不景気が忍び寄る大正七年中期の庶民

江戸・東京庶民の楽しみ 159

不景気が忍び寄る大正七年中期の庶民
 大正七年中期の東京は、娯楽に浸る庶民が大勢いた。地方では徐々に不景気風が吹き始めていた。東京では、成金が金にまかせて謳歌しており、庶民もつられていたようだ。
 しかし、米騒動の情報が東京にも流れると、事態は一転した。
・五月「電気博覧会期延期」九日付讀賣
 森鴎外が家族連れで二十日に見物した電気博覧会は、会期を十日間延長した。この博覧会は名前から予想つくように、いたって地味な展示であったが、それでも入場者数は、十五日で96万人に達した。二十一日は、博覧会デーとして入場料を割引、余興館席料を半額にお土産などの特典を用意、他にも茶番大仮装行列が催された。
 国技館が火事で使えなくなった大相撲は、屋外興行のため、天候によって客の入りが大きく左右されることとなった。五月場所は、初日から入りが悪く、二日目は時々雨で場内は閑散とした光景。四日目少しは快復されたもののそれでも六分の入りで、結局、観客が満足に入ったのは、雨の降らなかった日曜日だけ。演劇界の好景気をよそに、相撲は十年ぶりの不況。入りの悪いのは、天気の具合にもよるがそれだけではないこと、やはり相撲界の内部のトラブルが遠因のようだと。
・六月、コンノート殿下奉迎「日本全国民の熱誠を代表した群集の列」十九日付讀賣
 十一日、厄除日蓮開運毘沙門の開帳に先立って、芝から浅草へ善男善女が一千名、行列揃えて開帳仏乗込みが催され混雑した。沿道には、見物人が押し寄せその華やかな光景を楽しんだ。十八・十九日付(讀賣)で、英国より来日したコンノート殿下の奉迎セレモニーの記事が出ている。警視庁からは、混み合って危険なので老人や子供は遠慮すべし、また、一般市民の奉迎は三菱ヶ原か宮城外苑が適当、服装もなるべく礼を失しないもので、とのお達しがあった。学校生徒の奉迎は、府立中学校1千2百名の生徒が宮城外苑に、また市内小学校1千8百名の生徒が馬場先門より堀側一帯などに割り振られていた。宮城前凱旋道路に集まった群集は、始めクローバーの芝生に立つことを日比谷署から許されていたが、憲兵隊は「道路へ降りろ」という。警察は「上がっていろ」というので四五遍も上がったり降りたりさせられた。そのため人々は、一時不平顔になったが、最後には憲兵隊も恐縮して、道路に立つよう指示した。そうなると人々もかえって恐縮し「よろしうございますとも」となり、その光景は「心地よき新日本の姿かな」と新聞記事になった。

