「熱狂的好景気」の大正八年前期の庶民娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 161

「熱狂的好景気」の大正八年前期の庶民娯楽
 原内閣が有効な経済施策を打たない中、「熱狂的好景気」といわれる実体の伴わない、いわゆるバブル景気が始まった。東京市内の物価は上がり、例えば、かけそばやもりうどんが日を追って7銭・8銭・9銭・10銭と値上がりした。そのため、下層階級の生活は苦しくなり、労働運動や労働争議が増えていった。
 市民レジャーは、好景気の余韻を受けて盛況である。特に演劇は、史上最高ともいえる観客数になった。まだ世相に暗さがないためか、「東京節(パイノパイ)」「デモクラシー節」「浜千鳥」などが流行した。
・一月「須磨子自殺す」六日付東朝
 上野動物園の新しい門が元旦から開かれた。元旦の夜は土砂降りであったが明けた二日、森鴎外は子供等を引き連れて、動物園を訪れている。新聞は、年始の挨拶まわりや初荷など目出たい記事で埋めていた。まだ、正月気分の六日、超人気スター松井須磨子の自殺の記事が紙面を大きく裂いた。あまりにも突然なので、多くの市民が驚いた。驚くと言えば、六日未明、市内に六ヶ所ある消防署から一斉に警鐘が打たれ、突如、眠りを破られた市民は驚いた。この日は、上野不忍池畔で恒例の消防出初式。開場には、手押ポンプ120余台・蒸気ポンプなどに加え外国から新たに購入した自動車ポンプ12台がお目見え、1600人の消防夫らも整列した。江戸の面影を残す威勢のよい梯子乗りを見ようとする人で、寒風吹く上野の山は身動きもできぬ盛況であった。消火演習を行い、木遣行列を最後に各消防署ごとに纏を打ち振り管内をまわって、梯子乗りの芸当は市中を賑わせた。
 藪入り、景気はまだ良いようで新聞(報知)には、小僧さんたちは懐が暖かいと見えて、浅草をはじめ、東京から江の島・鎌倉へ、また女中さんたちも穴守や川崎大師、鶴見へと向かった様子が書かれている。
・二月「きのう紀元節の佳き日に春光の下、憲法発布三十年の祝賀会は挙げらる」十二日付讀賣
 二月に入り二日から四日まで雪が降る。風邪が流行っていた、市内の全校が休校かといわれる中、この年の節分は「泥濘の為か例年よりは淋しかりき」とある。それでも、川崎大師の豆撒きは、午後九時の三番鐘を合図に始まり、豆を拾う参詣者人のどよめきが全山に響きわたるほどであったとか。境内には花火・活動・太神楽等の余興があって中々の賑やかさであった。このような記事から推測すると、各所の豆撒きはそれなりに賑わったであろう。
 十一日、憲法発布三十年の祝賀会が催された。十年前の憲法発布二十年祝賀会は盛大を極め、日比谷公園に十万人余、山車や仮装行列、住吉踊りや娘手踊りなどが出て非常に賑わった。それに対し、三十年記念祝賀会は青山権田原の憲法記念館で、国会議員など一千余名による式典と規模がかなり縮小された。一般市民にいたっては、「午前九時ごろから早くも残んの雪に彩られた権田原を三々五々老若男女が泥濘を蹴って今日の盛儀を見んと会場目掛けて詰め掛ける」というように、会場周辺で参加者を出迎えるだけであった。一方日比谷公園では、十時過ぎから帝大・早大・明大、その他大学生が続々と押しかけて、日本最初の普通選挙示威運動を起こそうと意気軒昂であった。警視庁からは数十人の警官が万一を警戒し音楽堂内に集まった。集まった2千人近い学生たちは、宣言後は、静粛に行列運動を開始。全群集は、隊を整えて衆議院に向かった。
・三月「畜産工芸博いよいよ開場」十九日付讀賣
 一日、奇抜なことで有名な一高の向陵祭。呼び物は仮装行列、風邪退治には風呂敷を背負った青鬼をかついだ万年床男、これに対するアンチビリン将軍はボール紙製のシルクハットに燕尾服を着け、赤銅眼鏡、付け髭、山高帽子のドクトル等を引き連れて意気揚々と行進、これに“百鬼夜行”などが続く。場内は立錐の余地なき有様で、入場者は3万人以上もあったと。また同じ日、神田駅の横の空き地で、東海道線と中央線の連絡運転開始を祝して、開通祝賀会が催された。式場界隈は万国旗などで飾られ、掛小屋での海老一大神楽剣舞・滑稽劇など集まった観客を喜ばせた。式が終わると芸者連による越後獅子や元禄花見踊りが催され、余興は夕方まで続いた。
 三日、朝鮮の李太王葬儀に対し敬弔の意を表すため休日、市内は桃の節句にもかかわらず人出はさして多くない。ただし、浅草だけは別格で、興行者も節句を当て込み、楽隊も一層の景気を付けて人を呼んでいた。活動写真はもちろん歌劇や芝居もすべて満員。
 陽気が春めいて来ると、東北地方の米成金などが続々と上野駅へ。一日の乗降客が3万人を超えた。駅周辺の宿屋・下宿屋70軒が満員客止めのうれしい悲鳴。雨上がりの九日、水戸の観梅列車は振るわなかったが市内の日比谷・芝・上野公園にはかなり人出があり、浅草は押すな押すなの騒ぎ。十七日付「梅の日曜」の記事(讀賣)には、市川付近の国府台や中山、花月園や穴守などへと、行楽の人がさらに増加している様子を伝えている。
 我が国初の試み、畜産工芸博覧会は、上野不忍池畔で三月十八日から五月末日まで催された。ハンブルグ門を真似た正門の会場には大仕掛けの牧場や十万点以上の畜産工芸品が展示された。牧場は二つに分かれ、左手に牛馬、右手に綿羊、背後には牧場の絵が描かれていた。また、約11mの櫓に風車を仕掛け、飲料水を吸い上げる池にはガチョウやシャモなどを放ち、リスや黒狐なども展示。余興館はもちろん、羊などの料理を味わう店もあった。
・四月「三日の汐干狩 二十年来の盛観」四日付讀賣

   「花見姿の品定め」四日付東朝
 三月の末から“気早連のお花見”というわけで、満開を待てない市民のお花見騒ぎが始まった。四日付(東朝)で、上野の「花見姿の品定め」を特集している。「出たり出たり春の老若男女、鳥打帽子に桜の花を差して萬筋の着物に角帯キチンとしめた小僧さん、友禅メリンスの対の着物に羽織お下げ姿の姉妹、可愛げ盛りの洋服着せた兄弟の手を引いたお父さん、遉(さすが)に皆春らしく垢のつかないものに更へて足はまづ上野に向ふ」と、混雑した花見客の服装について、春の流行を競っていると記している。また飛鳥山では、ばい煙で花の色がどうなろうと、そんなことはおかまいなしに、1枚10銭~15銭の筵を借り、サクラの下で手弁当を開いて楽しむ連中が多いことを紹介。
 六日付(以下東朝)には、同日、上野公園と飛鳥山で大演説会、また、向島から荒川迄が花の見頃という案内。七日付の見出しは「花に最後の日曜」、昨日の飛鳥山は16万人もの人出、迷子63人、喧嘩117件、怪我人20人、泥酔保護者が19人と、賑わいの総決算ともいえる報告をしている。もっも花見は、上野や飛鳥山をはじめ、江戸時代から続く名所や近所の寺社などでも広く行われていた。市民にとって花見は、自分の懐具合と余暇時間に応じて、気兼ねなく楽しめる格好のレジャーであった。そして花見がこのような東京の春の一大イベントになったのは、新聞による連日の報道が功を奏したのと同時に、警察の取締りが非常に緩やかだったからであろう。
 春の行楽は花見だけでなく、潮干狩りも盛んだった。四日付(讀賣)で「八千の舟に埋まる品川沖 三日の汐干狩 二十年来の盛観」と紹介されている。午前九時には神田・深川方面から五色の旗を翻して、鐘や太鼓の鳴り物入りで繰り出す団体もあった。品川沖だけでも8千余隻の船が出て大変な人出となり、泥酔して溺死した人が1名・迷子52名・喧嘩20組、それでもこのくらいのことは珍しくないものか、“さしたる出来事はなかった”と書いている。なお、貸船の相場(三月十五日付讀賣)は、船頭二人付大伝馬船が10~12円、中伝馬船が9~10円、一人付大荷足り船が5・6円、中荷足り船が4・5円見当だった。
  十九日付の新聞(東朝)に「職工の休日を改めよ」という見出しがある。これは東京府下の一流企業(石川島造船、森永製菓、鐘ケ淵紡績、大日本麦酒など)の代表者四十余名と府知事等の間で、共済組合の普及と従業員の生活状況調査や保育所の設置などについて協議会が初めて持たれたもの。そのなかで、休日を「一日十五日の旧習を破って以後日曜日に」しようという提案がだされた。詳細を読むと、それまでのように一日と十五日の休みでは子供の学校の休日と一致せず、家族そろっての楽しめない、これは家庭の団らんを軽視したものであると書いてある。そのため、月の第一日曜日と第三日曜日を休みにすることが必要。さらに、やがては毎週日曜日を休みにしてなどと、休日の決定権をもつ事業主にしてはまるで他人事のような調子で申し訳程度にに付け加えている。このように大正時代の半ばになっても、大企業の代表者は、労働者が月二回の休日を当然のことと考え、週一の割合で休日を取るのはかなり先のことと、悠長に構えていた。もっとも、八月十七日付(讀賣)「下駄屋の休日」の記事のように、京橋区内百余軒の下駄屋が他区に率先して第三日曜日を公休日として休業するというような動きも僅かながら出てきている。こうした労働者の休日への関心は、第一回国際労働会議(ILO)が開催されたことなどを反映したものであろう。
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大正八年(1919年)前期╶╴ジャー関連事象・・・三月朝鮮で三・一事件
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1月2森 鴎外、杏奴・類を率い動物園に往く
  3朝 元旦の市電客百十万、昨年より十五万人の増加 
    7読 出初式、山上山下は身動きならぬ盛況     
  9読 初庚申、電車増発し非常な賑わい       
  11万 三友館の東屋楽燕、空前の盛況        
  13朝 大相撲、客止めの初日            
  17万 日本晴れの藪入り日 前日に倍する雑踏    
  18万 大相撲、床屋の藪入りで六日目満員      
  23万 初大師雑踏を極め、川崎駅で死者2名     
2月4永 荷風、桜木に往き追儺の豆撒きをなす  
  5読 豆撒き、川崎大など各所ともに賑わう     
    6朝 有楽座の松旭斎天華一座連日満員大好評    
  9朝 新富座曽我廼家五郎一座「御前角力」連日満員
  12読 青山権田原で憲法発布三十年祝賀会      
    17万 明治座「路傍の花」他昨日満員御礼      
  27読 春のながれ 日に増さる市中の賑わい     
  28読 有楽座のベーリンデー「カルメン劇」     
3月2読 向陵祭、一高式飾り物、入場者3万人と
  2万 日比谷公園普通選挙促進の大示威運動参加者1万人を超え
    2読 有楽座「肉屋とカルメン」初日満員
  3読 東海道線と中央線の開通祝賀会、神田駅賑わう   
  4読 李太王葬儀、弔旗で市中寂し、浅草は別     
    10読 上野駅は一日乗降三万人、田舎客春の都へ   
  15読 明治座「羅馬の使者」他満員         
  17読 梅の日曜、初観梅列車など、行楽の人出    
  19万 上野で畜産工芸博覧会の開会式        
  28読 浅草寺開帳30日間(四月一日より)     
  30永 荷風築地本願寺の桜花を観る       
  31読 好晴れの日曜日 各所雑踏            
4月4読 花の旗日 満都浮かれて上野・浅草素晴らしい人出 
  4読 品川沖の潮干狩り、二十年来の盛観      
  5読 千代田館「八犬伝」大好評          
  6万 球界興味の一高対三高、観衆2万5千人    
  9読 盛大な花祭り                
  10読 御国座「博多仁輪賀」盛況           
  12森 鴎外、妻子を率い鶴見花月園に往く 
  13永 銀座に出でて見るに、花見帰りの男女雑踏
  14万 荒川堤と小金井、花も見頃人も出盛り
  18読 花見客の総勘定 次第に地味な気分が増す
  18読 新富座乳姉妹」満員盛況

