戦捷祝いに託つけて遊ぶ十二年の夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)231
戦捷祝いに託つけて遊ぶ十二年の夏
 七月初めの蘆溝橋事件から支那事変がはじまった。戦争は短期で解決するとの甘い見通しが、その後は泥沼の太平洋戦争へと陥ることになる。東京を初め全国で戦時色が強くなり、生活全体に影響が広がった。特に、支那事変以降は、レジャー自体にブレーキがかけられ、遊ぶに付けても戦捷祝いを託つける傾向が強くなる。
 七月二十一日の読売新聞は、「我慢をし抜いた我が陣地」と、まるで戦いの被害者であるような見出し。続いて「おヽ尊き戦死傷者」との見出し、犠牲を賛美する書き方。蘆溝橋事件の戦闘を仕掛けたの日本か中国か、両者の言い分は異なっている。ただ言えることは、中国侵略をしているのは、日本であること。直前の戦闘の責任や仕掛けた方を非難し合うのは、やはり無理がある。日本軍は兵力を増し、中国軍を挑発する演習を続けていたのは事実である。
 同日の新聞には「銀座に千人針散兵線 “夜襲興行”満員の浅草」の見出しと写真が掲載されている。世論は完全に軍部の思惑通りに展開し、もうこの勢いは簡単には戻すどころか、止めることができなくなっている。となれば、市民が羽目を外して遊ぶのも、いたしかたないかもしれない。

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昭和十二年(1937年)七月、浅草国際劇場開場③、蘆溝橋事件⑦、支那事変がはじまったが、市民のレジャー気運はまだ健在
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7月3日A 六郷橋河畔の花火、川面には提灯を点けた無数の舟が往復するなか、人出十数万
  5日ka 水天宮の祭日にて賑なり
  10日a 浅草観音四万六千日
  13日a 虎の門をはじめ、賑わう草市
  13日a お盆の参詣者「五万突破か」多摩墓地
  15日a 新宿映画劇場・芝園館「エノケンのちゃきり金太」太満員御礼
  17日a 富士館・帝都座等「恋山彦」他満員御礼
  18日Y 「時節がら出足も減った川開き」四十七万人
  21日Y 献金のため「非常時日本の興行」と銘打って、「“夜襲興行”満員の浅草」
  26日A 鎌倉の謝肉祭、カーニバルに騎馬武者に加えてタンクも出動、人出二十万
  27日Y 後楽園スタジアム・リンクの拳闘、観衆一万
  30日a 国際劇場レビュー「進め皇軍」大好評8日まで続演、1円50銭~50銭
  30日A 上野寛永寺で可愛い盆踊り
 
 二日、六郷橋河畔の花火。東京の西南部と川崎の人々が楽しむ花火として定着して「人出十数万」。十七日、両国川開き。「近年にない賑やかな陸は去年よりも人出が多かったが水上は去年よりも船の数(3250艘)が少なかった」A⑳これは世間の不景気のためと。荷風は、「新橋より電車に乗り吾妻橋の公園に赴き見るに、夜は将に十二時にいたらんとするに、人多く芝生の上に横臥す。・・・今宵は両国に花火ありてその帰りとおぼしき客多く、引手茶屋の二階はいつになく賑なり」とその日の様子を記している。
 三日、浅草に国際劇場が開場、定員3,993人で東洋一、松竹少女歌劇の『東京踊り』で開幕。月末には、戦時体制を反映してレビュー『進め皇軍』が大好評、翌月の八日まで続演の広告がある。二十日、浅草六区活動街では普通興行の終了した午後十時から、献金のための興行が行われた。入場料は10銭均一、『皇軍の威容』『蒋介石と其手兵』『北支事変ニュース』などが上映され、どこも「超満員の騒ぎ」。

