庶民の元気を示す見世物

江戸庶民の楽しみ 83
庶民の元気を示す見世物
 見世物に関する情報は、江戸や大坂など主要都市をはじめ、全国レベルで行き交っていた。大坂で人気を呼んでいる出し物があると聞けば、すぐに江戸の香具師が出かけていって品定めをし、ものになりそうな見世物であればその場で、江戸の興行を決める、という具合であった。
 たとえば1819年(文政二)四月には、大坂の北野大融寺の開帳に合わせて、寺の前に仮小屋を建て、そこで一田正七郎作の籠細工見世物を興行していた。客入りが上々なのを確認した江戸の香具師は、直ちに交渉し、展示籠細工を江戸に運ぶ約束を取りつけた。細工物の数は40体を越えていたので、大きなものは分解して、何艘かに分けて江戸へ持ち込んだ。
 当初、両国での興行を考えたが、大規模なので、十分なスペースを確保できないことがわかった。因みに当時の見世物がどのくらいの規模だったかというと、間口が三間(約5.5m)に満たないものもあったが、大半は十二間(約22m)程度であった。これは、江戸の芝居小屋、三座の筆頭である中村座の文化年間の規模が、間口十二間半(約23m)、奥行き二十一間半(約39m)であったことと無関係ではなかったと思われる。
 ところが、文政二年に大坂から呼んだこの籠細工見世物は、なんと一町四方(約1ha)という広大なスペースを要した。ということは、見世物が盛り場における中心的な施設として認められ、同時に、大勢の観客を集めていたことを示している。
  籠細工が、江戸に着いたのは五月の下旬。一町四方のスペースを確保できるような場所はそれほど多くはなく、さらに観客を呼べる、となると、浅草の奥山以外なかった。興行するにあたっては、浅草代官所の許可が必要になるとともに、籠細工についても検分を待たなければならない。そのため、籠細工の公開にこぎつけるまでには一カ月もかかった。
 おもな細工物を紹介すると、赤鬼、鳳凰、山鵲、瑠璃鳥、孔雀、太夫猿と禿猿、馬、獅子、鹿、熊、牛、麒麟、虱などが大坂から運びこんだもの、また、玉蜀黍、牡丹の花、闘鶏、狆、荒神周倉と關羽などは江戸向けの新作である。中でも、關羽は絢爛たる錦の戦袍をまとった、身の丈が実に二丈二尺(約6.6m)もある堂々たる作品であった。見世物場には、細工物が敷地いっぱいに配置され、見物客は場内をぐるぐる回りながら見るようになっていた。
  六月末には、大体できあがったので、七月十日を初日とする挿絵入りのビラが、湯屋や髪結所に配られた。もっとも宣伝をする必要がないくらいに、巷での前評判は高まっていた。作っている最中から、人々は江戸始まって以来という規模に注目し、様々な噂が飛び交っていた。その上、初日に田安公が御覧になるという話が、寺社奉行から伝えられて、「御成先御用」という木札が入り口に立てられた。このようなことは、見世物史上前例がなかったので、人々の関心と前評判をさらに高まった。
  さて、ふたを開けてみると、木戸銭が三二文と高額なのにもかかわらず、連日大入り、一日の売り上げは四〇両にものぼった。四〇両の収入を得るには、大人だけでも五千人、当然、子供も見に来たはずだから、六千人程度の見物があったものと思われる。そして、盆の十五日、六日には見物客は一万五千人程度にも達し、人々のどよめきが500m以上離れた花川戸や今戸まで聞こえたという。この時の観客数から現場の賑わいを想定すると、場内は常に二千人以上の人々でごった返した。お目当ての關羽の細工には、長蛇の列ができ、興行は大成功だった。
 では、どのくらいの人々が籠細工見世物を見ただろうか。当初50日の興行予定が、人気があったので日延べ願いが認められて百日になったという。が、百日の観客数は、毎日同じではなかったはず。観客数の変化は現代と同じような形態を取ったとすれば、少なくとも十三万人、いや、十六万人近い人が訪れたことになる。『武江年表』にも「浅草寺奥山にて見せ物とす、遠近の見物夥し」と記載されているように、江戸だけでなく周辺からも噂を聞いて訪れたようだ。
  ところで、同じ期間に、両国でも江戸の人形細工師龜井齋が、大坂に負けじと見世物を企画した。こちらの見世物は、回向院で嵯峨釈迦如来の開帳に因み、「天竺僧假寝姿」と題して、当初、十六丈二尺(約49m)の涅槃像を籠細工で制作した。ところが、江戸では寛政年間に三丈(約9m)以上の大型の細工類を見世物にすることが禁止されていたので、下見に来た役人にとがめられた。そこでやむを得ず当初の八分の一(約6m)の「酒呑童子」に縮小して興行した、と『遊歴雑記』に書かれている。が、49mもの涅槃像のために用意されたスペースに、はるかに小さくなった人形を置いたため、貧相に見えて客足は伸びなかった。

★文政8年1825年
1月 西両国観場でジンジン舞を興行、大当たり
1月 浅草御蔵前八幡で勧進相撲
3月 深川洲崎吉祥寺開帳
夏頃 赤城明神開帳を含め開帳2
秋頃 赤坂浄土寺での遠江佐野郡西山村観音寺開帳を含め開帳2
3月 ビヤボンという鉄製の笛が流行
7月 中村座で『仮名手本忠臣蔵』、『東海道四谷怪談』初演
9月 神田明神祭礼
10月 芝神明社勧進相撲
浄瑠璃、薩摩座・結城座で興行
☆この年のその他の事象
2月 開帳入仏のため旗幟をたてて群行し、呉絽更紗を用いることを禁止
2月 異国船の打払令
2月 湯屋での盗難警告令が出される
12月 葺屋町から出火、市村座中村座が全焼
三河島の伊藤七郎兵衛が将軍家斉の命で吾妻橋ぎわに浩養園という庭を作る