忍び寄る制裁や弾圧前の大正七年後期の庶民

江戸・東京庶民の楽しみ 160

忍び寄る制裁や弾圧前の大正七年後期の庶民
 値上げの波が浸透し始めている。バブルも始まっているようだ。下層庶民の生活は、日に日に苦しくなっているようだが、金持ちはさらに豊かになり、貧富の差が広がりつつある。それでも、何かにつけて遊ぼうとする庶民の勢いは止まらないようだ。
 映画(活動)取締で一万人以上が制止・注意を受けている。思想的弾圧が広がる中、東京帝国大学学生を中心とした「新人会」が結成された。翌年二月に機関誌《デモクラシイ》を創刊し、思想運動団体の活動が展開することになる。政府のさらなる制裁や弾圧が進むことになる。
・九月「暴風雨の警報 浅草公園の活動や劇場は看板を外して早仕舞」十五日付讀賣
 九月には42道府県311の市町村に波及した米騒動も、東京ではその後それほど大きな騒ぎは起きず、演劇や映画など市民レジャーはもとのように盛況となった。帝国劇場の「露国舞踏」などが初日満員。婦人子供博覧会の最終日も混雑、早川雪州と青木つる子との共演映画「火の海」が連日大入りとなるなど、東京は他の地方とは情況が若干違っていたようだ。ただ、米価の高騰は下層階級の生活を直撃した。その上、二十四日の台風によって、本所や深川わ中心に市内は大洪水、その後も停電が何度か続いた。また、スペイン風邪が中旬より流行りはじめた。そのためか、行楽の人出は例年よりかなりすくなかった。
・十月「記録を破った文展初日 素晴らしい景気 午前中五千名」十六日付讀賣
 上野竹の台で開催中の文展は、小糸源太郎氏が出品洋画を切り裂いたというセンセーショナルな噂も逆に功を奏したのか、定刻前からすでに数百人もの観覧者が列をなすという人気。売約済の作品数は50点以上におよび、六曲屏風一双(題名牛)の4千円を最高額に合計2万1千円余に達した。これは、文展始まって以来の売上げ。記録を破ったのは、入場者数ではなく成金景気による作品の販売金額であったというわけだ。
 二十九日付の新聞(讀賣)には、「深川の細明町に実費共同浴場」という記事がある。これは下級労働者は生活苦で風呂にも満足に入れないことから、大人2銭小人1銭という安い風呂を新築するという話。安い風呂屋をつくるとなると方々から反対運動があるかもしれないが、成績がよければ深川区内にさらに二三軒作りたいとの意向らしい。このように諸物価高騰で1銭2銭の風呂代にも困窮している人々が大勢いる一方、同じ紙面に「恐ろしく贅沢な演奏会 成金の令嬢たちの大浚ひ」という対象的な記事も。これは数日間借り切りにされた大劇場を舞台に、成金令嬢たちによる大演奏会が催されたというもの。少女たちは、数百円もする豪華な衣装に金銀の鎖の下がった筥迫を押し込み、まるで役者のような化粧。劇場の廊下には、彼女らに送られた花輪や飾り物が足の踏み場もないくらいに並べられ、その絢爛さは全く目のくらむ程であった。親たちの出費は、幾百円千円にも上り音楽堂一軒がが建てられる位。つまりこの日の演奏会は、娘を種にした成金の豪奢比べであったと新聞は皮肉っぽく報じている。また同じ紙面に、浅草花屋敷の観覧料の値上げ広告(大人15銭小人10銭)もある。
・十一月「日本晴れの天長節 至る所大賑」一日付讀賣
 天長節の日、代々木が原での観兵式が中止になったのを知らない人々が、青山・原宿・代々木・新宿の入り口に早朝から十時頃まで押し寄せて、人で埋まった。観兵式の取り止めにがっかりした人たちの大半が浅草に流れたため、六区の映画館や見世物は満員客止めの凄まじい景気となり、仲見世から六区へは人が鮨詰状態であったと。上野公園は、動物園、文展や美術協会展工芸品発明品展覧会などがかなりの人気を集めた。
 十一日は快晴の日曜日、一の酉は成金景気に乗じて二尺物三尺物大熊手が威勢よく売られ、5円10円という馬鹿値もお構いなしの大繁盛。浅草をはじめ深川・四谷・品川・目黒の大鷲神社は大変な人出を見せた。酉の市の景気を受け、市内の各興行物は溢れるような入りであった。
 二十一日には第一次世界大戦の休戦大祝賀会が日比谷公園で開催された。朝から花火が盛んに打ち揚げられ、正午開門と共に6万人の入場者が雪崩を打って流れ込み、会場は人、人、人で埋めつくされた。会場の背後には、余興の掛小屋が建ち並び、喜劇・剣舞などが催された。夜になると、70あまりの組合の東京実業組合連合会10万人が馬場先門から二重橋前を一周して坂下門から宮城内に向かって提灯行列。勇ましい吹奏楽と万歳の声、五分おきに打ち上げられる花火、延々と続いた火龍は午後七時四十分に宮城参拝を終えた。人の波は、今まで運動場で露天余興が催される日比谷公園へと動き、その時の様子は「踊に歌に 日比谷の夜 二十万の人」(讀賣)という見出しで表現されている。この日は、馬場先門救護所では男女7人の迷子を保護。日比谷付近の救護所でも大人を含めて、17名が保護されている。この休戦大祝賀会の実況は、翌日、キネマ倶楽部と大勝館で上映された。
 大相撲は翌年の春場所から値上げが決まった。正面一坪六人詰12円(従来11円)・三方一坪11円・特等一人2円30銭・一等1円70銭・二等1円20銭・三等70銭・木戸60銭(従来50銭)となる。これと二十八日付の新聞(讀賣)に「慈善協会大会 渋沢邸の盛況」と、飛鳥山の渋沢邸の庭園にテントが張られ、陸軍軍楽隊の合奏が流れる中、約5百人の人が集まったと書いてある。同日の内容は、慈善についていくつかの講演と休憩時に寿司と甘酒の饗応・・・といったもので、午前十時に始まり午後四時まで催された。
・十二月「此の暮は 先づ上景気 中流以下の懐中にはまだ何の影響も無い」十一日付東朝
 十二月に入っても劇場は盛況だが、そんな中で一時は盛んであった日本橋中州の真砂座が閉鎖された。時と共に地の利が悪くなり、連鎖劇や活動写真に命脈をつなごうとしたが失敗が続いたらしい。ところで、この年の暮れの景気はというと、東京には、公設の歳の市で少しでも安いものを買おうとする人がいる一方で、成金とはいかないものの相応の収入を得た人がかなりいたようだ。二十五日付(万朝)には軍人に年末賞与がでたことが載っている。九月にも月給の四割という臨時手当を受け、今度の賞与は、給料の一カ月分。文官、陸軍省の給仕に対しても増額され13・4円の賞与がでた。景気を反映してか、諸物価の値上がりは歳の市でも顕著で、縁起物の羽子板は3~4割も、その他の品物も2~3割値上げされているとのこと。
 二十七日付(万朝)には「活動取締の効果」があって、映画の影響を受けた犯罪が減ったという記事。十五歳未満のため映画見物を制止・退場させた者が1万1千人以上。風俗を乱すような行為を見つけて説教した者が取締以前には211名あったのが20名に激減、退場させられた者も123名から13名に減った。さらに、映画に影響されて窃盗に及んだ事件も取締以前の42件から22件になったという。新聞は、フィルムの検閲と十五歳未満入場者制限の効果を強調している。このように映画の取締しまりは徐々に進んでいった。
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大正七年(1918年)後期のレジャー関連事象・・・十一月第一次世界大戦終結/十二月新人会結成
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9月1森 鴎外、妻子と植物園に往く  
  2万 帝国劇場女優劇「露国舞踏」初日満員 
  2読 涼しい博覧会数々の余興、入場者3万人と 
  9読 婦人博覧会最終日、場内至る所混雑 
  8森 鴎外、妻子と百花園で遊ぶ       
  9朝 三友館「乃木大将」初日以来連日満員
  12朝 院展初日、入場8千4百人
  14読 観音劇場新劇「残されし人」他大人気
  20読 月見、上野公園・愛宕山・九段・品川・向島百花園など賑わう
  23読 富士館、早川雪州・青木ツル子共演「火の海」他連日大入り御礼
10月5永 浅草観音に菊供養あり
  13読 池上お会式、観物小屋10軒・露店少ないが人出例年なみ
  16読 文展初日午前中に5千名、記録を更新     
  20朝 ベッタラ市賑わう、小一本10銭大30銭   
  25読 靖国神社大祭最終日、外苑の観覧物・飲食店・露店等賑わう
  29読 成金令嬢たちの恐ろしく贅沢な演奏会
  29読 浅草花屋敷値上げ、大人15銭・小人10銭
  31朝 キネマ倶楽部「護国の少女」連日満員    
11月1読 日本晴れの天長節、至る所大賑わい 
  4読 日比谷公園の菊大会、時ならぬ賑わい
  11読 日曜日の酉の市、市内各興行物は溢れるような入り
   11読 目黒競馬二日目、正午に千人を超える
  16読 慶応のカンテラ行列3千人、宮城前の壮観
  21永 欧州戦争平定の祝日なりとて、市中甚だ雑踏
  22読 日比谷で休戦大祝賀会、20万人の人
   28読 大相撲値上げ、正面一坪12円(従来11円)・特等一人2円30銭・一等  1円70銭・三等70銭・木戸銭60銭(従来50銭)

12月4万 常盤座「不如帰」素晴らしい景気  
  6万 水天宮、露店300余薄暗い頃から賑わう
  7万 新富座天一坊」他売切れ満員   
  10万 有楽座の天勝、大曲技滑稽奇術満員御礼
  15読 白木屋高島屋、下足番が汗だくだく
  15万 深川品調べ市、羽子板店22その他250~60軒、羽子板など3~4割高
  20読 軍旗祭、靖国神社に参拝するが余興なく極めて静粛
  21万 公設の歳の市、6ヶ所朝から非常な繁盛
  26永 荷風浅草寺に賽するや必ず御籤を引き

 

不景気が忍び寄る大正七年中期の庶民

江戸・東京庶民の楽しみ 159

不景気が忍び寄る大正七年中期の庶民
 大正七年中期の東京は、娯楽に浸る庶民が大勢いた。地方では徐々に不景気風が吹き始めていた。東京では、成金が金にまかせて謳歌しており、庶民もつられていたようだ。
 しかし、米騒動の情報が東京にも流れると、事態は一転した。
・五月「電気博覧会期延期」九日付讀賣
 森鴎外が家族連れで二十日に見物した電気博覧会は、会期を十日間延長した。この博覧会は名前から予想つくように、いたって地味な展示であったが、それでも入場者数は、十五日で96万人に達した。二十一日は、博覧会デーとして入場料を割引、余興館席料を半額にお土産などの特典を用意、他にも茶番大仮装行列が催された。
 国技館が火事で使えなくなった大相撲は、屋外興行のため、天候によって客の入りが大きく左右されることとなった。五月場所は、初日から入りが悪く、二日目は時々雨で場内は閑散とした光景。四日目少しは快復されたもののそれでも六分の入りで、結局、観客が満足に入ったのは、雨の降らなかった日曜日だけ。演劇界の好景気をよそに、相撲は十年ぶりの不況。入りの悪いのは、天気の具合にもよるがそれだけではないこと、やはり相撲界の内部のトラブルが遠因のようだと。
・六月、コンノート殿下奉迎「日本全国民の熱誠を代表した群集の列」十九日付讀賣
 十一日、厄除日蓮開運毘沙門の開帳に先立って、芝から浅草へ善男善女が一千名、行列揃えて開帳仏乗込みが催され混雑した。沿道には、見物人が押し寄せその華やかな光景を楽しんだ。十八・十九日付(讀賣)で、英国より来日したコンノート殿下の奉迎セレモニーの記事が出ている。警視庁からは、混み合って危険なので老人や子供は遠慮すべし、また、一般市民の奉迎は三菱ヶ原か宮城外苑が適当、服装もなるべく礼を失しないもので、とのお達しがあった。学校生徒の奉迎は、府立中学校1千2百名の生徒が宮城外苑に、また市内小学校1千8百名の生徒が馬場先門より堀側一帯などに割り振られていた。宮城前凱旋道路に集まった群集は、始めクローバーの芝生に立つことを日比谷署から許されていたが、憲兵隊は「道路へ降りろ」という。警察は「上がっていろ」というので四五遍も上がったり降りたりさせられた。そのため人々は、一時不平顔になったが、最後には憲兵隊も恐縮して、道路に立つよう指示した。そうなると人々もかえって恐縮し「よろしうございますとも」となり、その光景は「心地よき新日本の姿かな」と新聞記事になった。

