世相を映す幕末の見世物

江戸庶民の楽しみ 89
世相を映す幕末の見世物
 安政年間(1854~59年)の見世物と言えば、まず第一に張子細工の活人形であろう。活人形の呼び名はその人形が「まるで生きているようだ」ということから付けられた。もっともそれ以前にも、たとえば文政期の「七小町人形」、嘉永期の「六歌仙人形」などは玉眼入りの精巧を極めたもので「其の容貌生けるが如し」とあるから、それらの実態も活人形にかなり近いものだったと思われる。
 ただ、その時は単に人形と称するだけで、嘉永七年1854年安政元)正月、大坂難波新地野側で肥後出身の松本喜三郎・安本善蔵合作の興行を行った時に初めて、「活人形」という呼び名を用いた。しかもそれが空前の大当たりとなったため、以後同様のものはすべて活人形と名付けて興行、松本喜三郎はその元祖として人々の敬愛を集めたという。
 現代ならともかく、当時肥後で作られた人形が、どうやって遠く離れた大坂の見世物になったのか。これには、運命的な出会いがあった。肥後の松本喜三郎は、小紋型彫が本職で、毎年熊本城下の地蔵祭に出す作り物を手掛けていた。嘉永六年、相棒の安本善蔵(本職は仏師)と作ったのが、男女三人の等身大の人形。出来ばえは素晴らしく、「これはただの人形ではない、活人形だ」と評判を呼んだ。この時、当地に滞在していたのが、大坂の小島萬兵衛という香具師、彼も妙技におどろき、早速大坂での興行を持ちかけた。
 もっとも、同じものでは大坂では魅力不足ということで、異国人の活人形「異国人形」が誕生させた。そして、いよいよ嘉永七年(安政元年)正月から、難波新地野側で彼らの初興行がスタートした。
 さて、この「異国人形」がどのような見世物であったかというと。市中の湯屋や髪結床へ配った引札によれば、長大国、小人国、女人国、不死国をはじめ、崑崙層斯国(西南の海上にあって、身体が黒く漆の如し)、後眼国(頭の後ろに目が一つ)とか、羽民国(長き頬、赤目、白き首に羽毛を生ず、飛ぶのはうまいが遠くまで飛ぶことはできない)などの不思議な十六カ国の人物を登場させ、最後に長崎・丸山遊廓の遊女の艶姿でほっと一息、という趣向である。
 いずれも、見上げるほどの高さ。その上、奇怪な容貌の持ち主だが、みな生き生きして、今にも動きださんばかりのリアルさ、連日黒山の人だかりができた。木戸銭が三十六文と高価なのにもかかわらず、噂が噂を呼び、客止めしなければならないほどの大人気。また、この異国人形にちなんだ戯れ唄や替え歌が次々に登場した。
 こうして、松本喜三郎の活人形・大坂初興行は大成功で、六月無事に終了した。まもなく、浅草奥山興行に向けて、安政元年の十二月、一路江戸へと下った。翌年(安政二年)二月、浅草寺観世音の開帳にこの活人形を出した。当時、浅草寺の境内で見世物興行するには、複雑な手続きが必要だった。記録によると、まず香具師は願書に境内世話人三名の印とさらに組頭四名、名主一名の奥書をもらって、それを伝法院の役所に持っていき、協議の結果、その見世物興行を許可するか不許可にするかを決めたという。許可された場合は、約50日を限って見世物の大小によって一貫文から二十貫文を土地使用料として上納するとようになっていた。
 興行は、蓋をあけるや、日々大入り満員の大盛況。四月半ばさらに50日の日延べの願書を出し、六月五日にめでたく終了した。
  終了後、松本喜三郎新門辰五郎から、来春はぜひ活人形のみで興行しようとの申し出を受けた。故郷熊本に錦を飾った喜三郎は、江戸滞在中に集めた材料や資料を手に、新作づくりに余念がなかった。ところが、辰五郎から、十月二日の大地震で江戸の家や土蔵は大方潰れ、火も出ていつ鎮火するか見込みさえたたない、という知らせが届いた。
