★盆踊りと伊勢踊り

江戸庶民の楽しみ 9
★盆踊りと伊勢踊り
・寛文十一年(1671年)三月、村山又三郎が日本橋葺屋町に村山座を設立する。
 十一月、大和守、山村座へ見物に遣わす。
 ○堺町に江戸孫三郎が繰座興行する。
 ○大和守邸で操り『浄瑠璃御前』狂言入間川』他上演する。

・寛文十二年(1672年)二月、勧進太神楽・高野聖等の宿泊を禁止する。
 二月、浄瑠璃坂の仇討起きる。
 五月、魚介類・野菜・果実36種の販売季節を限定、初物を規制する。
 六月、山王権現祭礼される。
 六月、大和守邸で狂言『大福長者』他上演する。
 閏六月、祭礼の練物をまねた踊を禁止する。
 十二月、屋敷を娼家に貸していた幕府の下吏七人が追放される。
 ○呉服店松坂屋」開く。
 ○可坊と呼ぶ畸人の見世物が人気となる。

・寛文十三年(1673年)五月、大川筋海の手以外での花火・辻鞠・辻相撲・午後六時以降の煮売禁止する。
 七月、盂蘭盆聖霊棚道具を江戸城の堀へ投棄を禁止する。
 ○越後屋の祖、日本橋呉服商を始める。
 寛文年間○隆達節・弄斎節・土手節などの小唄流行
・延宝一年(1673年)九月、中村座で初代市川団十郎が初舞台、『四天王稚立』が好評。
 十二月、大和守、竹之丞座へ見物遣わす。
 ○大和守邸に竹之丞座・勘三郎座などの役者を呼ぶ。

・延宝二年(1674年)二月、喧嘩口論、覆面、門立・辻立ちなどを禁止する。
 五月、火盗改めが過酷で、お玉ヶ池の藤掛式部邸前で五百人が悪口雑言する。
 六月、山王権現祭礼される。
 ○大和守邸で操り『和国美人歌論』狂言『両国の化性』他催される。
 ○葺屋町に土佐虎之助が繰座を興行する。

・延宝三年(1675年)二月、御救小屋を建て難民に粥を施す。
 九月、木挽町山村長太夫の芝居で曽我続狂言の初興行する。
 ○大和守邸で操り『勇力板額女』狂言『福遊び』他度々あり。
 ○辻駕籠が300梃に限り許可、町人の駕籠利用を認める。

・延宝四年(1676年)三月、回向院で近江石山寺観音の開帳が催される。出開帳の初出。
 五月、大和守邸に竹之丞座・山村長太夫座などの役者呼ぶ。
 六月、山王権現祭礼される。
 九月、宝生太夫が鉄砲洲で4日間勧進能を催す。
 十二月、吉原より失火、吉原最初の大火。

・延宝五年(1677年)一月、中村座市村座の雨除けの為、休息所間口五間に屋根葺許可する。
 二月、菱川師宣画『江戸雀』刊行する。
 三月、浅草寺開帳する。
 七月、町々で伊勢踊が始まり、美麗を尽くす。
 八月、町々で踊をすることを禁止(盂蘭盆の時期が過ぎたためか)。
 十月、町々の踊興行を再禁止する。
 ○大和守邸で子供芝居『若宮物語』狂言『悦之宴』他度々催す。

