庶民の心を掴む遊びの仕掛け人

江戸庶民の楽しみ 11
★庶民の心を掴む遊びの仕掛け人
以下の一部に問題となる語句・表現があるが、元資料やその背景を鑑み、そのまま使用している。
天和四年(1684年)一月、中村座酒呑童子大江山鬼退治』四世勘三郎隠居して、中村伝九郎と改め舞台を勤める。
 三月、中村座『門松四天王』市川団十郎鳴神が大当たりする。
 七月、吉原へ勧進・巡礼・乞食などが入ることを禁止する。
 七月、出家・山伏・行人・願人らが徘徊しての寄進を禁止する。
 七月、将軍通行時、犬猫を繋ぐ事を禁止する。
・貞享一年(1684年)八月、深川八幡で勧進相撲が許され、晴天八日間興行をする。
 十一月、猥らな小唄流行・新奇の書物の出版・販売を禁止する。
 
・貞享二年(1685年)春、三田浄閑寺で開帳。
 三月、市村座で『魚籃開帳平道心』団十郎が大当たりする。  
 三月、森田座で『薄雪物語』が大当たりする。 
 五月、伊皿子福昌寺で開帳。                
 六月、山王権現祭礼催される。
 六月、辻相撲や辻盆踊が庶民の不満や世直り願望の表現で禁止される。
 七月、町々で子供の盆踊以外の集会・通行人の妨げとなる踊を禁止する。
 ○浅草境内に虎屋七右衛門芝居建つ、子供手踊・一幕の狂言など催される。
 
・貞享三年(1686年)一月、中村座で『椀久浮世十界』が初演される。
 三月、市村座で『丹前姿鏡』大入り大当たりする。
 五月、野菜・果物の売出し期日が決定される。
 八月、からくり人形で人を集めて賭博まがいのことが厳禁となる。
 九月、小石川白山権現社の祭礼が初めて本郷通りを渡る。
 十一月、饂飩・蕎麦切など火を持ち歩く商売禁止となる。
 
・貞享四年(1687年)一月、生類憐みの令が出る。
 三月、浅草寺観音開帳が催される。     
 三月、市村座で『二人照手姫』が大当たりする。
 六月、山王権現祭礼催(練物・人形装束・供の者の美麗な衣類禁止、帯刀禁止)
 七月、本所で、宝生太夫勧進能が興行される。
 七月、町方で寄合をして踊・辻相撲の興行を再禁止する。  
 七月、長州候邸で狂言や踊りが催される
 八月、大和守邸で森田座役者が演ずる。           
 ○藤田理兵衞編『江戸鹿子』刊行

・貞享五年(1688年)一月、中村・市村・山村の三座で『曽我狂言』上演する。  
 四月、側用人牧野の屋敷を来訪の桂昌院に操人形を見せる。 
 九月、神田明神祭礼催、神輿や練物が初めて江戸城内に入る。 
・元禄一年(1688年)十二月、柳沢吉保、御用人になる。
 
・元禄二年(1689年)一月、火を持っての食べ物商売を禁止する。
 ・三月、中村座で『名護屋大全』大当たりする。       
 ・六月、山王権現祭礼催される。
 ・六月、前髪の若衆の抱置きを禁止する。
 ・六月、辻相撲・踊を禁止する。
 ・六月、定形・定数外の屋形船の造船や辻相撲・踊りなどを禁止する。
 
・元禄三年(1690年)二月、中村座で『大吉武士鑑』大当たりする。
 ・三月、浅草蔵前通りが広小路となる。
 ・七月、道路での辻相撲・踊を禁止する。
 ○松月堂不角『江戸惣鹿子名所大全』出版する。
 ○『人倫訓蒙図彙』刊行する。

