戦況を知らぬ市民のレジャー・昭和十七年夏

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)251
戦況を知らぬ市民のレジャー・昭和十七年夏
 とうとう、全国中等学校野球大会が中止となる。前年の太平洋戦争突入から敵国映画の放映禁止、野球はユニホームにローマ字を使えないなど、国粋的な風潮を進めてきた。さて、野球(拳闘など)はどこのスポーツか、良く考えてみると、野球は敵国のスポーツではないだろうかと不思議に思う人はいなかったのであろう。国民に人気のある活動は、容易に禁止できないことがわかっていたので、適当な対応をしている。
 たとえば、海水浴もそうで、「鍛練」と名を変え、遊びであっても黙認。市民が涼を求めて、プールや海に殺到しており、これを止めることはできないと判断したのであろう。登山やハイキングはもちろん、四年ほど前から黙認から推奨している。判断基準は恣意的で、ご都合主義なので、国民は出された判断を受け入れるだけとなる。
 以後も、なんとも不可解な禁止や変更が次々に出され、翻弄されることになる。官公庁暑中半休廃止など、実際の効率や効果を検討したものではなく、遊ばずに働けという精神論からであろう。防空演習も、日本軍は連戦連勝が伝えられるのに、なぜ本土が攻撃を前提とした演習を度々行なうのか、良く考えればおかしな話である。国民は、まず唯唯順応しようとする習性が身についてしまった。
 古川ロッパは、食べ物が不味くなっていると以前から日記に記している。人々の楽しみに、食べ物の美味さは欠かせないものであろうが、それどころか食料不足が常態化している。さらに、腐敗した食べ物が提供される事態のあったこと、そして、腐敗が分かっていて食べたことも記している。
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昭和十七年(1942年)七月、全国中等学校野球大会中止を発表⑫、官公庁暑中半休廃止⑳、市内にはそこそこの人出で興行の入りもよい。
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7月2日y 支那事変記念日、多彩な催し開催
  2日y 鍛練の夏山開く
  4日Y 国技館で拳闘、金剛の左強打、堀口を降す
  8日Y 聖戦完遂組長大会花火で閉会、後楽園に三万の組員参加
  25日ro 有楽座「夜の部は、勿論大満員なり」
  27日A 市中どこのプールも例年以上の大繁盛
  29日ro 有楽座「東宝映画芸能音楽会第二日、よく入っている」

 荷風は二日、「晩間浅草向島散策。雨後を夕涼の人おびただし」い様を見ている。ロッパの有楽座は、『フクちゃん』『戦争と音楽』などを演じており、三日から十四日まで大満員が続いたが、十五日は「入り悪し、お盆なんてのは、丸の内じゃあ、サッパリ」。だが、翌日は「今日のお盆は異常なる涼しさで、芝居映画は大入」とある。市民レジャーは、そこそこ盛況である。
 二十一日は、「公園に入るに盆過ぎにて人出少し」。荷風は、オペラ館楽屋に少憩して後地下鉄に向かうと、「乗客中避暑地より野菜果実を風呂敷につつみ携え帰る者多し」。市民の買出しが本格化している。
 荷風の二十四日の日記は、「炎暑昨日の如し・・・深川より亀井戸に至る。十間川の臭気甚しきを物ともせず天神橋の欄干に倚り団扇をつかう人多し。栗原橋をわたるにここにも人多く涼む」と。市内のどこでも、暑さを凌ごうと夕涼みに出ていたことがわかる。
 二十六日、ロッパは「女房、モンペの怪奇姿で出たり入ったり・・・女房今夜も防空演習の手伝いをさせられて出ている」と不満を書いている。二十八日は、「築地とき本へ・・・防空演習のさわぎ、まるで花柳気分めちゃめちゃなり。その光景あまりに可笑しければ、記すべし・・・築地のいつもの所で車を下ると、まく暗だ、あれ防空演習・・・バケツ運びが始まる・・・芸妓?えゝそんなものもいましたっけという感じ」であった。

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昭和十七年(1942年)八月、米海兵一個師団ガダルカナル島に上陸⑦、・警視庁、不良青少年検挙開始、海水浴は「鍛練」と名を変えて盛況。
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8月3日A 鍛練の夏の第一日、人波、海を埋む「廿万に悲鳴をあげた輸送陣」
  15日y 明治座「母子草」他好評につき日延べ
  19日A 安くなる映画館 新協定値決まる
  29日A 明治神宮国民練成大会開く
  30日Y 日本野球東西争覇、後楽園で東軍まづ勝つ

 八月に入り、最初の日曜は「鍛練の夏の第一日」、「鎌倉十万、逗子五万、片瀬四万」の人出。海は人の山で、会社や学校などの総合訓練はできなくなり、海岸の店はどこも昼頃には全部売り切れ。小田急新宿駅は10万、京成電車は30万という大混雑、京浜電車も早朝来切符発売を中止したほど。市民の海水浴は、まだ健在。
 食べ物の質は低下の一途らしく、二十七日の日記に、「味噌汁の味噌のひどさ、ドングリ味噌だ」。さらに、「くさった豚肉平気で出すのか、恐ろしい。客も皆知ってゝ我まんしてるのか、なんたる時世!食ってから毒消丸服む」とロッパは腹立たしく書いている。

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昭和十七年(1942年)九月、青壮年国民登録実施①、国民学校体錬科刷新(29)、またもレジャー気運は沈滞。
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9月2日a 震災記念日 記念堂参拝
  2日y 大劇、梅島昇の「兒故の春」他満員御礼
  14日a 乃木将軍三十年祭
  16日a 日比谷公園満州建国十周年式典
  18日Y 二子玉川読売落下傘塔に一万名の女学生

 『スラバヤの太鼓』『男の花道』を上演している有楽座、二日初日からよく入っている。二十二日は、天候が「荒れ模様なのに大満員、二十二日は魚河岸の休み、花柳界の休み」、ということもあって大満員。二十七日は、「夜は満員・・・何うも嫌な芝居だった」が「千秋楽らしい気分」を味わったとロッパは書いている。
 二十六日から東宝劇場十月公演は、「長谷川一夫らの新演技座の前売開始。一日の前売二万円突破の由。あゝ性的魅力。これにはカナワン」と。三十日のロッパは東京駅まで妻子を送り、「折柄防空演習の旗が出たり、町は騒然」と感じながら、銀座や日比谷周辺で過ごした。