 これではとても見世物どころではあるまい、と松本喜三郎が落胆しているところへ、また辰五郎からの知らせ。こんどは思いがけなく、浅草寺付近は猛火を免れた上、人々は娯楽に飢えている節があるから新春の興行は、思い切って打って出たい旨が書かれていた。喜三郎が小躍りして、江戸へ上ったのは言うまでもない。
 二回目という今度の興行では、小屋自体も間口十三(23.6m)奥行十四間(25.4m)と驚くべき広さで、廊下づたいにまわりながら見物できるようになっていた。さらに番付を売る店や雨天時にも不自由なく見物できるような仕掛けなど様々な工夫を凝らした。当時これにかけた費用について「千両箱が空になった」と取り沙汰されたほど。
 いよいよ、安政三年(1856)の正月、松本喜三郎作の活人形は72体をもって華々しく開場。出し物は、浅茅ケ原一ツ家石の枕の故事、為朝鬼界ケ島廻り、布洗い女に神通力を失った粂の仙人、水滸伝の豪傑揃い。また「座敷あそび」と名付けて、部屋で花魁が新造と遊んでいるところへ、禿がすすぎ茶碗に房楊枝を添えて運んでくる様、他にも当時全盛を誇っていた遊女やら忠臣蔵の討ち入り、当たり狂言の『鏡山』のお初の奮闘、などまことに盛り沢山であった。
 したがって、木戸銭三十二文、中銭2カ所でそれぞれ十六文、合わせて六十四文という見世物史上初の高値でおまけに、安政の大震災直後という悪条件にもかかわらず、連日の大入りで初日、二日目が百両、その後も七十両の売り上げが続くという大成功を修めた。これはむろん、活人形の出来ばえの見事さ、仕掛けの新奇さに寄るところが大きいが、それ以上に江戸の人々が華やかな話題を求めていたということだろう。
 江戸中の話題をさらった感のある活人形だけに、挿話にも事欠かなかったようだ。たとえば、ある屋敷の中間がお初人形(『鏡山』の登場人物)の美しさに焦がれて、夜中に活人形の小屋に忍び込んだのを、番人がてっきり盗賊だとおもって棒で散々に打ちのめしたという、おかしくも気の毒な男の話。これはすぐに『情寫淫漏人形』という怪しげなタイトルをつけて出版された。
 この興行について、当初は震災直後でもあり、無謀だと笑った江戸中の香具師も、意外な大当たりをとったのを見て、活人形の興行を手掛けだした。中でも一番人気だったのは、安達ケ原の鬼婆が出刃で妊婦の腹を刺して、中の胎児を今にもつかみださんとしている鬼気迫る場面であった。このあたりから、活人形は徐々に陰惨な場面を再現するという傾向が強くなっていく。
  安政四年(1857)には、松本喜三郎の門人、秋山平十郎が奥山の機械人形師竹田縫殿之助と組んで、活人形にゼンマイを仕掛け、浅草奥山で開場。内容はいずれも前年評判だった中村座の『三世相縁の緒車』、河原崎座の『鏡山比翼容姿視』などの人気狂言を模したもの。あとは柳亭種彦が書いて一世を風靡した『偐紫田舎源氏』の華やかな酒宴の光景を繰り広げた。いずれも実在の役者の顔に似せ、歌舞伎は高嶺の花でも、活人形の見世物なら手が届くという庶民の気持ちをうまくとらえた。
 安政六年(1859)、秋山平十郎は竹田縫殿之助と組んで、ゼンマイ仕掛けの活人形を浅草奥山に開場。この時は小屋全体に宝船をあつらえ、それに七福神を配し、それぞれの神が琵琶をひいたり、踊ったり、角力をとったり、と様々な動きを見せるのが呼び物であった。さらに恵比須は生きた鯛をつり上げるという趣向。しかも、この鯛はくじ引きで見物客に与えるというおまけつきだったという。これは活鯛効果もあったのか、50日の日延べを願い出るほどの人気を集めた。
