不穏な空気の漂う中での七年冬のレジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)209
不穏な空気の漂う中での七年冬のレジャー
 一月末上海事変勃発、一月の衆議院の解散を受けた二月の総選挙で政友会大勝、三月に満州国成立、七年の冬は、異常とでも言える事件や出来事が続いている。他にも、天皇の馬車が桜田門外で爆弾を投げつけられるという、72年前の桜田門外の変を思い出させるような桜田門事件がある。翌二月には、前蔵相井上準之助が本郷で射殺される。さらに三月、三井合名会社理事長団琢磨日本橋で射殺される。
 これだけの出来事の発生する中、市民は案外平静を保って過ごしているようだ。もう何事が起きても驚かない、麻痺しているのか、受け入れる世相ができているか、現代からは考えられない状況が浸透していた。そして、五月には首相が銃殺される。
 では、現代とどのくらい異なるのかを問われると、返答に窮する。安倍もと首相が銃殺された事件後の国葬論議されず既成の事実として浸透している。受け入れる世相ができているのではなかろうか。そのような現代から、昭和七年、90年前を批判や評価することができるのであろうか。強いて言えば、多少言論の自由が認められ、様々な意見を発言できるようになったことだろう。しかし、七年二月には、日比谷市政会館で立憲民政党の演説会があり、人数はわからないが「満員ハチ切れる」とある。当時でも、一部では自由な議論の場が残されており、追求されていたことは確かである。
 さて、当時の東京市民の一月の話題は相撲界の分裂、二月は爆弾三勇士である。街中の人出は、満州事変の不安が和らいだのか、馴れてしまったのか、前年より増えている感じである。

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昭和七年(1932年)一月、桜田門事件⑧、衆議院解散(21)、上海事変(28)、角界空前の大騒動!分裂騒ぎ発生
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1月1日A 「さびしいスキー場のお正月」
  3日Y 凄い人出、浅草は元日からの参拝者「二百万人を下りますまい」
  4日A 歌舞伎座・東京劇場・新橋演舞場新歌舞伎座明治座、揃って満員御礼広告
  5日a 東鉄管内の三箇日の乗客、三百三十三万人で前年より14%増、約市電も約3%増加
  7日a 二重橋前で消防出初式、消防組市部一千三百人郡部二千人、参観人四万人を突破 
  31日A 神宮外苑競技場で国民感謝の会、在郷軍人青年団・大学から小学校まで等二万五千人
 
 波乱の年がはじまった。例年なら市内の正月の賑わいが紹介されるのだが、東京朝日新聞から消えた。読売新聞を見ると、市民の初詣や正月の行楽が無くなったわけではない。四日付の新聞Yには、浅草観音参詣者は「元日五十万、二日二十万、三日三十万」、六区は「百五十万」を突破した。明治神宮の三箇日は「八十万人」、靖国神社は「三十二万人」であった。市内の省電や市電などの交通機関は、前年以上に乗客が増えた。歌舞伎座・東京劇場・新橋演舞場新歌舞伎座明治座が揃って、元日からの満員御礼の広告を異例とも言える三段抜きで出している。
 市民の話題は、「きょう晴れの錦州入城」a③などの中国での戦況と分裂した相撲界の行方。「角界空前の大騒動!」A⑦は、もとはといえば、部屋内の内紛や八百長などの問題を遠因にして起きた事件、「親方にひきかへ 生活苦の力士連 協会の台所は滅茶々々」とある。また、昇進の妨害や武蔵山の拳闘入りなどといった展開まであり、それ以後も度々記事になっている。
 新聞は、中国での戦況や将兵の近況を連日のように、しかもオリンピックで日本選手が活躍するかのように速報した。そのためか、大衆が楽しむ様子を伝える記事は激減、藪入りすら取り上げられなくなった。確かに、天皇の馬車が襲撃されたり、衆議院の解散や上海事変の勃発など、もはや市民がレジャーを心置きなく楽しんでいる状況ではないのかもしれない。

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昭和七年(1932年)二月、井上前蔵相暗殺⑨、肉弾三勇士への義金新記録(24)、建国祭六会場に二万三千人
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2月2日A 日比谷市政会館民政党演説会「満員ハチ切れる」
  5日a 新興力士団、根岸で初日90銭、五千人収容の桟敷は午前中に半分埋まる
  5日A 護国寺の節分会、次官と知事さんが年男
  11日ka 早朝より花火の響きこえ
  12日a 建国祭、六会場に二万三千人、代々木に五千の学生集う
  12日A 神宮外苑競技場でカナダ対全日本のラクビー試合、五万に近い観衆で盛況
  17日a 「大盤振舞い」で相撲を見せ「国技館満員、ロハの効果十分」
  23日y 春場所の初日、六分の入り
 
 二月に入りハルピン占領⑤、中国での戦況は景気がよいが、九日に井上前蔵相が暗殺され、二十日に衆議院議員選挙とレジャー気運は上がらない。二月に最も多くの市民が行ったレジャーは「豆まき」。しかし、新聞には、年男の次官と知事さんが護国寺で豆を撒いている記事だけ。他には、神宮外苑競技場でカナダ対全日本のラクビー試合、「五万に近い観衆」を集めた。
 注目された相撲界、四日から分裂した「新興力士団の旗揚興行」がはじまった。「選手権争奪戦」「ざんぎり頭」と「何もかも新味横溢」で、「勝手が違つて観客のみ込めず」と興行は捗々しくなかった。当日売れた切符が1919枚、収入が1727円。また、一日平均6千枚の予定で売った前売り切符の入場者がわずかに863名で、この方の切符代未納、他の入場者千余名は招待者だった。なおこの記事は、さらに興行状況やアナウンスの形態にまで触れるという異例な書き方であった。十六日、相撲協会は、対抗するように無料の相撲を見せ、国技館を満員にしたが、二十二日からの春場所初日は六分の入り。

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昭和七年(1932年)三月、満州国建国宣言①、停戦声明③、動物園や発明博覧会に人出
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3月9日a 「爆弾三勇士」劇、芝居も映画も人気
  13日ka 銀座に往く。日曜日の故にや街上雑遝殊に甚し
  21日A 神宮球場開き、メインスタンドは三分、外野はガラ空き
  22日y 「今春第一の人出 西新井大師は六万人に達する見込み」
  28日Y 「春に手招かれて」押出した人出三十万

 戦争は一段落したが、五日に団琢磨が暗殺されるなど、市内には不穏な空気が残っていた。それでも、彼岸になると、動物園や発明博覧会、犬の展覧会などを催している上野公園、浅草、神宮外苑などに市民は出かけた。そして二十七日には、暖かさに誘われ「三十万人」もの人出。
 市民の話題は、二月二十二日に戦死した「爆弾三勇士」。「爆弾三勇士」は美談化され、直後から義金が一日で2千5百円も集まるという、陸軍はじまって以来の記録となった。「爆弾三勇士」は、芝居や映画にもなり大変な人気、さらには「爆弾三勇士の歌」まで募集された。