江戸庶民の楽しみ 10
★歌舞伎芝居草創期
・延宝六年(1678年)一月、堺町でからくり・子供芸を興行する。
一月、松本丹後守邸で土佐少掾、繰り『八島』上演する。
三月、大和守邸で鶴屋播磨の一座など上演する。
六月、山王権現祭礼される。
八月、茶屋女を規制(給仕の女は二名まで、衣服は布木綿に限るなど)する。
・延宝七年(1679年)二月、振売商人を制限、新規振売禁止する。
四月、市村座で「西行法師の狂言」一世一代として上演する。
六月、大川筋・海手以外の花火を禁止する。
五月、堺町大坂七太夫座より出火、中村座・市村座も焼失する。
○大和守邸で操り『柿本人丸』狂言『泉水石引おどり』他を催す。
・延宝八年(1680年)一月、堺町・木挽町の各座景況、大狂言の中村座・市村座、操りの大薩摩座・土佐座・都長太夫座、せっきょうの大坂七太夫座・石見座・籠抜の竜王蓮之丞座・飛流勝之助座・藤巻嘉信座、子供狂言の松村又楽座、見世物は孔雀・大蛇塩漬・牛生替女・獏等、木挽町に大狂言の山村長太夫座・竜尾連之助座などが興行される。
一月、大和守邸で都伝内の子供狂言催す。
三月、京因幡堂薬師、江戸にて開帳する。
四月、重病の家綱、竹本土佐掾の操浄瑠璃、都右近の放下・繰狂言などを観覧する。
八月、徳川綱吉、五代将軍になる。
八月、乞食を追放する。
八月、盂蘭盆の聖霊棚道具を江戸城の堀へ投棄することを禁止する。
九月、城内で慶宴の猿楽が催され、白州で町人の観覧許可される。
・延宝九年(1681年)二月、護国寺が開創される。
四月、端午の節句の飾物規制される。
五月、浅草の豪商石川屋六兵衛、奢侈の罪により闕所・追放される。
六月、山王権現祭礼される。
七月、免許者以外の駕籠乗物を禁止する
○鹿野武左衛門、辻ばなしを始める
○市村座で『貴船』玉川千之丞の扇の手曲大当たり
延宝年間○上野清水観音堂(寛永寺境内)裏側の紅種彼岸桜「秋色櫻(シュウシキザクラ)」が有名になる。
○堺町に大女「およめ」と小男「甫春」の見世物が出る。
○堺町に15軒の蛇遣いの見世物、大入りを競い流行する。 ○山王権現と神田明神の祭礼を隔年とし、交互に行う。
・天和一年(1681年)
・天和二年(1682年)五月、市村座で『好色鎌倉五人女』大当たり、曽我続狂言の始め。
七月、屋台船の長さが4間3尺・屋根の高さが5尺以内に制限する。
七月、中芝居都伝内ほうか子供狂言、見世物色々あり。
八月、市村座で『小栗忠孝車』大当たりする。
九月、町中の茶屋で茶屋女はもちろん妻・娘の給仕、遊女を置くことを禁止する。
十一月、吉原へ長刀を持っての入場禁止する。
十二月、八百屋お七火事で中村座等焼失する。
○井原西鶴『好色一代男』刊行
天和三年(1683年)二月、森田座で『西国富田原』大当たり。
二月、歌舞伎役者の衣服を制限する。
二月、江戸城内でオランダ人が洋楽を演奏する。
三月、お七が火刑となる。
三月、森田座で『女君二河白道』大当たりする。
六月、山王権現祭礼、練物・人形装束・供の者の美麗な衣類禁止される。
○『紫の一本』刊行
★歌舞伎芝居草創期
・延宝六年(1678年)一月、堺町でからくり・子供芸を興行する。
一月、松本丹後守邸で土佐少掾、繰り『八島』上演する。
三月、大和守邸で鶴屋播磨の一座など上演する。
六月、山王権現祭礼される。
八月、茶屋女を規制(給仕の女は二名まで、衣服は布木綿に限るなど)する。
・延宝七年(1679年)二月、振売商人を制限、新規振売禁止する。
四月、市村座で「西行法師の狂言」一世一代として上演する。
六月、大川筋・海手以外の花火を禁止する。
五月、堺町大坂七太夫座より出火、中村座・市村座も焼失する。
○大和守邸で操り『柿本人丸』狂言『泉水石引おどり』他を催す。
・延宝八年(1680年)一月、堺町・木挽町の各座景況、大狂言の中村座・市村座、操りの大薩摩座・土佐座・都長太夫座、せっきょうの大坂七太夫座・石見座・籠抜の竜王蓮之丞座・飛流勝之助座・藤巻嘉信座、子供狂言の松村又楽座、見世物は孔雀・大蛇塩漬・牛生替女・獏等、木挽町に大狂言の山村長太夫座・竜尾連之助座などが興行される。