 このように安政年間は、活人形が見世物界を席巻したと言ってもいいくらいで、それまで人気があった貝細工、泥塑細工、紙細工などはいずれも影が薄くなってしまった。また、活人形の流行は他の細工にも影響を与え、菊細工や藁細工なども顔や手足は活人形を真似るようになった。戯れ唄、替え歌、狂歌はもとより、寄席で活人形の物真似を専門に見せるという芸人まで現れたくらいで、湯屋や髪結いでも活人形の話題で持ちきりだった。
 ただ、万延年間(1860~61年)に入ると、やや人気にもかげりが出てきて、そのころから怪談仕立ての活人形が登場するようになった。蔓延元年五月には、松本喜三郎も時流にあわせたのか、両国回向院の境内で怪異まじりの活人形を興行している。
 たとえば、場所は女郎屋の二階、骨と皮だけの物凄い形相の女と恐れおののいて腰をぬかしている不審番の男。あるいは商家の寝室、嫉妬に狂った先妻の幽霊が、後妻の寝首をかきとって無念をはらし、ケタケタ笑う。亭主は震えながら夜具をひきかぶろうとする一場面、など。この興行は読売の瓦版にもなったほどの大評判をとった。人間の怖いものみたさ、サディズム的要素というのは一旦表面に出ると抑えがたいものらしく、こうした怪異もの、残虐ものは明治五年(1873)に新政府によって禁止されるまで、長く続いた。
 その一方で、見世物は、妙な出し物にも人気を集めた。『武江年表』によると、安政三年(1856)三月二十日から、下総国成田山不動尊が深川永代寺において60日間の開帳を行っている。この時の賑わいについて、江戸に着くときから送迎の人々が集まり、その列は千住から深川までつながったと書かれている。開帳中も、朝早くから参詣者が訪れ、「諸人山をなせり」とある。永代寺の境内には、見世物、茶店、諸商人などの仮小屋が連なり、立錐の余地もなかった。また、奉納の米殻、幟、提灯なども所狭しとおかれていた。当然のことながら、参詣者をあて込んだ活人形・曲馬・細工などの見世物が、同時に七つも興行されていた。
 主なものを紹介すると、活人形は大江忠兵衛作による『萬歳楽大金入蔵』。永代寺境内に建てられた小屋には、松本の活人形よりもさらに大きいものが並び、招き人形も「猿田彦と鈿女」「イザナギノミコト・イザナミノミコト」など四体、その中の人形はゼンマイ機関仕掛けである。
 次は、法眼藤原晴文作の泥塑人形「南総里見八犬伝」。これは、馬琴の『南総里見八犬伝』の場面を再現したもので、招き人形は伏姫を抱いて乳母が侍女を従え、洲崎神社へ宮参りというもの。一四場、人形総数も六十余体という大作であった。顔面の表情や所作などは、大江の活人形の精巧さに及ばなかったが、当時八犬伝を抄録した笠亭仙果の『犬の草紙』、滝沢琴童の『仮名読八犬伝』が流行していたため、結果としては大江の活人形と拮抗するほどの大入りであった。
 他にも規模が小さいためか、上記の小屋ほどの人気はなかったが、江戸の人形師による「文覺上人の荒行」などの活人形が興行されていた。
 またもう一つ、人気を呼んだ見世物は、それは蒸気船だった。ペリー来航以来、人々の蒸気船への関心は高く、翌年にもまた同じ場所で蒸気機関車を興行していると『藤岡屋日記』には書かれている。
 曲馬は、浅草奥山で大津絵五変化の早替わりを演じていた渡辺一座と、大坂で『隅田川道行』や『曽我物語』などの曲に演じて喝采を博していた花谷座の合併公演であった。
  そして、もう一つ、「三大女」という珍妙な見世物がかかっていた。大女は、長女(十六才)が六尺八寸(約206㎝)で、三八貫目(約142㎏)、二女が五尺七寸(約172㎝)の二五.七貫目(約96㎏)、三女が五尺一寸(約154㎝)、十九.八貫目(約74㎏)と当時の瓦版にその堂々たる体格が紹介されている。
