戦争の後を引く三十九年の庶民娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 137
戦争の後を引く三十九年の庶民娯楽
三月鉄道国有法公布/十一月南満州鉄道株式会社設立
・戦後の落ち着きを示す行楽の人出
 元旦の読売新聞には、お楽しみとして、劇場や寄席のプログラムが掲載されている。16劇場のうち14座が芝居、2座が奇術と浄瑠璃、寄席はあまりにも数が多くてすべてを紹介することができないくらいである。元旦は曇りであったが、初日や初詣に多くの人出があり、日露戦争によって抑えられていた大衆のレジャーが、復活しはじめたことがわかる。一月の回向院の大相撲は、晴天が続いていることもあって盛況で九日目は客どめになるほど。これは十日間連続して興行された。十日も続いたのは明治になって初めてのことらしかった、効率よく興行され、勧進元の利益は最高になるだろうと、書かれている。当時の相撲は屋外で行われてたため、雨が降れば中止になった。そのため、雨で中止になる時は、触れ太鼓を廻して知らせた。
 二月、明治天皇ガーター勲章を奉呈するため来日した、英国コンノート殿下の歓迎会が日比谷公園で催された。午餐のあと、大名行列が余興として行われた。大名行列のためには、城の古い戸棚や遠い田舎の蔵まで探して道具類を集めた。もっも、行列に参加した163人の中で、実祭の行列を見た人は数えるほどしかいなかった。殿下の随行者、ミットフォードは、幕末期に来日したことがあるので本物を何回も見ていた。そこで、付きの日本人が、彼に大名行列のことを訪ねた。彼は、そのことにちょっとびっくりしたが、大名行列を見世物にしていることや、それに日本人が何も疑問を持たないことをいぶかしく思った。
・レジャーの様相を見せる祝勝会
 前年から続いた戦場からの凱旋は、一月に入ってからも連日のように続き、二月の乃木大将らの凱旋でクライマックスを迎えた。凱旋軍は、閑院宮中将を総指揮官に砲18門を曳き日比谷公園へ入場、会場では手品や相撲などの余興、模擬店では芸者連が華やかに対応した。なお、式の終了後、群衆が食堂に乱入し模擬店の食物や装飾品などが奪い取られた。混乱で負傷者も数十人でたという、これは式に参加できない野次馬たちの騒ぎであろう。
  凱旋は三月も続き、凱旋祝捷会は様々な形で催され、凱旋将兵を迎える歓迎の宴は五月に入っても行われた。大衆が各地の凱旋祝捷会に何度となく参加したのは、戦争中に行われた祝捷会には違和感があったのに対し、凱旋祝捷会は心から納得できたからであろう。身内や知人が無事帰還した時の喜びは、戦争が激しかっただけにひとしおで、それを地域で祝う祝捷会は大衆の心を癒すレジャーであった。
・大衆レジャーとエリートレジャー
 二月、坪内逍遥島村抱月らが紅葉館で文芸協会設立の発会式を行う。演劇の改良や刷新をはかる動きは、三十七年頃からあったが、戦争も終了し本格的に始動しはじめた。この時期、一月の「酒道楽」、三月の「沓手鳥孤城落日」、四月の「寿永の秋」など意欲的な作品が上演されている。劇場観客数は、前年後半から回復傾向を示し、戦前を凌ぐ勢いで増加している。もっとも、革新的な内容を理解できた人は少なく、単に目新しさだけでもって劇場に出かけていた。西欧の文化を自分のものにできたのは、文芸協会の関係者を除けばごく一部の人であったにもかかわらず、大衆レベルまで広がったと勘違いしていた。
 同じことは、労働運動についても言える。人々は、戦争で身内を亡くしたり、経済的に苦しい生活を強いられたりしたのに、凱旋祝捷会をありがたがるという非常に矛盾した気持ちを持っていた。大衆は、西欧流の理性ではなくむしろ古い情緒的なものに動かされていた。ところが、社会党などの自由主義者には、西欧の労働運動がやがて日本でも同じように展開すると信じていた人が多かった。三月、日比谷公園で電車賃値上げ反対市民大会の際にも、計画されていた余興が却下されたことに何のためらいもなく大会を開催している。運動を先鋭化することで大衆がついてくるものと思い込んでいたのだろう。時には、九月の電車賃値上げ反対市民大会のように電車を襲撃し、投石や放火で大混乱を生じさせる大衆行動を誘発する。しかし、自由主義者たちは、過激な行動をくり返せば逆に、大衆の支持を失っていくことに気づかなかった。
 人々は、灌仏会に花見をかねて上野や回向院などに出かけ、両国から船で亀戸のフジを見物し、名物のくず餅を頬張ることに喜びを感じていた。五月に不忍池で開催された関八州連合の競馬にしても、堅縞小倉の武士袴に小袖を着け、白鉢巻きに襷十字の浅草芸妓が出場する初日は話題を集めた。が、余興がなくなると翌日からは観客が減少し、最終日は不入りとなったように、本場英国の競馬をめざしても大衆には受け入れられない。そこで、本邦初の賭博競馬が秋の池上競馬場で開催されると、都新聞は「公開賭博」「目覚しき札場の光景」と書き立てた。師走の競馬には、入場券が3円、賭札1枚5円でも人々が殺到し、最終日には8レースの賭札売り上げが35万円を超えた。
