二十五年頃から庶民演劇に変化が

江戸・東京庶民の楽しみ 122
二十五年頃から庶民演劇に変化が
二月第二回総選挙で選挙干渉/十一月北里柴三郎伝染病研究所を設立
・「塩原多助」の芝居が空前の大入り
 浅草十二階は、この年も元旦から入場者が殺到。歌舞伎座で上演した「塩原多助一代記」は空前の大入り、菊五郎が使った「・・でガンス」という言葉が大流行する。芝居に行楽にと人々の行動は活発で、新聞には、梅見の屋形船の予約が多いという記事も、また初午の水天宮や上野公園の賑わい、佃沖や御台場の潮干狩り、サクラ・ボタン・フジ・ハナショウブアサガオ・ハスなどの花の便りが続いた。四月の学生の運動会は一日に10校も開催され、五月の藤見では「くず餅」が大人気。六月には、本所の東花園が東海道五十三次の盆景を出した。入谷の朝顔人形は、この年も大がかりな舞台が仕立てられた。盆踊りは、浅草観音や八丁堀の広小路などで流行し、夜中の十二時頃まで踊り歩いていた。このように四季折々に人々が東京の遊び場を楽しげに巡っている様子がわかる。
 その一方で、政府の言論弾圧が強化され、年が変わって二カ月足らずというのに38回も新聞発行停止が出された。政府と民党とが対立し、さらには民党同士でも争いがあって、政治に関心をむける人が多かったのだろう。壮士芝居の人気は年を越しても続き、なんと五月には、川上音二郎の芝居を皇后陛下が観るという事態になった。オッペケペイの流行は、一部の人々だけではなくかなり幅広く東京市民全体に浸透している。たとえば、路地でオッペケ飴なるものが子供たち相手に売られていた。古ぼけた陣羽織に赤手拭いを後ろ鉢巻きにして、日の丸の扇を威勢よく振りまわした飴屋の親父が「飴売りごときの分際で、生意気いうのじゃないけれど・・・・」とオッペケの節回しで子供たちを集めていた。また、六月の東京寄席案内の中にも、八名川町八名川亭に「娘オッペケペー」というのが出ている。
・演劇や寄席に大きな変化が起きた
 その頃、演劇や寄席では大きな変化が起きていた。四月に、赤坂の福禄座、根津の藍染座、浅草の沢村座などの中小劇場があいついで開場。一見、演劇の観客が増加して、それに対応すべく新しい劇場が必要になったのではないかと考えがちだが、実は違う。それは、東京府統計書を見ると一目瞭然である。六年前(明治19年)に2962人もいた俳優の数が25年には982人にまで減少しているが、これはやはり観客が少なくなったからであろう。むしろ、寺社の境内などで臨時に行われていた芝居ができなくなってきたため、常設の劇場がぜひとも必要になったからだと考えた方がよいかもしれない。
 前年十月に出された「観物取締規則」で、無届けで葦簾張り(ヒラキ)で演じられていた興行はすべて禁止された。高座や浅草などへ興行の場を求めたが、芸人たちの多くは、地方へ流れていくか廃業せざるを得なかったと見える。東京府統計書によると、明治19年に示されている諸芸人数は10147人であったが、25年には3466人に減少している。たとえば、一時は700人以上も演じ手がいた歌祭文語りは、91人に激減している。歌祭文節などの時流にあわなくなった芸人や政治活動の弾圧とともに排除されていった芸人も少なくなかった。そんな芸人の中には、前述のオッペケ飴売りといっしょに歩く三味線引きなどに転向した人もいた。芸能で生活できる人が減少したということは、鑑賞者が減少したからにほかならず、市民の娯楽嗜好にも大きな変化が起きていたと見るべきだろう。
 寄席についてみると、芸人の種類と人数が大きく変わっていた。明治19年当時、義太夫(1246人)、昔話(782人)、常磐津(609人)、講談(426人)、長唄(371人)、手品(234人)などの多くの芸人たちがいたが、時流にあわない芸能ほど携わる人が減少した。減少率が最も高いのは、常磐津で90%、昔話が59%、長唄が57%、手品が50%、義太夫が43%、講談は40%の割合で減っている。むろん、すべての芸人が減少したわけではなく、25年以降に人気の出てくる浪花節は、逆に16%も増加し139人になっている。なお、浪花節は歌祭文節からの転向が多かった。
 川上音二郎壮士芝居が受けたように、演劇を楽しむ人たちの好みに大きな変化が生じ、演し物も淘汰が進んでいった。そうした傾向は歌舞伎座の出し物についてもあらわれ、正月に人気を取った塩原多助一代記は、江戸時代からの古典ではなく三遊亭円朝の話を芝居にしたものである。七月に初演された怪談牡丹灯籠も三遊亭円朝の作で、これまでとは違う流れが認められる。この年注目を集めた興行としてアームストンの大曲馬があったが、これを取り込んだ『八雲烟技芸晴能』が春木座で上演されている。また、寄席でも前年プロになったばかりの快楽亭ブラックなどの外国人が高座に上がった。話題といえば娘義太夫の竹本綾之助が、熱狂的な人気を得て当時の新聞紙上を賑わした。

