首相暗殺も変わらぬレジャー気運の七年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)210
首相暗殺も変わらぬレジャー気運の七年春
 市民の話題となっている「爆弾三勇士」、その真相は明らかにされず、都合のよいように伝えられたものである。さらに、一月の第一次上海事変も、日本軍部が中国人を買収して、日蓮宗の日本人托鉢僧を襲わせ、それを口実にして始めた中国軍との軍事衝突だ。それも、前年の満州事変の批判を国際社会から目をそらすもので、中国人民の抗日運動を弾圧するのが狙いであった。そのような事実を知らない東京の人々は、勝利を信じて浮かれていたのが四月の人出である。
 五月には五・一五事件、なんと海軍将校の一団が現職の犬養首相を射殺する。市民は、ただならぬ事をわかってはいるが、抗議行動などできる情勢でない事もわかっていた。この事件は、大正時代から続いた政党内閣によるデモクラシーの可能性が無くなり、軍の独裁を認めさせることであった。政府は、議員達の汚職や疑獄、資本家の暴利を野放し、国民の生活苦に何の歯止めをかけられなかった政党内閣は幕を閉じ、軍国主義体制に入った。そして、マスコミも、批判的な記事はもちろん、真実や正確な記事を書くことに及び腰になった。
 さらに、戦争が今後拡大すること、市民の取り締まりが強化されること(警視庁に特高警察部設置)、そのような不安を感じさせないように仕向けているようだ。当時の新聞を見ていると、人々は何事もなかったように、行楽を楽しんでいるように記されている。

 三月に発売の『影を慕いて』(古賀政男作詞・作曲)、藤山一郎が歌い、歴史的大ヒットを記録した。また、同月の銀座柳復活祭の際、『銀座の柳』(西條八十作詞・中山晋平作曲)、四家文子が歌う、などの歌が流行する。          
───────────────────────────────────────────────
昭和七年(1932年)四月、ラジオ聴取料値下げ(1円から75銭)①、靖国神社大祭日を休日に制定⑬、第1回日本ダービー(24)、名残の花見 押出した人波百万、靖国神社臨時大祭
───────────────────────────────────────────────
4月2日A 「賑う銀座 柳祭り」
  7日y 千余のチンドン屋さん組合誕生の大行進
  8日y 五大学リーグ戦幕開く
  11日A 「まさに花見戦場 春の行楽いも洗い」
  18日A 「昼夜を分たず名残の花見」押出した人波百万
  25日y 勅諭五十年大祝典、宮城前広場に参列七万人
  27日A 靖国神社大祭「三十日まで 奉納武道や余興」「花火打揚げ 両国川開き以上の壮観」
  28日ka 招魂社祭礼なれど色町は静なり
  29日A 靖国神社大祭「九段にわく 臨時大祭景気 興行物も超満員」
 
 四月に入り、十日の日曜は、上野動物園が「概算六万人を超え」る入場、飛鳥山は「身動きもならぬ人の山」で迷子が76件など、その日の人出は「凡五十万」人と言われた。なかでも、羽田穴守の潮干狩りは、電車で訪れた人は「二万に及び 電車に乗れないで歩いた人はその倍」も訪れた。そのため町全体が土産のハマグリ屋と化し、風呂屋は裏口を開けて3銭で足を洗わせ、海岸からハマグリを担いで帰る人でごった返した。
 十七日は、名残の花を求めて「押出した人波百万」と、さらに多くの人出。二十六日、靖国神社で花火が打ち揚げられ、靖国神社臨時大祭は前夜から「二十万」の賑わい。以後三十日まで、奉納武道や余興などが続き、二十七日の一時頃には「人出三十万!」(迷子60名)a(28)となった。戦争後の大祭だけに景気が良く、賽銭も多く、それにもまして「興行物も超満員」、曲馬の見世物が約3千円、レビューが1千5百円、オートバイが1千円など合わせて1万2~3千円にもおよんだ。5百軒の露店も、飲食店とゆで卵屋はたちまち売り切れ、人出が多すぎて仕入れができず儲け損なったほどだった。市内は、天長節の二十九日から水天宮大祭A(29)の五月二日まで花電車が運行され、市民のレジャー気運は高まった。