・七月「日曜の月島水泳場賑う」一日付讀賣

   第二回婦人子供博覧会開会(12日付讀賣
 七月に入ると月島の水泳場に関する記事が相ついだ。その内容は、水泳場が賑わいを増すにつれて、入場料以外に座布団や煙草盆代として金を取ったり、飲食物を高い値段で売りつけたりするというもの。また水泳関連では、「本年は溺死者が少い」と言う記事もでている。大森・羽田など53箇所の遊泳場での溺死者は、七月以降わずか7名しか出ていないと書かれている。しかし、八月に入ると様子は一変したのか、芝浦一帯の潮流の変化が激しいために毎日のように溺死者が出て260名以上となり、「芝浦一帯の遊泳禁止」と。せっかく出かけても、子供たちは泳げないことから、カニ取りに戯れていたと。この頃、水難事故が多かったことから、市民の水泳が一部の人が行うスポーツではなく、レジャーとなっていたことがわかる。
  前年、成金たちが川開きを買い取るという騒ぎが起きたためか、この年は見物のための川岸の桟敷が禁止された。十七日付(東日)によると「川開きは江戸の花だ。市民平等に観るべきものを市の所有地たる川岸に一般の目を遮る板囲などして料金を取って見せるものではない。此主旨で禁止した譯である」と、警視庁より粋な通達が出された。そのためか、当日の人出は少なく前年より寂しいと、全体的にはやや賑やかさに欠けていたようだ。さらに、本年は殊に好景気だから混雑するだろうと厳重に固めた浜町河岸は意外にも混雑を見ず、後の方は楽々と往来が出来た。警戒に当たった巡査は『例年の半分くらいしか人出ない』と言ってたと、かなり減少したように新聞に書いていた。しかし、前年、桟敷を買い漁った連中が減っただけで、それほど見物客が減るとは考えられない。
 七月から八月にかけて、上野で空中文明博覧会(七月十日~八月二十五日)と第二回婦人子供博覧会(一名涼しい博覧会、七月十一日~九月八日)が催されている。上野不忍池畔の涼しい博覧会は人気を呼び、ことに藪入りの日には博覧会会場を目指す人で電車が鈴なりになるようで、開場以来の大盛況。なかでも観覧料が無料の余興場は混雑し、夕刻からはライトで照らされさながら不夜城の美観と称えられた。
・八月、米騒動「市内の騒然 日比谷の群衆」十三日付東朝
 八月の最初の日曜日は、時折薄曇りとまずまずの天気。涼を求めて江ノ島や鎌倉、近くは大森・羽田・新子安などへ出かける人も多いく、市内では月島の海水浴場が大繁盛。上野の空中文明博覧会と涼しい博覧会も相当の客があり、浅草は真夏だけに映画館の入りは六七分、浅草界隈では花屋敷の大滝が込んでいたもよう。また、尾久や王子、目黒の滝もそれなりに賑わっていたようだ。
 富山の魚津に始まった米騒動は、八月になると徐々に他の地域にも拡大していった。神田青年館で開かれた“出兵問題演説会”が解散を命じられ警察官と衝突。この頃の新聞には「混乱を極めし銀座通り 投石しつつ米屋町を襲撃」「不穏な気満し水天宮前」「株式取引所襲撃 蠣殻町を追れし群衆 電車及自動車に暴行」などと、ものものしい表現の見出しが並んでいる。浅草公園米騒動の噂を聞くと、いち早く興行を終了させた。上野でも、森鴎外の日記に「夜市民聚于上野公園。園内皆滅灯火。」とあるように、折から開催中であった博覧会も夜間は中止しせざるを得なかった。
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大正七年(1918年)中期のレジャー関連事象・・・八月シベリア出兵、米騒動勃発
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5月2万 帝国劇場「新鏡山」他満員
  4読 浅草遊楽館「塩原太助」の大写真大盛況
  4永 荷風、麹町通りで台湾生蕃人の一行を見る6万歌舞伎座東京市江戸城明渡」初日満員
  4読 オペラ館「続金色夜叉」又々満員の大盛況
  9読 電気博覧会会期延長            
  12万 大相撲、日曜で雨振らず満員に近い      
  14万 新富座「黒髪物語」満員御礼         
  25万 大相撲、天気の都合もあるが十年振の不況
  27読 浅草遊楽館「猿飛佐助」他好評
6月6万 吾妻座「吉原の大火事の塲」大好評     
  6読 オペラ館の「父の涙」すこぶる好評      
   8万 有楽座の近代劇、大入り満員         
   9森 鴎外、杏奴・類を率い動物園に往く    
  11万 新富座「都歌舞伎」他引続き満員       
  12万 厄除日蓮開運毘沙門、芝から浅草へ練る    
  14万 公園劇場「四谷怪談」他連日満員       
  14万 電気館「世界の平和」他連日満員       
  19読 コンノート殿下歓迎に駅頭から霞ヶ関まで迎者で一杯
  22万 新富座「都歌舞伎」他連日満員
7月1読 日曜日の月島、水泳場賑わう
  12読 第二回婦人子供博覧会(涼しい博覧会)開会
  14永 荷風、有楽座にて文楽人形浄瑠璃始まる 
  16読 有楽座「盛衰記」他人形浄瑠璃大入り御礼
  16読 藪入り日の涼しい博覧会、鈴なりの電車が会場前で空明きになる
  17万 新富座、楽燕「大石の山鹿護送」他満員
  17読 小石川伝通院をはじめとする大黒天は参詣者多く賑わう
  18読 川竹で翫之助「勧進帳」大当たり
  24万 歌舞伎座児雷也豪傑物語」連日満員
  24万 本郷座大連鎖劇「仇波」大好評連日満員
  28万 海へ山へ各船車満員
8月1読 芝浦一帯の遊泳禁止、毎日のように溺死者
  5読 盛夏の日曜、涼を求めて人出                                8万 佃島住吉神社祭礼
  10万 歌舞伎座「深川波の鼓」他連日満員
  11森 鴎外、妻子と目黒植物園で遊ぶ
  14朝 米騒動が東京にも波及し、浅草公園の興行は早仕舞い 
  14森 夜市民聚于上野公園。園内皆滅灯火
  15読 鶴見花月園大花火、音楽・活動・手品等 
  18読 浅草の寂莫、劇場等午後四時で営業休止のため飲食店営業打撃
  21万 明治座「黄金魔」他連日満員
  27万 中央劇場、大入り続きで拡張大改修
  31万 新富座、曽我廼家一座初日満員

 