一月、大和守邸で都伝内の子供狂言催す。
三月、京因幡堂薬師、江戸にて開帳する。
四月、重病の家綱、竹本土佐掾の操浄瑠璃、都右近の放下・繰狂言などを観覧する。
八月、徳川綱吉、五代将軍になる。
八月、乞食を追放する。
八月、盂蘭盆の聖霊棚道具を江戸城の堀へ投棄することを禁止する。
九月、城内で慶宴の猿楽が催され、白州で町人の観覧許可される。
・延宝九年(1681年)二月、護国寺が開創される。
四月、端午の節句の飾物規制される。
五月、浅草の豪商石川屋六兵衛、奢侈の罪により闕所・追放される。
六月、山王権現祭礼される。
七月、免許者以外の駕籠乗物を禁止する
○鹿野武左衛門、辻ばなしを始める
○市村座で『貴船』玉川千之丞の扇の手曲大当たり
延宝年間○上野清水観音堂(寛永寺境内)裏側の紅種彼岸桜「秋色櫻(シュウシキザクラ)」が有名になる。
○堺町に大女「およめ」と小男「甫春」の見世物が出る。
○堺町に15軒の蛇遣いの見世物、大入りを競い流行する。 ○山王権現と神田明神の祭礼を隔年とし、交互に行う。
・天和一年(1681年)
・天和二年(1682年)五月、市村座で『好色鎌倉五人女』大当たり、曽我続狂言の始め。
七月、屋台船の長さが4間3尺・屋根の高さが5尺以内に制限する。
七月、中芝居都伝内ほうか子供狂言、見世物色々あり。
八月、市村座で『小栗忠孝車』大当たりする。
九月、町中の茶屋で茶屋女はもちろん妻・娘の給仕、遊女を置くことを禁止する。
十一月、吉原へ長刀を持っての入場禁止する。
十二月、八百屋お七火事で中村座等焼失する。
○井原西鶴『好色一代男』刊行
天和三年(1683年)二月、森田座で『西国富田原』大当たり。
二月、歌舞伎役者の衣服を制限する。
二月、江戸城内でオランダ人が洋楽を演奏する。
三月、お七が火刑となる。
三月、森田座で『女君二河白道』大当たりする。
六月、山王権現祭礼、練物・人形装束・供の者の美麗な衣類禁止される。
○『紫の一本』刊行
延宝八年(1680年)頃の堺町・木挽町の各座景況から、さまざまな興行が催され賑わいのあることが推測できる。その興行中で、歌舞伎は慶長年間(1596~1615年)当時の女歌舞伎(かぶき踊り)とは違う芝居が演じられていた。それは、元和十年(1624年)に初代中村勘三郎が猿若座を創建し、寛永十一年(1634年)、村山又三郎が村山座を開場、歌舞伎芝居を興行した頃からであろう。寛永十六年(1639年)、中村座で『横笛』『貴船の道行』が大当たりするなど人気も高かった。まだ当時の当時の歌舞伎は、江戸後期と比べると見るのが楽(幕見が通常で、時間が短くてすんだ)で、かつ安上がりな遊びであった。
寛永二十一年(1644年)、京橋木挽町に岡村長兵衛(二代目村山長兵衛座)の芝居が始まる。正保三年(1646年)、中村座(元猿若座)に桟敷ができる。また、慶安元年(1648年)に河原崎権之助が河原崎座創設する。この頃(慶安四年)に建てられた中村座、山村座を見ると間口は八間三尺(15m余)、奥行十五間(27m余)で、客席の広さも百坪(330㎡)足らずであった。芝居小屋は四座あったものの、いずれも雨の日は見物できないという状況だったようだ。料金については不明だが、「青空芝居」だからそう高くはなかったはずであろう。
では、同じ頃の外国の劇場と比べてみたい。イギリスでは演劇が日本より盛んで、劇場は十六世紀の末頃から建設され上演されていた。1576年にシアター座が、続いてカーテン座、ローズ座、スワン座、グローブ座、フォーチュン座(1600年)、レッド・ブル座といった劇場が次々にロンドンに建設された。いかに多くの演劇が演じられていたかを示すものである。
その中で、現在再建された劇場としてグローブ座がある。グローブ座の開業は1599年、ロンドンの真中、テムズ川南岸に建てられた。シェークスピアの戯曲が演じられた劇場として有名で、1644年取り壊されたが復元されている。当時のグローブ座の劇場は円筒型(正確には20角形)をしている。中央に平土間の客席、そこには屋根もなく、椅子もない、江戸の観客席と変わらない。しかし、立ち見の土間と舞台を囲むように桟敷席が3階まで造られている。復元された劇場が1644年に取り壊されたものと同じであれば、江戸の劇場より立派な建物であると推測できる。
