賑わいを取り戻す明治十九年

江戸・東京庶民の楽しみ 116
賑わいを取り戻す明治十九年
三月帝国大学設立/八月清国水兵暴れた長崎事件/ノルトマン号事件
・市民が集まる浅草、亀戸、・・・
 当時、東京には様々な人が生活しており、琴の師匠連もその一人であり、初巳には、琴の曲を奉納するならいがあり、不忍池の弁天堂で演奏会が催された。また、鍛冶職人も健在で、十一月には仕事を休み、祝宴を開きミカンを撒くのが慣例であった。旧暦から陽暦に改まったために紀州ミカンが間に合わず、赤飯を配るところや青い前川ミカンを撒くところもあったという記事が残っている。昔ながらの慣習は健在ではあるが、徐々にやりにくくなっているのがわかる。
 正月の話題は、新富座の初春興行。当時人気の梅坊主のカッポレを団十郎らが踊り大喝采を浴びた。藪入りは快晴で、市内は公園をはじめとして賑わい、各劇場は大入り、飲食店も繁盛した。二月の初卯は、早朝より店を出し参詣人も続々と訪れた。涅槃会(釈迦の亡くなった日)と初午が重なり、天気もよかったので寺社は賑わった。ウメがほころぶと、亀戸の臥龍梅へと観梅客が訪れ、日に40円の収入になったと。ちなみに、一月からそれまでに梅干し百樽を売りつくした。年間の収入は、花と実で千五百円、その他に梅酢で30円程あったと。
 浅草公園は前年から利用されていたが、正式な開園式は五月に催された。これに先立つ三月、花屋敷は改修一周年の行事を盛大に行い、この日は遊覧料を平日の半額にしている。そのため入園者は平日の十倍にもなった。春の行楽シーズンには、浅草公園にかなりの人々が訪れている。浅草公園の開園式があった時の三日間の利用状況を示すと、花屋敷入園者数が、2万7千人。その他、羅漢堂、水族館がそれぞれ約5千人、教育孕み人形の見世物が約6千人、また、主な飲食店の売り上げは一店当たり3~5百円となっている。それらの数値から考えて、浅草公園には、一日2万人以上の来訪者があったと推定される。
 浅草は、五月の三社祭も一段と賑わい、空前の人出を迎えた。公園内には、納涼のため掛け茶屋が十月末まで営業するとのこと。十月、浅草六区に最初の劇場、常盤座が開場し、歌舞伎を興行。当時の六区には、大盛館で江川玉乗り一座、清遊館で都踊り、第一共盛館で青木の玉乗り、第二共盛館で中村歌扇一座の子供芝居、日本館で娘都踊り、電気館で電気仕掛けの見世物小屋、明治館で太神楽、清明館で剣舞、その他、撃剣道場、写真館、水族館、珍世界などがあった。また、花屋敷は例年どおり造り菊のイベントを行っている。
 五月は行楽シーズン、浅草だけでなく、亀戸天神のフジ・大久保のツツジ・各花園のボタン、潮干狩りなどへ大勢の人が出かけた。なかでも、水天宮祝日の縁日には、午前十時までに守札が25万枚でたという。六月には、下谷金杉町の三島神社大祭をはじめとして、日枝神社大祭、庚申の帝釈天なども賑わった。七月の浅草公園は、納涼客を当て込んで、池中に舟を浮かべ影芝居や写絵などの趣向を凝らした。が、期待に反してそこそこの賑わいにしかならなかった。この年の夏は、隅田・両国沿岸周辺で涼を納る人が少なくなったようで、王子や池上などへ向かったようだ。八月の中旬を過ぎると、観月納涼を迎え再びすこぶる繁盛したらしい。
・菊人形にもなったチャリネサーカス
 九月にイタリアのチャリネ曲馬団が秋葉原で興行。チャリネ曲馬団は、団員が40人を超え、ゾウやライオン、トラ、ダチョウなども加わった大きな一座であった。演じる出し物もスケールが大きく、それまでの曲馬の見世物とは明らかにレベルの異なるものであった。当時はまだ上野動物園にもいなかった、ライオンやダチョウなどが人間と一緒になって芸をする。曲馬にしても、華やかな衣装の少女が馬上で踊りながら馬を操ったり、二頭の馬を操りながら女性が男性の頭上に直立して手を開く等、技術的な面でも旧来のものとは比較にならなかった。まさに、サーカスと呼ぶにふさわしい大仕掛けの見世物である。
 興行にあたってチャリネ曲馬団が使用したスペースは、大天幕四個を張って約6,600㎡というから、当時としては広大なものであった。そして、その中に、動物舎や円形の演技場などが設けられていた。興行は、平日が一回、土曜日曜は二回の興行が行われた。料金は最上等の四人枡席が8円、上等一人椅子席が1円、中等一人椅子席が50銭、最も安い席で20銭、子供は半額。動物の遊覧だけだと大人10銭、子供は5銭であった。なお、会場はあまりにも混雑するのでスリが横行し、警備の警官が増員された。
