不況でも四十一年の娯楽は盛況

江戸・東京庶民の楽しみ 139
不況でも四十一年の娯楽は盛況
六月赤旗事件/十月戌申詔書/十一月高平ルート協定成立
・不景気でも劇場はどこも大入り
 銀行の支払い停止が前年から続いているような状態で、景気はさらに悪化していた。しかし、大衆のレジャーは前年を上回る勢いで伸びている。正月から市村座をはじめ各劇場は、大入、好人気などと新聞広告を出すほどの盛況。麹町有楽町の旧五二館跡で興行したチャリネ曲馬団も、特等70銭~三等15銭と入場料は決して安くなかったが好評。呼び物は、半哩(マイル)競争や障害物競争などの子供の競馬、動物の曲芸であった。人気が高かったと見えて、二月も上野広小路元勧工場後で興行している。
 初午、紀元節は好天に恵まれ、繁華街や、郊外のウメの名所に人々がくり出している。寄席や活動写真も盛況。それに対し演劇は、入場券制や切符の前売りなど欧米のやり方をまねた明治座の改革に、左団次が失敗し、興行数も減少した。明治座は、一月の途中からついに芝居がかからなくなり、二月には、急遽、英国人パアレー一座の奇術興行で埋めることに。彼らは田舎廻りの一座であったため、入場料も15銭均一と安くし、蒲団や火鉢、下足まで無料というような興行だった。演劇界は、東京座で新派大合同の「東風物語」が興行、話題になるなど、様々な革新の動きはあったものの観客層を広げるまでに至らなかった。
・行楽の自然に恵まれていた東京
 四月八日と九日、東京に何と大雪が降って、電線が切断され電話の三分の二が不通、街路樹などに被害が出た。当然のことながら咲いているサクラも雪を被り、花見どころではなくなった。満開時には盛り上がりを欠いたが、散りぎわに、下谷の料理屋や待合関係者が900名もの大仮装行列を催した。午前八時に上野公園不忍池をスタートした人々は、地走り屋台が賑やかに囃子立てながら鬼の念仏や藤娘などに扮して、続いて芸者連たちの女巡礼や御殿女中の練り歩き、住吉踊念仏踊、一本足鉞を担ぐ金時などが吾妻橋の札幌ビールめざして歩いた。沿道はいたるところで人の山をつくり、電車を止めるようなこともあったが、昼頃には舞台や模擬店の用意された会場に到着し、打ち上げ花火が揚がった。宴会は、いよいよ佳境に入り、仮装の踊りや手品なども披露され午後四時頃散会となった。また、常磐津連も上野公園で、揃いの日傘や手拭いをあつらえ、2000人を超える花見。他にも茶番や行列が出て訪れた花見客を楽しませた。
 当時の東京は、市内でも農業や漁業が営まれていたくらいだから、自然がまだあちこちに残っていた。そのため行楽は、現代のように緑を求めて出かけるというより、もっと積極的なふれあい、たとえば花見、汐干狩、摘み草、螢狩り、秋草、紅葉狩りなどが行われていた。小石川区江戸川のホタルが特に有名だが、七月には皇居丸の内濠端にもホタルが繁殖(日露戦役中祝賀に数万匹放たれた)、この時期は螢狩りで賑わった。都心にもホタルが生息できる自然環境が十分残っていたと言える。七月の朝顔市は、入谷に開花園をはじめ七ヶ所、本所には四目ほか十数ヶ所、その他、芝公園の苔香園や麻布仙台坂仙華園など市内各地で催された。九月、向島百花園で放虫会が催され、園内には数百の雪洞が飾られ、芝錦子の歌沢が演奏された。
・夏も東京の街中で遊べた
 藪入りの浅草は、大衆レジャーのメッカ的とも言える存在であった。大盛館は、昼間に江川の玉乗りを興行、夜は源氏節芝居を上演。清遊館は浪花踊り、第一共盛館は美園一座の子供芝居、第二共盛館は活動写真、三友館は活動写真と電気舞、朝日館と電気館も活動写真、明治館は丸一太神楽、清明館は加藤一座の剣舞、日本館は都踊、小松館は清国人の手品、江川館は上野戦争活人形、と様々なだしものをかけていた。その他にも、浅草公園内には、常盤座、パノラマ館、水族館、木馬館、昆虫館、花屋敷、さらには浅草の象徴、十二階建ての凌雲閣が訪れる人々を待ち受けていた。周辺では中元福引き大売出しが開催。浅草は、娯楽施設として訪れるだけではなく、観音さまへ参詣が目的の信心深い人が大勢いたことも忘れてはならない。
 川開き、船客が多かったとみえて「水上は船の林」という見出しがある。霊雲寺廿一日講という幟を立てた大伝馬船二艘には、八十八ヶ所の大師参りのお婆さん連が御詠歌を唱え、鐘の代わりに茶碗を叩き大浮かれ。この船の隣には、山の手の商店と思える一団がカッポレを雇って、三味線を掻き立て騒いでいた。船の間を、「氷、氷、枝豆や」と叫びながら漕ぎまわる男もいたが、その値段は目の玉が飛び出るくらい高かった。半玉が二三人カッポレを踊る中に後ろ鉢巻きをした二十四五の男が「可愛い男を乗せかけて」と唄いながら変な腰つきをしていたところへ、横手から船が衝突、ひっくり返る。また、鳴り物入りの古風な写絵船が佃節の囃子で、川開きらしさを盛り上げていた。当日の人出は、「無量十万」と書かれ、10万人にも迫るほどの混雑ぶりだった。
・大衆映画にアイドル誕生
 浅草には、江戸時代の見世物から最新の活動写真まで、一通りの娯楽が揃っていて、流行を敏感に察知できるところであった。大衆の関心が活動写真に向かっていることは、我が国最初の活動写真専門館の電気館や三友館などの5~6館が建ち並んでいたことでもわかる。ちなみに市内には、神田の錦輝館、新生館、立花亭、芝の小金井亭、牛込の高等演芸館などが活動写真館として知られており、なかでも錦輝館が設備も良く評判が高かった。つまり、市内の活動写真興行の大半が浅草に集中していた。そのため、浅草の活動写真館どうしの集客競争も激しく、電気館などは夏の暑さを少しでも緩和しようと、きれいな花を中に入れた大氷柱を館内に二ヶ所設置した。
 九月、神田錦輝館で尾上松之助が主演する「本能寺合戦」が公開。尾上松之助は、「目玉の松ちゃん」と呼ばれて、大衆映画のアイドルとして大活躍、四十二年からの約三年間に168本もの映画に出演している。大衆の関心は、演劇から活動写真の方に移りつつあった。この年劇場観客数が364万人と前年に比べて43万人も減少したのに対し、活動写真を含む見世物は、174万人も客数が増加して521万人になっている。
 十月、米艦隊が横須賀を訪れ、東京で盛大な歓迎会がいくつも催された。特に、日比谷公園での大園遊会は、武者行列などが演じられ、そのほか各地で多数の行事が行われた。このお祭騒ぎがあったためか、酉の市は人出も売行きも今一つであった。また、競馬も目黒、板橋、川崎いずれも振わず、観客は100人前後、板橋競馬の二日目は奥様族が20人たらずという淋しいありさまであった。
 
