江戸庶民の楽しみ 91
幕末庶民の食糧事情
幕末庶民の食糧事情
・庶民の生活
幕末の江戸庶民の食糧事情は必ずしもよかったとはいえない。が、危急の折の救済システムは比較的うまく機能していたようだ。安政二年十月二日の大地震の後は、諸物価が高騰した。が、この時、町会所は野宿の窮民ににぎり飯を与えたという。また、十一月には、町会所より、震災に遭った窮民381,200余人に御救米が施された、とある。さらに、翌年も八月の大風雨によって町会所より、市中野宿の貧民へ御救米を分けた、とある。このように、災害時に江戸市民の救済にあたる組織が存在していた。もっとも、この救済措置はそれ以前までにも行われてきたもので、幕末になって初めて実施されたというわけではない。松平定信が寛政の改革の一貫として、七分積金と町会議所事業を実施して以来続けてきた措置で、江戸の貧民が窮した揚句に、一揆などの騒乱を起こさないようにという配慮からであった。
万延年間に入ると、さらに諸物価が高騰しはじめる。そして、翌文久元年(1861)の春には、町会所より、市中の貧民へ御救米を分けるようになる。翌文久二年(1862)は、豊作であるにもかかわらず諸物価は高騰し、貧民の困窮がひどかったために町会所の施しが行われた。幕末の騒乱に巻き込まれ、万延年間からは江戸の人々の生活が徐々に苦しくなっていったことがわかる。
元治元年(1864)には、将軍家茂の上洛の無事を祝い、江戸町民に六万三千両の金子が配られ、平等に一軒当たり、銭三貫一三九匁が配られた。しかし、この程度で庶民の生活は好転するはずもなく、慶応元年(1865)七月には、再び市中の貧民に御救米の米銭が与えられた。そして、寛政年間以来絶えてなかった打ちこわしが、慶応二年(1866)五月に、米高騰のため発生した(慶応の打ちこわし)。翌六月には、町会所より貧民救済として一人銭二貫百匁が与えられた。このように見ていくと、幕末の庶民の生活が、政情不安のために、じわじわと苦しくなっていることがわかる。そしてこの年、幕府は、ついにイギリス公使パークスの勧告を受け、外米の輸入を許可した。
・町会所の施し
市民への施しを『武江年表』から主なものを拾うと次のようになる。地震や流行り病、物価の高騰などに対処して金銭や食べ物が施されている。
安政二年●安政の大地震(十月二日夜)
・亥の二點大地俄かに震ふ事甚しく、須叟にして大層高牆を顛倒し倉廩を破壊せしめ、剰さへその頽れたる家々より火起こり熾に燃え上りて、黒煙火を翳め多くの家屋資材を燒却す、・・江戸中燒亡塲所合凡長二里十九町餘幅平均して二町ほどと聞けり
・町會所より日々野宿の貧民へ握飯を與へられ、又御救の小屋を所々に建て養はる、富人も又色々の施しを行へり
・十一月より町會所に於て、震災に罹りし貧民へ、御救米を分ちあたへらる
安政三年●八月・・廿五日暮れて次第に降りしさり南風烈しく、戌の下刻より殊に甚しく、近來稀なる大風雨にて、喬木を折り家屋塀墻を損ふ・・又風雨の間地震もありしなり
・町會所より市中野宿の貧民等へ、御救米を分たる、又富商よりも施行多し
安政五年●七月・・末の頃より都下に、時疫行はれて、芝の海邊鐵炮洲、佃島、靈巖島の畔に始まり、家毎に此の病痾に罹らざるはなし、・・此の病病暴潟又は暴痢などと號し、俗諺にコロリと云へり・・十月に至り漸く此の噂止みたり
・九月より町會に於て、市中其日暮しの賤民へ、白米を頒ち與へらる、米價登揚並びに、時疫行れたるが故なり
万延元年●秋の頃より、米穀菜蔬水油薪炭、其餘諸物の價貴踊せり
文久元年●春の頃より、諸物價登揚せり、是に依て二月より町會所に於て、市中の貧民へ御救米を頒たる、六月に至り停む
