江戸庶民の楽しみ 12
★豪商たちの絢爛たる遊び振り
・元禄四年(1691年)二月、オランダの商館医師としてケンペルが江戸に入る。
★豪商たちの絢爛たる遊び振り
・元禄四年(1691年)二月、オランダの商館医師としてケンペルが江戸に入る。
・二月、城内で参府のオランダ人が洋楽を演奏する。
・三月、中村座・市村座に出演した水木辰之助の鎗踊が大当たりする。
・六月、山王権現祭礼催される。
・八月、寺社の門前や境内に市や店の造新築を禁止する。
・十月、蛇使いや犬・猫・鼠の芸の見世物を禁止する。
○深川永代寺で箱根権現開帳(永代寺での初の出開帳)を催す。
・元禄五年(1692年)五月、富突講・百人講を禁止する。
・六月、回向院で信州善光寺の初めての開帳を催す。
・九月、浅草諏訪町から聖天町の河岸での漁労を禁止する。
・九月、白山権現祭礼、山車練物出る
・九月、浅草寺開帳を催す。
○伊藤伊兵衛『錦繍枕』刊行する。
○大和守邸で操り浄瑠璃を催す。
○中村座で『方便下(信?)田妻』大当たりする。
・三月、中村座・市村座に出演した水木辰之助の鎗踊が大当たりする。
・六月、山王権現祭礼催される。
・八月、寺社の門前や境内に市や店の造新築を禁止する。
・十月、蛇使いや犬・猫・鼠の芸の見世物を禁止する。
○深川永代寺で箱根権現開帳(永代寺での初の出開帳)を催す。
・元禄五年(1692年)五月、富突講・百人講を禁止する。
・六月、回向院で信州善光寺の初めての開帳を催す。
・九月、浅草諏訪町から聖天町の河岸での漁労を禁止する。
・九月、白山権現祭礼、山車練物出る
・九月、浅草寺開帳を催す。
○伊藤伊兵衛『錦繍枕』刊行する。
○大和守邸で操り浄瑠璃を催す。
○中村座で『方便下(信?)田妻』大当たりする。
・元禄六年(1693年)春、生池院開帳を含め2開帳が催される。
・五月、中村座で『新撰殺生石』が大当たりする。
・六月、「馬が物を言う」との噂が広まり35万人余り取り調べられる。
・六月、山王権現祭礼が催され、綱吉は祭礼に金三枚を薦めて以後恒例となる。
・八月、釣りの禁止と釣り舟の営業を停止される。
○大和守邸に堺町の彌之助躍座を呼ぶ。
・五月、中村座で『新撰殺生石』が大当たりする。
・六月、「馬が物を言う」との噂が広まり35万人余り取り調べられる。
・六月、山王権現祭礼が催され、綱吉は祭礼に金三枚を薦めて以後恒例となる。
・八月、釣りの禁止と釣り舟の営業を停止される。
○大和守邸に堺町の彌之助躍座を呼ぶ。
・元禄七年(1694年)二月、高田馬場で堀部安兵衛が助太刀をする。
・七月、広小路に毎夜大勢集まって相撲をとることを再禁止する。
・七月、歌舞伎役者・女踊子などが女性の家に出入りすることを再禁止する。
・十月、森田座で松本小四郎が「平親王政門」役で大当たりする。
・十月、町家で鐘・鼓を鳴らし仏名題目をとなえ、衆人を集めることを再禁止する。
○大和守邸・越後守邸などで・狂言や操り浄瑠璃を催す。
○小鼓の名手、品川沖で釣りをして遠島となる。
・七月、広小路に毎夜大勢集まって相撲をとることを再禁止する。
・七月、歌舞伎役者・女踊子などが女性の家に出入りすることを再禁止する。
・十月、森田座で松本小四郎が「平親王政門」役で大当たりする。
・十月、町家で鐘・鼓を鳴らし仏名題目をとなえ、衆人を集めることを再禁止する。
○大和守邸・越後守邸などで・狂言や操り浄瑠璃を催す。
○小鼓の名手、品川沖で釣りをして遠島となる。
・元禄八年(1694年)一月、山村座で『名古屋』大入りとなる。
・二月、大火で六万余戸焼失する。
・五月、大久保に犬小屋を作り収容する。
・六月、山王権現祭礼催される。
・七月、町々に盂蘭盆会の雑具を城堀に捨てること禁止する。
・八月、女性宅へ役者などの出入りを再禁止する。
・十一月、中野に犬小屋を作り収容する。
○中村座で『小栗連理枝』荻野左馬之丞大当たりする。
・二月、大火で六万余戸焼失する。
・五月、大久保に犬小屋を作り収容する。
・六月、山王権現祭礼催される。
・七月、町々に盂蘭盆会の雑具を城堀に捨てること禁止する。
・八月、女性宅へ役者などの出入りを再禁止する。
・十一月、中野に犬小屋を作り収容する。
○中村座で『小栗連理枝』荻野左馬之丞大当たりする。