  「遊びが金になる」ということを、江戸時代の割合早い時期に直観的に察知し、商売に結び付けた人々が存在した。その時対象となったのは、必ずしも羽振りのよい上流の人々ではなく、むしろその日暮らしの貧しい庶民であることの方が多かった。懐の寒い庶民が金を出してまで遊ぶはずがない、と思いきや、いつの世にも小才がきく人はいるもの。彼らは、庶民の気持ちに寄り添い、足りない部分を補うような形で巧みに遊びの世界に導いていった。
 商売の仕方は、現代の娯楽産業の従事者のそれとは大きく異なる。まず、遊びの代価として金をもらうことを明言していない。客が満足し、自主的に金や食べ物をくれるのを待ってそれを受け取る。また、遊びと一口に言っても、現代の遊びのイメージとは趣が違う。たとえば、ストレートに楽しさを提供することのほかに、不安を取り除いたり、びっくりさせたり、見るものに優越感を与えたり、時によっては「だまし」と紙一重というようなものも少なくなかった。
  このように江戸時代初期には、庶民に近づいて、ちょっと猥雑で非日常的な楽しみを提供して歩く、遊びの仕掛人が町中を徘徊していた。庶民は、後述する「唱門師(しやうもんじ)」のような人々に半ば心を奪われ、遊びの世界に誘われていった。
 当時の人々は、唱門師らの仕掛けが、一見遊びとは縁のうすい信仰心や敬虔さでカモフラージュされていることに気づかず、次第にその虜になっていった。これによって宗教と遊びが、本来的に対立するものではないことを知った遊行聖等は、踊念仏という独特の布教方法を編み出し、宗教活動の一環としてして巧みに民衆の中に入り込んでいった。
  さらにそれを見て、布教や勧進などを表看板にしながら、もっぱら怪しげな「募金活動」で糊口をしのぐ人々も出てきた。彼らは、庶民よりももう一つ下の階級で、賤民と呼ばれる最下層に属していた。しかし、虐げられ、物言わぬ人々であったかといえば、意外にそうでもなさそうだ。元気(?)でしたたかな賤民たちは様々な「芸」を手に、庶民をまきこんで江戸初期の遊びを展開させていった。
  元禄三年(1690年)、『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)が出版された。『人倫訓蒙図彙』は、各階層における種々の職業・身分に説明と図を加えた一種の風俗事典)非常に興味深い本である。武家はもちろん、町人、民、その下の階層について、当時の身分や職業区分を「軍法者」「目利」……というように、図や解説を添えて紹介している。
 そこには、「囲碁」「将棊」「双五六」「舞楽」などという見出しもあって、当時の人々がどのような娯楽をしていたが示されている。たとえば、「舞楽」については「楽人、唐人よりはじまれり、楽調妙なる事、仏神を感ぜしめ、人倫を和、心をすましむるの法要なり。すべて一切の楽器をとる役人を伶人ともいへり。・・・」と、「舞楽」の起源が宗教と結びついていることがわかる。
 この本のタイトルとなっている「人倫訓蒙」とは、人の道を教え諭すという意味であるが、ここに描かれている内容は、三〇〇年も前の社会の克明な描写である。そこから、人々の生活の様子や人間模様が手に取るように見えてくる。
 特に巻七、 勧進餬部(くはんじんもらいのぶ) は、現代ではほとんど消滅してしまって見ることのできない社会の一断面、すなわち喜捨や布施を求めて町中を徘徊していた、人々の生態を伝えている。勧進とは、現代では、単に寺や仏像建立等のために寄付を集めることを指す。当時の勧進は、在家の男女に仏法を説き聞かせ、これによって布施を受けることである。前述の「舞楽」が宗教と深く結びついていたように、当時の社会では宗教活動は日常的なものであり、生活の様々な場面が宗教と何らかの形でつながっていた。
 したがって、勧進は、社会的にも不可欠なもので、勧進につらなる活動で生活していた人々がいかに多かったかということも容易に想像がつく。もっとも「勧進餬部」の「 餬」の要素が「勧進」よりも目立つという風潮もあったらしく、「今時の勧進は、人をたぶらかし、偽りを言って施をとる者がいて、全く盗みに等しい。名付けて唱門師という」と憤りを込めて書かれている。
  たとえ、宗教本来の目的から考えれば、唱門師たちのやっていることが邪道であっても、娯楽に縁のない庶民にとって、人目をひく出で立ちで現われ、変わったものを見せたり、聞かせたりしてくれる彼らはむしろ、歓迎される存在であったに違いない。
 たとえば「鐘鋳勧進(かねいのかんじん)」=釣鐘を紙に描き、それを竹に貼って高らかに掲げて歩く。もとより集めた金で鐘鋳する気などさらさらなく、ばれないように遠国の寺の名を名乗っているというのがおかしい。
 針供養(はりのくよう)=日々使っている針の恩得ははかりしれず、これを供養しなければ地獄に落ちると真に迫った口調で説いて回り、女子供から布施を募る。
  腕香(うでがう)=仏の道を求めるために、身命を賭した祖師の真似などして、自分の腕を傷つけて人々の興味と歓心を買う。
 八打鐘(はつちょうがね) =念仏をうたいながら一心不乱に踊る。そのうち念仏は省いて、遮二無二ぐるぐる回るのだけを「手柄にしていた」らしい。目を回して倒れたりすれば、それはそれで笑いがとれて、銭が沢山もらえたのかもしれない。
 ほかにも庚申代待(こうしんのだいまち) 、門経読(かどぎようよう) 、箸供養(はしのくよう)、御優婆勧進(おうばのかんじん)、粟嶋殿等(あわしまどの)と、「勧進」に歩いた人の種類は、三九種(細かくは四四)もあったという。
 どれもみな、インチキくさくいかがわしいものであった。が、彼らは見た目のおもしろさや口説き文句の巧みさを売り物にし、同業者同士互いに競い合った。これは「歩く見世物」と言ってもいいだろう。
 特に、猿 舞や夷 舞、文織、放下などにいたっては大道芸といえそうだ。また、歌念仏(うたねんぶつ)や太平記読(たいへいきよみ)、祭文(さいもん)などは、仏の教えより節回しのおもしろさに人気が集まった。そういえば、私が子供の頃、チンドン屋さんの姿が見えると、人が自然に集まり、子供が喜んでそのあとをついて歩いたりしていたが、江戸初期の勧進もそうした要素があったかもしれない。
  江戸や京などに住む都市住民は、こうしたなりわいの人々にとって大切なファンであり、スポンサーでもあった。信仰心を示すことができる手軽な対象として、また、ささやかな娯楽として、代神楽や住吉踊などを受け入れていた。
 一方、唱門師とさげすまれてはいても、庶民の心をつかむということにかけては、僧侶や神官たちよりよほど長けている者が少なくなかった。彼らは理屈抜きに、神仏の存在を身近に感じさせ、気持ちを和らげたり、楽しませたりするテクニックを心得ていた。
 当時は宗教と娯楽が、密接な関係であればあるほど庶民の心をとらえた。念仏踊りや風流踊りなどから、盆踊りが誕生し発展していったのはその典型である。念仏踊りや風流踊りが幕府が警戒し、禁止しなければならないくらいに広まったのは、庶民の側に潜在的な欲求があったからである。いつの時代でもそうだが、庶民の心には魔法にかけられたいという気持ちあるもので、それをつかめるか否かである。江戸の町には、『人倫訓蒙図彙』に登場するこうした無名の仕掛け人が大勢いたからでもある。