追、本日2月25日、中央公論新社から

『大名の「定年後」江戸の物見遊山』

発行しました。      
 

盛り上がりが続く大正七年前期の東京庶民

江戸・東京庶民の楽しみ 158

盛り上がりが続く大正七年前期の東京庶民
 大正七年、インフレは戦争が終結に向かってもおさまらず、特に米価の高騰は著しく、七月から全国で米騒動が発生した。このような国内の経済混乱に対し、政府は新聞報道を禁止して軍隊まで出して治めるという無策。米騒動で寺内内閣は総辞職し、原敬が首相となり政党内閣が誕生するが、物価の値上がりは止まらない。原内閣は経済施策にはまるで無関心のようで、不況から失業増加へと社会不安を導いた。
 全国的には不景気が始まっていたが、まだ東京では、成金の遊びにつられるように映画はもちろん観劇などもレジャーは活発であった。米騒動も一時的で戦争による好景気のムードが持続していた。そんな市民の気持ちを反映してか、「ノンキ節」「女心の唄(リゴレット)」などが流行った。もり・かけ蕎麦の値段、6銭に値上げ。かき氷3銭。
・一月「泰平の群れ 深川不動賑う 郊外では穴守」二日付讀賣
 大正七年の元日、宮中では、「除夜の鐘撞き納めて東の空暁を帯びる頃より宮中にては四方拝の御儀を初め各種の御儀式あり殊に午前十時頃より正殿并に鳳凰の間において拜賀式行はれたれば午前九時半前後より皇族方は申すに及ばず元帥国務大臣、大臣禮遇、樞密其他の文武百官何れも燦たる大禮服に威儀を正し……」(二日付東日)と、例年とほぼ同じく、しめやかにスタートを切った。なお、四方拝とは宮中の儀式で、元日に天皇が伊勢の内外宮、天神地祚、天地四方山陵を拝し、宝祚の無窮、天下太平、万民安全を祈る儀式である。
 そこで、今度は一転、正月の街の風景を見ると、都心の大店はみな戸を占めて閑散とした街に、市電は満員で走り、停留所には数えきれないほどの人が立っている。逆に店が開いているのは浅草で、観音様に詣でる人、劇場などに向かう人などでごった返していた。その他には、上野、宮城前、日比谷公園、川崎大師、深川不動なども賑わっている。その中で興味を引いたのが、宮中へ参内する皇族や大臣らの文武官を見物するための行列ができていることである。まるで大名や旗本たちが登城する江戸時代の情景、「東都歳事記の元旦」の絵と重なって見える。
 初日の出が二年ぶりに期待されるなか、薄い雲がたなびくなか昇った。吉例の初日を迎える場所は、品川八ツ山、芝の愛宕山、芝浦海岸、州崎、麹町の山王台、湯島天神、九段などが挙げられ、これは江戸時代と変わらない。この年の恵方は、羽田穴守・川崎大師などで、例年にまさる人出があった。市内では麹町方面より芝の愛宕さん・虎ノ門金比羅さま、京橋方面よりは築地の波除稲荷、日本橋以北神田方面よりは水天宮・深川八幡。特に深川は初不動にあたり格別の景気を見せた。境内から界隈にわたって繭玉屋などの露店が隙間なく軒を連ね、参詣人が未明から大勢押しかけて賑わった。
 藪入り。半年に一度、大ぴらにお金を持ってゆっくりと遊べる日とあって、お女中さんはお芝居に、大憎小僧さんは達は九段の相撲場へと流れ込んだもよう。九段は、焼けた国技館と違って二階三階がないので、小僧さんの中には一等席に陣取って得意気に収まっているものもある。三等席の後ろから眺めると張り幕の下から小さな足や大きな足がコンがらがって、それがまた藪入り気分を漂わせている。
 また、九段で相撲があっても浅草はかき入れ時の大繁盛、雷門口も田原町口も大混雑である。取締令の影響で少し参っていた活動写真も、電気館をはじめ富士館・キネマ倶楽部など多く、乙種興行の札を掲げて各館とも満艦飾に飾りたて、大憎・小僧・女中さんたちを吸い寄せていた。もっとも、公園境内のテント張りの露店飲食店は思ったほどの入りがなく、赤毛布に腰掛ける客もない寂れ方。ただ汁粉屋はかなり賑わっていた。これは、小僧さんたちの食べ物が贅沢になってきたこと、また衛生思想が進んだためだろう。また、時代後れの大道蓄音機から出ている管を耳にあてて聞いている光景は何とも浅草らしい。小僧さんらは花屋敷や映画を見物して、あちこち浮かれ歩き、中にはバーから真っ赤な顔をして出てくる不埒なものもある。景気の良い女中さんの中に、高嶋田などを艶艶しく結い上げ、花簪だの櫛だの買っている人もあった。
 藪入りは人通りが多く、18名の交通取り締まり巡査が出て、午後からはさらに1名増員し交通整理をする。銘酒店は取締公布当時の848戸2156名が、現在ではわずかに269戸407名に減じている。それでも店は、正月を当て込んでいるから、20名の臨時取締巡査に警戒させ、学生や小僧の踏み込む客があればこれを説諭している。映画館には昼夜4人の巡査を出した。近頃は藪入り連中も利口になって向こう見ずの遊びをするものが少なくなったとある。なお、下屋万年町の特別小学校(働きながら学ぶ)では、奉公している卒業生の藪入り慰問を催したようだ。
・二月「きのう日曜の梅日和 各所の賑い」二十五日付讀賣
 三日は節分会。浅草観音では十俵もの豆をまいて好景気。亀戸天神では赤鬼青鬼の問答で大いに笑わせた。豊川稲荷では河合武雄や釈迦ヶ獄、常ノ花の年男が人気を呼び、各地とも大いに賑わった。四日の初午、羽田穴守稲荷は早朝から参詣者がことに多く、境内では曽我の家の奉納芝居、里神楽などが演じられ、沿道の飲食店は大層な繁盛。その他、赤坂豊川・王子・笠守・鉄砲州などの各稲荷も参詣者が引きも切らず賑わいを極めた。
 十一日、「憲法発布三十年祝賀会」が上野精養軒で催された。会費50銭、参会随意というのに三木武吉ら約千人が集まる。終了後、二重橋に向かおうとしたが中止させられ、群集と警官隊とが衝突し重軽傷者十数名、17名が検束された。
 二十四日、梅の見頃には1週間も間があるものの、日曜の梅日和とあって各所が賑わった。大森・蒲田への電車は満員。向島百花園には浅草公園から足を延ばした連中が大勢訪れ、土産の梅干しが売り切れるほどの大繁盛であった。また上野公園は、動物園の呼び物であったライオンが死んだにもかかわらず、正午までに4千人が入園する有様。市民は、まさに行楽の春のまっただ中にいた。
・三月「浅草公園役者の鼻息 愈猛烈な争奪戦の事」四日付讀賣
 それまで長らく“まま子扱い”されてきたオペラダンスという演し物が日本館で大当たりをとり、学生たちが大勢公園に足を向けるようになった。前年の景気が良かった事もあって、浅草公園の劇場はどこも満員という状況。大劇場も二つ三つできたが、それでもまだ急にふくれ上がった観客を収容しきれない。そうした結果、浅草の興行界にかつてないいざこざが現出した。それは、芸術座を再び脱走した武田正憲一派の旗揚げにはじまり、本郷座による井上一派の引きぬきなど、激しい俳優争奪戦の様相となった。例えば、原信子の給料は月三千円という破格の待遇となり、“新劇万歳”となった。劇場が増えるたびに、芸役者はあちこちから引っ張られ、中にはとんでもない役者が千二千円という給料を踏んだ食ったという話もある。まあしかし、新劇俳優の争奪戦によって、それまで貧乏にあえいでいた新劇俳優たちもようやく人間らしい生活ができるようになったと喜んでいた。
 また、「新舊劇壇ホクホク」との記事(四月二十三日付讀賣)がある。米の値段を皮切りに諸物価が沸騰したため、生活が苦しくなったというのが大方の民衆の声。にもかかわらず、演劇・寄席・音楽会の類はこれと反して、どこもここも大入り満員であった。まだ、景気が良かった前年の秋、浅草の活動写真に5円札で払う職人がいるといって驚いたという話もあったが、景気が悪くなってもその傾向は止まらない。初春興行はむろんどこも盛況、三月あたりから客足が落ちるかと思われたが、ふたを開ければこれも満員。吾妻座や明治座ではあまりの混雑で二階席から人の落ちるという事故まで起きてしまった。
 また、一時下火になっていた新劇も芽を吹き返した。坪内逍遙の「ハムレット」が成功を修め、イプセンものも成功、さらに「ロメオとジュリエット」を企画、新作物舶来物の上演が次々に計画されている。この年は、演劇界が最も繁栄した年であろう。劇場入場人員も大正年間で最も多い653万人。興行一日平均が1032人、これは大正・昭和時代を通じても最高である。23ヶ所の劇場が6335日興行(一劇場は年間275日興行)した。そうすると年間一劇場あたりの平均入場数は、28万4千人となる。これだけ入ると経営効率は良く、収入もかなりの額になったと推測され、劇場経営者だけでなく俳優たちも潤ったことがわかる。なかでも浅草公園の吾妻座は、年間364日興行とほぼ年中無休、一日当たり2476人、年間90万人の入場者数となっている。ちなみに同座三月の演し物は、小山内薫作・喜劇「金儲の器械」、徳富蘆花作・悲劇「不如帰」などである。
 彼岸明けの日曜日は、格好の行楽日和で市内電車各線は朝からいずれも満員の札を揚げ、公園や盛り場は大変の人出だった。特に上野の電気博覧会は、ことのほか人が集まった。また上野では、太平洋画会・諸展覧会や博物館、動物園などが相変わらずの人気であった。浅草もかなりの人出で、映画館や各座劇場へなだれ込む人の群れで付近の飲食店なども賑わった。市民は郊外にも出かけて、松田(観梅)や江ノ島・鎌倉まで遠出した人も多かった。
・四月「飛鳥山は恐ろしい人気・・・まるで変装博覧会」八日付讀賣
 新聞は恒例のサクラ便り、七日の飛鳥山はまだ五六分の開花、春雨が降りだすという天気でも花見に押し寄せる人あまた。花見酒に酔って、変装してしまえば治外法権の世界、高歌乱舞にケンカ、まるで変装博覧会のようであったと。翌日は、朝の内は晴天で絶好の花見日和であったが午後に入り花曇り、サクラもちょうど見頃で、上野はその年一番の騒がしさであった。なかでも、博物館の前では、ある会社がきれいに着飾った雛妓に縄跳びをさせていて、その周辺は子犬も通れないほどの混雑だったという。
 また、十四日の飛鳥山は、春雨続きのためサクラは色あせたが、思い思いの仮装を凝らした男女が電車を下りた時から、酔ったような様相で次から次へと山に流れて行った。山はそれまでの花見客による狼藉で戦場跡のような無残な光景を残しているが、その上でまた箍を外した花宴が開かれた。荒川の花見は次の日曜。小台の渡しでは船頭が向こう(東側)に渡ろうとする人々を「押すな」と制止、土手には大勢の人々。千鳥足の大名、雲助、按摩、狐の嫁入りの輿をコンチキチと担いで行ききする仮装のグループなど多種多様だった。
 「活動も値上 浅草の興行主連の申合」(二十二日付讀賣)と、映画料金の値上げをしたらしい。その前に浅草公園内の劇場や映画館は、盛況で定員以上に客を入れているため、所轄の象潟署が取締を強化した。定員を守り収入額を維持するには、今まで10銭であった観覧料を15銭に、7銭を10銭に値上げすることを興行主らが申合を行ったと。東京の演劇と映画は、正月以降どこも近来にない入りで、四月も「金色夜叉」を上映しているオペラ館は、満員御礼の広告が続いている状態。五月もなお「続金色夜叉」(長田幹彦作)が「又々満員御礼」の広告を出している。六月に入ると特別写真「父の涙」がすこぶる好評だった。値上げといえば、芸者の玉代も五月から値上げ。
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大正七年(1918年)前期のレジャー関連事象 
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1月2読 泰平の群れ 深川不動賑わう 郊外は穴守
  6読 初水天宮、夜の明けぬ内から人絶えず開門と同時に幾万人
  6読 キネマ「マチステの義勇兵」大好評
  6読 初卯、繭玉屋50軒、柳島など混雑
  7読 出初式、梯子40台に池の周囲に人垣    
  15永 荷風、市中両国辺を散歩す
  16読 藪入り、小僧さんたちも景気が良い
  21読 九段の大相撲、千秋楽は客止めの盛況
  21読 富士館「日本一雲月」満員御礼        
  23読 遊楽館の三大写真「名古屋山三」他連日満員
  30読 九段招魂社、太刀山引退相撲3日間満員
2月4読 浅草観音では十俵の豆を撒く、各所賑わう
  5読 初午、恵方の穴守をはじめ各稲荷、参詣者引きも切らず
  8永 荷風、午後歌舞伎座に立ち寄る
  12読 探梅回遊ホーカーデー往復50銭
  12読 憲法発布三十年祝賀会、警官と衝突
  14読 富士館「乗合馬車」大入り続く
  20読 オペラ館「毒煙全編」他好評
  20読 吾妻座、中村福圓七役好評湧くが如し
  20読 遊楽館、松之助の「通力太郎」他盛況
  21読 梅日和、各所の賑わい
  24森 鴎外、杏奴・類と上野に往き伊豆栄で昼食
3月3読 府庁の野菜市、炭五千俵が一時間で売切れ
  4読 有楽座「十郎」満員御礼
  11読 陸軍記念日、九段の賑わい         
  12朝 歌舞伎座「不如帰」連日満員
  14読 オペラ館「二人娘」大好評日延べ
  20読 上野で電気博覧会開催            
  25読 彼岸明けの春の行楽、各公園・盛り場大変な人出、電気博に人気
  31森 鴎外、子供達を率い小石川植物園に往く

4月4朝 銀座・上野・浅草の人出、花屋敷が一番人気
  8読 春雨の花見、飛鳥山はまるで変装博覧会
  13朝 飛鳥山人出8万人、学生連中の花見風俗悪し 

  15朝 新富座の喜劇楽天会一座、満員御礼
  20森 鴎外、妻・子供達と電気博覧会に往く
  20永 荷風采女町三笑亭で小さん等を聴く
  15読 雨上がりの日曜、花見客ドッと押し寄せる  
  21読 オペラ館「金色夜叉」連日連夜満員の大景気
  22朝 荒川の賑わい、土手一杯に続く人
  28読 靖国神社の春季大祭
  28森 鴎外、子供達を率い小石川植物園に往く

大正六年後半も浮かれる庶民

江戸・東京庶民の楽しみ 157

大正六年後半も浮かれる庶民
 六年の後半に、それまでとは何か異なるファクターを感じさせる記事が目に付くようになる。それは六月に、東京湾水質汚染が進む様子。水質汚染は、月島や隅田川などの水泳場に現れ始めた。当時は、水泳場の禁止というだけで、環境問題などには踏み込んでいない。確かに、庶民には未来を推測することはできないものの、やがて生じる問題を暗示するにもかかわらず、不透明なまま通り過ぎることになる。
 次は、八月一日からの活動写真興行規則実施。検閲が娯楽にも浸透し、フイルムのチェックだけでなく、何と男性と女性を分けて別席にするとか。現代ではこのようなナンセンスな対応は、考えられない事である。昭和に入ってさらに強化するのであるが、その布石と思わせる。
 十月一日の東京湾台風。東京の下町、月島、築地、深川などが浸水し、死傷者など千五百人余、甚大な被害を被った。しかし、その復興がどのように進められたか詳細はわからない。たぶん、蔑ろにされたようで、庶民をイベントや娯楽に熱中させることで気を紛らわさせていたような気がする。

