不景気浸透に遊びにも暗い陰の五年冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)201
不景気浸透に遊びにも暗い陰の五年冬

昭和五年(1930年)のレジャー関連事象 
 浜口内閣は、二月の衆議院議員選挙に圧勝し政権は安定していたが、ロンドン条約の対応に追われ、恐慌によるデフレをくい止めることができなかった。労働者の賃金の値下げ、解雇、ストライキ、不況はさらに悪化した。市内には「家財を売払って悲壮な甦生へ『露店時代』の出現早くも八十七ヶ所」Y(21)いう状況も生まれた。
 事件としては、四月に養育資金目当ての41人もの貰い子殺し発覚、七月から東洋モスリンのスト、十一月に浜口首相の狙撃などがあった。
 東京市内のラジオ聴取者は約12万、電話の単独加入者が約10万。市内の総世帯数が41万世帯、ラジオと電話のある程度の家庭を中流以上とすれば、約3割が該当する。残りの7割は下層。下層の中でも「細民」される人々は、読売新聞7月29日の朝刊によれば「4万1千世帯」あり、市民の一割を占めている。なお、上流を自家用車所有者とすれば、3%となる。
 市民レジャーは、三月末に「帝都復活祭」、十一月に「明治神宮鎮座十年祭」などのイベントがあったものの、市民の祭や行楽は全般的に低調であった。ただ、不景気を反映してか、入場料の安い映画は1,882万人と前年の一割を上回る観客増。スポーツ観戦も安いことから人気で、六大学野球リーグ戦は満員で入場できない試合がいくつも出た。
 流行したのは、『祇園小唄』『唐人お吉』など。

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昭和五年(1930年)一月、ロンドン海軍軍縮会議開会(21)、「こわごわ迎えた 緊縮二年の初景気 興行界の大繁盛に引きかえて引きたたぬ株屋街」A⑤
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1月3日Y 成田山初詣、京成電車一万七千名と参詣者減る
  5日a 「不景気を吹き飛ばした浅草公園のお正月」
  6日y 初水天宮、大に賑わう
  7日ka 溜池の舞踏場へ往く・・黙々として舞踏するのみ・・・女学校の体操場に似たり
  10日a 大角力春場所初日、民衆デーで朝からの盛況
  11日A 「さびしい国技館 二日目の勝負」
  16日a 「きょうは梅日和」盛り場は藪入りの前景気で賑わう
                                                
 昭和五年の正月は、申し分ない天候に恵まれて市内の盛り場はものすごい人出。特に、浅草興行街の三箇日は、「レコードを破った活動の入」と前年の三割以上も入りが多い。上野動物園も、3万4千人を超え前年より1万人以上も増加。もっとも、交通機関は、不景気を反映して遠出が減少したことで減収。七草まで天気だったので、市内の人出は続いた。
 九日の大相撲春場所初日は、恒例の「民衆デー」で早朝四時開場、十時には満員という盛況。二日目は恒例化した「さびしい国技館」。それでもこの年は、八日目が午前中から大入り満員、十日目満員、千秋楽は客止めという盛況だった。
 藪入りの十五日は天候に恵まれ、盛り場はどこも賑わった。その後も晴れが多く、綺堂は「今年は例に比して寒気が軽いようである」と書いている。一月の映画観客数が前年よりも多く、不景気にしては、市民のレジャーは活発であったらしいが、新聞には賑わいを伝える記事が減っているように感じる。                                       ───────────────────────────────────────────────
昭和五年(1930年)二月、第十七回衆議院議員総選挙民政党大勝⑳、共産党全国的大検挙(26)
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2月3日A 新橋演舞場淀君」他、初日二日満員御礼
  4日A 追儺式、太刀山など年男だけで五百人、芝増上寺に四万人の見物
  11日A 「どこも今が見頃です」梅見の案内
  12日a 建国祭、6会場に四万数千人の大衆
  17日Y 白蓮、銀座の露店で1枚3円で短冊売り選挙資金稼ぎ
  21日A 明治座「佐倉義民伝」大入り満員日延べ
  25日Y 浅草の福引大盛況、50銭以上の買物でタンス等の景品
                                                
