オリンピックと満州国に沸く七年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)211
オリンピックと満州国に沸く七年夏
 七年の夏は梅雨空が続いた、湿ったムードはレジャーにも及び、七月の人出は少なく、特に浅草は寄席をはじめ沈滞したままであった。市内は、これといったイベントもなく、あるのは国技館満州博覧会と川開きの花火くらいである。満州博覧会、所詮官製の宣伝イベント、この時点での入りはあまり多くはなかった。雨が降り、藪入りに行く場所のない人が博覧会に蘆を運んだ。
 川開きは、数字の上では百万人の人出。しかし、「事故調べ」などの数値からは、そのまま信じられないような気がする。そして、「呼物は野村提督、植田将軍-頭のいゝのは省線から、ビルの上から」に加えて、それのキャプションに「昭和川開きの新風景」と付け加えている。「呼物」とは、提督や将軍などの仕掛け花火である。それを「時局物」と形容する記事、花火大会にまで軍を意識する新聞、それが当時世相なのであろう。
 市民の行楽への活動が顕著になるのは、暑くなり、海へ繰り出してからである。そして、ロサンゼルスオリンピックが始まり、実況放送に耳を傾け、市内はオリンピックに湧いた。だが、市内の人出は変わらず、地域の行事も盛んとは言いがたい。そんなムードを払拭するためか、市民の関心をオリンピックから満州国へと向ける、「日満デー」や「満州事変一周年、靖国神社慰霊祭」などの官製のイベントを仕掛け、動員して盛り上がりを演出した。
 荷風は、「近年人心の殺伐になりたるはこれにても思知らるるなり」と当時の東京を観察している。

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昭和七年(1932年)七月、御茶ノ水駅・両国駅間が開通①、月初めは雨で人出は藪入りまで少なかったが、以後は暑さを逃れて凄い人出が海へ向かった
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7月2日A 寄席のSOS、5銭でも入りがない
  7日Y 仲見世 江戸名物の一つ、沒落の悲運へ 全てを語る お盆装飾の中止
  11日y 湘南海岸大賑わい、海開きで鎌倉二万五千、逗子葉山一万二千、片瀬、三万の人出
  16日y 雨でどこも「淋しい藪入り」
  17日y 雨の藪入り「どっと満州博へ」国技館
  18日A 浜町の盆踊り大会、賑やかに
  18日y 前日の日曜、湘南へ一万五千人
  20日ka 銀座の表通はいつもよりも賑なる
  24日Y 川開き「押出たり・百万人」(遊覧船三千五百艘、水上十二万人、陸上八十九万人)
  25日y 凄い人出、臨時電車は横須賀線四十往復、東海道線も十六、房総方面へ七と増結。大森・羽田海岸は正午で十万人、鎌倉・逗子等は六万五千人、稲毛・千葉に十万人など
  27日y 新橋演舞場アル・カポネ」他、好評日延べ、一円均一奉仕デー
  31日ka 桜田本郷町電車通に鰻を水桶に泳がせ釣堀の看板出したる露店十箇処ほどあり
 
 築地小劇場での共産党演説会が開会と同時に潰されたり、魚市場などの争議、失業保険の申し込み者が激増と、明るい話題に乏しい。藪入りは、雨で遠出する人が少ないだけでなく、浅草の興行街でさえ淋しいありさまであった。浅草は、仲見世が四万六千日の酸漿市はもちろん、お盆の装飾まで中止するという凋落ぶり。ただ、国技館ではじまった満州博覧会はそこそこの人出があったが、読売新聞社主催だから「どっと満州博へ」を、そのまま信じることはできない。
 それでも暑くなるにしたがって、十日の日曜は湘南海岸の海開きで、「五万人」を超える人出。次の日曜も「湘南へ一万五千」の賑わい。子供の夏休みに入った最初の日曜、「海へ海へ!山へ! 超満員の各列車」と、それまでの最高の人出となった。二十四日はさらに多く、横須賀線東海道線が臨時電車を運転した。大森・羽田方面に正午で10万人、鎌倉・逗子方面に6万5千人、稲毛・千葉方面に10万人など、この年最高の人出となった。
 また、二十三日の川開きは、天和二年(1682年)にはじまって以来二百五十年ということもあって、打ち上げ花火500発、仕掛花火34発が盛大に打ち揚げられた。人出は「百万人」、不景気のためか、酔っぱらって保護されたのは1名、迷子15名、検束15名とされている。

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昭和七年(1932年)八月、ロサンゼルスオリンピックの実況放送⑦、市内はオリンピックに湧いているが、人出はあまり多くない
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8月8日Y 羽田沖で海水浴客満載の伝馬船転覆して十数人溺死
  11日ka 烏森稲荷の縁日を歩む
  16日y 深川富岡八幡の祭礼「蔭祭りでもさすが夏祭りの豪華版」
  16日A 日比谷新音楽堂でオリンピック映画会、超満員

 魚市場の争議が解決しても、また日活の争議やガソリンの不買運動、だが、そのような暗い記事を吹き飛ばすようなニュースが入ってきた。七日からロサンゼルスオリンピックの実況放送がはじまり、水泳・陸上で日本選手の活躍、新聞でも大々的に取り上げ、国民につかの間の興奮をもたらした。
 市内は、荷風の九日の日記では、「神楽阪夜店の人出も今年は例年より早く途絶えがちとなり、十一時過には夜店も仕舞い」と。また、二十日には、「四五日前より毎夜日比谷公園にて富士見町芸者の盆踊りある」と。また、深川富岡八幡の祭礼は、「蔭祭りでもさすが夏祭りの豪華版」とあるように、夏のレジャーはそこそこ行われていた。

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昭和七年(1932年)九月、市電スト③、満州国承認⑮、市民の関心はオリンピックから満州国、関連イベントで市内は賑やか
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9月2日a 震災記念堂へ午前中に十七万人
  3日ka 銀座表通の夜市を看る
  4日Y 日比谷公園新音楽堂でオリンピック選手歓迎報告会
  5日Y 満州博、前日の日曜二万人を突破
  11日y オリンピック選手歓迎陸上競技、スタンド満員
  16日y 「日満デー」靖国神社で祝賀会、宮城へ四万人の旗行進
  18日y 浅草帝国・麻布松竹・新宿松竹・新富座 「不如帰」満員御礼
  19日y 満州事変一周年、靖国神社慰霊祭
  25日a 一年ぶりに六大学そろってリーグ戦開幕
  29日a 帝国劇場等「歓呼の涯」他好評続映

 オリンピックの興奮は九月に入っても冷めやらず、三日に日比谷公園新音楽堂でオリンピック選手歓迎報告会が行われた。十日には神宮競技場でオリンピック選手歓迎の陸上競技が催され、メインスタンドは都下小中・女学校生徒らで満員となった。
 四日の満州博覧会入場者が「二万人突破」したように、九月の話題は「満州国」。十五日に承認。靖国神社で帝国在郷軍人東京府連合会の主催による国民的祝賀会が催された。式後の「四万人の旗行進」は「勇壮な軍歌に足並そろえ」、三宅坂を経て「宮城前に至って万歳を三唱」して解散。なお、「旗行列の出発」写真は、ほとんどが動員されたと思われる女学生で占められていた。十八日は満州事変一周年、靖国神社で慰霊祭が盛大に行われた。
 荷風は、三日、銀座の夜市で「闘魚とよべる鮒の如き小魚を売るものあり。人多く集りて小魚の盆中に在りて噛合うを見て喜べり。近年人心の殺伐になりたるはこれにても思知らるるなり」と日記に記している。