・スポーツはエリートレジャー
 この年の夏は暑かったと見えて、大森の八幡浜海水浴場が賑わった。海水浴場は、海中に紅白の旗を立てて、区分されており、海岸に座敷を設け、海水浴や温浴をさせた。海岸亭や掛け茶屋の料金は、一人5銭、弁当を持っていけば10数銭で浴塵を洗うことができた。茶屋では、浮き袋を貸すところもあって、海水浴が大衆のレジャーとして浸透しはじめた。八月の日比谷公園では、音楽会が催され、両国の川開きと重なったが大勢の人が集まった。一部の市民ではあるが、西欧の文化を理解しレジャーに取り入れる知識階級が台頭しはじめた。
 特にスポーツは関心が高く、十月の東京大学運動会では、棒高跳びで当時の世界新記録が出るようなレベルに達していた。野球も、前年渡米した早稲田大学は、対戦成績7勝19負ではあったが互角に戦うことができた。十一月の早稲田と慶応との野球試合は、あまりにも応援が過熱し以後無期延期になってしまうほどの盛り上がりを見せた。また、小学校でも校長が率先して野球を教える例もあって浸透しはじめた。この年、アテネでオリンピックが開催され、前年に招待状が届いていたが、日本は参加しなかった。                                                 ────────────────────────────────────────────────
明治三十九年(1906年)の主なレジャー状況
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1月M芝虎ノ門の初金比羅、前年より多し/都
1月Y亀戸天神の初卯、朝方晴天になり俄に景気づく/読売
1月M藪入り、各地で賑わい相応の潤いあり
1月H回向院の大相撲、晴天が続いて初の十日間連日興行する/郵便報知
2月M第二回凱旋軍歓迎会、盛大に催される
2月M靖国神社境内のトタン屋根の茶屋、寿司屋、汁粉屋、手品等の50余店撤去される
2月M英国コンノート殿下歓迎の大名行列が催された
2月M成田山節分会、5万人の参詣者
2月 芝の紅葉館で坪内逍遥らが文芸協会を設立19/国民
3月A日比谷公園で電車賃値上げ反対市民大会を開催、散会後騒擾⑯/東京朝日
上野公園に帝国図書館新築落成
3月E東京座で坪内逍遥の「沓手鳥孤城落日」が上演される/日本演劇史年表
4月Y神武天皇祭と花見客で上野駅大混雑
4月Y潮干狩りに400艘4000人も繰りだす
4月M上野公園不忍池畔で全国自転車大競争会催す
4月F一高と三高の野球試合に観衆一万五千人
4月M青山御所、大観兵式拝観客幾十万人にのぼるとの記事
5月F不忍池で、関八州連合の競馬会が15年ぶりに開催、浅草芸妓も出場⑱
5月M靖国神社例祭、4万5千人以上の参拝、迷子45人
5月M第三回凱旋軍歓迎会日比谷公園で催される、売店の給仕女946人
5月M各神社で祭礼、神田祭は歓迎会や凱旋等の物入りで別段の催し物なし
5月Y亀戸のフジ、両国から船で花見、一日3000枚の乗船券が売れる、大人5銭子供3銭
6月 松旭斎天一が東京座で奇術興行、一等90銭~四等20銭、英国人ルーらが加わる
6月M赤坂氷川、日枝神社、四谷須賀神社日本橋末広稲荷など祭礼
6月M品川天王祭6日より、新宿花園神社は7日より
7月M草市、一式揃いで15~25銭
7月M藪入り、浅草や各劇場など大入り、貸し自転車繁盛、飲食店も相応に潤う
7月 回向院で日米合同大曲馬一座が興行、特等1円、一等50銭~四等10銭、午後五時開園
7月M近郊の納涼場、十条の滝、十二社の滝、大森海岸、羽田、芝浦等、王子園は茶菓子付きで10銭
8月Y芝浦の花火、昼から大賑わい
8月Y日比谷公園の音楽会、両国の川開きと重なるが盛況
8月M大森八幡浜、海水浴で賑わう、浜茶屋5銭、風呂10銭、浮輪を貸すところもある
8月M入谷の朝顔、1万3千余鉢、9軒、安物5厘、売れ筋4~5銭で賑わう
8月M佃島住吉神社大祭
9月G日比谷公園で電車賃値上げ反対集会から電車襲撃、投石・放火で大混乱⑥/時事
9月Y神田川の乗合船、ハゼ釣り一人30銭餌付
9月Y新橋駅は学生や避暑客の帰郷で満員
9月M都新聞の演芸三傑で浪花節が一位となる
10月Y池上本門寺の会式、凱旋祝い、戦没者追悼も含み盛大
10月M浅草の十夜念仏と念仏踊り例年どおり執行
11月G早稲田慶応の野球試合は応援過熱で以後無期延期となる⑫
11月 東京大学で運動会開催、棒高跳びで当時の世界新記録
11月G文芸協会が歌舞伎座で「ヴェニスの商人」を上演する⑫
12月 神田東京座で天然色活動写真を興行する
12月Y池上競馬の賭札売り上げが35万円を超える