・七月「三号地(月島)だけでも五万人位の水泳者」十六日付東朝
 七月が近づくにつれ各地の水泳場が開場。月島三号地では、月島水泳場組合が入場料を5銭から10銭に値上している。とはいえ、市内の水泳場は、水質悪化で遊泳に適さない場所が増えているようだ。二日付(中央)で「水泳禁止 腐敗した水伝染病も危険」という見出しがある。それによると大川筋(千住から下流)はもともと、腐敗物や塵芥などが流れて水が汚れ、到底游泳に適さぬ状況とか。ただし、それに代わる所がないので翌年からは禁止になるだろうと、書かれている。しかし六月十三日付の新聞(萬)には、「隅田川の水泳は本年より禁止」と、すでに許可した水泳場まで、禁止にしてしまった。その代わり、月島外海岸と芝浦埋立地には水泳場の数に制限をつけて許可するという。
 それでは大正六年頃には、隅田川で泳ぐ人はいなくなってしまったのかと言えば、そうではないらしい、実際は浅草より上流のあたりで大勢の人が泳いでいた。たとえば、向島の言問では、近隣の小学生が集団(学校の水泳教室)で泳いでいた。とはいっても、川の汚染はひどく、川底にヘドロが溜まっていて、生徒が川岸で丸太につかまって両足をバタバタさせると、水が真っ黒になって白い褌もどす黒くなったほど。が、それでも隅田川で泳ぐ人は、あまり減らなかった。他方で、王子電車が水泳教師をつけて指導する荒川水泳場も開場。水泳は月島に移り、三号地だけでも五万人位の水泳者があるに違いないという賑わい。また、この年の七月にはYMCAに室内初の温水プールが開場されるなど、水泳は徐々に市民の間に浸透していった。
 七日、浅草の四万六千日、両国や薬研堀などの草市は例年通り行われている。草市の相場は、蓮の葉が一把8銭・真菰30銭・蓮花一把20銭・籬垣20銭・草物一束5銭・麻幹50銭。また、都新聞主催の新子安の海水浴場も、例年通り楽隊や花火などで開場式を行なった。藪入りには、小僧さんたちが一斉に浅草へ向かう。映画は、富士館「チャップリンとチビの心中」、大勝館「忍術十勇士」が人気。演劇は、公園劇場「牡丹灯籠・伊勢音頭」、観音劇場「実説佐倉義民伝」など。涼を求める人々で憩う「尾久の大滝」は、日光華厳の滝を模した高さ六丈(約11m)もある。さらに3銭払えばラジウム水浴及び温浴休憩所などが自由に使え人気を集めた。四谷津の「守むちの滝」も、庭園がきれいになり、電気で滝を落とすから“涼味”が増したとのこと。目黒植物園では、数千鉢のアサガオを陳列し即売。
  川開きは、二十一日午後二時には早くも警備の警戒態勢が敷かれ、四時半ごろには浴衣掛けの客が集まってきている。浜町から両国橋にかけて設けられた観覧席は、30銭から1円と、四年前と比べると二倍にはね上がった料金にもかかわらず完売。三井物産、日米石油、日本製糖ら大企業、兜町の成り金などの団体客が続々と席に着き、なかにはモーターボートで見物に来た景気の良い客もいた。むろん、大川筋の料亭や待合は満員で、柳橋見番では350人もいる芸者が六時ごろには出払って、目の回るほどの忙しさ。花火見物の開場では、芝居をまねたのか枡席のようなものを作り、そこには産業界や銀行・保険業界など「当世成金競べ桟敷の上の御歴々」とでもいうべき人々でにぎわった。隅田川に漂う遊覧船の数も、午後八時頃には約3万艘と、前年の2万艘に比べて1万艘も多く、とりわけ素晴らしいものであったと報じている。なお、川開きが、年々盛大なっていったのはわかるが、遊覧船の数は明らかにおかしい。
・八月「昨日から実施の活動取締」二日付東朝、

   「避暑客が増加」十六日付時事
 八月一日から活動写真興行規則が実施され、フイルムのチェック、男女別席などの取締が始まった。演劇はチェックを受けないのに映画だけという不満は多く、映画館員の実施の状況を訪ねたら、別に以前と変わらないとのこと。ただ、帝国劇場での映画「潜航艇の秘密」は、満員だが男女別席励行で混乱したと。
 この年、成金の避暑客が増加した。鉄道は客が増え大忙しだが、客のマナーが低下したと。市民の多くは、身近な場所で素人相撲や祭、花火などを楽しんでいた。夏祭と言えば深川八幡だが、神輿が48台、獅子が3台で三日間にわたって催された。毎年何かしらのトラブルがおこることから、警察は事前に総代並びに神輿監督120名を召喚している。その時の訓示は次のようなものであった。神輿に二名以上の監督をつける、大神輿は十六歳以上の男子に限る、喧嘩口論及び他人に迷惑をかけない、裸や酒気帯び、裸足、異様な変装を禁じ、白丁を着ること、そして最後に、警官の命令に従わない者は厳罰に処すというもの。
 二十五日付の新聞(讀賣)に「六年振の大花火」と紹介された大花火が芝浦で興行された。延長二百余間(360m以上)の大桟敷は観客で鈴なり。料亭いけす見晴をはじめ浜の家・三よし・春の家・照元磯野家等は前日からの付込み客で立錐の余地もないほど。打ち上げ花火だけで数百本、呼び物の仕掛け花火は千代田城の情景で横十二間(約22m)・立て四間半(約8m)もある壮麗なもの。長らく途絶えていた花火であったが、やってみると意外に好評であった。
・九月「秋の祭 景気は成り金祭り」十五日付讀賣
 九月に入るとまずは、本年初の戌の水天宮。参詣者は郡部からはもちろんのこと、千葉・埼玉・茨城・群馬・神奈川など他県から上京する人も多くなった。これは、博覧会などの大きなイベントを目当てに市外から訪れ、そのついでに水天宮へも出かけるようになったからだろう。始電が走る前にすでに百人以上もの人が開門を待ちわび、折からの小雨にも負けず参詣者が続々とやってくる盛況だった。
 人が動くのは景気が良いからである。祭りも日本橋小舟町の八雲祭が十九年ぶりに復活し、大賑わい。町内の意気込みはひとかたならず、獅子頭に木遣りの声も勇ましく4百人で練り廻す、芳年筆の岩戸神楽や大蛇退治、20間(約36m)もある菊慈童の大山車や人形舞台など、「景気は成り金祭り」と書かれるほど。続いて、彼岸の墓参りと共に参詣者の多い大師詣と六阿弥陀の案内。大師は、下谷区上野町一乗院・池之端實生院・谷中自性院・同多實院・谷中上三崎町長久院・同明王院・同観音寺・同西元寺・同初音町観智院・日暮里長福寺・同浄光寺・下尾久村阿避院・根岸不動堂・浅草区金栄町仙蔵院・同本智院・浅草区南松山町大乗院など21ヶ所。六阿弥陀は、(東方)上野広小路常楽院・田畑興栄寺・西ヶ原無量寺・元木西福寺・沼田延命寺・亀戸常光寺(西方)芝西久保大養寺・麻布飯倉善長寺・三田四丁目西林寺・高輪北町正覚寺・白金台町正源寺・目黒祐天寺。
 この年渋谷に初の劇場がオープン。郊外の人口が増えたことと、景気が良く芝居を見る人が増えたことが背景にあった。もっとも芝居自体は、「芸の善し悪しはしばらく言うべきでない、渋谷辺であのくらいの芝居が見れるようになったのは劇界の進歩である」(十日付以下讀賣)と書かれているから、まだ、中身はさほど充実していない様子。全体的に劇場の宣伝が多く、十六日付では、帝劇の第二回女優劇、有楽座の少女歌劇、本郷座のハムレット、それに新富座、観音劇場、公園劇場、みくに座、常盤座、演技座、明治座と金竜館は曽我廼家五九郎一座。中でも、最も人気があったのは五九郎の喜劇であった。映画ではチャップリンが全盛で錦輝館やキネマ倶楽部等で上映。電気館では上映映画に「チャップリンより以上欧米人が熱狂せる世界俳優……」という宣伝文句を揚げたが、これでは逆にチャップリンの人気を証明するようなものであった。
・十月「お会式の賑い 正午迄のお賽銭金千円也」十三日付讀賣
 三十日の夜から一日の未明にかけて台風が通過し、死傷者1,470人、行方不明54人、床上浸水78,952という被害。そのため、新富座は四日から開場、明治座は七日に開場するという有様。
秋の行楽シーズンに入ったが市民は、復旧に追われレジャーどころではなかった。それでも池上のお会式は、前年と打って変わって露店400軒が立ち並んだ。参道には朝早くから人の流れが見られ、その中に帝劇女優の小原小春と初瀬涙子の艶やかな姿も見られた。正午までにすでにお賽銭が金千円也に達し、夕方からは更なる賑わい。万灯が訪れ夜になれば、団扇太鼓の音も高く、新たに設けられた講社の部屋には約1万人の客が泊まったと書かれている。
 秋晴れの日曜日は、上野の化学工業博覧会へ2万人もの人が出かけた。市内は芝・日比谷公園などが賑わい、郊外では目黒・池袋方面、向島百花園井の頭公園など、市中・市外共に賑わった。十月はスポーツも盛んで、一高、日本歯科医学専門学校、高等師範、明大などが運動会開催。その他、野球、テニスなどの試合があちこちで催された。また、恒例の文展も開かれた。
・十一月「連日満員 ジャンダアク」三日付万朝、

    「化工博日延べ」十日付讀賣
 十一月の初旬には各地で子供デーが開催。三日は化学工業博覧会で、この日の入場した小学生は2500名、その他保護者同伴の子供が8400名、と合計1万人を超える。化工博は、この日子供一人毎に対して風船・手帳・鉛筆・インキ・ゴム鞠等を贈った。浅草では四日、浅草仏教青年伝道会が九時から、浅草田島町誓願寺では午後一時からお伽劇・少女オペラ等を催した。さらに府下中野桃園小学校で四日に中野コドモ会。有楽座子供デーは毎週日曜日、奇術演芸・お伽劇・百面相等を披露。また三友館では一日から少年少女も入場できるようにと、曽我廼家一座等の喜歌劇やダンスを小人3銭と破格料金で興行。
 三日は一の酉にあたり、この年の熊手は前年より三割も高く、2~5寸が18~25銭、3尺の特製5円、4尺は10円であった。大鷲神社・四谷須賀神社・新宿花園神社・深川公園大鷲神社など、どこも開門と同時に参詣人が押し寄せ、非常な賑わいを見せる。浅草の活動街は、酉の市が土曜日であったことから、前日から雨にもかかわらず相当の前景気であった。キネマ倶楽部の「ジャン・ダアク」は特に人気で、客が殺到し、連日満員となった。
 化学工業博覧会は連日満員の盛況で、十日間日延べして結局二十八日に閉館した。九月からの総入場者数は、約60万人と発表。博覧会側では感謝の気持ちとして、二十七・八日の有料入場者には陳列品(日用品)を福引きで贈呈。二十九日には、満都の好評を博した「国技館の菊」も春場所準備のため閉館。国技館独特の七段返しの巧妙さは一層、熟練を増して日夜大入り、森鴎外も十一日に家族で訪れている。さてその国技館だが、同二十九日に全焼し、相撲をとる場所がなくなってしまった。来場所も迫っているというのに、年寄りを始め相撲関係者らがあまり深刻になっていないのが不思議である、と書かれている。
・十二月「今年は大入り大当たり」十六日付讀賣