 二月に入り雪が多い。それでも追儺式には多くの人が出かけ、浅草や川崎大師では前年の三倍の人出とか。芝増上寺は、太刀山などをはじめとして「年男だけで五百人」も並び、「見物四万人」という盛況であった。
 建国祭は、靖国神社などの6会場に青年団在郷軍人、学生、各種思想団体、神仏各派団体など「四万数千人」が参加して盛大に催された。集会後、各会場から「寒風吹き荒む中を 雄々しき大行進」が二重橋前へ。
 二回目の普通選挙が行われ、市内は選挙運動でうるさかったようだ。岡本綺堂の家の前にある麹町小学校でも、浜口首相の演説のトーキーが映写された。二十日の投票が終わると、不景気ということもあって市内はまた静かになった。

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昭和五年(1930年)三月、東京劇場開場式(29)、帝都復興祭で様々なイベント、市民は復興祭に沸き上がる
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3月1日A 国技館で北海道博覧会開催、二ヶ月間
  11日A 「帝都をあげてさながら戦時気分 九段に日比谷に朝来引きも切らぬ人出」
  10日A 日露戦争二十五周年記念音楽大行進
  10日ka 虎の門金比羅の賽日
  15日Y 「読売新聞」に「釣り欄」登場、20日には「競馬欄」
  17日A 聖徳太子奉賛美術展開会
  17日A 「春初めての人波」「浅草六区は殺人的混雑」
  20日A 春季野球序幕、三田対稲門戦かなり賑わう
  21日Y 「空と海の博覧会」20日から開催
  24日ka 荷風、銀座通りより上野広小路の賑いを看
  25日a 復興祭、御行幸の沿路に揚る奉拝市民実に百万
  26日a 帝都復興祭祝賀、小学生十万の旗行列、夜は二万人の提灯行列
  26日ki 午後一時ごろ麹町を散歩、下町方面へゆく電車はみな満員
  27日A 帝都復興祭「歓喜の乱舞の中に 沸立つた全帝都 昨日の人出実に二百万」
  31日A 飛鳥山は満開だが酔う客もなく至極閑散
 
 三月に入り、新聞は、関東大震災からの復興祭関連の記事を書き立て、市民の関心を盛りあげている。十日、日露戦争二十五周年記念に因んだ陸軍軍楽隊の音楽大行進が、靖国神社から日本橋日比谷公園まで行われた。復興祭気運を受けてか、その日の賑わいは、「帝都をあげてさながら戦時気分 九段に日比谷に 朝来引きも切らぬ人出」と伝えている。
 十六日の人出はさらに多く、特に浅草六区は「殺人的混雑」で5銭のアイスクリームやラムネが飛ぶように売れた。新宿の人出もすごく、三越の食堂が二時に売り切れ、なお「蜜豆はお昼頃に売切」という。
 二十四日から三日間、関東大震災からの「帝都復興祭」。市内はお祭り気分に沸き立ち、「昼の人出二百万にも増して」復興第一夜は賑わった。復興祭の式典は二十六日、宮城前に「一万五千余の招待者に一般参列者を加えた五万八千余名」のもと、三十分足らずで終了。その後の祝賀会は、日比谷公園でこれもまた三十分足らず。市内の各小学校も祝賀式、式後、三年生以上「十万人」の生徒は各町内を小旗を振って行進。中等学校生徒、青年団などは夕方靖国神社など四ヶ所に集合、「二万人」が宮城に向かって提灯行列が行われた。
 市民の多くは、授業がなくて喜ぶ子供達に引きずられるかのように外出。その日の「人出実に二百万」。朝日新聞社主催の市民公徳運動大行進、復興祝賀広告祭の仮装行列もあって、「銀座街を中心に殺人的な大群衆」、まさに「人波」で街が埋まった。群衆がいかに多かったかは、上野公園近くで「群集に押しつぶされ」「二十余名の死傷」が発生する程。帝都復興祭に浮かれる市民は、「夜空を彩る花火に相和して」、またカフェーなどの深夜営業が許可されたことから、終日騒ぎ続けた。