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明治二十五年(1892年)の主なレジャー関連の事象
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1月Y初日を拝もうと浅草凌雲閣に入場者が殺到する/読売
1月Y休業を知らぬ2000余人、大相撲に詰めかける
1月H初卯、前日の雪で参詣人午前中少なし、午後より群集、諸商人俄に店を開くが客少なし/郵便報知
1月H初大師、臨時汽車溢れ、正午までに6・7千枚の守札を出す
1月H二卯と日曜・鷽替えに好天気、亀戸天神は人出多く、川に遊船も浮かぶ
1月H賽日、浅草公園各劇場・安料理店・鉄道馬車等例年の如し
1月H深川初不動縁日、中々雑踏
2月H水天宮、午後になり泥濘の中を参詣する人多し
2月H紀元節、旗を掲げ一日の業を休む、浅草上野へ向かう人多く
2月Y歌舞伎座で『塩原多助一代記』上演し大入り、菊五郎が「・・でガンス」を使い流行
2月Y諸興行、大雪のため休業
2月H二午、各町の稲荷社の囃子も賑やか太鼓の音とうとうと鳴る
3月Y旧暦の初午、水天宮や上野公園など賑わう
3月Y各地の釣り堀開業、税は遊技場と同じ月50銭
3月H彼岸入、両本願寺・上野両大師等、参詣人引きも切らず
3月H彼岸の中日、日曜とあって浅草・上野所々の繁華はいうにおよばず大繁盛
3月H潮干狩り、伝馬船2.5円荷足り1円乗合船8銭位
4月Y神武天皇祭、行楽日和でどこも大入り満員
4月Y花見、行楽の人出はどこも多く、上野や向島等では一日に10組の学生運動
4月M中小劇場があいついで開場、赤坂の福禄座は好景気/都
5月H歌舞伎座慈善演劇、1,500枚で200円程の売上げ
5月H端午節、職人上野・浅草・向島・亀戸へ寄席に芝居に遊び晩は酩酊して帰る、下等料理屋繁盛
5月Y亀戸天神向島浅草公園など賑わう、亀戸名物のくず餅が藤見客に大当たり
5月H神田の祭礼、早朝本社を出輿し両国広小路へ、回向院仁王開帳と共に両国非常の賑わい
5月Y川上一座と浅草沢村座、大入り好評で日延べ
5月M川上音二郎の演技を皇后陛下が台覧⑤
6月Y本所の菖蒲園次々に開園、植木屋東花園で東海道五十三次の盆景が好評
6月H日暮村の日蓮宗宗林寺の池にホタル発生、例年より少なし
6月H堀端、竹橋より和田倉橋にホタル多し、螢狩り人徘徊せり
7月H入谷朝顔園、極上25-30・通常12-20・小鉢5千以下 、細工は木戸銭を取るため年々苦情多し
7月H富士参り、目黒村・芝大門下谷坂本町等へ参詣人多く、盗難除け麦藁細工の龍売られる
7月H川開き、転向に恵まれず前年より少なく、当年は一回だけで店は失望
7月E歌舞伎座三遊亭圓朝作の「怪談牡丹灯籠」が初演される/日本演劇史年表
7月H賽日の馬車鉄道、収入1025円、乗客47573人
7月Y盆踊りが流行、浅草観音や八丁堀の広小路などで趣異なる踊りや唄
7月H中州の仕掛け花火、大人5銭・小人3銭
8月Y浜町河岸の水泳教場で三名の美人が泳ぎ、見物多し
8月H逗子、旅籠料上等50中35並35銭、一週間上等5.5円中4.5円並3.5円、官吏の婦人子供多
8月H第二の川開き、船宿や店の苦情で開催、茶船3円・伝馬2円・荷足り80銭・弁当付丼席25銭、大景気
8月H向島の三園、納涼と七草見とで引きも切らず
8月Y絶景の日暮里諏訪の台、酷暑厳しく納涼客増える
8月Y中州の繁盛、真砂座新築工事の職人が出入り、女相撲や軽業興行
9月H正九五の一にて水天宮参詣人潮の如く、数十人の巡査雑踏を戒める
9月H芝の大神宮の祭礼、神輿出る
9月Y大川のハゼ豊漁で船宿大賑わい
9月Y回向院でアームストン一座曲馬大入り、5日で7242人、1660円、動物のみ461人、23円45銭
9月T飯田町に夜店を開く、なかなか賑わう/東京日日

10月Y大祭日、上野・浅草公園へかなりの人出、その割には売れ行きいかず
10月Y団子坂の菊人形、入谷・麻布など続々開園
10月Y大宮氷川公園のキノコ狩り多く、日帰りも可能
11月H一の酉、浅草田圃大鷲神社、午後より押し合いへし合いの人出
11月Y芝愛宕山の十三夜の観月賑わう③
11月Y小春日和の天長節、遊園地や劇場等いずこも大賑わい④
11月Y団子坂の菊人形、常設小屋新設にも入りが悪く前年の三分の一
11月F上野不忍池畔の秋季大競馬、見世物、露店等がでるが見物人は格別少なかった/国民
11月H三の酉、賑わいはあったが一・二の酉に比べて不景気
12月M凌雲閣にて娼妓の美人写真コンテストが行われる①
12月Y歳の市、深川公園、浅草公園、神田神明等を日割りに開催
12月H深川八幡歳の市、数十露店の過半数が羽子板、下等1~20銭
12月G目黒祐天寺の不動堂、修理後の開帳を催す/時事新報