───────────────────────────────────────────────
昭和七年(1932年)五月、首相官邸犬養毅首相射殺される⑮、「熱狂の渦巻きの中」チャップリン来日
───────────────────────────────────────────────
5月2日A 「遂に検束メーデー 千二百余名に及ぶ 当局徹底的の弾圧」
  4日y 靖国神社で聯盟角力第一日
  15日y 協会相撲初日
  15日A チャップリン来日、東京駅は「熱狂の渦巻きの中」
  16日ka 水天宮神輿の行列と遇う
  19日Y 三社祭、神輿の下敷きでケガ
  29日A オリンピック最終予選、神宮外苑競技場はメインスタンドを埋めつくす盛況
                                                
 一日、銀座は「日曜日なれば街上雑沓すること甚し」。六日も銀座は「散歩の男女絡繹たること毎夜の如し」と荷風が見ているように、五月に入っても市民の行楽は続いた。
 その一方で、メーデー、反トーキー争議と市内の騒ぎは絶えない。十五日、海軍将校の一団が首相官邸犬養毅首相を射殺する、「五・一五事件」が起きた。市内は騒然として、重苦しい雰囲気が漂った。ただ、その前日に東京に訪れたチャップリンの話題があったことで、新聞の紙面は事件の深刻さを和らげていたようだ。十五日付の新聞は、東京駅に着いた米国の人気俳優チャプリンを大々的に取り扱い、熱狂するファンの様子が社会面の大半を飾った。
 首相暗殺によって社会がただならぬ事態で、市民はレジャーどころではないことを察ししている。しかし、映画や演劇などの観客が減るというような影響はなかった。また、スポーツ観戦の人気も衰えることなく、二十八日の陸上競技オリンピック最終予選は、神宮外苑競技場のメインスタンドが埋めつくす盛況であった。

───────────────────────────────────────────────
昭和七年(1932年)六月、オリンピック選手出発(23)、警視庁に特高警察部設置(29)
───────────────────────────────────────────────
6月2日y 公園利用調査、三日間で二十五万人
  5日Y 明治座新国劇丹下左膳」他満員御礼
  5日a シネマ銀座・武蔵野館「グレタ・カルポのロマンス」満員御礼
  6日A 新宿松竹・武蔵野館で「突如映写を止め 観衆に争議の挨拶」
  12日a 浅草帝国館等「天国に結ぶ恋」満員御礼
  18日ka 銀座、土曜日にて雑沓甚し
  24日y オリンピック選手出発、東京駅は見送りの人で埋まる
  25日y 凱旋九将星「東京駅から宮城まで数万の群衆万歳の包囲攻撃」
  27日y 日曜晴れて「海へ」、千葉稲毛の房総方面へ午前中数万

 鮎解禁、花菖蒲など恒例の行楽は続くなか、映画館の満員御礼広告がたびたび出ている。五日の日曜、書き入れ時にもかかわらず突然映写機を止め、観衆に争議の挨拶をするというストライキが新宿松竹と武蔵野館で行われた。映画界は、トーキー映画の普及や不況で争議が続いている。
 二日付で日比谷公園をはじめとする市内12ヶ所の公園の利用者数が発表された。五月末の三日間で約26万人の利用があり、「喜ばしい傾向」と書かれていた。なお、上野公園と浅草公園を除く市内の公園利用を推測すると109万人程度になり、いかに多くの市民が日常的に利用しているかがわかる。
 六月も末になると暑くなり、二十七日の日曜は晴れ、「千葉稲毛の房総方面へ午前中数万」もの人々が海へ出かけた。