    「銀座のザラ市」二十五日付讀賣
 納の水天宮頃からはじまる年の瀬恒例の行事は、好景気を反映してかどこも活気がある。泉岳寺の義士祭は、浪曲剣舞等の余興もあって盛況のようだ。銀座のザラ市は出店数が353軒。鴎外が妻や娘の類を連れて行った浅草観音歳の市は近来にない人出、風水害のため大根をはじめ総じて二割高だとある。品川署管内では114の浴場が入浴料を3銭から4銭に値上げ。だが、このような値上げ記事にも深刻さは見られない。
 十二月に入っても松旭斎天華の奇術は人気が衰えず、演技座で公演している。演し物は「不思議なボックス」。前月、常盤座で興行した時には、ボックスに入る松旭斎天華の体を少しでも掴むことができれば懸賞を差し上げるという広告が出ていた。映画館も劇場も盛況が続き、一日の封切りはキネマ倶楽部が「最暗黒の露西亜」「ミラの秘密」、三友館が「少女歌劇と曽我廼家珍奇劇」など。開場は明治座が「棹尾の大芝居」、歌舞伎座が「竹元越路太夫」などであった。
 この年の演劇界は大当たりの年で、浅草に観音劇場(前年暮れ)と公園劇場、駒形劇場ができ、3千人収容の吾妻座が次年度にオープンする予定。帝劇で毎月満員が続いたことでもわかるように、市内の観客数は前年よりも83万人増えて536万人になった。また、初春の芝居は、本郷座・公園劇場・みくに座などで、暮れの勢いを借りて新年のスタートを切ろうと、大晦日を初日とする劇場が増えている。
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大正六年(1917年)後半のレジャー関連事象・・・十一月石井・ランシング協定締結/ロシア革命
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7月6日 成金国の夏 素晴らしい勢いの避暑客
  8読 チャップリンの映画、電気館・富士館で連日好評満員
  10読 草市、蓮一把8銭・真菰30銭など
  13読 警視庁、活動写真興行取締規則を公布
  13読 新子安の海水浴、賑やかに開場
  16朝 上景気・好天気に日曜日、藪入りの上野浅草や月島の水泳賑わう
  16読 公園劇場、新築開場以来、未曽有の盛況
  20日 月島に無料水泳場
  21森 鴎外、子供達と銀座へ資生堂で憩う
  22読 両国川開き、人出去年の三倍、これも景気の反映
  26読 隅田川納涼会1円50銭、弁当酒付
  29森 鴎外、妻・子供達と不忍池のハスを看る
8月2朝 昨日から活動取締実施(男女区別等)
  5森 鴎外、妻・子供達と目黒植物園へ
  5朝 盛んな素人相撲
  9読 浅草キネマ護る影大会、大好評
  9読 月島や荒川等で水泳大会
  11森 向島百花園、放虫会
  16朝 みくに座の名人大会満員御礼
  16万 深川八幡夏祭り、深川は人の波打つ近来の大賑わい
  16時 避暑客が増加、鉄道各線は大忙し
  20朝 帝劇「魚屋宗五郎」他連日盛況
  23森 鴎外、子供達を率い神田川
  26読 芝浦大花火、六年ぶりで意外の好人気 
  29万 帝劇、映画「潜航艇の秘密」満員だが、男女別席励行で混乱
9月6読 戌の水天宮、小雨に負けず盛況
  10読 渋谷劇場初開場
  15読 十九年ぶりの八雲祭、大賑わい        
  16読 明治座・金竜館で五九郎の喜劇
  18読 彼岸、六阿弥陀10ヶ所と大師詣21ヶ所   
  19永 荷風、市ヶ谷から九段を散歩
  21万 上野不忍池畔で化学工業博覧会開催、出品4万余点
  21読 有楽座の少女歌劇、連日大入り
  21森 鴎外、類と神田川へ、根津神社行祭礼
10月2朝 新富座、暴風雨出水で休場、四日より開場
  13読 池上お会式の賑わい、正午までにお賽銭金千円也
  13読 一高、歯科医専、高師、明大など各地で運動会開催
  13読 国技館の菊人形、好評            
  15読 秋晴れの日曜日、化工博・上野・浅草など、市外も賑わう
  18日 人で埋まる文展、入場者1万134人、入場料30銭
  20読 ベッタラ市は不況
  23森 鴎外、妻・杏奴・類と植物園で遊ぶ
  29森 鴎外、妻と泉岳寺参詣
  30森 鴎外、類と動物園に往く
11月3都 コミック踊りの禁止
  3万 キネマ「ジャン・ダアク」連日満員
  3・4読 化工博などあちこちで子供デー
  3読 三友館の喜歌劇とダンスなど破格興行、大人5銭小人3銭
  4読 一の酉、開門と同時に参詣人が押し寄せ非常な賑わい 
  10読 化学工業博覧会、盛況で日延べ、60万人の入場
  11森 鴎外、妻・次女と国技館に往く
  22森 鴎外、類と浅草に往き汁粉喫す
  24読 国技館の菊、七段返し等大入り好評      
  28朝 風の三の酉、浅草大鷲神社4万枚の福守りを出し切った 
12月5読 演技座、松旭斎天華の奇術、常盤座に続き大盛況
  5朝 麻布第二金沢亭の名人会、連日満員
  5読 納の水天宮、応援を求めて警戒
  9永 荷風、帝国劇場、久しぶりの芝居見物
  15朝 深川八幡歳の市午後九時頃から俄に人出
  15読 義士の祭典、浪曲剣舞等の余興
  18森 鴎外、妻・類と浅草歳の市へ
  19万 浅草歳の市は近来にない人出、取扱い事故500件
  21万 景気の良い神田明神の市、露店1千、お飾り類は二割高
  25読 銀座のザラ市、出店353軒
  31朝 電灯飾りと楽隊で大景気の銀座街    

遷都五十年に浮かれる大正六年前半

江戸・東京庶民の楽しみ 156

遷都五十年に浮かれる大正六年前半
 大正六年、総選挙は行われたが戦争を遂行するための政治は変わらず、物価の値上がりは止めを知らず、買い占めや売り惜しみを規制する物価調節例を制定するが効果は少なかった。九月に金本位制を停止し、インフレーションが進行することになる。
 事件としては、九月三十日から十月一日にかけての台風は市内の死傷者1,470人、行方不明54人という大災害。さらに諸物価の値上げと、この年は市民にとって恵まれた年とは言いがたかったが、ことレジャーについては盛況であった。それは、成金の避暑旅行が流行るなど、景気のよい人々につられるように、市民も騒いでいたからだ。流行歌は、「コロッケの唄」「さすらいの唄」など。もり・かけ蕎麦の値段、4銭から5銭に値上げ。駄菓子屋の芋羊羹、餡こ、附焼パン、みつ豆、文字焼、肉桂、レモン水、ラムネ、ミカン水など、何れも5厘~1銭。
・一月「江戸の昔の面影床しく 猿にも似たる梯子乗り」七日付東朝
 この年、の恵方に当たるのは西新井大師。除夜の鐘が鳴る頃にはすでに自動車が7~8台、人力車が3~40台並んでいた。もっとも混雑したのは元旦の午後一時頃から夕方までで、その間、約3万人の参詣人があった。恵方に当たったのは八年ぶりとあって、護摩札が2千、厄除守りが3万、お賽銭も相当な額にのぼったようだ。初詣客が多かったのはやはり上野と浅草。特に不忍池の弁財天は干支にちなんだ開運出世のお札をいただこうとする人で大変な混雑。浅草もお堂の近くでは下駄の響きと雨のように投げ入れられる賽銭の凄まじい轟きが聞こえるばかり。活動街の賑わいは言うにおよばず、浅草公園内は正月のあいだ、ただただ人で埋まっていた。
 正月気分は、六日になってもまだ残っていて、出初式を見に来た人たちは「内外公園の高台に人垣を作りて其数約五万」とある。数の真偽はともかく、前年よりももっと大勢の人々が見物したことがわかる。もちろん二日から仕事を始めた人もいるが、正月の行事は七草粥の七日、つづく陸軍始観兵式・・・八日あたりまで延々と続いた。陸軍始観兵式は、寒風吹き荒れる六日、本番さながらの予行練習が行われた。八日も厳寒の中1万7千の精鋭が二重橋前の宮城外苑で、三十五分間にわたって閲兵をうけた。中には、二重橋を背景に絵さながらに美しい観兵式を見ようと、二時間も前から寒さに震えながら待つ人もいた。周辺には数千人もの市民がひしめいていたが、桜田門前の芝生に入場を許されたのは拝観券をもった人だけであった。
 この年の藪入りは、帝国館・三友館・みくに座・日本館・帝国劇場などの劇場及び映画館が賑わいを見せたようだ。大相撲春場所はたまたま千秋楽が日曜日に当たったこともあり大入りを記録。その上連勝中の大関大錦が横綱太刀山を破って場内は大熱狂。それでも、大錦の横綱昇進はまだ二十七才の若年、という理由で見送られた。
 二十一日の初大師は日曜の上に好天にも恵まれ、電車十四台を二十台に増したがなおも鈴なりの景況であった。二十八日の初不動も日曜日、深川不動尊には午前四時から参詣人が訪れ、五時半の市電開通と同時に人の波が押し寄せた。大手町・洲崎間と黒江町・押上間の市電はいずれも満員、境内には繭玉屋や雑貨店等が数多く軒を並べ非常に賑やかであった。
・二月「何処も上景気の豆撒き」五日付東朝
 二月はまず節分から、市内近郊の豆撒きは、午後二時から浅草観音、六時から亀戸天神・川崎大師、七時から神田明神・穴八幡・西新井大師、八時から深川不動・岡崎町不動・目黒不動・穴守稲荷・岩淵観音・人形町観音・湯島天神・芝琴平、九時から豊川稲荷・西久保身替不動・深川八幡、十時から柴又帝釈天大鷲神社・浜町清正公という具合に開始。この他にも成田不動、太田呑龍、野田勝軍地蔵、妻沼聖天、不動ヶ岡不動、野毛の不動、鎌倉半僧坊などがあった。節分会が土曜日だったので「何処も上景気の豆撒き」(東朝)と賑わっている。深川八幡が女優森律子、豊川稲荷が力士の栃木山を呼んだように、年男・年女にあたる役者や相撲取りを呼び、それをイベントの「目玉」にするところが増えてきている。
 紀元節は、日曜日でしかもまれにみる晴天。上野公園では国民美術協会や風光会が展覧会を開催、動物園には家族連れをはじめ午後二時半までに3千人が入った。浅草は、客を呼ぶ嗄れ声の合奏に群衆から起こるどよめき、また俗悪な楽隊の囃子に追いまくられる子供の歓声・・・という何とも騒がしい状態。郊外へは梅見客(観梅回遊切符1500枚売れる)がどっと繰り出し、それに伴い市内の電車は増発896台、乗車人員は67.7万人との記事(東朝)。この年の二月は比較的暖かであったのだろうか、森鴎外は、二十四日に娘の類と銀座に出かけ、「日比谷公園に憩う」と。翌日も「妻、茉莉、杏奴及類遊浅草」とある。
・三月「行楽の中心は奠都博」十八日付讀賣
 十五日から東京奠都奉祝博覧会開催。これは江戸奠都50周年を祝い、上野不忍池畔で約三カ月に渡って催されたもの。呼び物は、京都三条大橋を始点とする東海道五十三次の模型に、明治維新から50年間の歴史的地理的社会的参考資料の珍品奇品など。出品は三府六県、三植民地にわたった。中国・朝鮮・台湾の建物については、「関東州の大陸的気分と朝鮮の丹碧錯交した色彩と台湾館の異彩」(讀賣)とある。
 十八日の日曜は彼岸の入り、暖かなこともあって市内及び近郊へと行楽の人出、森鴎外が家族揃って訪れた奠都博覧会には3万7千人あまりの人が入場した。浅草は、どこも午前中で満員になっており、博覧会を凌ぐ人々が訪れたものと思われる。他に、向島百花園、木下川、小村井、蒲田などの梅園、また江ノ島や鎌倉、六阿弥陀や墓参りなども賑わった様子。なお、鶴見の花月園では、「花月園散歩デー」を開催、百年前と百年後の対照見世物、乗って危なくない飛行機、大象の鼻滑り、活動写真、猿芝居等を毎日演じ、便利な「世話なし切符」を電車の往復に弁当付きで60銭にて販売。次の日曜日、二十五日も鴎外は家族連れで博覧会に出かけている、その日の入場者数は2万8千人。
・四月「花に浮れた満都の人」九日付東朝
 三日は神武天皇祭で祝日、曇り空であったが暖かくサクラも開花。森鴎外は、家族揃って上野へ出かけたが雨が降りだし帰る。新聞(以下東朝)は、咲き始めた花と花見の人出を「花の見頃は今度の日曜日」、「今年の桜は大景気」といった具合に連日掲載。八日の一番の人出は鴎外が妻と類を伴って再び出かけた上野。その賑わいと、さらに飛鳥山では仮装した人々が鳴物入りで陽気に騒ぐ、向島では三味線太鼓で陽気な船の繰込むと、なかなか情緒ゆたかな様子を伝えている。十一日は麻布三連隊のお花見会、兵隊とその家族の花見を紹介。十六日付は「づぶ濡のお花見」「上野飛鳥山名残りの賑ひ」という見出しで、飛鳥山では七日から十四日までの八日間の間にケンカが268件、迷子が158件など警察が把握した“事件”の数が示されている。飛鳥山では、単純に平均しても一時間に3件、二十分に1件の割合で喧嘩が起きていたということになる。また、一日平均20件もの迷子があったというから、鳴き声がとだえることもないような状態だったのだろう。警視庁からは三月、各署に「花見行列の取締」のお達しがあったが、実際には警察は花見の騒ぎをかなり大目に見ていたことがわかる。
 花見が終わると市民の関心は、自然と遷都奉祝博覧会へと移った。まず、奠都博覧会を記念した京都・東京間、昼夜兼行の東海道五十三次駅伝競争が開催。駅伝は二十七日にスタートし、二十九日の午前十一時三十四分に博覧会会場に到着した。沿道で応援する人は、品川に入ると市電の終点に黒山の人だかり、さらに伊良子坂下まで来ると沿道両側の人垣はますます厚みを増した。金栗選手が札ノ辻に差しかかると、群集が前へ前へと押し出て通路がふさがれ満足に走れなくなったほど。大門から芝口では、数十台もの自転車が選手の周りにまといつく有様、とうと尾張町の交差点では市電を止め群集が大騒ぎするのにまかせたので金栗選手は真っ直ぐ走ることができなかった。京橋、日本橋あたりにくると道路だけでなく、白木屋三越などの窓からの応援も加わる。須田町でも人々が騒ぎ立てていたので、警視庁が裏通りを万世橋方面に走らせるとそこもまた空前の混雑、先導の自動車も人波に押し返されがちだったとか。そして、走者は熱狂する沿道の大歓声を受けながら上野不忍池の決勝点へ。「品川上野間十数万人の歓迎」(讀賣)とあるように、江戸時代の天下祭の賑わいを彷彿させるものがあった。
・五月「奠都博仮装の大人気」二十六日付讀賣
 奠都博覧会、五月の呼び物は、二十五日から始まった仮装行列コンクール。笛太鼓を囃したてられる中、思い思いに仮装した人々が本館前に勢ぞろいし、東海道大模型の京都大橋を振り出しに、五十三次に沿って進んだ。テーマは「五十年前の昔を今に」というもの。先頭を行くのは、三斎羽織にダンブクロの白毛赤毛の武士たち、顔の隈取りも厳めしい。韮山笠にダンブクロの楽隊が維新当時を思わせる音色で笛太鼓を響かせ、仮装した人々がこれに続いた。この仮装行列コンクールは、六月一日までで、その間に入場者による人気投票があった。人気は、雲助、金棒引、門付、お弓、茶屋女房、曾我十郎、弥次郎兵衛・・・の順。賞金は一位の雲助が20円。二位が10円、三位から五位までが5円であった。その結果奠都博覧会は、「連日盛況未曽有」(讀賣)のために十日間延長され、82日間となる。
・六月「螢狩りの盛興」「奠都博覧会、連日盛況で十日間延期」十一日付讀賣
 六月はあちこちの寺社で祭があるのだが、市民の関心が薄らいだためか新聞にあまり載らなくなった。山王祭も、神官の乗った馬が市電の音に驚いて突然逸走し、神官が振り落とされ、止めに入った人を馬蹄にかけ、荷車や箱車を壊し大騒ぎになったために、ようやく記事に取り上げられた。
 当時、螢狩りは人気があったとみえてしばしば催されている。奠都博覧会の最終日には10万匹が放たれた。玉川兵庫島でも玉川電車がホタル数万匹を放って螢狩り。捕るのは無料で、渋谷から玉川までの往復乗車券を購入した人には蛍籠入を進呈。
 雨が多い(14日間)にもかかわらず、遷都博で高まったレジャー機運は衰えず、映画や演劇などが盛んであった。恒例の国技館の納涼園は、パノラマ式油絵の「伊勢湾風光」に二見浦の噴水、伊勢音頭や余興で構成。入場料は大人15銭・子供10銭。演劇では、浅草オペラ館の徳田秋声作「誘惑」が好評につき大入り日延べ、赤坂ローヤル館のオペラコミック「ブム大将」も好評で日延べになった。映画は、浅草富士館の人情大活劇「由良長者」が公園の人気を独占、第二遊楽館も松之助の映画などが大好評をとった。

