戦果にレジャー気運が高まる八年冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)213
戦果にレジャー気運が高まる八年冬 
 中国での戦争は、一月に山海関で、二月には熱河省に侵入し省都承徳を三月占領、四月に華北へ侵入、そして五月に塘沽停戦協定成立で満州事変に一応の終止符がついた。国内の景気は、ダンピング輸出と軍需増大によって好転し、デフレからインフレへと一転した。なお、景気が改善されたからといって全ての国民が潤ったわけではなく、下層階級、特に小作農民と零細工場労働者の生活は苦しさを増した。
 レジャーも好景気につられて、前年の暮れから続いて盛り上がった。正月の人出は、近年にないような賑わい、明るいニュースが多い中で女学生の自殺事件が報道された。その現場を見ようと、伊豆大島三原山に見物者が殺到し、多い日には1500人も訪れた。三原山は自殺の名所となり、何と、この年に129人が火口で投身自殺をしている。当時の社会の一端を示すものであり、やはり社会の歪みを反映した現象であろう。
 二月、プロレタリア文学作家・小林多喜二は、街頭で検挙され、わずか7時間後に虐殺された。特高は、あまりにも無残な遺体を解剖させず、虐殺の実態が世間に知られるのを恐れ、葬儀に訪れた人を次々に検束した。事件の起きた当時は、真相に全く触れることなく、虐殺した特高の三人に叙勲が与えられた。さらに、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じている。
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昭和八年(1933年)一月、山海関で日中衝突①、大島三原山で女学生自殺、自殺の名所に⑨、インフレで市民レジャーも景気づく
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1月3日Y 「天気に恵まれて何処も人・人・人 わけて浅草は百万」
  3日ka 銀座通は去年越しの露店その儘両側に立ちつづき散歩の男女雑沓す
  7日Y 春芝居大当り 型を破る徹夜の切符買いに仰天
  12日a 帝国劇場等「南海の劫火」他好評日延べ
  14日y 大相撲春場所初日、民衆デーで大入り
  16日y 「けさ藪入り」「浅草各館チョット朗か」
  20日y 松竹館「忠臣蔵」満員御礼
  23日y 大相撲十日目、雪の中「八十年来の大入」
  24日y 多門依田両将軍の凱旋、上野駅周辺に数万の群集
 
 正月は天候に恵まれ、浅草の「元旦の人出は約七十万、二日は・・・百万を突破しようと」。興行も、「雪洲、直江、傅明のトリオがガッチリ組んだ実演で人気をさらっている金竜館、千恵蔵の挨拶で・・・富士館、笑いの王者榎健が立籠る常盤座等々いづれも客止めの大入満員」。歌舞伎座を筆頭に、「春芝居大当り 型を破る徹夜の切符買いに仰天」するなど、収容しきれないほど客が押し寄せた。また初詣は、明治神宮が「ざっと六十万人で去年より五割方の増加」と、好景気の到来を期待するかのように市内は賑わった。
 人出はその後も続いたとみえ、大相撲春場所の初日は、恒例の民衆デーで大入り。藪入りは「浅草各館チョット朗か」。雪の降った春場所十日目は「八十年来の大入」など、市民のレジャー気運は高まっていた。
 
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昭和八年(1933年)二月、小林多喜二検束・虐殺⑳、「インフレ景気を撒く」勢いの追儺式、建国祭と市内の人出は活発
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2月3ka水天宮社殿にて追儺の式あり。看者群をなす
 4日Y「華かな各所の豆撒き」、成田の人出「ざっと十五万」
 6T新遊戯「ヨーヨー」旋風のような流行
 11y明治座「八陣守護城」他、満員御礼
 12日y建国祭、「熱気の大行進」二十万人
 17y東京劇場「大菩薩峠」連日昼夜の大満員
 22日y九段で在郷軍人大会、日比谷公園の国民大会に数万、場外の群集湧く
 23ka銀座通雛人形の夜店賑なり

 二月になっても市内に活気があったことは、三日の節分、寺社の豆撒きからわかる。浅草では賽銭が例年の二倍、「千二百円」。深川不動は近年にない景気。特に成田山は、京成電車が用意した成田までの往復切符2万5千枚が売り切れ、賽銭は2万円、「人出ざっと十五万」に達しそうな賑わいであった。川崎大師は「ザット二十万」で、付近の飲食店はホクホクと、どこも景気のよい話が伝えられた。
 五日、赤坂溜池で「ヨーヨー競技大会」が開かれた。「やってきた!ヨーヨー旋風」と、市内で急激に「ヨーヨー」が大流行。また、二十七日の国民新聞にも「ヨーヨー持たないと恥、小学生ら夢中」と、子供から大人までヨーヨーに熱を揚げたという。
 建国祭は、式場が7ヶ所になり、「二十万人」の大行進と前年より盛大となった。その日、荷風は銀座を歩き、「祭日なれば街上雑遝すること甚し」、「店悉く店頭に建国祭の掲示」、「タイガアの店口に楠正成とも見ゆる鎧武者の画看板を出し、また店内には大なる乗馬武者人形」を見ている。
 中国河南省で戦闘が進められ、新聞に“国家非常時”の文字が度々現われ、九段で在郷軍人大会、日比谷公園の国民大会などの記事が大きく取り上げられるようになった。

 

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昭和八年(1933年)三月、日本軍河南省都承徳を占領④、国際連盟脱退(27)、戦勝ムードで市民のレジャー気運は高揚
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3月7日a 地久節、都下一万の女性群、宮城前で万歳唱和
  11日y 陸軍記念日、空陸模範戦や音楽隊の市内行進
  17日Y 婦人子供博覧会開会、五月十日まで
  18日A 浅草観音落慶式、盛大に執行
  20日A 「春ドッと押し出した人波」
  24日Y 日比谷公会堂の拳闘試合、入場しきれぬ程の盛況
  26日y 浅草電気館等「山を守る兄弟」満員御礼
                                                
 十日の陸軍記念日は、「聖上・九段に行幸」と、盛大なイベントとなった。代々木練兵場では空陸対抗演習に「数万の観衆」。参加の防空婦人会は、カレーライスを食べ、「エプロン姿で」射撃練習。市内では、軍楽隊等の市内行進など、「軍国日本の豪華版を各所に繰り広げた」。
 新東京市になって初めての統一市議選、騒がしく、新聞紙上を賑わしたが、投票率は低く約40%。市民の関心は、選挙よりも十七日からの万国婦人子供博覧会へ。ただし、開会式の日になっても未完成、見ごろは四月になってから。開場は三つに分かれ、上野の竹之台と池之畔、それに連絡バス(運賃10銭)で行く芝浦。面白そうなのは、サーカス(5円~50銭)やお伽の国のある芝浦会場。豆汽車(10銭)、子供自動車、水族館など、家族連れの遊園地。場内を一巡りするには一日半かかり、入場料は三会場通じて大人60銭・子供25銭。