 最後に紹介する名鳥の見世物は、オランダ渡りの丹頂鶴、孔雀、白鳥、錦鶏鳥、鴛鴦。当時としてはかなり貴重な鳥を集めたものだったが、不幸にも途中でキツネに捕られてしまった。そのため、これらの鳥を買いつけた金額、約五十両を損したとある。
 さて、肝心の開帳の人出だが、「成田山不動尊開帳の勘定之覚」によると、祈祷料だけで五千四百四十二両二歩一朱と銭一万千二百二十二貫六百九十一文、その他日ノ札料などを含めると優に一万両をこえたらしく、いかに盛況だったかわかる。となると、見世物の方も大勢の人が見物するだろうし、当たりをとれば大儲け、ぐらいのことは、子供にでも想像がつくというもの。
 ところで、これらの中で最も大入りだったのは、どれかと言うと、以外にも圧倒的な人気を呼んだのは、「三大女」の見世物。といって、とびきりの美人ではなく、人目を興味を引くほど醜女というわけでもなく、ただ太った百姓三姉妹というだけのこと。しかも、着ているものは赤い生地に「松竹梅」の名を模様にした粗末な着物で、これといった芸もなく、ただ小屋の中で臼を挽いて、麦こがしを売るだけ、というたわいのない見世物であった。
 江戸の庶民は、老いも若きも女も男も、何が始まるだろう、何が見られるだろうと好奇心のかたまりであった。と同時に、寛大な気持ちも持ちあわせていた。最初からインチキくさいとわかってはいても、金を払って「なんだ、何でもないじゃないか」と笑って帰っていく。そんな馬鹿馬鹿しさを楽しむおおらかさを当時の人々は持ち合わせていた。
 安政三年といえば、「安政の大地震(死者3,895人、倒壊家屋14,346戸)」の翌年で、物価の高騰や社会不安など震災の痛手から、まだ立ち直っていない年である。おまけに春にも小さな地震が数回あって、人々が余震におびえている中、正月からは浅草奥山で松本喜三郎の活人形が興行され、大当たりをとっている。おそらく江戸の人々は、明るい話題や華やかな雰囲気を求めていたのだろう。
 三月になると、江戸では五つもの開帳があって、見世物も数多く興行された。震災による傷痕も癒えぬこの時期、活人形はいささか食傷ぎみであり、また、震災を思い出させる怖いものやグロテスクな見世物を避けるという心理が、たわいもない「三大女」の大当たりにつながったと思われる。
 それにしても、江戸の庶民が好んだ見世物には、当時の人にしか理解できないような、不思議な出し物が多い。庶民が見世物、つまり、遊びに求めていたのは、先端の情報や技術ではなく、心の安らぎである。人々は、見世物で強烈な刺激をうけたあと、逆にごく平凡な一時を自覚し、それを楽しみにしていたのだ。

安政1年(嘉永7年)1854年 
安政2年1855年 
1月 回向院境内で子供芝居興行
   湯島天神境内で芝居興行が行われるが、わずか数日間で終了
   初旬に方々で梅の花が咲く
   毎月16~18日に、松平越州侯高田の中屋敷安置の觀世音開帳
2月 浅草寺觀世音開帳(80日間)/同寺奥山に異国人物・丸山遊女・大象の活人形や軽業綱渡りなどの見世物が出て見物人集まる                    
   小石川傳通院地中福聚院三神具大黒天開帳(60日間)、見せ物出る
   矢口村新田明神開帳(30日間)、五百年の御忌
   浅草八軒寺町本法寺で下総國平賀本土寺白毫祖師開帳(60日間)
   大相模大聖寺不動尊、彼の地で開帳
3月 深川八幡宮開帳(60日間)
   牛島牛御前、王子權現開帳(15日間)
