政況や戦争には無関心の春の市民レジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)226
政況や戦争には無関心の春の市民レジャー
 三月に成立した広田内閣は、メーデーを禁止する。五月には、軍部大臣現役制復活(軍部大臣の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度)を認める。これによって、内閣は陸軍大臣を推薦が得られなければ、組閣ができない。つまり、陸軍の要求を受け入れなければ、何も決められず、「国家総動員法」など戦争への道を進むことになる。やはり気になるのは、このような事態になることを東京市民はわかっていたのだろうか。
 同じく五月、満州に出征する兵士を品川駅前に大歓送群があった。名目は出征とあるが、日本の満州侵略である。土地を奪われ、難民として流出した困窮する人々のいたことを、どのくらいの市民が知っていただろうか。たとえ理解できる人がいたとしても、四月に躍進日本工業博覧会が催され、五月に阿部定事件が発生するなど、市民の気を引くものに目を奪われていた。
 春の花見に浮かれる記事Y⑥がある一方、その横に「東北に甦る青春」「處女 千八百の凱旋」「貞操切符買戻し代」「十餘萬圓也」の見出しがある。東北地方の凶作で身売りをする女性の救いを伝えるものであるが、これも市民がどの程度伝わっていたのだろう。
 六月に、日本放送協会(NHK)は大衆歌謡の向上のために、「椰子の実」「夜明けの歌」「春」などの新作曲をラジオで放送した。その煽りではないが、政府の内務省から「忘れちゃいやヨ」発売から3ヵ月後に発売を禁止の指令が出る。その理由は、『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる』と、ステージでの上演を含めて禁止となる。なおその後、改訂版としてタイトルを「月が鏡であったなら」と改題し、歌詞の一部分を削除してレコードを発売した。なんと、禁止されたことが注目を集めたか、大ヒットする。              
───────────────────────────────────────────────
昭和十一年(1936年)四月、上野公園で躍進日本工業博覧会開会⑤、天候不順で花見は盛り上りを欠いたが、レジャー気運は高い
───────────────────────────────────────────────
4月5日ka 白髭明神の縁日を見歩き、地下鉄道でかえる
  6日A 満都に「人の花」爛漫、「ケシ飛んだり“帝都の憂鬱”」
  7日ka 八丁堀の夜店を見てかえる
  12日a 六大学リーグ戦「開幕に大観衆」
  13日Y 「つゝじ・桜の多摩川園」入場者数一万五千
  16日a 浅草帝国館・丸の内松竹「お夏清十郎」林長二郎田中絹代の実演で満員御礼
  28日A 靖国神社合祀の全遺族を招待の慰安デー開催

 飛び石連休、「雷門に着するに祭日の人出既におびたゞし」と、荷風の日記から人出があったことがわかる。また、「あすはお出かけなさい=天気は上乗」a⑤の誘いもあって、四月最初の日曜、五日は「人の花 爛漫」。「ケシ飛んだり“帝都の憂鬱”」とまだ咲かないサクラの下で、待ちきれない人々の花見が繰りひろげられた。
 その後は、花見列車が運転され、人出が期待されたが、十二日は降らないものの「寒い寒いお花見」A⑬となった。また、六大学リーグは盛り上がりが弱く、早慶戦も、不成績で今一つの人気であった。
 二十七日の日曜、多摩川園の「つゝじ人形」は「入場者実に三万人」y(28)と市民レジャーに活気が戻った。ロッパの日記も、「招魂社のお祭り見物、八幡の藪しらずが流行で、二つ出ている。五銭出して入る」とあるように、靖国神社の例祭は賑わっている。荷風も「祭日つづきにて銀座辺雑遝殊に甚し」と二十八日の日記に書いている。

───────────────────────────────────────────────
昭和十一年(1936年)五月、メーデー禁止①、衆議院で斉藤隆夫が粛軍演説⑦、阿部定事件⑱、大相撲の人気がますます高くなる
───────────────────────────────────────────────
5月3日a ウイルヘルム・ケンプさよなら演奏会広告
  3日a 浅草電気館等「暁の爆音」他満員御礼
  9日a 満州出征、品川駅前の大歓送群
  15日a 大相撲初日、前夜から大入
  17日a 浅草電気館等「宮本武蔵」他満員御礼
  19日y 三社祭賑わう
  20日A 大相撲六日目も満員
  22日a 新宿新歌舞伎座「パラマント・ショウ」大好評日延べ
  24日a 日本劇場「海賊ブラッド」他満員御礼
  25日Y 「福引の大賑わいの多摩川園」

 二日、「天神の境内に入るに藤まつりと書きたる灯処々に立ち、人出にぎやかな」光景を、荷風は見ている。十日日曜の日記に、「晩食後銀座漫歩。いずこの飲食店にも制服の学生多く入り込み喧騒甚し」とあるように、市内の人出は活発。十七日も、「浅草三社の祭礼を見る。向島白髭明神も縁日なり」。また二十日に、「玉の井稲荷縁日にて、組合事務所前の道路には夜店出で歩めぬのほどの人出なり。稲荷の境内には植木屋多く出づ」と、市内では祭が催され、賑わいがあった。
 大相撲は、「“相撲興隆”の新記録」と、通常であれば午前五時から開けるのだが、前夜からファンが押しかけ午前二時に席に殺到するという事態。その後も、「木戸止めの大相撲」a⑰など満員が続いた。映画館や劇場も中々盛況で、満員御礼の広告が続くなか、ウイルヘルム・ケンプ演奏会の広告も度々あり、入場料は明治生命講堂が2円と3円、日比谷公会堂では2円・3円と5円もある。
 十八日「阿部定が情夫を殺害する」事件発生、「局部切り取り逃亡」という好奇を誘う事件だけに、銀座は「噂立てば通行止めの大騒ぎ」a⑳で、以後も市民の関心を集めた。なお、月半ばから空模様がハッキリしなかったが、二十四日の多摩川園は福引で大賑わい、羽田では航空知識普及の会が催され「二万観衆」との朝日新聞号外が出ている。

───────────────────────────────────────────────
昭和十一年(1936年)六月、国民歌謡放送開始①、「忘れちゃいやよ」は流行歌初の発売禁止(25)、落語家など愛国演芸同盟結成(30)
───────────────────────────────────────────────
6月7日a 浅草電気館等「五々の春」他満員御礼
  7日Y 多摩川で全国自動車競争大会
  8日A 第二回日本体操大会関東大会、明治神宮競技場に一万六千余名参加
  12日a 丸の内松竹「パラマント・ショウ」他満員御礼
  14日a 浅草帝国館等「荒川の佐吉」他満員御礼
  21日ka 烏森の縁日を見る
  28日a 浅草電気館等「聖処女」他満員御礼

 荷風の日記から、二日「玉の井稲荷の縁日にて人出多し」、七日「夜物買いにと銀座に往く。日曜日にて街上書生の泥酔するもの甚多し」、など市内の人出は五月から続いている。映画も浅草電気館などが満員御礼の広告を数多く出しており、市民のレジャー気運は高い。
 「国民歌謡」の放送がはじまるが、流行歌『忘れちゃいやよ』のレコードが発売禁止になり、レジャーの規制は進んでいる。また、落語家や講談師など250名が愛国演芸同盟を結成、カーキ色折襟、戦闘帽の制服を作ったりと娯楽にも軍事色が徐々に浸透している。