娯楽も戦時色の三十七年

江戸・東京庶民の楽しみ 135
娯楽も戦時色の三十七年
二月日露戦争勃発、日韓議定書締結/三月旅順で広瀬中佐戦死
日露戦争下のレジャー事情
 前年より新聞は政府の意を受けて、強硬外交論を唱え、開戦へと世論を誘導した。大衆の対悪露感情を悪化させることによって、非戦論は完全に押さえ込まれ戦争へと突き進んでいった。二月、ついに日露戦争が始まる。大衆のレジャー活動にブレーキがかけられる一方で、戦捷祝賀会がたびたび催された。仁川・旅順での戦況についても、まだ戦いは始まったばかりなのにまるで勝ったかのように伝えられた。祝捷会の目的は、初戦勝利を祝うというより、大衆の戦争への士気を高めることであった。銀座通りには炬火行列などが繰りだされ、大衆の愛国心は戦争遂行へと導かれていった。大人たちが戦争熱にうかされる中、子供たちの間でも、あそびはもっぱら「戦争ごっこ」であった。この頃から一組15銭の日露戦争絵はがきも売り出された。
 三月早々に、向島百花園が軍人優待の準備。花見時になれば、上野公園に軍人無料の軍国花見茶屋が設けられ、余興に新橋芸者の江戸節や三田八橘蔵の手踊りなどが催された。この年の花見はいたって大人しく、悪ふざけをした道化や揃いの衣装で飾った団体客の姿もなく、景気づけに現れる流しの芸人もあまり見られなかったようだ。九段靖国神社遊就館では、仁川の戦利品や露国軍艦旗を目立つ場所に陳列し、多くの人々を招いた。四月下旬からは大久保の躑躅園でも、ツツジやボタンの花には似つかわしくない日露戦争活人形、旅順港閉塞決死隊、鴨緑江激戦などが催された。また、日清戦争で一山あてた川上音二郎が、好機到来とばかりに「戦況報告演劇」を企画。ただし、検閲を受けていたにもかかわらず、誤解されそうな場面があるという理由で開場前日に興行差し止めが入るなどのトラブルがあり、五月になってようやく上演された。
 五月、日比谷公園で対露戦市民大祝捷会が十万人を動員して開かれ、盛大な提灯行列が行われた。この提灯行列は、九連城占領を記念した祝捷会で、行進中に順序を無視して進み、馬場先門、桜田門で行列が混乱して、市民が20名も死亡、25名が負傷するという大惨事をひきおこした。以後、祝捷会は、会場内の参加者と場外の見物人とに区別され、式場とその周辺は警察によって厳重な警備がなされるようになった。それでも、祝捷会は、大衆にとっては現実の苦しい生活を一時でも忘れられる、お祭気分の娯楽であり、レジャーの一つとして受け入れざるを得なかった。
・相撲の不入りをよそに戦況パノラマ大人気
 肝心要のロシアとの戦いは、国内の報道とは異なり、苦戦の連続であった。旅順港閉塞作戦は、二月、三月、五月と三回にわたって決死の戦いが行われたが、ロシアの主力艦隊を壊滅させることはできなかった。しかし、上野パノラマ館では、鴨緑江畔大激戦や旅順港外露国旗船沈没大海戦の作品を完成させ、人々の来訪を待った。神田錦輝館では、日露戦争の従軍実況映画の第一報が公開、士気高揚が画策され、連日の大入りで公演を延長している。以後、続々と日露戦争の実写フィルムが上映されるなど、大衆生活の細部にまで戦争が入り込んでいった。一方、回向院の大相撲は、お客が来ない。最も観客数の多かった日でわずか721人と閑散としたもの。十日間合わせてもなんと、3,328人という不入りである。
 七月の入谷の朝顔市にまで、朝顔の大緑門が造られたり、日露戦争にちなんだ朝顔人形を並べて戦争ムードを盛り上げた。戦争とあまり縁のない上野動物園は、日露戦争で見物人が少ないとの記事がある。事実、入園者数は、二年前の半数程度、50万人を割ってしまった。そのうえ、地域の活動まで制約され、品川の天王大祭は、神輿の渡御が見合わせ。氷川神社の祭礼や町内会の行事は、旅順陥落まで待つように延期させられるという状況だった。前年賑わった各地の八幡の祭礼も、延期され、万歳を記した軒提灯を掲げることとなった。
・戦捷に便乗する大衆レジャー
 だから大衆の方でも、八月の両国の川開きには、戦捷をかねるというようにして楽しむというような智恵もついてきた。船には陸海軍の徽章を描いた提灯を下げ、料理屋も各国の国旗を飾るなどして盛り上げた。九月に、東京市街鉄道が祝捷のイルミネーション電車を運転したが、これも戦争で気分が暗くなりそうな大衆に、明るいムードを提供してくれることから人気を集めた。十月からの団子坂の菊人形も、日露戦争ものをテーマとして作られた。パノラマは、もともと戦争などスケールの大きい題材が適しており、浅草パノラマ館では南山激戦の大パノラマを興行した。暮れも近づくと、神田では「旅順要塞占領スゴロク」が売り出された。