★文政9年1826年
1月 河原崎座で『三升曽我顔見世』初演
1月 回向院で勧進相撲
春頃 両国広小路で出雲の神事舞興行
3月 麻布善福寺開帳
4月 回向院で相模曽我中村城前寺開帳
6月 河原崎座で『義経腰越状』『けいせい陸玉川』大入り
6月  山王権現祭礼
8月 浅草唯念寺で下野高田山開帳
10月 回向院で勧進相撲
冬頃 西両国広小路で盲と女の相撲興行、連日大入り
11月 市村座で『伊勢平氏恵顔鏡』大出来
浄瑠璃、薩摩座・肥前座で興行 
☆この年のその他の事象
3月 シーボルト、江戸に到着
4月 寺社奉行及び布衣(従六位)以上の者に城内の常の御座所の庭を拝観させる
5月 強盗が多発する
7月 曲輪近辺・家近き場所・海手・川筋での大造りの花火・流星の禁止

★文政10年1827年
春頃 浅草観音開帳を含め開帳6
春頃 江ノ島弁財天開帳、江戸より参詣者多し
3月 中村座で『伊達戯場根元礎』(当座一座のため)大入り大当たり
3月 芝神明社勧進相撲
4月 浅草奥山に機関仕掛け『三国妖婦伝』の見世物開場
5月 開帳に大造り見世物の奉納禁止
夏頃 下谷稲荷開帳を含め開帳4
7月 中村座市村座で『仮名手本忠臣蔵』上演し張り合う
9月 神田明神祭礼
11月 回向院で勧進相撲
○市中の寄席125軒
浄瑠璃、土佐座・肥前座で興行
☆この年のその他の事象
1月 葺屋町から出火、市村座中村座が全焼
2月 関東全域に新村方統制実施(文政の改革)
5月 女芸者22人を華美な衣類・髪飾ということで処罰
5月 「津軽風」流行、死者多数
10月 江戸三座の座元・役者の華美な服装を禁じ、火の用心を命ず
阿武松緑之助・稲妻雷五郎に横綱免許
○岡山烏撰『江戸名所花暦』刊行

★文政11年1828年
春頃  川口善光寺開帳を含め開帳5
3月 回向院で勧進相撲
3月 三味線芸師の名目で品川宿に江戸町方の女を置くことを禁止
6月  山王権現祭礼
7月  浅草八軒寺町大山寺開帳を含め開帳2
9月 柏屋留まつ・いのまつ・八十松の「三人かけ合噺」受けて三ヶ月の長期公演
9月 中村座市村座で『絵本合法衢』上演
10月 回向院で勧進相撲
○女義太夫が再び流行
浄瑠璃、土佐座・肥前座で興行
☆この年のその他の事象
2月 下谷小野照崎の社地に石を畳みて富士山を築く
10月 三座の座元および役者が取締方議定証文に違反せぬよう申し渡す
○伊東玄朴、本所に初の西洋医学病院を開業
                    
★文政12年1829年
1月 市村座で『色一座曽我大寄』大入り
2月 回向院で勧進相撲
3月 深川八幡での鎌倉鶴岡開帳を含め開帳3
7月 四谷内藤新宿花園稲荷社地で新芝居好評、三座座元訴え
7月 浅草正覚寺佐渡雑太郡一谷妙照寺開帳
9月 渋谷金王院で素人角力大会、勝敗をめぐり大喧嘩
10月 回向院で勧進相撲
浄瑠璃、土佐座で興行
☆この年のその他の事象
1月 柳亭種彦偐紫田舎源氏』刊行
3月  己丑の大火で市村座中村座焼失
6月 赤痢など流行、多数の死者が出る
12月 隠取締り令

★文政13年1830年
春頃 両国の観場に「目出小僧」の見世物興行
春頃 浅草寺開帳を含め開帳4
3月 伊勢参りが流行し始める
3月 将軍と世子家慶、吹上苑で相撲見物
閏3 縁日などで路上での賭け事禁止
4月 市村座で『仮名手本忠臣蔵』八段目「お蔭参り」所作初演
4月 東大森村で医師が化物の細工等の見世物を出し大当たり
5月 大奥で能囃子演奏、老中以下同席を許される
6月  山王権現祭礼                    
秋頃 深川浄心寺甲州身延山開帳
8月 麻布一本松明神祭礼、町々より山車練物出す
10月 雑司が谷で、綱渡りが興行
11月 西新井総持寺鐘供養に道俗群集すること夥し
11月 回向院で勧進相撲
○初代林屋正蔵の怪談噺が評判となる、市中の寄席125軒
☆この年のその他の事象
夏頃 三日ころりと言う風邪が流行
  
★文政年間
○赤坂豊川稲荷、西新井総持寺弘法大師、目黒正覚寺鬼子母神な等の参詣者増加
○深川永代寺・鉄砲洲稲荷・萱場町薬師等に石積の富士山を築く
雑司ヶ谷鬼子母神境内の大銀杏が子授け銀杏として流行始める
神田明神社地に富士浅間社を勧請し、六月朔日参詣始まる
○深川浄心寺石像の上行菩薩に祈願者多し
○川越箭弓稲荷社・下総駒木村諏訪明神社へ江戸より参詣者多し
○松葉欄や万年青が流行
○富籤が盛んになる
○草木の葉の斑入りが好まれる
○深川佐賀町の船橋屋の羊羹が名物に
○両国、与兵衛の握り鮨に人気が出る