⑥根岸の借家
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この家は、明治二十五年、正岡子規が東京に初めて住んだ家(下谷区上根岸町八十八番地)の隣家である。その後の住まいとなる「子規庵」(上根岸町八十二番地)は、西に50m先にある。鷗外と子規は、句会に同席するなど交流が深く、「子規庵」の立地条件をよく知っている鷗外は、花の種を送りその成果を手紙で受けとっている。
子規の『小園の記』に「我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり。」とある。また、子規の『小園の記』(『子規全集十二巻』)にも、「去年の春彼岸やゝ過ぎし頃と覺ゆ、鷗外漁史より草花の種幾袋贈られしを直に播きつけしが・・・」とそのことを記している。
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子規は鷗外ほど栽培に熱心ではなく、日記に記すというようなことはしていない。それでも、『病牀手記』九月六日の日記には、「庭前ノ萩僅カニ咲キ始メタリ」(『子規全集十四巻 評論日記』)とある。彼は、鷗外から送られてきた種子を「子規庵」の庭に蒔き、どのような花が咲くかを楽しみにしていた。
しかし、その結果は、十一月七日付の森林太郎宛の書簡に「・・・此春御惠贈の草花の種早速蒔置候處、庭狹く草多き爲にや初より出來わるく、十分に發育したりしは百日草のみ、射干は三寸餘にて生長をとゞめ、葉鷗頭は只一本だけ一寸ほど伸び候のみ誠に興なき事に有之候。・・・」(『子規全集十九巻 書簡二』)とあるように、惨憺たるものと報告している。なお、「射干」(ヒオウギ)は、発芽した年は花を咲かせない。三寸ほど生育したのなら決して失敗でない。刈り取られなければ、翌年には花が咲く可能性がある。
⑦上野花園町の住まい
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花園町の新居についても資料が少なく、実際に見た人が書き残したものとしては、弟・森潤三郎の『鷗外森林太郎』と妹・小金井喜美子の『鷗外の思い出』がある。喜美子によれば、「山を右にして左側がお邸・・・生垣の間の敷石を踏んで這入るのでした。右へ曲って突当りがお玄関で、千本格子の中は広い三和土です。かなり間数があったようで、中廊下の果の二間がお部屋、そこから上った二階がお書斎でした。八畳位でしたろうか、折廻しの縁へ出て欄干に寄ると、目の下の中庭を越して、不忍池の片端が見えます。眺めがよいというのではありませんが、あの頻繁に目の前を汽車が往復した家とは比較になりません。」とある。
「東京北部(本郷及び小石川)明治十九年製版(参謀本部陸軍測量局)」を見ると、上野花園町十一番地付近に3棟の建物が見られる
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また、喜美子の『鷗外の思い出』によれば、庭はあったようで「鳩が二羽来ています。こんな狭い庭にと思いました」と記している。彼女にとってその庭は、とりたてて注目すべきものでなかったようだ。それでも「鳩ふたつあさりて遊ぶ落椿 あかき点うつ夕ぐれの庭」という歌を詠んでいる。その歌からすると、椿が植えられているそれなりにの庭であったようだ。
なお、この時期の鷗外は、妻を取り巻く人々との人間関係が良くなかったことから、自宅での居心地もあまり良くなかったようだ。二十三年九月に長男於菟が生まれると、ほどなく登志子と離婚している。こうした落ち着かない環境では、ガーデニングをするような気分にはなれなかっただろう。
⑧千朶山房(猫の家)の住まい
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その建物は、犬山市の明治村に現存している。跡地には日本医科大学同窓会館が建てられており、『目で見る日本医科大学七十年史』には、以下のような図や写真が載せられている。敷地はさほど広くないが、庭もあり、日当たりも良く、鷗ガーデニングにはもってこいの場所であったと思われる。
そのため、鷗外は、花の種や球根を植えたりすることはできたはずである。ただ、引っ越したのが晩秋で、翌年咲く花の播種はむずかしかったのだろう。また鷗外自身が多忙であったこと、住んでいた期間も一年三ヶ月と短く、腰を据えて庭をつくることはしなかったようだ。
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『吾輩は猫である』の中には、庭の植物名がいくつか登場する。アオギリ、キリ、サザンカ、ヒノキなどの樹木と、枯菊が散見されとあるが、この程度の植物では、漱石の庭は、鑑賞に耐えうる庭とは思えない。しかし、猫にとっては、葉を繁らせたアオギリが蝉取り場となり、まさに“我が輩の庭”であった。