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明治四十一年(1908年)の主なレジャー状況 
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1月 チャリネ曲馬団が麹町有楽町の旧五二館跡で新帰朝の藤川一行も加わえて昼夜二回興行
1月M左団次、入場券制や切符前売りなど明治座改革に興行妨害等で失敗、二月の明治座は15銭でパアレー一座の奇術興行/都
1月M水天宮の賽銭、8500+5500(札)
1月 目黒行人坂に初の撮影所ができる
2月M成田山の豆まき4万人の賑わい
2月M初午と日曜日が重なり各地の稲荷詣で賑わう
2月M女義太夫界分裂、初代綾乃助が調停する。四月に女義大会
2月 日比谷公園の普選国民大会を禁止、警官数百人を配置する             
3月Y彼岸中日、浅草観音の賽銭1日40円、参詣人2万人/読売
3月M東風物語、好評につき真砂座で再公演    
3月M荷足り35~40銭・大伝馬4.4~5円・乗合20~30銭
3月 浪花節の名手、桃中軒雲右衛門が本郷座で口演興行
4月 曽我の家一座が新富座で喜劇を興行、一等80銭~五等20銭

4月Y吾妻橋の札幌ビール庭園へ700余名の花見の仮装行列
4月M荒川堤で全国自転車大競争、一銭蒸気で押しかける
4月M常磐津連も揃いの日傘等で茶番等の花見
5月M靖国神社大祭、小児の曲芸は虐待、大鯱は悪臭で興行禁止、人出多く警備の警官が非難される
5月Y神田明神の大祭、五日間
5月 池上競馬に臨時列車運転
6月G丸の内濠端に蛍が繁殖し、螢狩りで賑わう/時事
6月W京山若丸が本郷座で新派浪花節を興行、空中飛行機との演し物が耳新しく評判に/中外商業新報
7月M藪入、この年写真館の割引特に多し、浅草公園界隈で中元福引き大売出し
7月Y日本体育会の大角力、特別80銭、普通50銭
7月 本郷座で昼夜活動写真「右団次親子の鈴ヶ森」等上映、一等50銭~五等10銭
7月T入谷の朝顔市、吉野園を始め十数箇所で朝顔・盆栽等が売られ、アサガオ大20銭中15銭/東京日日
8月H報知新聞社主催の全国水泳競争大会が隅田川で開催される/郵便報知
8月M川開、無量十万、陸上は人の波、水上は船の林
8月 日比谷公園、夜は男女密会が多く巡査取締る
8月 宮岡天外一座が明治座で催眠大魔術奇芸を興行、初日25銭
9月Y向島百花園で、放虫会を催す、会費50銭
9月M尾上松之助の活動写真「本能寺合戦」が神田錦輝館で公開
10月M池上の御会式、近年稀なる人出と賑わい
10月M湯島天神大祭、神輿・山車・地囃子
10月M米艦隊歓迎、日比谷公園園遊会等、各地で多数の行事
11月M初酉、浅草田圃・四谷須賀神社・深川八幡、賑わうが売行き少なし
11月 井上角五郎が小石川後楽園で、3500余人を招待する大園遊会を開催
11月 団子坂、浅草公園花屋敷等で菊人形を催す 
12月M競馬、目黒、板橋、川崎いずれも振わず
12月Y浅草観音の歳の市、夕方に強風止んで羽子板店が大繁盛