行楽の人出が減少している昭和十六年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)247
行楽の人出が減少している昭和十六年夏

 第二次近衛内閣も結局は軍部の傀儡内閣化し、七月に三次内閣が成立。軍内部の対立はもちろん、外交交渉も解決できず。
 夏のレジャーを押さえ込もうと鉄道の乗車券制限まで始めた。判断基準は遊びか否かであろうが、軍事関連なら許され、かろうじて水泳ができることでプールは超満員。また、身体の鍛練と装いを改めれば可能になるので、手を変え品を変えて楽しめるものが求められている。それでも市内の人出は減少し、レジャー気運が衰退気味なのを永井荷風も日記に書いている。
 遠出のレジャーは、“足の自粛”で減っているものの、まだそこそこある。それは、買い出しに出掛ける市民がいるからである。配給は受け取るのが面倒になるだけでなく、欲しいものが手に入らない。となれば、直接近郊に求めるようになり、「東武鉄道浅草駅及上野停車場の出入口には大根胡瓜など携えたる男女多く」と荷風は日記に書いている。太平洋戦争に入る前から買い出しが本格化していた。
 劇映画製作十社を三社に統合することが決定された。人気がある映画も制裁の対象となり、検閲の進むことが推測された。市民の関心事は、その日の食べ物になり、レジャーよりも真剣に考えざるを得ない。荷風の日記などがあるから、東京のレジャー動向がわかるものの、新聞だけではわからない。
 新聞には、「弟は名誉の戦死 兄さんは負けずに献金」A7/28との見出しがある。また同紙面には、「融け合った五日間 日独若人野営の収穫を語る」(参加人員は不掲載)の見出しもある。他にも以下に示す記事などがあり、当時の一部を示すものであろうが、市民の状況を伝えようとすれば、荷風やロッパの日記以外亡くなっている。

───────────────────────────────────────────────
昭和十六年(1941年)七月、暴利行為取締規則強化⑮、近衛内閣総辞職⑯、国鉄3等寝台車廃止と列車食堂縮小⑯、暴風雨で市内浸水七万六千戸(23)、天候不順と食料不足で市民のレジャー気運は衰退。
───────────────────────────────────────────────
7月3日y 読売飛行場の小国民航空講座に七千人
  6日Y 事変四周年大会、後楽園に二万余の参会者
  8日a 日事変記念日、後楽園に中等学校生徒三万余、銃後奉公愛国大会の後、市内行進
  13日a 東京・上野・新宿駅の入場券発売禁止、12日から15日まで、混雑緩和のため
  27日A 湘南方面への乗車券、今日は発売制限 
  28日A 徒歩百キロ錬成競歩大会千二百名ゴール
  28日A 晴れた日曜、市内のプール超満員

 荷風は、「数日来市中に野菜果実なく、豆腐もまた品切にて、市民難渋する由」と十六日。野菜不足は深刻化し、行列買いが出現。十七日、「連日の雨と冷気とに世間ひっそりして何の活気もなし」と日記に書いている。
 ロッパの有楽座は、稽古中の事故で初日が危ぶまれたが、『上海のロッパ』などの上演で大入りが続いた。特に藪入りから二十日まで満員。そして二十七日の日曜も大満員。この日は暑く、市内のプールは、どこも大混雑という状態であった。「例年ならば湘南に房総に繰出す”日帰り組”が横須賀線総武線にどっと押寄せるのだが、さすが戦時下の市民は輸送緩和に協力して」A(28)とあるが、市内で過ごさざるを得なくなっている。日比谷公会堂の『市民厚生の午後』として催された、藤村の『千曲川旅情の歌』朗読などは満場。また、どうしても体を動かしたい人には、「徒歩百キロ錬成競歩大会」があった。

───────────────────────────────────────────────
昭和十六年(1941年)八月、米国対日石油輸出停止①、レジャー自粛が浸透し遠出どころか市内の人出も減少。
───────────────────────────────────────────────
8月2日a 林間学校“暑休練成”の幕開く、学童と女学生、市内公園など六十一箇所で
  8日a 練成の夏、市内プールは芋洗いの混雑
  11日A 明治神宮外苑水泳場を中央会場として国民皆泳学童水泳大会
  15日A 銃後真剣な“足の自粛”、三割も減った避暑行楽旅行
  25日Y 後楽園球場の巨人戦、内外野席とも超満員

 八月、夏休みは「どこに行った」と言うくらい、市民のレジャーは沈滞している。荷風は、風雨再襲の警報があった十五日は、「公園の人出少し。観音堂にも参詣の人稀なり」。十九日の日記には、「公園興行場の景気は二三年前に比すれば既に二割方減少せりとのはなしなり」と、書いている。

───────────────────────────────────────────────
昭和十六年(1941年)九月、マッチ・砂糖・小麦粉・食用油の集成配給切符制を実施①、劇映画製作十社を三社に統合を決定⑲、市民の関心事はレジャーよりもその日の食べ物。
───────────────────────────────────────────────
9月2日a 十八度を迎う震災記念日 参詣者ひきも切らず
  2日C 院展・二科展無料で入場者殺到一万人を超える
  14日Y 東京学生水上開幕
  20日ka 芝公園を歩む。神明宮祭礼なり
  21日A 航空大会、羽田飛行場の三十万観衆ただ恍惚
  22日A 秋季六大学野球リーグ戦始まる
  23日y 神宮夏期大会開幕、外苑プールに熱戦
  24日A 攻守に凡調の早慶戦
  25日A 厚生省が体育競技の統制に乗り出す

 六大学野球も人気は低調。早慶戦は観衆が少なかったためか、凡戦。市民はレジャーどころか、その日の食べ物を確保することで頭がいっぱいになっていた。荷風は八日、「東武鉄道浅草駅及上野停車場の出入口には大根胡瓜など携えたる男女多く徘徊して、争ってタキシに乗らんとするを見る。市中野菜底払なれば思い思いに近在へ出掛けるものなるべし」と、買出しが本格化したことを記している。
 九月から、配給切符を品物毎に配布していると面倒なので、砂糖、マッチ、小麦粉、食用油等の集成配給切符制が実施された。食肉も配給制となる。