文久二年●夏の半より痲疹世に行れ、七月の半に至りては彌蔓延し、良賤男女の病痾に罹らざる家なし
・今年米穀豊饒にして、・・しかれども、諸物の價高貴踊し、痲疹其餘の病にて合家枕を並べて臥し、活業(なりわい)を休しもまヽありて、賤民甚困苦せる故、七月上旬より、町會所の倉廩を發して、市井の貧民へわかたる、又有徳の輩よりも施行多し
元治元年●十月、御上洛の濟せられし、御祝儀として、江戸町人一統へ六萬三千兩の金子を賜はる、竈の數に頒ち大家となく、小家となく、一軒に錢三貫百三十九文なり(幕府より)
慶応元年●去年より米穀薪炭酒味噌油絹布の類、其餘諸物の價次第に登揚し、菜蔬魚類にいたる迄其價甚貴し
・米價諸色高値に付、同月(七月)より町會所に於て、市中の貧民へ御救の米錢を頒ち與へらる
慶応二年●近年續て、諸物の價沸騰し、今別て米穀不登にして、其價貴踊し、・・群行して、町家を打毀す・・かかる狼藉に及びしかど、またく飢餓に迫りし事故
・六月中には、町會所より貧民御救として、一人分錢貳貫白文宛を頒ち與へられ、・・
・幕末に登場した食べ物屋
幕末の食料事情はかなり悪かったと思われるが、一方で、庶民の食べ物への関心や美味しいものを食べようとする意欲には少なからぬものがあったようだ。
・安政元年四月に、伊勢町塩河岸拍戸百川で卓袱料理が始まる。七月下旬には、翌月に病気が流行するが、牡丹餅を晦日までに食べればうつらないという噂が流れ、牡丹餅が大量に売れた。夏には、庭に池が作られるなどいささか趣のある蕎麦屋「松下亭」が入谷にできた。また、浅草梅園院境内に栗ぜんざいの「梅園」ができている。そして、中ノ郷業平橋の手前に、庭内に湯滝のある料理茶屋「在五庵」が開店している。
・安政二年三月、牛込に居酒屋が始めて開店する。十月の安政大地震が起きたが、「近頃、あらづきのくろ米の菓子を紅梅焼と名付けて売る家が多いが、これは香餅と言うところを誤ったのではないか」と記述がある。
・安政四年には、日本橋に和菓子屋の「栄太楼」が開店している。
・安政五年に、佃島の漁民が売り物にならない雑魚や貝を醤油などで煮つめて保存のきく佃煮をつくり商品化した。
・安政六年頃、うな丼ができたと言われている。
・万延元年の江戸奉行所の調査によると、蕎麦屋の数は何と3,763店と数えられ、しかも、この中にはいわゆる夜鷹蕎麦屋の数は含まれていないという。屋台店には、天ぷら、すいとん、すし、しるこ、だんごなどがあり、その店数はどのくらいになっていたのだろうか。
・文久二年には、深川猿江に「水月庵」という蕎麦屋ができている。
・文久三年になると、出張営業をする天ぷら屋「大名天ぷら」ができる。
・慶応元年、雉子橋門内の牧場で搾った牛乳が一部販売された。
・慶応二年の二月の末になると、諸物価が高騰するなかでさつまいもだけが安く、焼き芋が大流行した。そして冬には、牛を屠殺して羹(あつもの‥菜や肉などを入れて作った熱い吸物)として売り出す店や、西洋料理と称して西洋の家庭料理のようなものを出す店があちこちにできた、とある。
このように、幕末の町人はある種の貪欲さで新しい食べ物を作りだし、新しい料理店を次々に成立させていった。これら、新しい食べ物にすべての庶民が関与していたとは言わないが、旨いものを食べようとする意気込みは、少なからず感じられる。
幕末の江戸庶民の食糧事情は必ずしもよかったとはいえない。が、危急の折の救済システムは比較的うまく機能していたようだ。安政二年十月二日の大地震の後は、諸物価が高騰した。が、この時、町会所は野宿の窮民ににぎり飯を与えたという。また、十一月には、町会所より、震災に遭った窮民381,200余人に御救米が施された、とある。さらに、翌年も八月の大風雨によって町会所より、市中野宿の貧民へ御救米を分けた、とある。このように、災害時に江戸市民の救済にあたる組織が存在していた。もっとも、この救済措置はそれ以前までにも行われてきたもので、幕末になって初めて実施されたというわけではない。松平定信が寛政の改革の一貫として、七分積金と町会議所事業を実施して以来続けてきた措置で、江戸の貧民が窮した揚句に、一揆などの騒乱を起こさないようにという配慮からであった。