   赤坂圓通寺祖師、七面宮開帳(50日間)
   本所回向院境内で常州水戸向井村神応寺開帳(60日間)、雪除けの守り札出る
   寺島村蓮花寺で弘法大師開帳(60日間)    
5月 湯島圓満寺境内で、百日芝居興行
   元数寄屋町二丁目に、盆種の櫻花咲く
7月 牛込原町經王寺大黒天開帳(50日間)
7月 中村座で『松高手毬諷(ナニタカシテマリウタ)実録』大当たり   
7月 市ヶ谷田久保経王寺開帳               
7月 久保町金比羅縁日に二尾八足の犬の見世物、相当の入り 
9月 神田明神祭礼(15日)、山車や練物、神輿出るも神輿等城内に入らず
☆この年のその他の事象
3月 両国橋修復始まる
3月 江戸城本丸より四千両が盗まれ、犯人二人が捕まる       
3月 牛込若宮町清五郎が店を借りて酒を商う、居酒屋と云う
6月 湯島の鋳砲場で洋式小銃製造決定
9月 十五日夜、月蝕皆既
10月 安政の大地震  死者3895人に昇る
10月 鯰絵が大流行する
10月 町会所は野宿の貧民へ握飯与える
11月 町会所は被災した貧民へ、御救米を配布
11月 諸物価が高騰する
11月 諸大名が、家臣などを適宜国元へ返すよう命じられる
冬頃 大工の手間賃上がる
軍談の席220軒、落語の席172軒(各席百人ナラシ、座料一人前48文)  
○お蔭参りが流行する                   
○紅梅焼と称する香餅を売る店多し
地震を題材にした冊子、綴本、錦絵類多数刊行

安政3年1856年
2月 浅草寺奥山で、62体の活人形の見世物が再開
2月 浅草奥山で「力曲持」興行
     上野護国院で、七万日念佛會満散(33年毎に行う)、人々多く大混乱をきたす
   下谷高岩寺延命地藏尊(とげ抜き地蔵)開帳(60日間)
   麹町平河天満宮で、越後菅原村天満宮開帳(60日間)
春頃 浅草御門外、第六天社境内で、繰芝居興行
3月 目黒正覺寺鬼子母神開帳
   成子常圓寺長生日蓮上人像開帳(50日間)
   深川永代寺で下総国我孫子宿子権現開帳(60日間の予定)、だが途中で止む
   深川永代寺で下総国成田山不動尊開帳(60日間)/見せ物(江戸細工人の活人形八犬伝の活人形、曲馬軽業、大女の三姉妹等)茶店、諸商人等が軒を連ねる
   四谷天龍寺後、上水の端へ桜を数本植えるが、間もなく除去される
5月 芝仙台侯中屋敷に勧請あり、奥州松島塩竈明神遙拝所が毎月10日に参詣許される
6月 山王権現祭礼(15日)、神興行列山車が城内に入る、今年は附祭なし 
8月 深川永代町で相州江の島宮岩屋弁才天開帳あり、大風雨もあって参詣人少数
      芝切通金地觀世音開帳(2日間)、詣る人に杓子を與えた 
   浅草奥山で、大輪の菊花80余種を集めた見世物が出る、その中に偽の大菊あり 
10月 本所回向院で明暦の大火の二百年忌法事.参詣人群集する
11月 翌年にかけて浅草寺観音堂奥山等に桜を千本植える(享保・寛政に続き三度目)
11月 市村座で『倡女城長田忠孝』『松竹梅雪曙』大当たり
12月 回向院の秋場所六日目、1万余人の大入り
冬頃 近頃、十姉妹〔鳥〕の異品を養う人が多い
☆この年のその他の事象
2月 つむじ風が度々起こる     
2月 駒場で洋式軍事訓練が実施される
3月 築地に講武所(官立の武芸練習場)完成、4月開業
春頃 前年の地震で職人の賃金が高騰 
6月 蕃書(外国本書物)や訳書は蕃書調所により検閲が義務づけられる
7月 ハリスが下田に来航する
8月 大暴風雨が発生、芝・品川などの海岸は波浪の被害、本所は浸水
11月 ラシャなどの西洋輸入品専門店ができはじめる