・元禄十年(1697年)一月、中村座で『大福帳参会名護屋』市川団十郎が大当たりする。
・五月、新大橋で宝生新乃丞が勧進能を興行する。
・五月、中村座で『兵根元曽我』大評判、江戸中の子供が真似る。
・七月、暦問屋が11軒に定められる。
・十一月、山村座で『浅間獄』等大当たりする。
○両国橋広小路に髪結、水茶屋などの商人が置かれる。
・十二月、俳諧点者が賞を懸ける賭博に似た行為を禁止する。
・元禄十一年(1698年)一月、中村座で『佐々本箱伝授』が大当たりする。
・二月、新奇な小哥流行・当座の変事の刊行・販売を禁止する。
・三月、中村座で『関東小録』団十郎大当たりする。
・七月、永代橋完成する。
・九月、紀伊国屋文左衛門の建立した寛永寺根本中堂、参詣が許され、貴賤一時に輻輳し、山内錐を建てる地もなし。
・十一月、内藤新宿が開設される。
・十一月、自身番が集り雑談や飲食を禁止する。
・十二月、英一蝶、幕府の忌諱にふれ遠島になる。
○本所弥勒寺で開帳(開帳期間不明)が催される。
○市村座で猿若三左衛門、鵺にトドメを刺す猪早太役が大当たりする。
・五月、新大橋で宝生新乃丞が勧進能を興行する。
・五月、中村座で『兵根元曽我』大評判、江戸中の子供が真似る。
・七月、暦問屋が11軒に定められる。
・十一月、山村座で『浅間獄』等大当たりする。
○両国橋広小路に髪結、水茶屋などの商人が置かれる。
・十二月、俳諧点者が賞を懸ける賭博に似た行為を禁止する。
・元禄十一年(1698年)一月、中村座で『佐々本箱伝授』が大当たりする。
・二月、新奇な小哥流行・当座の変事の刊行・販売を禁止する。
・三月、中村座で『関東小録』団十郎大当たりする。
・七月、永代橋完成する。
・九月、紀伊国屋文左衛門の建立した寛永寺根本中堂、参詣が許され、貴賤一時に輻輳し、山内錐を建てる地もなし。
・十一月、内藤新宿が開設される。
・十一月、自身番が集り雑談や飲食を禁止する。
・十二月、英一蝶、幕府の忌諱にふれ遠島になる。
○本所弥勒寺で開帳(開帳期間不明)が催される。
○市村座で猿若三左衛門、鵺にトドメを刺す猪早太役が大当たりする。
・元禄十二年(1699年)二月、江戸罹災町人に米三万俵を恩貸される。
・五月、中村座で『葛城小夜嵐』が大当たりする。
・六月、山王権現祭礼催される。
・七月、中村座で『一心五界玉』が大当たりする。
・十月、大奥に倹約令が出される。
・十一月、森田座で『当世阿国歌舞伎』上村吉三郎大当たりする。
・十一月、山村座で『京土産浅間が獄』大当たり、百廿余日興行する。
○コロリが流行る。
・五月、中村座で『葛城小夜嵐』が大当たりする。
・六月、山王権現祭礼催される。
・七月、中村座で『一心五界玉』が大当たりする。
・十月、大奥に倹約令が出される。
・十一月、森田座で『当世阿国歌舞伎』上村吉三郎大当たりする。
・十一月、山村座で『京土産浅間が獄』大当たり、百廿余日興行する。
○コロリが流行る。
元禄文化は町人の文化とされているが、思い通りに楽しむことのできたのは経済力のある一握りの人々に限られていた。町人でも貧富の差は、以前からあったものの、その差が著しく拡大したのは元禄期(三井が江戸や京都に越後屋呉服店を開いた1673年ごろから)である。
長屋住まいの庶民は、まだ遊びの主役にはなっていなかったが、大尽遊びを見聞きし自分たちにも可能性があると感じとっていた。そして、いつも何かおもしろいことはないかと、熱心に遊びの種を探し、庶民は庶民なりに楽しめるようアンテナをはっていた。
では当時、町人がどれくらい台頭していたか。たとえば、綱吉が将軍になった翌年(1681年)、浅草の豪商・石川屋六兵衛が奢侈の咎により闕所・追放の憂き目にあっている。ある時、綱吉が、寛永寺参詣の途中、上野山下あたりを通りかかると芳香が漂ってくる。出所はと探させると、ある家に金屏風の前で着飾った侍女たちに香をたかせて、扇であおがせている派手な女がいる。もちろん、将軍の行列がそこを通るのを知った上での行為。怒った綱吉がその女の身元を調べさせたところ、これが当時勇名を轟かせていた石川屋の女房。以前にも京都の那波屋十右衛門の女房と桁外れな衣装比べをして注目を集めるなど、分不相応な暮らしぶりが露顕、処分となった。