 十一月には、吹上御苑馬場内で天皇皇后陛下がチャリネのサーカスを観覧している。興行は、築地の海軍原、浅草公園でも続けられた。東京の市民の間では、チャリネのサーカスの話で持ちきりだったとみえる。チャリネ人気にあやかろうとしたのか、秋恒例の団子坂の菊人形でもチャリネの曲馬象が出品された。さらに、千歳座では、「鳴響茶利根曲馬(ナリヒビクチャリネキョクバ)」を上演し、チャリネに扮した菊五郎浄瑠璃が好評、料金を半値に下げた。チャリネサーカスの興行は約100日、観客数は10万人程度あったものと推測される。これは当時の人口から考えると、大ざっぱに言って十人に一人が見た計算になる。
 この年は、正月より市民のレジャーが活発で、秋になっても衰えなかった。十月の水天宮、戌年戌日には午前二時に人の山ができた。開門と同時に参詣人がなだれ込み、一時門を閉ざして参詣を留めたが負傷者が多数出た。その後も、巡査によって混雑をコントロールしなければならなかった。十一月の天長節は、好天温暖で各公園はもちろん、谷中・団子坂の菊花園など非常な賑わいで飲食店も繁盛し売り切れ札が出た。また、上流階級のレジャーも盛んで、特に鹿鳴館では再三舞踏会が開かれ、天長節には1700人もの夜会が催された。─────────────────────────────────────────────╴    

明治十九年(1886 年)の主なレジャー関連の事象
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1月Y野見宿禰神社境内の相撲は褒美付き飛び入りも可/読売
1月H藪入り、快晴で各公園相応の群集、飲食店や劇場も大入り、市中賑わいをなす/郵便報知
1月Q不忍池弁天堂で琴の演奏会/東京横浜毎日
1月E新富座で初春興行に、団十郎らカッポレを踊り喝采/日本演劇史年表
1月Y遊楽亭の阿波・東京合併人形芝居、諸事勉強で大入り/読売
2月Y初卯、早朝より店を出し参詣人も続々と訪れる
2月H亀戸臥龍梅・浅草花屋敷・大森蒲田など騒客も多かりし
2月 鹿鳴館ならでは夜も日も明けず、連日の舞踏会
2月H涅槃絵と二の午、好天気で信者出かけて賑わえり
3月H亀戸臥龍梅一日の収入40円、三月までに梅干し百樽売る、花と実で年1500円+梅酢で30円
3月C浅草公園内の花屋敷、改修一周年行事を盛大、入園者平日の十倍/朝野+読売
3月H柴又村の帝釈天へ、曲金の渡船場など大分混雑を極める
3月H回向院で山城国高雄山神護寺弘法大師開帳
3月 帝国大学生が自転車一台を購入し自転車会創設
3月H千歳座「盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめかがとび)昨今大入りすこぶる繁盛
4月Y神武天皇祭、好天により浅草・上野公園賑わう、上野のサクラ六分咲き
4月 不忍池競馬場、春期競馬会開催
4月 芝愛宕神社境内を公園とする
5月G浅草公園の開園式、人出賑やかに行われる/時事
5月H亀戸フジ・大久保ツツジ・各花園のボタン、潮干狩の居残り品川沖魚漁、飛鳥の摘草等遊歩人多し
5月H水天宮祝日の縁日、午前十時までに25万枚の守札を出す
5月Y順延の浅草祭、空前の人出で大賑わい
6月C下谷佐竹原の大廻り灯籠に、納涼かねた参詣多数
6月H下谷金杉町の三島神社大祭、山車などを曳き出し囃子屋台等を設け、相応に賑わう
6月H日枝神社大祭、軒提灯を掲げ揃いの浴衣を新調して仁和賀手踊りを出しすこぶる賑わう
6月H中村座、初日無料、二日目半額、三日目から景品も
6月H庚申の柴又帝釈天、相応の賑わい
7月Y浅草公園の納涼、池中に舟を浮かべ影芝居や写絵など趣向
7月Y中村座、「俊寛」など上出来で大入り
7月 軽井沢が避暑地として好適なことを紹介
8月H虎ノ門琴平神社祭日、悪疫除守を求めて参詣者多く雑踏
8月H隅田川沿岸の納涼、王子や池上などへ向かい減少したが、観月納涼で再び繁盛する
9月H大川中州で相州妙法寺、川施餓鬼を催す
9月 大日本音楽会の第一回演奏会を鹿鳴館で行う
9月Y道化茶番は芝居類似もの、出演の三人が拘束され過料
9月Yイタリアのチャリネ曲馬団、秋葉原で興行、好評、最上等枡8円~下等20銭
10月Y谷中、団子坂の植木屋18軒、造り菊開園、チャリネの曲馬象などあり
10月Y浅草花屋敷、造り菊して開園
10月 浅草六区の最初の劇場、常盤座が歌舞伎興行する
10月H水天宮、戌年戌日で午前二時に門前に人の山、開門と同時になだれ込み負傷者多数
10月○警視庁より演劇興行時間を八時間に制限される
11月H鍛冶職人の吹革(フイゴ)祭催す
11月H天長節、好天温暖で各公園はもちろん谷中・団子坂菊花園など非常の雑踏、飲食店も繁盛
11月T鹿鳴館で1700人の紳士淑女の大舞踏会を挙行する/東京日日
11月H慶応義塾、第一高等中学校、運動会を催す
12月E千歳座で、チャリネに扮した菊五郎浄瑠璃が好評、場代を半値にする/日本演劇史年表
12月Y浅草歳の市賑わう、羽子板は値下がり
12月Y浅草公園内のチャリネ曲馬、小学生は5銭に割引