・七月「日曜の月島水泳場賑う」一日付讀賣

   第二回婦人子供博覧会開会(12日付讀賣
 七月に入ると月島の水泳場に関する記事が相ついだ。その内容は、水泳場が賑わいを増すにつれて、入場料以外に座布団や煙草盆代として金を取ったり、飲食物を高い値段で売りつけたりするというもの。また水泳関連では、「本年は溺死者が少い」と言う記事もでている。大森・羽田など53箇所の遊泳場での溺死者は、七月以降わずか7名しか出ていないと書かれている。しかし、八月に入ると様子は一変したのか、芝浦一帯の潮流の変化が激しいために毎日のように溺死者が出て260名以上となり、「芝浦一帯の遊泳禁止」と。せっかく出かけても、子供たちは泳げないことから、カニ取りに戯れていたと。この頃、水難事故が多かったことから、市民の水泳が一部の人が行うスポーツではなく、レジャーとなっていたことがわかる。
  前年、成金たちが川開きを買い取るという騒ぎが起きたためか、この年は見物のための川岸の桟敷が禁止された。十七日付(東日)によると「川開きは江戸の花だ。市民平等に観るべきものを市の所有地たる川岸に一般の目を遮る板囲などして料金を取って見せるものではない。此主旨で禁止した譯である」と、警視庁より粋な通達が出された。そのためか、当日の人出は少なく前年より寂しいと、全体的にはやや賑やかさに欠けていたようだ。さらに、本年は殊に好景気だから混雑するだろうと厳重に固めた浜町河岸は意外にも混雑を見ず、後の方は楽々と往来が出来た。警戒に当たった巡査は『例年の半分くらいしか人出ない』と言ってたと、かなり減少したように新聞に書いていた。しかし、前年、桟敷を買い漁った連中が減っただけで、それほど見物客が減るとは考えられない。
 七月から八月にかけて、上野で空中文明博覧会(七月十日~八月二十五日)と第二回婦人子供博覧会(一名涼しい博覧会、七月十一日~九月八日)が催されている。上野不忍池畔の涼しい博覧会は人気を呼び、ことに藪入りの日には博覧会会場を目指す人で電車が鈴なりになるようで、開場以来の大盛況。なかでも観覧料が無料の余興場は混雑し、夕刻からはライトで照らされさながら不夜城の美観と称えられた。
・八月、米騒動「市内の騒然 日比谷の群衆」十三日付東朝
 八月の最初の日曜日は、時折薄曇りとまずまずの天気。涼を求めて江ノ島や鎌倉、近くは大森・羽田・新子安などへ出かける人も多いく、市内では月島の海水浴場が大繁盛。上野の空中文明博覧会と涼しい博覧会も相当の客があり、浅草は真夏だけに映画館の入りは六七分、浅草界隈では花屋敷の大滝が込んでいたもよう。また、尾久や王子、目黒の滝もそれなりに賑わっていたようだ。
 富山の魚津に始まった米騒動は、八月になると徐々に他の地域にも拡大していった。神田青年館で開かれた“出兵問題演説会”が解散を命じられ警察官と衝突。この頃の新聞には「混乱を極めし銀座通り 投石しつつ米屋町を襲撃」「不穏な気満し水天宮前」「株式取引所襲撃 蠣殻町を追れし群衆 電車及自動車に暴行」などと、ものものしい表現の見出しが並んでいる。浅草公園米騒動の噂を聞くと、いち早く興行を終了させた。上野でも、森鴎外の日記に「夜市民聚于上野公園。園内皆滅灯火。」とあるように、折から開催中であった博覧会も夜間は中止しせざるを得なかった。
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大正七年(1918年)中期のレジャー関連事象・・・八月シベリア出兵、米騒動勃発
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5月2万 帝国劇場「新鏡山」他満員
  4読 浅草遊楽館「塩原太助」の大写真大盛況
  4永 荷風、麹町通りで台湾生蕃人の一行を見る6万歌舞伎座東京市江戸城明渡」初日満員
  4読 オペラ館「続金色夜叉」又々満員の大盛況
  9読 電気博覧会会期延長            
  12万 大相撲、日曜で雨振らず満員に近い      
  14万 新富座「黒髪物語」満員御礼         
  25万 大相撲、天気の都合もあるが十年振の不況
  27読 浅草遊楽館「猿飛佐助」他好評
6月6万 吾妻座「吉原の大火事の塲」大好評     
  6読 オペラ館の「父の涙」すこぶる好評      
   8万 有楽座の近代劇、大入り満員         
   9森 鴎外、杏奴・類を率い動物園に往く    
  11万 新富座「都歌舞伎」他引続き満員       
  12万 厄除日蓮開運毘沙門、芝から浅草へ練る    
  14万 公園劇場「四谷怪談」他連日満員       
  14万 電気館「世界の平和」他連日満員       
  19読 コンノート殿下歓迎に駅頭から霞ヶ関まで迎者で一杯
  22万 新富座「都歌舞伎」他連日満員
7月1読 日曜日の月島、水泳場賑わう
  12読 第二回婦人子供博覧会(涼しい博覧会)開会
  14永 荷風、有楽座にて文楽人形浄瑠璃始まる 
  16読 有楽座「盛衰記」他人形浄瑠璃大入り御礼
  16読 藪入り日の涼しい博覧会、鈴なりの電車が会場前で空明きになる
  17万 新富座、楽燕「大石の山鹿護送」他満員
  17読 小石川伝通院をはじめとする大黒天は参詣者多く賑わう
  18読 川竹で翫之助「勧進帳」大当たり
  24万 歌舞伎座児雷也豪傑物語」連日満員
  24万 本郷座大連鎖劇「仇波」大好評連日満員
  28万 海へ山へ各船車満員
8月1読 芝浦一帯の遊泳禁止、毎日のように溺死者
  5読 盛夏の日曜、涼を求めて人出                                8万 佃島住吉神社祭礼
  10万 歌舞伎座「深川波の鼓」他連日満員
  11森 鴎外、妻子と目黒植物園で遊ぶ
  14朝 米騒動が東京にも波及し、浅草公園の興行は早仕舞い 
  14森 夜市民聚于上野公園。園内皆滅灯火
  15読 鶴見花月園大花火、音楽・活動・手品等 
  18読 浅草の寂莫、劇場等午後四時で営業休止のため飲食店営業打撃
  21万 明治座「黄金魔」他連日満員
  27万 中央劇場、大入り続きで拡張大改修
  31万 新富座、曽我廼家一座初日満員

 

追、本日2月25日、中央公論新社から

『大名の「定年後」江戸の物見遊山』

発行しました。