慶安三年(1650年)頃から、歌舞伎の演じ方にも変化があり、女形の祖と言われる右近源左衛門が「海道下り」を舞っている。慶安五年には、四月に堺町の村山座が市村羽左衛門に買い取られ、市村座と改称する中、幕府は六月に若衆歌舞伎役者の前髪を剃らせられた。この触れには、大名・旗本の男色禁止なども含まれ、さらに七月には歌舞伎が禁止されている。そして、承応二年(1653年)、歌舞伎芝居、物真似狂言尽しは、役者の前髪を剃り落すことを条件に興行を許可された。野郎歌舞伎のはじめとされている。
歌舞伎は規制が強化されたものの、芝居人気は衰えず、明暦元年(1655年)の山村座『曽我十番切』で甲冑鎧で立廻りがあり、日々大入りとある。人気を証明するように、翌年明暦二年には役者評判記がはじめて出版された。そして明暦三年、明暦の大火で吉原遊郭は日本橋から浅草に移転を命じられたが、寛文一年(1661年)、歌舞伎などの座は、堺・葺屋・木挽の三町に限定するが町中に残った。
寛文二年(1661年)、市村座で『海道下り』が大当たりし、百余日興行におよんだ。翌年寛文三年は中村座の『四季惣踊』が古今の大入り言われるくらいの盛況で五月まで興行している。その翌年は、市村座が三番続き四番続きの狂言を始め、見物が一日見になった。寛文五年(1665年)には、森田座で『曽我』が大評判となる。翌寛文六年、また市村座は玉川千之丞『忍び車』の所作事で又々大入りとある。
その後も、中村座『太平惣踊』や市村座『伊勢踊』『梅がつま』などで毎年のように大入り・大当たりを取っている。寛文十一年(1671年)、村山又三郎が日本橋葺屋町に村山座を設立するなど、歌舞伎への人気は一層高まっていった。中村座では、寛文十三年(1673年)初代市川団十郎が初舞台、『四天王稚立』は好評であった。観客が増える中で、延宝五年(1677年)には、中村座と市村座が雨除けのための休憩所として間口五間(約9m)、奥行一丈(約3m)の「平土間の一部を覆うもの」が造られたという記録が残っている。
歌舞伎芝居を含めて、当時の様子を伝えるものとして、中村座のある堺町の「延宝九年(一六八一=天和元年)の地図」がある。そこには、見世物が五軒、他にも「かごぬけ」や浄瑠璃芝居、天満八太夫、さつま小太夫の「しばい」などが並んでいる。言ってみれば、明治時代の浅草六區のような感じだろう。地図の中には、延宝五年(1680年)に重病の家綱の前で曲芸や操浄瑠璃を演じた、都右近や竹本土佐掾もいた。この地図を見ると芝居と見世物が混然として、はっきり分かれていないという印象を受ける。
そのため、観客側からは冷やかし半分、堺町にふらふらと足を伸ばしたついでに見るという情況であった。それでも、天和二年(1682年)には市村座で『好色鎌倉五人女』や『小栗忠孝車』が大当たり。翌三年は森田座で『西国富田原』や『女君二河白道』大当たりするなど人気は徐々にたまっている。この頃は、歌舞伎の面白さ楽しさを覚え、やがて表舞台に登場してくる、その素地をつくる準備期間だったに違いない。「荒事」「和事」などの元禄歌舞伎にいたる途上であり、草創期の域にあったと言えよう。
寛永二十一年(1644年)、京橋木挽町に岡村長兵衛(二代目村山長兵衛座)の芝居が始まる。正保三年(1646年)、中村座(元猿若座)に桟敷ができる。また、慶安元年(1648年)に河原崎権之助が河原崎座創設する。この頃(慶安四年)に建てられた中村座、山村座を見ると間口は八間三尺(15m余)、奥行十五間(27m余)で、客席の広さも百坪(330㎡)足らずであった。芝居小屋は四座あったものの、いずれも雨の日は見物できないという状況だったようだ。料金については不明だが、「青空芝居」だからそう高くはなかったはずであろう。
