係ではない。四月、湯島天神の臨時祭には、そうした庶民の欲求に応える活人形が多数ならんだ。また六月の回向院の開帳でも、見世物、貝細工、桃太郎大人形、熊芸、猿軽業、力曲持、怪談人形などが興行された。その総売上額は4,227円7銭で、観客数は延べ20万人を超えている。ちなみに、最も人気があったのは貝細工で、売り上げも1,800円を超えた。また、七月の嵯峨の釈迦開帳にも、瀬戸物細工、曲馬、五十三次活人形、猿の軽業等の見世物がだされ、賽銭だけで一日平均で35円もの上がりがあった。さらに、十一月の浅草では、菊細工。十二月、浅草天文原で、諸芸人たちが吾妻能狂言長唄、富本、清元、義太夫常磐津などを興行。また、浅草寺の境内では、力持ちの会というような、江戸時代と同じ類のお楽しみが催されていたことからもわかる。
 十一月恒例、浅草初酉の市は、早朝から往来引きも切らずという賑わい。十二月の浅草歳の市は、天気よく大勢の人が押し寄せるという江戸時代と変わらぬ盛況であった。
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明治七年(1874年)の主なレジャー関連の事象
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1月蠣殻町水天宮、賑わい著しく門前で拍掌拝礼する者多し/郵便報知新聞
1月H亀戸天神妙義社の初卯詣、快晴で前年より群集する
1月E中村座で番付に開場閉場の時刻を初めて明記する/日本演劇史年表
2月H万世橋付近、府下第一群集し、梅桜植付け勝景を添えん
2月H回向院の大相撲、給金トラブルで延期
3月H上野東照宮境内で榊原健吉が剣術の奉納試合を行う
3月H浅草松葉町本覚寺で京都本国寺の釈迦・白蓮の像の開帳
3月○築地海軍兵学校寮で競闘遊技会(運動会)を催す
3月H官立学校は日曜日を休日とする
4月H湯島天神、臨時祭で活人形数多く、参詣人多し
4月H回向院で上総国芝山村観音寺仁王像(賽銭一日25円)、荏原郡古川村子育薬師如来の開帳
4月H吉原仲の町に、恒例のサクラが植えられる
4月H上野東照宮参詣著しく、二日間でカマス40の賽銭(1カマス3円余)
5月H本所石原町の寄席魚清で、大入りで二階が落ち、鉄瓶の湯で火傷する者あり
5月H目黒の不動、開帳で賑わい、近傍の茶亭に牡丹園
5月H千住駅の稲荷社祭礼にて、山車等ありて近郷までも賑わえり
5月H芝栄町金地院で本尊正観世音并に駿河岩村臨済寺の摩利支天の開帳
5月E沢村座、桟敷代金を初めて円単位で表示、上等一円85銭
6月H回向院開帳、貝細工・桃太郎人形・熊芸・猿軽業・力曲持・怪談人形等、70日間の賽銭6657円
6月H浅草須賀神社祭礼、参詣者群集する
6月H浅草寺地内及び北東中町等で9月中旬まで、夕刻から麦湯店を出す
7月H回向院で嵯峨清涼寺釈迦開帳、瀬戸物細工・曲馬・活人形等、賽銭一日平均35円
7月E河原崎座再興され、芝新堀に新開場する
7月吹矢・麦湯店が流行/新聞雑誌
7月H招魂社祭礼、相撲・競馬・花火を催す
7月H浅草の四万六千日、徹宵踊りぬく⑫
7月H下目黒滝泉寺不動尊開帳、老若男女参詣群集
7月○児童の道路上遊戯に警告を出す
7月浅草寺境内で大力持ち会を催す/東京日日新聞
8月H亀戸天神祭礼、山車45運行、所々台を設け鼓笛の俗楽あり
8月H浅草雷門・新橋間に2階乗合馬車運行、翌月、府より禁止、一人10銭
9月T不忍池にハスの花少なし
9月H水神祭礼、魚河岸に屋台を架け吹鼓の合奏し塞人雲の如し
9月T深川八幡宮の社前でミカンコ舞あり
9月H東京市内の揚弓場112軒・寄席221軒
10月H京橋松邑亭で松林伯円が新聞講談
10月H虎ノ門金比羅神社大祭
10月H武州大相模不動仏開扉
10月○浅草田原町三俵亭で竹沢弥七が大三味線を興行
11月T上野公園に呼び込み小屋出現する
11月Y浅草でキクの細工ものを展示/読売新聞
11月S浅草酉の市、早朝より往来引きもきらず
11月H竹沢万治が浅草平石衛門町で独楽の見世物を興行する
11月S各座、冬枯れに忠臣蔵を興行する
11月○浅草猿若町 茶屋に提灯、菊の作り物並ぶ
12月S浅草天文原で、諸芸人たちが吾妻能狂言長唄・清元・常磐津などを興行
12月T京橋・銀座・芝金杉橋間の街路の両側に85基のガス灯が点火
12月浅草観音の市の日、ケガ人がでないように馬車進入禁止の立て札が立てられる/仮名読新聞
12月H浅草歳の市、天気よく遊客群集著し
12月T三遊亭圓朝、近頃、朝野新聞を話し、夜々大入り