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大正六年(1917年)前半のレジャー関連事象・・・四月第十三回総選挙
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1月2朝 恵方参り西新井大師に、厄除守り3万枚
  7読 朝霜に勇む出初式、無慮十万と注せられて上野の人出
  9朝 二重橋前で1万7千の陸軍始観兵式
  20森 鴎外、妻美代と看劇す
   22読 日比谷の民衆劇開幕
   22森 鴎外、谷中から日暮里・入谷・浅草を歩す
  22読 大相撲春場所千秋楽大入り、大錦が太刀山を破り満場大熱狂
  24読 数寄屋橋のスケート場賑わう
  22読 初大師、川崎大師人出多く盛況
  29読 深川不動尊、午前四時より参詣人引きも切らず
2月5朝 何処も上景気の豆撒き
  6読 大勝館の三大提供、連日満員
  6読 初午、羽田穴守・赤坂豊川・下谷被官・本所元徳・王子等
  8森 鴎外、類と日比谷公園松本楼に小憩す
  9朝 市村座「女しばらく」他大入り続き
  12朝 紀元節が日曜日、浅草雑踏、市内の電車は67.7万人乗車
  14森 鴎外、妻と類を率いて亀戸菅廟、浅草公園の万盛庵に憩う
   21森 鴎外、類を率いて動物園に往く
   24朝 観音劇場「柳生二蓋笠」他非常な人気
   25朝 新富座「神霊矢口ノ渡」他売切れ
3月4読 オペラ館「つや物語」連日満員
  4読 電気館「赤輪」上映好評嘖々
  4読 富士館、弦斎の「桜御所」連日満員
  16読 東京奠都奉祝博覧会開催           
  11森 鴎外、妻・子供達と日比谷公園を歩く
  12森 鴎外、妻・類と浮間原で遊ぶ
  18読 警視庁「花見行列の取締」を各署に諭達
  18森 鴎外、妻・子供達と奠都奉祝博覧会へ
  19読 彼岸入りの行楽、六阿弥陀と墓詣で、興行街の大雑踏
  26読 豪い景気、日曜日の奠都博
  29読 奠都博、花時以上の大賑わい
4月2万 奠都博、春の上野の大不夜城、夜間開場第一日53,472人入場
  4森 鴎外、妻・子供達と浅草帝国館で映画
  6森 鴎外、妻・類と上野で花見「桜花盛開」
  6森 鴎外、妻・類と上野で花見「桜花盛開」
  9読 花祭り日比谷公園に5千人の子供
  9読 飛鳥山向島・上野と花に浮かれる人賑わう  
  14読 電気館「シヴィリゼーション」満員
  14読 潮干狩り、貝類中々豊富
  15朝 極東野球大会予選、早大対明大観衆2万人
  18読 春の行楽の中心、奠都奉祝博覧会
  19森 鴎外、妻・類と芝公園
  21読 日比谷公園で盆景大会
  30読 奠都博覧会駅伝競争、品川上野間に十数万人の歓迎                    5月1森 鴎外、類と級友を率いて動物園へ                    
  4読 天現寺の入仏供養
  4読 日比谷公園音楽堂で野外コンサート
  7朝 明治座で天外追善喜劇初日満員
  9読 芝浦埋立地で極東競技大会
  16読 大相撲五月場所、五・六・七日大入り
  16朝 新富座有職鎌倉山」他初日から満員
  26読 奠都博覧会、維新風俗仮装会が大人気
  27朝 浅草蔵前東京高等工業学校の記念祭名物即売に2万人
  29森 鴎外、妻と新大久保躑躅園へ
6月1森 鴎外、妻と堀切園へ
  7森 鴎外、妻と目黒花園へ
  11読 奠都博覧会、連日盛況で十日間延期
  15読 国技館の納涼園、二見浦・余興数番、15銭
  16読 富士館「由良長者」上映、人気独占
  16読 ローヤル館、オペラコミック「ブム大将」好評日延べ
  17読 月島の海水浴場5銭から10銭に値上
  17読 山王祭、神官の馬逸走し非常の騒ぎ
  17読 第二遊楽館、松之助の映画等大好評
  24読 オペラ館、徳田秋声「誘惑」劇大入り日延べ
  24読 玉川兵庫島で数万匹の蛍放ち蛍狩り

 

戦争景気に踊らされる大正五年後半

江戸・東京庶民の楽しみ 155

戦争景気に踊らされる大正五年後半
 八月にコレラが流行するも、庶民の遊びは続く
・七月「藪入に賑わう海水浴」十七日付讀賣
 七月七日の夕方、日露協約成立を祝う提灯行列が雨の中で行われた。その後も実業団3万の提灯行列や様々な祝賀会が催された。草市は、銀座通り・上野広小路・浅草広小路・神田通・旅籠町・人形町・両国広小路・本所三つ目通り・彌勒寺前・深川高橋・仲町・赤坂一つ木・四谷伝法町・小石川江戸川・牛込神楽坂芝大門・麻布飯倉一丁目等。この年は雨が少なかったので、飾り物の出来はすこぶるよいとのこと。
 八日付(以下讀賣)の記事に、月島第三号地海岸の無料水泳場で大日本水泳講習会が花火を数十発打ち揚げたとある。その後の新聞でも、浜町河岸、月島、大森などの水泳場が紹介されている。浜町河岸には、明治時代から続く修武流や水府流というような、いかめしい名前の水泳場が6ヶ所もあった。そしてそこでは、いずれも各流派の紋所を染め抜いた幕を垂らしていた。この水泳場は、交通の便が良いことから一日に200名近い人が泳いだという。また、月島には三号地に6ヶ所、一号地に3ヶ所あり。大森には、料理屋が経営する複数の水泳場や臨時に作られた水泳場等が合わせて17ヶ所もあった。その他にも、十五日頃から開場する無料水泳場があったというから、当時かなりの数の水泳場があったことがわかる。なお、三号地の日本游泳術研究会に女子部は存在したが、実際に游泳する者は少なかったらしい。永井荷風の「毎日見聞録」の二十八日に、房州の海水浴場で「日本の褌御法度西洋の猿股を用ふべき」との御触れありと書かれていることから、当時の水着はまだ褌が主流だったのだろう。
 一方、各劇場は盆興行に趣向を凝らしている。帝劇は梅幸と松之助の「實盛物語」他。歌舞伎座羽左衛門の三役早変わり「牡丹灯籠」他。市村座は「国定忠治」。明治座は「横櫛お富」。映画は電気館の「百万弗の秘密」、これはチャップリン主演で大好評。続編が次々につくられ十七日封切りが続十三・十四編、二十七日から続十五・十六・十七編と上映された。
 十五日は藪入り、休みをもらってた小僧さんたちは、絵看板が立ち並び、人寄せの音楽と呼び声が入り交じる中、氷サイダー、豆のアイスクリーム、パイナップルの切り売りなど流行りの食べ物に舌鼓を打ちながら三館共通の切符を買い、電気館や大勝館などに姿を消した。上野では、「藪入りにつき割引」という看板のある汁粉屋や氷屋が並ぶ中を徒歩で、不忍池や動物園、博物館などに向かう。これに加えて、この年は東京駅に「江ノ島鎌倉の遊覧列車賃金半額」の看板が出たため、列車はほぼ満員。正午近くにはすでに5千人を超えていたとか。上野駅でも日光遊覧列車は満員。遠出をするのはお金のある中憎さんだと書かれている。
 ところでこの年の花火は、大層な人出であったらしく、新聞の見出しもいつになく大迎である。二十三日付の新聞(東朝)には「提灯の火天を焦す」「歓呼の声地を揺す」と、宝船の仕掛花火が川面に揚がる写真を掲載。また、大料理屋は云ふに及ばず小さな飲食店から待合、氷屋に至るまで『本日不意のお客様は御断り申候』といふ札を揚げたというから、過去に例がないほどの人出だった。では、実際どのくらいの人が見に来たかというと数十万人、ずいぶん大雑把な数ではある。その夜に出た船の数が4300艘で、その船に乗った客が約20万人という推定だが、それだと一艘当たりの乗客が50人近い。実際には数人しか乗れない小舟が多く、20万人という数字は疑わしい。
・八月「玉川の大花火、千種万様の趣向多し」三日付讀賣