万延年間に入ると、さらに諸物価が高騰しはじめる。そして、翌文久元年(1861)の春には、町会所より、市中の貧民へ御救米を分けるようになる。翌文久二年(1862)は、豊作であるにもかかわらず諸物価は高騰し、貧民の困窮がひどかったために町会所の施しが行われた。幕末の騒乱に巻き込まれ、万延年間からは江戸の人々の生活が徐々に苦しくなっていったことがわかる。
元治元年(1864)には、将軍家茂の上洛の無事を祝い、江戸町民に六万三千両の金子が配られ、平等に一軒当たり、銭三貫一三九匁が配られた。しかし、この程度で庶民の生活は好転するはずもなく、慶応元年(1865)七月には、再び市中の貧民に御救米の米銭が与えられた。そして、寛政年間以来絶えてなかった打ちこわしが、慶応二年(1866)五月に、米高騰のため発生した(慶応の打ちこわし)。翌六月には、町会所より貧民救済として一人銭二貫百匁が与えられた。このように見ていくと、幕末の庶民の生活が、政情不安のために、じわじわと苦しくなっていることがわかる。そしてこの年、幕府は、ついにイギリス公使パークスの勧告を受け、外米の輸入を許可した。
・町会所の施し
市民への施しを『武江年表』から主なものを拾うと次のようになる。地震や流行り病、物価の高騰などに対処して金銭や食べ物が施されている。
安政二年●安政の大地震(十月二日夜)
・亥の二點大地俄かに震ふ事甚しく、須叟にして大層高牆を顛倒し倉廩を破壊せしめ、剰さへその頽れたる家々より火起こり熾に燃え上りて、黒煙火を翳め多くの家屋資材を燒却す、・・江戸中燒亡塲所合凡長二里十九町餘幅平均して二町ほどと聞けり
・町會所より日々野宿の貧民へ握飯を與へられ、又御救の小屋を所々に建て養はる、富人も又色々の施しを行へり
・十一月より町會所に於て、震災に罹りし貧民へ、御救米を分ちあたへらる
安政三年●八月・・廿五日暮れて次第に降りしさり南風烈しく、戌の下刻より殊に甚しく、近來稀なる大風雨にて、喬木を折り家屋塀墻を損ふ・・又風雨の間地震もありしなり
・町會所より市中野宿の貧民等へ、御救米を分たる、又富商よりも施行多し
安政五年●七月・・末の頃より都下に、時疫行はれて、芝の海邊鐵炮洲、佃島、靈巖島の畔に始まり、家毎に此の病痾に罹らざるはなし、・・此の病病暴潟又は暴痢などと號し、俗諺にコロリと云へり・・十月に至り漸く此の噂止みたり
・九月より町會に於て、市中其日暮しの賤民へ、白米を頒ち與へらる、米價登揚並びに、時疫行れたるが故なり
万延元年●秋の頃より、米穀菜蔬水油薪炭、其餘諸物の價貴踊せり
文久元年●春の頃より、諸物價登揚せり、是に依て二月より町會所に於て、市中の貧民へ御救米を頒たる、六月に至り停む
文久二年●夏の半より痲疹世に行れ、七月の半に至りては彌蔓延し、良賤男女の病痾に罹らざる家なし
・今年米穀豊饒にして、・・しかれども、諸物の價高貴踊し、痲疹其餘の病にて合家枕を並べて臥し、活業(なりわい)を休しもまヽありて、賤民甚困苦せる故、七月上旬より、町會所の倉廩を發して、市井の貧民へわかたる、又有徳の輩よりも施行多し
元治元年●十月、御上洛の濟せられし、御祝儀として、江戸町人一統へ六萬三千兩の金子を賜はる、竈の數に頒ち大家となく、小家となく、一軒に錢三貫百三十九文なり(幕府より)