 庶民が最もお金をかけなくて楽しめる遊びに盆踊りがある。慶安年間(1648~52年)には市中の男女が夜中まで踊り続け、たいそう賑わったという。延宝五年(1677年)にいたっては、盆が終わって月が変わってもまだ踊りがやまないので禁止した。が、それでも効果がなかったらしく、十月に再び踊りを禁じなければならなかった。
 では当時、盆踊りはどのような形と規模で行われていたのだろうか。これは、現代の盆踊りですら、実態がよくつかめないことを考えると、なかなか難しい。たとえば、踊りの曲一つをとってみても、曲名がきちんと把握されていない。たぶん地元の○○節や○○音頭があり、それに人気のアニメソングや流行った演歌などがレパートリーに組み入れられるのだろう。が、しかし、具体数など正確にはわからない。
 とにかく、盆踊りは全国津々浦々、都会から田舎まで、町会や集落、商店街などで、無数に行われている。ただ、個々の盆踊りの参加者が一万人を超えるような例は少なく、あまりにも当たり前に行われすぎたためか、新聞やテレビなどで取り上げられることはほとんどない。取り上げられるのは、ショー化したヨサコイやソーラン祭りなどである。
 これに対し、たとえばジャズフェスティバルは、全国でも数えるほどしか開催されていないのに、毎年のようにマスコミに載る。もし、後世の人々が新聞記事やテレビのニュースだけを調べたとしたら、盆踊りよりジャズフェスティバルの方がよほど盛んだったという印象を受ける可能性だってある(実際には地方の盆踊りの方が二桁多いと思われる)。今ですらその程度にしか把握されていないのだから、江戸期の状況を推測するのは容易ではない。しかし、庶民の遊びを考えるにあたって、盆踊りというのは、やはり重要なキーワードであることは間違いない。
  盆踊りの発生については、十世紀の中頃、空也上人や一遍上人(遊行聖)によって始められた踊り念仏がその原型だと言われている。踊り念仏とは、三眛場や町の辻々において、念仏や和讚を唱え、鉦や太鼓、瓢などを打ち鳴らしながらトランス状態に入るもので、悪霊を鎮め、追い払うという趣旨の踊りである。むろん、この踊り念仏は宗教儀式の一つであったが、呪術性とともに芸能的性格も伝承され、民衆の支持を得て広がっていった。
 当時の民衆は、身の回りに起きる疫病や災害は、もっぱら悪霊によってもたらされると信じていた。そのため、災厄を払うには、群衆の激しい興奮に悪霊を巻き込んで、これを送り出してしまう他ないと信じ、次々に踊念仏(念仏踊り)に加わっていった。
 この踊り念仏が後年、盆踊りとなったのは、夏から秋への季節の変わり目が霊魂の動揺する時期 (台風の来襲)だと言われ、ちょうどこの時期に行う行事(盂蘭盆会)と結びついたからである。特亡くなって日が浅く、正月や盆に一度も歓待を受けたことのない、新しい精霊には、確実にあの世に帰ってもらわなければならない。そこで、そうした魂を特に慰める意味からも踊り念仏が広まっていった。
 以上、これが盆踊りの起源に関する有力な説である。
 また、「願人坊主」(本来の願人坊主とは、免許条件を満たした上で、欠員が出た時に僧籍に入うべく待機している者)が踊りながら勧進して歩いた住吉踊りも、踊り念仏から出たものである。それは、住吉踊りが、願人坊主に似せて、花笠をかぶり、白い着物に、団扇を持って踊ることからもうかがえる。なお、この住吉踊りは、御田植神事の時に踊られる田楽系の念仏踊りと考えられている。
 さらに風流踊りも、願人坊主らによって、風流小謡念仏踊りとして民衆の間で広まっていくうちに、勧進を伴わなずに踊りだけが一人歩きしたものだろう。慶長八年(1603年)に、江戸で女歌舞伎が上演されているが、これも厳密には念仏踊りや風流踊りといった類のものであっただろうと言われている。
 十七世紀の初めには、京都を皮切りに風流踊りが流行(京都では1604年の豊国祭臨時祭をピークとする)、家康みずから城内で駿府町民の風流踊りを催しているくらいである(1609年)。続いて伊勢踊り(1614年頃よりはじまり、伊勢信仰に結びついた風流踊りか、群集して足拍子を立てて踊り進む)も全国的に流行した。
 さて、歌舞伎踊りの初見は京都(1603年)で、船橋秀賢がそれまで、「ややこ踊り」と呼ばれていた踊りを日記の中で「かふきおとり」と書きつけたものである。なお、「ややこ踊り」とは、流行の小唄にあわせてに2、3人の少女が踊るという可憐な芸能であった。が、この名称は、これを最後にぷっつり史料から消えてしまう。
 ではその後登場した歌舞伎の創始者とされる「阿国」が始めた歌舞伎踊りとは、一体どのようなものだったのだろうか。それは「刀や脇差、それに衣装なども異風な男に扮し、茶屋の女と戯れるさまを見事に演じた」とあって、当時の京の街を闊歩する無頼漢「かぶき者」と茶屋で繰り広げられる様々な風俗を舞台で演じるものであったという。
 もっとも、だからといって芝居や寸劇のようなものではなかったようで、基本的には踊りが主体であった。このように十七世紀初頭の歌舞伎踊りは、芸能性が高いとはいうものの、劇と踊りは渾然としていて、中世の宗教色も未だ色濃く残っていたものと思われる。
 歌舞伎が演劇として独立していく一方で、踊りは宗教色を強く残したまま民衆の中に浸透していった。伊勢踊りはついに禁止される(1624年)ほどの勢いを見せ、風流踊りや住吉踊りは禁止の網の目をかいくぐるようにして存続した。そのような中で、盆踊りは、度重なる制限にもめげずに生き残った民衆の踊りであった。もっとも、盆踊りと一口に言っても、その形態は地域によって様々で、「盂蘭盆に踊る」という程度の共通性しかないと言ってもいい。
 事実、延宝五年(1677年)、江戸の町々では盂蘭盆を過ぎても踊っていたという理由で、二度にわたって盆踊りが禁止されている。七月に人々が踊っていたのは、盆踊りとは名ばかりでその実、贅沢三昧、まるで伊勢踊りのようであったらしい。以後、元禄年間に6回、2~3年置きに辻踊りが禁止されている。当時、庶民は相当熱に浮かされていたようだが、背後にそれを仕掛けている人々(唱門師など)の存在があったことも忘れてはならない。