住まいの変遷(根岸から千朶山房)と植物3

森鷗外ガーデニング  6
住まいの変遷(根岸~千朶山房)と植物3

⑥根岸の借家
 イメージ 1鷗外は、東京での生活にもなれた明治二十二年一月、下谷根岸金杉百二十二番地(後の下谷区上根岸町八十八番地)の借家に入居した。それは、赤松登志子との縁談が持ち上がり、結婚後の新居とするためであった。
 この家は、明治二十五年、正岡子規が東京に初めて住んだ家(下谷区上根岸町八十八番地)の隣家である。その後の住まいとなる「子規庵」(上根岸町八十二番地)は、西に50m先にある。鷗外と子規は、句会に同席するなど交流が深く、「子規庵」の立地条件をよく知っている鷗外は、花の種を送りその成果を手紙で受けとっている。
 子規の『小園の記』に「我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり。」とある。また、子規の『小園の記』(『子規全集十二巻』)にも、「去年の春彼岸やゝ過ぎし頃と覺ゆ、鷗外漁史より草花の種幾袋贈られしを直に播きつけしが・・・」とそのことを記している。

イメージ 2 鷗外は、子規の花好きを知った上で、ガーデニングを薦めようと花の種を送ったのだろう。送ったのは、正岡子規の書簡によれば、明治三十年春(三月下旬)のことである。子規が鷗外に依頼したものではなく、鷗外の方から送りつけたことは間違いない。この年は、鷗外が『花暦』を記した年で、ガーデニングな熱を入れていたことからも間違いないだろう。子規は病身の身でありながら、送られた種を蒔いている。
 子規は鷗外ほど栽培に熱心ではなく、日記に記すというようなことはしていない。それでも、『病牀手記』九月六日の日記には、「庭前ノ萩僅カニ咲キ始メタリ」(『子規全集十四巻 評論日記』)とある。彼は、鷗外から送られてきた種子を「子規庵」の庭に蒔き、どのような花が咲くかを楽しみにしていた。
 しかし、その結果は、十一月七日付の森林太郎宛の書簡に「・・・此春御惠贈の草花の種早速蒔置候處、庭狹く草多き爲にや初より出來わるく、十分に發育したりしは百日草のみ、射干は三寸餘にて生長をとゞめ、葉鷗頭は只一本だけ一寸ほど伸び候のみ誠に興なき事に有之候。・・・」(『子規全集十九巻 書簡二』)とあるように、惨憺たるものと報告している。なお、「射干」(ヒオウギ)は、発芽した年は花を咲かせない。三寸ほど生育したのなら決して失敗でない。刈り取られなければ、翌年には花が咲く可能性がある。

⑦上野花園町の住まい
イメージ 3 鷗外は、明治二十二年五月、上野花園町十一番地(現在・台東区池之端3-3-21)へ引っ越すことになった。その家は、妻の実家・赤松家の持ち家であった。だが、この住まいにも、わずか一年四ヶ月しか住んでいない。
 花園町の新居についても資料が少なく、実際に見た人が書き残したものとしては、弟・森潤三郎の『鷗外森林太郎』と妹・小金井喜美子の『鷗外の思い出』がある。喜美子によれば、「山を右にして左側がお邸・・・生垣の間の敷石を踏んで這入るのでした。右へ曲って突当りがお玄関で、千本格子の中は広い三和土です。かなり間数があったようで、中廊下の果の二間がお部屋、そこから上った二階がお書斎でした。八畳位でしたろうか、折廻しの縁へ出て欄干に寄ると、目の下の中庭を越して、不忍池の片端が見えます。眺めがよいというのではありませんが、あの頻繁に目の前を汽車が往復した家とは比較になりません。」とある。
 「東京北部(本郷及び小石川)明治十九年製版(参謀本部陸軍測量局)」を見ると、上野花園町十一番地付近に3棟の建物が見られるイメージ 4。潤三郎は「東照宮の裏を下つた突當りで」と記しているので道路に面した建物かとも考えられるが、「背後は一面の藪疊みで」とあることから、奥の建物と考えた方が符合する。また、喜美子の言う中廊下らしきものも奥の建物にはあり、ここに鷗外は住んだのではなかろうか。
 また、喜美子の『鷗外の思い出』によれば、庭はあったようで「鳩が二羽来ています。こんな狭い庭にと思いました」と記している。彼女にとってその庭は、とりたてて注目すべきものでなかったようだ。それでも「鳩ふたつあさりて遊ぶ落椿 あかき点うつ夕ぐれの庭」という歌を詠んでいる。その歌からすると、椿が植えられているそれなりにの庭であったようだ。
 なお、この時期の鷗外は、妻を取り巻く人々との人間関係が良くなかったことから、自宅での居心地もあまり良くなかったようだ。二十三年九月に長男於菟が生まれると、ほどなく登志子と離婚している。こうした落ち着かない環境では、ガーデニングをするような気分にはなれなかっただろう。

⑧千朶山房(猫の家)の住まい
イメージ 5 『舞姫』や『うたかたの記』を発表した明治二十三年、鷗外は、十月に本郷駒込千駄木町57番地(現在・文京区向丘2-20)に移り、その家を「千朶山房(せんださんぼう)」と呼んだ。ちなみに、この家は、おもしろいことに、後に夏目漱石が住み『吾輩は猫である』を書いた場所でもある。そのためもあって、この家に関する資料は、それまでの家に比べて多く残っている。
 その建物は、犬山市明治村に現存している。跡地には日本医科大学同窓会館が建てられており、『目で見る日本医科大学七十年史』には、以下のような図や写真が載せられている。敷地はさほど広くないが、庭もあり、日当たりも良く、鷗ガーデニングにはもってこいの場所であったと思われる。
  そのため、鷗外は、花の種や球根を植えたりすることはできたはずである。ただ、引っ越したのが晩秋で、翌年咲く花の播種はむずかしかったのだろう。また鷗外自身が多忙であったこと、住んでいた期間も一年三ヶ月と短く、腰を据えて庭をつくることはしなかったようだ。

イメージ 6 その後に住んだ漱石は、庭いじりにはあまり関心がなく、もっぱら猫の遊び場となっていたようだ。『吾輩は猫である』に登場する庭は、「竹垣を以て四角にきられて居る。椽側と平行して居る一片は八九間もあろう、左右は双方供四間に過ぎん」とある。細長いが100平方メートル以上、花壇をつくろうと思えば十分な広さであり、猫が運動するには格好の場である。また、家の裏に十坪ばかりの茶園もあったと書かれている。こんな所に茶園鷗、と思われるかもしれないが、『明治庭園記』に「江戸旗本屋敷上地に付て、庭園破壊し、桑茶植附の事」にも記されているように、明治二年、東京府による殖産振興策として茶の栽培が奨励されていた。
 『吾輩は猫である』の中には、庭の植物名がいくつか登場する。アオギリ、キリ、サザンカ、ヒノキなどの樹木と、枯菊が散見されとあるが、この程度の植物では、漱石の庭は、鑑賞に耐えうる庭とは思えない。しかし、猫にとっては、葉を繁らせたアオギリが蝉取り場となり、まさに“我が輩の庭”であった。