慶応元年●去年より米穀薪炭酒味噌油絹布の類、其餘諸物の價次第に登揚し、菜蔬魚類にいたる迄其價甚貴し
・米價諸色高値に付、同月(七月)より町會所に於て、市中の貧民へ御救の米錢を頒ち與へらる
慶応二年●近年續て、諸物の價沸騰し、今別て米穀不登にして、其價貴踊し、・・群行して、町家を打毀す・・かかる狼藉に及びしかど、またく飢餓に迫りし事故
・六月中には、町會所より貧民御救として、一人分錢貳貫白文宛を頒ち與へられ、・・
・幕末に登場した食べ物屋
幕末の食料事情はかなり悪かったと思われるが、一方で、庶民の食べ物への関心や美味しいものを食べようとする意欲には少なからぬものがあったようだ。
・安政元年四月に、伊勢町塩河岸拍戸百川で卓袱料理が始まる。七月下旬には、翌月に病気が流行するが、牡丹餅を晦日までに食べればうつらないという噂が流れ、牡丹餅が大量に売れた。夏には、庭に池が作られるなどいささか趣のある蕎麦屋「松下亭」が入谷にできた。また、浅草梅園院境内に栗ぜんざいの「梅園」ができている。そして、中ノ郷業平橋の手前に、庭内に湯滝のある料理茶屋「在五庵」が開店している。
・安政二年三月、牛込に居酒屋が始めて開店する。十月の安政大地震が起きたが、「近頃、あらづきのくろ米の菓子を紅梅焼と名付けて売る家が多いが、これは香餅と言うところを誤ったのではないか」と記述がある。
・安政四年には、日本橋に和菓子屋の「栄太楼」が開店している。
・安政五年に、佃島の漁民が売り物にならない雑魚や貝を醤油などで煮つめて保存のきく佃煮をつくり商品化した。
・安政六年頃、うな丼ができたと言われている。
・万延元年の江戸奉行所の調査によると、蕎麦屋の数は何と3,763店と数えられ、しかも、この中にはいわゆる夜鷹蕎麦屋の数は含まれていないという。屋台店には、天ぷら、すいとん、すし、しるこ、だんごなどがあり、その店数はどのくらいになっていたのだろうか。
・文久二年には、深川猿江に「水月庵」という蕎麦屋ができている。
・文久三年になると、出張営業をする天ぷら屋「大名天ぷら」ができる。
・慶応元年、雉子橋門内の牧場で搾った牛乳が一部販売された。
・慶応二年の二月の末になると、諸物価が高騰するなかでさつまいもだけが安く、焼き芋が大流行した。そして冬には、牛を屠殺して羹(あつもの‥菜や肉などを入れて作った熱い吸物)として売り出す店や、西洋料理と称して西洋の家庭料理のようなものを出す店があちこちにできた、とある。
このように、幕末の町人はある種の貪欲さで新しい食べ物を作りだし、新しい料理店を次々に成立させていった。これら、新しい食べ物にすべての庶民が関与していたとは言わないが、旨いものを食べようとする意気込みは、少なからず感じられる。
★安政7年(万延1年)1860年
2月 本所押上春慶寺で普賢菩薩開帳(50日間)
三月まで霖雨続き盛り場閑散.下旬、単桜咲き始める
深川永代寺で遠州豊田郡山東村光明山鎮守開帳(60日間)
深川浄心寺で洛北実相院宮南御殿、法円山証光寺等開帳(60日間)
3月 角力興行雨天で延び3月より興行、3月24日漸く晴れる
市谷八幡宮境内茶の木稲荷社開帳(60日間)
回向院で、野州安蘇郡彦間村大正院開帳(60日間)するが故あって途中で中止
浅草寺観世音開帳(60日間)、奥山に活人形等の見せ物、日毎に参詣人多し
4月 朔日~8月晦日まで男女共富士登山許される、諸国より参詣人多し
5月 角筈村十二社権現境内に花菖蒲を植える、見物者多い、但し、一両年で廃れる
浅草寺奥山で箒で作った虎の見せ物(十余間)出る
深川永代寺で甲州八代郡左右口村円楽寺役行者前鬼後鬼の像開帳(60日間)
27日より駒込富士内拝あり
6月 山王権現祭礼、山車附祭伎踊練物御雇独楽廻し等城内に入る、外人の見物を許す