ちなみに、この年は世間を賑わせる事件がもう一つ起きている。旗本御書院番大久保彦六の下女・ふじが自殺した一件である。大久保は評判の美女であるふじに横恋慕したが、思いが通じないことに腹を立て、秘蔵の皿の一枚を隠し、その詮議と称して何度も皿を数えさせ、ふじを死に追い込んだもの。その後大久保がふじの幽霊に悩まされたという話が江戸中の評判となり、森田座ではこれをもとに狂言に仕立てた。(これが『番町皿屋敷』の原型との説もある)
ところで武士は、町人の目に余る贅沢ぶりがよほど気に障ったと見えて、端午の節句の飾物規制(1681年)、町中の茶屋で茶屋女はもちろん妻や娘の給仕、遊女を置くことの禁止(1682年)、山王権現祭礼の練物・人形装束・供の者(見物人も)の美麗な衣類の禁止(1683年)と、立て続けに町人の遊びや楽しみを制約しようとしている。もっとも、それで町人の贅沢がおさまったかといえばむしろ逆で、ますます盛んかつ、巧妙になっていった。
では、当時、勢いのある町人たちは、一体どんな風に遊んでいたのか、紀伊国屋文左衛門に、こんな話がある。ある時文左衛門が吉原の大松屋で月見をしていた。何やら騒がしいので声のする方を見ると、階段の上り口の板を外し、手すりを壊して、巨大な饅頭を運んできた。遊び友達からの文左衛門への今宵の座興に、という口上つき。皆呆れて見ていたが、その饅頭を割ってさらに驚く。なんと中には普通の大きさの饅頭がびっしり詰まっていた。友達はこれを作らせるために、大釜を別注、その他の道具もすべて新しく作らせたので、饅頭作りの代金が七〇両にも及んだという。
これに対する文左衛門のお返しがまたふるっている。 彼は相手が遊んでいる席に出向いて、袂から蒔絵の小箱を一つ取り出した。何だろうと皆が近寄って箱を開くと、中から豆粒のような小さな蟹が数百匹も這い出した。当然大騒ぎになったが、その蟹をよく見ると、小さな甲羅に女郎と客の紋が金で書いてあったという。
元禄期の町人たちの豪勢な遊びっぷりを示す話は、枚挙に暇がないが、なぜ彼らは遊ぶことにそれほどの大金をつぎこんだのだろう。それは一つには、商売で儲けた金を投資する対象が少なく、せっかく蓄えた財産を活用する術がなかったからだろう。国民の八割を占める農民はまだ貧しく、流通経済の仕組みができていない。また、海外との貿易は禁止され、商売も都市部に限定されていたと考えれば、儲けた金は大名に貸すくらいしかなかった。つまり、現在のように事業を拡大するために、再投資するとか、新しく事業を起こすというようなことはできなかったのである。
金の使い道がないので自然余った金は遊びの方へ流れる。それも幕府が定めた範囲内でおとなしく遊んでいたのでは、到底使い切れなかった。結局は、祭りや季節の行事を思い切り派手にしたり、芝居や遊廓で豪遊したりするしかなかった。遊ぶとなると彼らは、金を惜しみなく使って、遊びを最大限に盛りあげた。世間を驚かせることに、少なからず生き甲斐を感じていたようでもある。当時の豪商たちは遊びに関しては、名パトロン、名プロデューサー揃いであった。
加えて、紀伊国屋文左衛門の金の使い方のスマートさを示す。三田村鳶魚の「鰹╶╴押送船、紀文の逸話」に、「ある時、紀文が江戸で初鰹を最初に食べたいと言い、初入荷の鰹をすべて買い占めさせた。紀文は大勢を引き連れ、吉原にやってきたが、どういうわけかたった一本しか皿に料理されていなかった。一口味わうとすぐになくなったので、次をだすように催促したが出さなかった。その理由を問うと、初鰹は珍しいところが賞翫だといい、庭にある大半切の蓋を二つ三つ取って中の鰹を見せた。紀文はこれが大いに気に入って、当座の褒美にと五〇両を与えたとある。」と言う話がある。
長屋住まいの庶民は、まだ遊びの主役にはなっていなかったが、大尽遊びを見聞きし自分たちにも可能性があると感じとっていた。そして、いつも何かおもしろいことはないかと、熱心に遊びの種を探し、庶民は庶民なりに楽しめるようアンテナをはっていた。