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昭和十二年(1937年)八月、お伽列車・ミッキーマウストレーン上野駅を発車(25)、戦時中となり市民レジャーに影響が出はじめる
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8月2日Y 神宮球場で第十一回全国都市対抗野球大会
  12日A 多摩川の大花火、十四日に打揚げ一千五百発・仕掛四十数台
  13日A 日本劇場等「南国太平記」他満員御礼
  14日y 田園調布読売大庭球場で国防演芸大会、十五日から一週間
  15日a 浅草帝国館等「土屋主税」他満員御礼
  22日Y 田園調布読売大庭球場で従軍報告会、二万の聴衆拍手の嵐で大盛況
  24日ro 有楽座「ガラサマどん」「メールブルウ」七日頃より二十四日頃まで満員
  27日a 日本劇場「大帝の密使」連日満員御礼
  31日A 日支事変の影響で避暑地は「ガラガラ」。東鉄調査7/21~8/20で御殿場8403・熱海8002・保田4200・軽井沢2863・勝浦1396の計約五万人減少
  31日a 丸の内松竹国際ニュース劇場満員御礼

 一日付の夕刊aは、浅草帝国館など松竹系の映画館で「北支事変の研究」、歌舞伎座で『軍国民』、国際劇場のレビューは『進め!皇軍』など戦時中らしい内容の広告が目につく。戦火は上海に波及。
 「片瀬江ノ島海の家」a⑧の広告はあるが、海水浴や避暑に関する記事は皆無。多摩川の大花火にしても、案内だけで人出は不明。「盆踊をやめて獻金」a(23)など、市民のレジャーは抑圧されているが、映画や芝居はそれなりに盛況。
 荷風の日記、十二日、「電車通には西瓜を売る露店多し。箕輪の大通には露店連り遊歩の人雑沓す」。十五日、「今年第一の暑さなるべし。・・・浅草公園今半餉す。日曜日にて人雑遝す」、から市内の人出や余暇の様子がわかる。また十六日の夜、向島を散歩した荷風は「市中到処出征の兵卒を送る行列提灯また楽隊のはやしなどにて祭礼同様の賑かさなり」と。二十七日の上野では「出征の兵を送る停車場前に雑遝す。省線電車に乗るに新宿渋谷は五反田の各停車場も兵卒見送りにて雑遝す」る光景を見ている。

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昭和十二年(1937年)九月、後楽園球場が開場⑪、国民精神総動員運動開始⑬、帝都大防空演習⑮~⑳、円タクの深夜流し禁止(25)、市民レジャー自粛の動きがはじまる
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9月2日a 富士館・帝都座等「昿原の魂」他満員御礼
  4日a 新橋演舞場新国劇「乃木将軍」他満員御礼
  5日A 六大学リーグ開幕
  12日Y 後楽園球場開場式、紅白初試合で水原初本塁打
  13日Y 後楽園球場で「戦地に轟け」十万人の大合唱
  13日ka 芝神明宮祭礼にて賑なり
  21日Y 後楽園球場などで「支那事変公演と映画の夕」仕掛け花火もあってスタンド満員

 華々しい戦闘状況が連日のように新聞を賑わすが、戦況は膠着状態が続く。時節がらの映画や演劇、六大学リーグ戦や地域の祭などもそれなりに盛況。後楽園球場の開場記念は、軍歌十万人の大合唱や花火大会など盛大に催された。しかし、ロッパの有楽座が日曜以外の大入りが少ないように、市民のレジャー気運はいま一つ盛り上がりを欠く。
 市民レジャーの自粛を求めるかのように、十五日から「帝都大防空演習」が始まった。荷風は「此日より十九日まで点灯禁止の令あり。市中到処騒しく住民其職を抛って徒に狂奔するが如し。銀座三越は夕五時に閉店し歌舞伎座は休みとなれり。銀座辺飲食店大概七八時頃戸をしめると云う」と、日記に記している。

 ロッパは、「夜の部も大した入りで補助を出し切った、近処の日劇も、列をなしている。四日間のくらやみで娯楽に飢えた姿である」と十九日の日記に書いている。二十五日から「円タクの深夜の流しが禁止」a⑦。秋の行楽を中止して献金を求める記事が目につく。「銀翼へ捧げる赤誠」a(27)など自粛ムードが浸透。