7月 浅草寺二王門の傍に、変死体・幽霊等の作り物の見せ物出る
両国橋西詰で蘭人の持ち込んだ豹(ナカツカミ)の見せ物出る、見物人多し
9月 回向院で京都嵯峨清涼寺開帳(風雨で6月から延期)(60日間)見せ物多数
親鸞聖人六百年御忌引上法會執行、東西本願寺参詣多く、末寺でも各法事修行
10月 回向院で勧進相撲
11月 伝通院大黒堂増上寺等で京都嵯峨清涼寺開帳
三座芝居顔見せ狂言なし
○この年、子供が桶のたがを回す遊び流行
○かっぽれ、すちゃらか節が流行
☆この年のその他の事象
1月 勝海舟ら遣米使節、咸臨丸で派遣
2月 水道橋御門内講武所開創、築地講武所は御軍艦操練所となる
3月 桜田門外の変で井伊大老が殺害される
3月 外国人に金銀無垢類の販売を禁ず
閏3 五品江戸廻送令が出される
4月 萬延大判・新小判等が鋳造される
5月 外国銀貨を時価で通用させる
7月 牛痘の種痘が種痘所で始められ
8月 武士の子弟らの外国語学習が許可される
9月 徳川慶喜らの謹慎が許される
11月 深川海辺新田で精鉄四文銭を鋳造
12月 米国通弁官ヒュースケン暗殺
2月 本所押上春慶寺で普賢菩薩開帳(50日間)
三月まで霖雨続き盛り場閑散.下旬、単桜咲き始める
深川永代寺で遠州豊田郡山東村光明山鎮守開帳(60日間)
深川浄心寺で洛北実相院宮南御殿、法円山証光寺等開帳(60日間)
3月 角力興行雨天で延び3月より興行、3月24日漸く晴れる
市谷八幡宮境内茶の木稲荷社開帳(60日間)
回向院で、野州安蘇郡彦間村大正院開帳(60日間)するが故あって途中で中止
浅草寺観世音開帳(60日間)、奥山に活人形等の見せ物、日毎に参詣人多し
4月 朔日~8月晦日まで男女共富士登山許される、諸国より参詣人多し
5月 角筈村十二社権現境内に花菖蒲を植える、見物者多い、但し、一両年で廃れる
浅草寺奥山で箒で作った虎の見せ物(十余間)出る
深川永代寺で甲州八代郡左右口村円楽寺役行者前鬼後鬼の像開帳(60日間)
27日より駒込富士内拝あり
6月 山王権現祭礼、山車附祭伎踊練物御雇独楽廻し等城内に入る、外人の見物を許す
7月 浅草寺二王門の傍に、変死体・幽霊等の作り物の見せ物出る
両国橋西詰で蘭人の持ち込んだ豹(ナカツカミ)の見せ物出る、見物人多し
9月 回向院で京都嵯峨清涼寺開帳(風雨で6月から延期)(60日間)見せ物多数
親鸞聖人六百年御忌引上法會執行、東西本願寺参詣多く、末寺でも各法事修行
10月 回向院で勧進相撲
11月 伝通院大黒堂増上寺等で京都嵯峨清涼寺開帳
三座芝居顔見せ狂言なし
○この年、子供が桶のたがを回す遊び流行
○かっぽれ、すちゃらか節が流行
☆この年のその他の事象
1月 勝海舟ら遣米使節、咸臨丸で派遣
2月 水道橋御門内講武所開創、築地講武所は御軍艦操練所となる
3月 桜田門外の変で井伊大老が殺害される
3月 外国人に金銀無垢類の販売を禁ず
閏3 五品江戸廻送令が出される
4月 萬延大判・新小判等が鋳造される
5月 外国銀貨を時価で通用させる
7月 牛痘の種痘が種痘所で始められ
8月 武士の子弟らの外国語学習が許可される
9月 徳川慶喜らの謹慎が許される
11月 深川海辺新田で精鉄四文銭を鋳造
12月 米国通弁官ヒュースケン暗殺
★万延2年(文久1年)1861年
1月 浅草寺奥山で活人形やからくり人形の見せ物出る、見物人少数
湯島天満宮境内で百日芝居興行、3月途中で止む.回向院でも百日芝居あり
大川筋渡し船数カ月間停止
両国橋詰で曲馬興行、見せ物、見物人多数
六阿弥陀如来安置寺院行基菩薩彫刻以来1150年で回向院内拝、雨で見物人少い
2月 守田座『相生源氏高砂松』大入り
3月 小石西岸寺で円光大師鏡御影開帳(50日間)