では当時、町人がどれくらい台頭していたか。たとえば、綱吉が将軍になった翌年(1681年)、浅草の豪商・石川屋六兵衛が奢侈の咎により闕所・追放の憂き目にあっている。ある時、綱吉が、寛永寺参詣の途中、上野山下あたりを通りかかると芳香が漂ってくる。出所はと探させると、ある家に金屏風の前で着飾った侍女たちに香をたかせて、扇であおがせている派手な女がいる。もちろん、将軍の行列がそこを通るのを知った上での行為。怒った綱吉がその女の身元を調べさせたところ、これが当時勇名を轟かせていた石川屋の女房。以前にも京都の那波屋十右衛門の女房と桁外れな衣装比べをして注目を集めるなど、分不相応な暮らしぶりが露顕、処分となった。
ちなみに、この年は世間を賑わせる事件がもう一つ起きている。旗本御書院番大久保彦六の下女・ふじが自殺した一件である。大久保は評判の美女であるふじに横恋慕したが、思いが通じないことに腹を立て、秘蔵の皿の一枚を隠し、その詮議と称して何度も皿を数えさせ、ふじを死に追い込んだもの。その後大久保がふじの幽霊に悩まされたという話が江戸中の評判となり、森田座ではこれをもとに狂言に仕立てた。(これが『番町皿屋敷』の原型との説もある)
ところで武士は、町人の目に余る贅沢ぶりがよほど気に障ったと見えて、端午の節句の飾物規制(1681年)、町中の茶屋で茶屋女はもちろん妻や娘の給仕、遊女を置くことの禁止(1682年)、山王権現祭礼の練物・人形装束・供の者(見物人も)の美麗な衣類の禁止(1683年)と、立て続けに町人の遊びや楽しみを制約しようとしている。もっとも、それで町人の贅沢がおさまったかといえばむしろ逆で、ますます盛んかつ、巧妙になっていった。
では、当時、勢いのある町人たちは、一体どんな風に遊んでいたのか、紀伊国屋文左衛門に、こんな話がある。ある時文左衛門が吉原の大松屋で月見をしていた。何やら騒がしいので声のする方を見ると、階段の上り口の板を外し、手すりを壊して、巨大な饅頭を運んできた。遊び友達からの文左衛門への今宵の座興に、という口上つき。皆呆れて見ていたが、その饅頭を割ってさらに驚く。なんと中には普通の大きさの饅頭がびっしり詰まっていた。友達はこれを作らせるために、大釜を別注、その他の道具もすべて新しく作らせたので、饅頭作りの代金が七〇両にも及んだという。
これに対する文左衛門のお返しがまたふるっている。 彼は相手が遊んでいる席に出向いて、袂から蒔絵の小箱を一つ取り出した。何だろうと皆が近寄って箱を開くと、中から豆粒のような小さな蟹が数百匹も這い出した。当然大騒ぎになったが、その蟹をよく見ると、小さな甲羅に女郎と客の紋が金で書いてあったという。
元禄期の町人たちの豪勢な遊びっぷりを示す話は、枚挙に暇がないが、なぜ彼らは遊ぶことにそれほどの大金をつぎこんだのだろう。それは一つには、商売で儲けた金を投資する対象が少なく、せっかく蓄えた財産を活用する術がなかったからだろう。国民の八割を占める農民はまだ貧しく、流通経済の仕組みができていない。また、海外との貿易は禁止され、商売も都市部に限定されていたと考えれば、儲けた金は大名に貸すくらいしかなかった。つまり、現在のように事業を拡大するために、再投資するとか、新しく事業を起こすというようなことはできなかったのである。
金の使い道がないので自然余った金は遊びの方へ流れる。それも幕府が定めた範囲内でおとなしく遊んでいたのでは、到底使い切れなかった。結局は、祭りや季節の行事を思い切り派手にしたり、芝居や遊廓で豪遊したりするしかなかった。遊ぶとなると彼らは、金を惜しみなく使って、遊びを最大限に盛りあげた。世間を驚かせることに、少なからず生き甲斐を感じていたようでもある。当時の豪商たちは遊びに関しては、名パトロン、名プロデューサー揃いであった。
加えて、紀伊国屋文左衛門の金の使い方のスマートさを示す。三田村鳶魚の「鰹╶╴押送船、紀文の逸話」に、「ある時、紀文が江戸で初鰹を最初に食べたいと言い、初入荷の鰹をすべて買い占めさせた。紀文は大勢を引き連れ、吉原にやってきたが、どういうわけかたった一本しか皿に料理されていなかった。一口味わうとすぐになくなったので、次をだすように催促したが出さなかった。その理由を問うと、初鰹は珍しいところが賞翫だといい、庭にある大半切の蓋を二つ三つ取って中の鰹を見せた。紀文はこれが大いに気に入って、当座の褒美にと五〇両を与えたとある。」と言う話がある。