   「浅草大増の幸福」三十一日付讀賣
 八月に入ると今度は二子玉川。動員規模では大川の花火より劣るものの、種類と多さと趣向では負けていない。打ち上げ花火は昼夜にわたり、数百発。仕掛け花火は、安芸の宮島・英独海戦・ツェッペリンの爆発・大藤棚・菖蒲園・大竜・淀の水車など。この年最大の呼び物であった、安芸の宮島は延長数十間にわたり、大藤棚は一町余に達したという、これは最初満開の藤花を表し、途中から五色の朝顔に変わると凝った仕掛け。また、英国軍艦と独逸飛行船の激戦は鍵屋が特に粋を凝らした大物。まさに千種万様の趣向であった。
 十二日から鶴見花月園の花香苑で毎晩盆踊り。予行練習の様子も、気合いの入ったなかなかおもしろいものだったようだ。讀賣の記事を要約すると、まずは、七夕笹の下におしろいも艶やかな女中連が「歌へお十七声はりあげて~」のかけ声に合わせて、手拍子もたのし気に踊り出す。師匠のお婆さんが、コップ酒でぱあっと景気つけて「もっとシッカリィ、盆おどりは藤間のおどりとは違いますでぇ」とあおれば、「おどりおどるなら品よく踊れ、中でうまいのを嫁にとる~」の歌に合わせて女中連が声を揃えて所狭しと踊るという具合。まだまだ、江戸の香りを漂わせた情緒のある光景だ。
 この夏は不幸にしてコレラが流行、各地にある遊園地や海水浴場が閉鎖された。そのせいもあったのか、浅草仲見世の料理屋「大増」に千人もの人々が訪れた。ここには呼び物の浴場や滝があるが、その瀧に2~3百匹の鯉を放ち自由に取らせて、しかも1匹は無料でくれるというサービス。その上料理は新鮮な魚が売り物で、旨い・早い・安いの三拍子、連日家族連れで満員なのも当然か。
・九月、婦人子供博覧会「模型富士の山開き」十四日付讀賣
 九月に入り、大日本体育会の第四回陸上、並びに第三回水上大会が開催。この競技会は極東選手権競技選手予選会を兼ねたもの。陸上競技は芝浦埋立地、また水上競技は墨田川上流に会場が予定されていたが、コレラ流行のため水上競技は不許可となった。陸上競技32種目の参加選手は、マラソンの86名を含む200名余と意外に少なかった。観覧料は予選大会ということで無料。
 それにしてもコレラの患者は一向に減らない。コレラの発生場所と今では考えられないことだが患者名が連日新聞に載っている。そしてその同じ紙面に「明治座秋の夜話」「中央劇場 本日新狂言」「本日新狂言 浅草宮戸座」「本日新狂言 赤坂演技座」「今朝封切 炎の曲馬 電気館」「箕輪心中 浅草千代田館」などの演劇関連の元気な記事が見える。特に千代田館は、尾上松之助が脚色した歌舞伎座の八月の当たり狂言「箕輪心中」を映画化、さらにデンマーク大活劇「死の影」、それに台湾から来た300余人による大曲芸、また入場者には当て物大懸賞付きとある。どうやら演劇と映画だけはこの時期、コレラに負けじと頑張っているようだ。
 十五日から讀賣新聞社が主催する婦人子供博覧会が上野不忍池畔でオープン。出品物は婦人子供に関連したもので、三越や森永製菓、金物卸組合、文部省教育博物館所蔵のものなど。呼び物は不忍池畔につくられた富士山の模型で高さは120尺(36m)、眼下に八百八街の屋並をひかえ、遥かに富士、筑波などが望める。大祭日二十三日は、余興舞台に天活の特選映画、一龍斎貞山の講談、三曲合奏松竹梅等、曽我廼家五九郎の喜劇故郷の水、お伽神楽、世界大魔術、新内などが催された。入場者数は9461人で、そのうち「富士山」に登った者は8142人であった。
・十月「秋の人気を集中す 婦人子供博覧会未曽有の大盛況」二日付讀賣
 婦人子供博覧会は、十月に入っても客足が落ちず、一日にはそれまでの最高の値を記録、約3万3千人が入場。上野へ向かう市電は満員、山下から正門までの沿道は人で埋まった。そんな混雑した日に、森鴎外は、茉莉・杏奴・類の三人の娘を伴って博覧会に出かけ、模型の富士山に登っている。ちなみにその日の天気は曇りだったため、本物の富士は見えなかったと思われる。この日だけでも登山者は1万8千人もいたというから、鴎外たちも長蛇の列に並んだのだろうか。
 次の日曜日も3万3千人が入場。博覧会での人だかりができたのは「人穴のお糸」の文身(ほりもの)、子女に好奇心を起こさせているとかで話題を集める。このお糸さんはなかなか人気があったとみえて、浅草遊楽館でも「お糸の一代記」と題して、美女お糸の波乱な人生を脚色しせた映画を上映。また、常盤座では「女肌噂の文身」というタイトルで、片岡卯左衛門主演の芝居が上演された。
・十一月「太公望ニコニコ」「初酉の上景気」九日付讀賣
 当初は六十日間の予定であった婦人子供博覧会は、平日でも1万人以上の来場を記録し、大方の希望により十一月二十六日まで日延べとなった。この間の総入場者は68万8千余人、富士山登山者39万3千余人、そしてその大半は婦人と子供であったという。この年の九・十月はコレラの発生に影響を受けたためか、レジャーは婦人子供博覧会を除くと、映画や演劇等に多少の活気が見られる程度であった。そういえば、コレラで禁止されていた漁業が十一月七日に解禁になった。そのため、漁師はもとより好釣家は、われもわれもと繰り出し月島・浜町・深川などの釣船屋や釣竿屋等が俄に活気づいた。長らく禁止になっていたため魚類の繁殖は凄ましく、太公望はニコニコとある。
 酉の市、浅草大鷲神社は午前二時頃から人出が夥しく、五時にはすでに境内は押すな押すなの雑踏。熊手店は約300軒、七時頃までは8~90銭位のものが売行き良く、唐の芋は一串10~30銭近くまで暴騰、売行きさすがによくないとのこと。四谷の須賀神社は午前三時の開扉に群集が殺到し非常な景気、熊手店は65軒。二の酉は小春日和であったことからどこも賑わい、深川は夜に入って一層の混雑。新宿花園神社は境内に綱を張り、行きと帰りの道を区別して雑踏を防いだ。
・十二月「今年の暮は素敵な景気」七日付東朝、

    「株式界空前の大暴落」二十日付讀賣
 十二月、報知新聞が内閣交代を批判したかどで発禁となった。株は暴落するし、新聞なども不景気な年の瀬を書き立てている。それでも歳の市は、十四・五日が深川八幡、十七・八日が浅草観音、二十・二十一日が神田明神、二十三・四日が愛宕町などと例年通り開かれる。浅草観音では、羽子板店が49軒・宮師49軒・七五三飾屋が29軒・桶屋52軒・雑貨店が275軒と立ち並び、来年の景気を祈願する人々が訪れた。映画や芝居なども何とか新しい年に期待したいという思いか、正月興行の広告が一段と目立つ。なお、本郷座や遊楽館などは三十一日の大晦日から新春興行に入ったが、師走にきて、市民レジャーは一段と沈滞している様子。
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大正五年(1916年)のレジャー関連事象・・・11月裕仁親王立太子の礼
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7月2報 電車値上げ
  8読 日露協約成立の祝賀いろいろ        
  8読 国技館直営の納涼園、大入り        
  8読 大日本水泳講習会、月島無料水泳場で花火、水泳場盛況
  8読 上野みやこ座「ガレルハマ」連日満員
  9読 草市
  11森 鴎外、子供達と日比谷公園に往く
  12国 涼味豊満 盆芝居
  12読 無料水泳場不振、日本游泳術研究会に女子部あるが女性の遊泳者ほとんどなし
  14森 鴎外、茉莉と上野動物園に往く
  16報 藪入り、遠出は中僧さん         
  20森 池之端に烟火戯あり
  21読 湘南地方に土日月曜、東京発臨時列車一本
  23朝 川開き「本日不意のお客様は御断り申候」の大混雑
  23読 目黒植物園の朝顔、数千培養
8月3読 二子玉川の花火、千種万様の趣向多し 

  5読 国技館納涼園大入りなれど菊花壇準備で閉園
  6万 戌の水天宮、安産帯は直ちに、守り札は午前十一時頃1万余なくなる
  7森 鴎外、子供達と小石川植物園に往く
  9読 花香苑で盆踊りの稽古、見に来た客も仮装して踊る
  12万 コレラ流行の兆しで海水浴場へ遠慮の勧告
  12万 帝国劇場「いがみの源太」他連日満員御礼 

  16読 演技座、連日大入りのゲンソー液デー
  27森 鴎外、類を伴い浅草に往く
  31読 悪疫流行のため、浅草大増が満員の盛況
  31読 天長節御祝祭           
9月2読 目黒花壇の秋草見ごろ、客絶えず
  2読 大勝館「忍術三銃士」上映大入り御礼
  2読 帝国劇場「江島生島」他初日満員
  4読 大日本体育会、第四回陸上並びに第三回水上大会
  10森 鴎外、妻・子供達と飛鳥山に往く
  14森 鴎外、茉莉を伴い邦楽会に往く
  16読 婦人子供博覧会開催             
  17万 大勝館「河童又助」他大入り満員
  30読 遊楽館「化銀杏」他大評判
10月1森 鴎外、子供達と博覧会へ、仮富士に上る
  2読 第一劇場、演技座、帝劇等初日満員
  13朝 池上の会式、コレラで見世物禁止に人出も万灯も少ない
  14森 鴎外、子供達と文展に往く        
  18朝 秋晴れの近郊は大変な人出          
  18朝 文展は未曽有の1万7千余人の大賑わい    
  19読 婦人子供博覧会の「人穴お糸」人気で映画や劇化
  20朝 ベッタラ市、雨に祟られ売れず
  24森 鴎外、妻・茉莉・類と飯能多峰主山に登る
  28読 国技館の菊、名物七段返し等
  29読 オペラ館、新派悲劇「恋の仇波」好評
11月2森 鴎外、杏奴・類と上野公園に往く     
  4万 立太子礼奉祝に三万五千人の大提灯行列    
  9読  コレラ後の解禁で釣船など活気
  9読 初酉の上景気、押すな押すなの賑       
  21読 二の酉大景気、小春日和の雑踏        
  23読 キネマ倶楽部、大活劇「獅子吼・珍行列車」大評判
  27読 婦人子供博覧会日延べ、総入場者約69万人で閉会
     29読 遊楽館「河童の猿丸」好評
12月2朝 歌舞伎座竹本越路太夫、初日忽ち満員   
  2森 鴎外、類を率いて動物園に往く
  15朝 深川歳の市、200余店並びなかなかの賑わい
  16朝 スチィンソン嬢の東京上空飛行       
  17朝 大山元帥、日比谷斎場で国葬
  21読 浅草歳の市、羽子板店49・七五三飾屋29・雑貨店275等
  25読 白金三光町の歳の市
  25永 丸善明治屋三越白木屋などクリスマスの窓飾りを壮麗にす