では、同じ頃の外国の劇場と比べてみたい。イギリスでは演劇が日本より盛んで、劇場は十六世紀の末頃から建設され上演されていた。1576年にシアター座が、続いてカーテン座、ローズ座、スワン座、グローブ座、フォーチュン座(1600年)、レッド・ブル座といった劇場が次々にロンドンに建設された。いかに多くの演劇が演じられていたかを示すものである。
その中で、現在再建された劇場としてグローブ座がある。グローブ座の開業は1599年、ロンドンの真中、テムズ川南岸に建てられた。シェークスピアの戯曲が演じられた劇場として有名で、1644年取り壊されたが復元されている。当時のグローブ座の劇場は円筒型(正確には20角形)をしている。中央に平土間の客席、そこには屋根もなく、椅子もない、江戸の観客席と変わらない。しかし、立ち見の土間と舞台を囲むように桟敷席が3階まで造られている。復元された劇場が1644年に取り壊されたものと同じであれば、江戸の劇場より立派な建物であると推測できる。
慶安三年(1650年)頃から、歌舞伎の演じ方にも変化があり、女形の祖と言われる右近源左衛門が「海道下り」を舞っている。慶安五年には、四月に堺町の村山座が市村羽左衛門に買い取られ、市村座と改称する中、幕府は六月に若衆歌舞伎役者の前髪を剃らせられた。この触れには、大名・旗本の男色禁止なども含まれ、さらに七月には歌舞伎が禁止されている。そして、承応二年(1653年)、歌舞伎芝居、物真似狂言尽しは、役者の前髪を剃り落すことを条件に興行を許可された。野郎歌舞伎のはじめとされている。
歌舞伎は規制が強化されたものの、芝居人気は衰えず、明暦元年(1655年)の山村座『曽我十番切』で甲冑鎧で立廻りがあり、日々大入りとある。人気を証明するように、翌年明暦二年には役者評判記がはじめて出版された。そして明暦三年、明暦の大火で吉原遊郭は日本橋から浅草に移転を命じられたが、寛文一年(1661年)、歌舞伎などの座は、堺・葺屋・木挽の三町に限定するが町中に残った。
寛文二年(1661年)、市村座で『海道下り』が大当たりし、百余日興行におよんだ。翌年寛文三年は中村座の『四季惣踊』が古今の大入り言われるくらいの盛況で五月まで興行している。その翌年は、市村座が三番続き四番続きの狂言を始め、見物が一日見になった。寛文五年(1665年)には、森田座で『曽我』が大評判となる。翌寛文六年、また市村座は玉川千之丞『忍び車』の所作事で又々大入りとある。
その後も、中村座『太平惣踊』や市村座『伊勢踊』『梅がつま』などで毎年のように大入り・大当たりを取っている。寛文十一年(1671年)、村山又三郎が日本橋葺屋町に村山座を設立するなど、歌舞伎への人気は一層高まっていった。中村座では、寛文十三年(1673年)初代市川団十郎が初舞台、『四天王稚立』は好評であった。観客が増える中で、延宝五年(1677年)には、中村座と市村座が雨除けのための休憩所として間口五間(約9m)、奥行一丈(約3m)の「平土間の一部を覆うもの」が造られたという記録が残っている。
歌舞伎芝居を含めて、当時の様子を伝えるものとして、中村座のある堺町の「延宝九年(一六八一=天和元年)の地図」がある。そこには、見世物が五軒、他にも「かごぬけ」や浄瑠璃芝居、天満八太夫、さつま小太夫の「しばい」などが並んでいる。言ってみれば、明治時代の浅草六區のような感じだろう。地図の中には、延宝五年(1680年)に重病の家綱の前で曲芸や操浄瑠璃を演じた、都右近や竹本土佐掾もいた。この地図を見ると芝居と見世物が混然として、はっきり分かれていないという印象を受ける。
そのため、観客側からは冷やかし半分、堺町にふらふらと足を伸ばしたついでに見るという情況であった。それでも、天和二年(1682年)には市村座で『好色鎌倉五人女』や『小栗忠孝車』が大当たり。翌三年は森田座で『西国富田原』や『女君二河白道』大当たりするなど人気は徐々にたまっている。この頃は、歌舞伎の面白さ楽しさを覚え、やがて表舞台に登場してくる、その素地をつくる準備期間だったに違いない。「荒事」「和事」などの元禄歌舞伎にいたる途上であり、草創期の域にあったと言えよう。