西新井村惣持寺で弘法大師開帳(約40日間)、参詣人群集し、奉納物も多数
回向院で武州多摩郡高雄山権現開帳(60日間)
本所回向院青山鳳閣寺境内で百日芝居、青山では珍しく見物人多数
6月 入谷長松寺で朝顔の会(15~17日)催す
7月 浅草寺奥山で朝顔の会催す
7月 回向院で信濃荒安村飯縄明神開帳
8月 牛込若松町正光院内、湯島天満宮内で百日芝居興行
市ヶ谷安養寺境内で軽業、手妻、独楽廻しの見せ物でる
9月 団子坂藪下の辺りに菊の造り物出る(忠臣蔵狂言の人形)
神田明神祭礼、神輿山車附祭等出る、16日雨、17日は参詣人多数
9月 市村座で『本朝廿四孝』若手揃いで大入り
10月 湯島天満宮祭礼、山車練物出て九日は群集するが、10日当日は雨天で渡らず
根津、千駄木藪下、巣鴨、染井の辺りに菊の造り物多く、見物人多数
回向院で勧進相撲
秋 麹町十三丁目裏続き福聚院境内で虎(外国産、大きさ五尺余)の見せ物出る
11月 朔日酉の祭参り、終日大雨で参詣人少数(三の酉は参詣多数)
12月 浅草寺奥山に怪談
☆この年のその他の事象
1月 外国人保護の標識が辻番所に立つ
2月 物価高騰、窮民に白米を支給する
2月 大川筋渡し船数カ月間停止
4月 疱瘡が流行
5月 英国公使館が水戸浪士に襲撃される(第一次東禅寺襲撃事件)
6月 伊東玄朴が手術にクロロホルムを使用する
6月 百姓、町人の大型船製造・所有が許される
7月 洋服類似の服装が禁じられる
7月 品川御殿山に各国公使館を建設
秋頃 五穀豊穣にて近年稀なる事という
10月 横浜港で火事、異国人商家は無事
○三遊亭円朝『怪談牡丹燈籠』刊行
1月 浅草寺奥山で活人形やからくり人形の見せ物出る、見物人少数
湯島天満宮境内で百日芝居興行、3月途中で止む.回向院でも百日芝居あり
大川筋渡し船数カ月間停止
両国橋詰で曲馬興行、見せ物、見物人多数
六阿弥陀如来安置寺院行基菩薩彫刻以来1150年で回向院内拝、雨で見物人少い
2月 守田座『相生源氏高砂松』大入り
3月 小石西岸寺で円光大師鏡御影開帳(50日間)
西新井村惣持寺で弘法大師開帳(約40日間)、参詣人群集し、奉納物も多数
回向院で武州多摩郡高雄山権現開帳(60日間)
本所回向院青山鳳閣寺境内で百日芝居、青山では珍しく見物人多数
6月 入谷長松寺で朝顔の会(15~17日)催す
7月 浅草寺奥山で朝顔の会催す
7月 回向院で信濃荒安村飯縄明神開帳
8月 牛込若松町正光院内、湯島天満宮内で百日芝居興行
市ヶ谷安養寺境内で軽業、手妻、独楽廻しの見せ物でる
9月 団子坂藪下の辺りに菊の造り物出る(忠臣蔵狂言の人形)
神田明神祭礼、神輿山車附祭等出る、16日雨、17日は参詣人多数
9月 市村座で『本朝廿四孝』若手揃いで大入り
10月 湯島天満宮祭礼、山車練物出て九日は群集するが、10日当日は雨天で渡らず
根津、千駄木藪下、巣鴨、染井の辺りに菊の造り物多く、見物人多数
回向院で勧進相撲
秋 麹町十三丁目裏続き福聚院境内で虎(外国産、大きさ五尺余)の見せ物出る
11月 朔日酉の祭参り、終日大雨で参詣人少数(三の酉は参詣多数)
12月 浅草寺奥山に怪談
☆この年のその他の事象
1月 外国人保護の標識が辻番所に立つ
2月 物価高騰、窮民に白米を支給する
2月 大川筋渡し船数カ月間停止
4月 疱瘡が流行
5月 英国公使館が水戸浪士に襲撃される(第一次東禅寺襲撃事件)
6月 伊東玄朴が手術にクロロホルムを使用する
6月 百姓、町人の大型船製造・所有が許される
7月 洋服類似の服装が禁じられる
7月 品川御殿山に各国公使館を建設
秋頃 五穀豊穣にて近年稀なる事という
10月 横浜港で火事、異国人商家は無事
○三遊亭円朝『怪談牡丹燈籠』刊行