 なお、浅草でも日露戦争ものが幅をきかせていたが、その一方で十二月には浅草公園ならではの興行も行われている。公園六区では、大盛館が江川の玉乗り、清遊館が浪花踊り、供盛館は青木の玉乗りと岩てこの太神楽(曲芸を挟む道化芝居)、娘手踊り美園一座、日本館で志紅松一座、清明館で加藤一座の剣舞、明治館では丸一仙太郎・竹沢藤治合併一座の独楽など。そしてなかで最も人気があったのは、岩てこの太神楽であった。ただ、浅草の歳の市の人出は、時局の影響で例年の三分の二にとどまり、商人たちは不景気を託っていた。また、納の水天宮も、正午頃から群集したが近郊・近在からの人出が思うように伸びなかった。
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明治三十七年(1904年)の主なレジャー関連の事象
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1月M初日の出、洲崎二号地、高輪海岸、芝公園丸山、愛宕神社、招魂社、神田明神湯島天神、凌雲閣等/都
1月Y初卯、亀戸の妙儀社、守り札人気、参詣者で雑踏/読売
1月Y深川八幡の初縁日が大賑わい
1月Y虎ノ門琴平神社縁日に開運守札5万枚
2月Q初戦勝利に銀座通りは、炬火行列などが繰りだす/毎日
2月M臥龍梅、木戸銭5銭となり、実利主義との声
2月 子供のあそびに「戦争ごっこ」流行
2月 東京かるた会の第一回競技会開催
3月E東京座で坪内逍遥の「桐一葉」が興行され好評/日本演劇史年表/国民
3月M演技座や国華座など日露戦争もの上演し大入り
3月M浅草公園に瀬戸物細工美術人形開設、日露戦争満州の兵火・道成寺・紅葉狩等
4月Yサッポロビール吾妻橋にビヤガーデン開設
4月M上野公園に軍国花見茶屋が設けられ、軍人無料、余興に江戸節や手踊りなどが催される
4月Y花見時、天候に恵まれ人出多し、鉄道乗降客休日30万人、向島迷子27、酩酊46等
4月 靖国神社境内の遊就館は戦利品などを陳列し、盛況
4月M大久保の躑躅園、日露戦争活人形などを催して開園する
5月Y靖国神社大祭、参拝の雑踏にスリ、迷子、喧嘩が多発
5月G本郷座での川上一座の戦況報告演劇が再度の検閲を受けて上演される/時事
5月G神田錦輝館で日露戦争の従軍実況映画の第一報公開、大入りで公演を延長する
5月A日比谷公園で対露戦市民大祝賀会に10万人が参加、混乱で提灯行列の市民20名死亡/朝日
5月Y上野パノラマ館、鴨緑江畔大激戦・旅順港外露国旗船沈没大海戦作品完成
5月M各地各会社等で提灯行列を催す
6月Y日本橋で提灯行列、帝国ホテルでも提灯行列
6月M品川天王大祭、神輿り渡御を見合わす
6月M回向院の大相撲、最大で日721人、合計3328人の不入り
7月Y入谷に朝顔の大緑門、戦争朝顔人形出る
7月Y神田錦輝館で日露戦争の実写フィルムを上映
8月Y両国の川開き、水陸とも黒山の人出
8月M吉原で祝捷旗行列、浅草公園で祝捷行列
9月Q東京市街鉄道、祝捷のイルミネーション電車を運転、市民の人気を集める
9月M各八幡の祭礼延期、万歳と記せる提灯を掲げる/都
10月Y団子坂の菊人形、時節がらいずれも日露戦争ものを催す、入場料五~十銭
10月Y浅草花屋敷の戦争人形、西洋操り人形もあって子供連れを誘う
10月 浅草パノラマ館で日露戦争の南山激戦の大パノラマを興行
10月Y真砂座で日露戦争実地活動写真を上映し、以後各劇場で日露戦争の活動写真を上映する
10月Q早稲田大学慶応義塾野球試合が早稲田の校庭で挙行、観覧者無慮2万と11/①
11月M一の酉は不景気ながら、比較的人出あり
11月M天長節を祝い、町は飾られ各公園は中なの賑わい
11月A日比谷公園に和風喫茶開店、洋食や玉突き場など併設、茶菓子五銭
11月 日比谷公園で国民後援会大会開催
12月Y浅草歳の市、人出は例年の三分の二、時局の影響と商人のグチ
12月M納の水天宮、正午頃に群集したが近郊近在の人出少なし
    この年、早稲田野球部が連戦連勝する