大正から昭和へ

江戸・東京庶民の楽しみ 188

大正から昭和へ
・明治・大正・昭和での位置づけ

 1926年十二月二十五日に改元、昭和元年となった。東京市内は、ラジオの演芸放送が中止され、レジャーの自粛が促された。市民は、大正天皇崩御を厳粛に受け止めながら、歳末の慌ただしさに追われていた。二十六日に上野や銀座の歳末風景を見た永井荷風は、「諒闇の気味なし」と日記に書いている。
 翌二十七日、皇居前広場に集まった在郷軍人などを「夕もやに包まれて 宮城前の悲しき絵巻 二万の草民ただ聱を呑んで」と新聞は記している。荷風は、その様子を「丸内日比谷辺拝観者堵をなす」と、観察している。
 この情景、明治から大正になった時とは少し違う感じがする。それは、崩御の時期が7月であったから、夏のレジャーを楽しもうとする雰囲気が底流にあったためか、東京市民に暗さがあまり感じられない。たとえば、多くの市民が参加した大正時代の最初のビッグイベントは明治天皇の大喪であった。大喪はレジャーではなかったが、弁当や敷物持参で行列を待ち受け、その間に居眠りをしたりビールを飲んでる人がいた、と報じている。
 それから十五年後の大正天皇の大喪では、「宮城前大広場は各大学専門学校を始め団体奉送の大群十数万御道筋をはさんで遙に連なり・・・」「沿道百五十万の群衆」と、沿道には毅然としたムードが張りつめていた。その光景は、次の時代の到来を暗示させる雰囲気である。新聞の書き方もそうであるが、大正時代の終わりというより、昭和へのプロローグとして印象づけている。この時点では、後に戦争が始まることはわかってはいなかった。それなのに、あとの時代の人が見ると、世界大戦へと続くことが暗示されているように感じるのは、私だけであろうか。
 大正時代に遊んでいる東京市民を見ると、まだのんびりとした、ゆとりとまでは言えないが、この時代特有の雰囲気が漂っていた。そして、人々には、何かにつけて楽しもうとする気持ちがあって、自主的、積極的な面があった。たとえば、橋の開通を祝ってお祭騒ぎをしたり、神田駅や秋葉原駅などの連絡運転開始さえも自分達の息の掛かったものとして祝った。それが昭和に入ると一転して、橋の開通はもちろん、博覧会ですら一部の人しか関心を持たなくなる。
 大正時代の博覧会は、東京市民に非常に大きな影響を与えるものであった。それは、大正三年に開催された大正博覧会を初め、戦捷博覧会(四年)、海の博覧会と婦人子供博覧会(五年)、東京遷都奉祝博覧会(六年)、電気博覧会(七年)、平和記念家庭博覧会(八年)、南米博覧会(九年)、大正衛生博覧会(十年)、世界平和記念博覧会(十一年)、発明博覧会(十二年)、畜産工芸博覧会(十四年)、産業文化博覧会(十五年)など毎年のように催された。
 博覧会の効果は、以前より良くなるという暗示を市民に植えつけていたのだ。毎年、新しいものが誕生し、社会が豊かになるという気分を持続させた。博覧会に出品したものが、庶民の手に入り、便利になったりすることは、即座にはなかった。それでも、お祭気分に酔い、何か生活まで影響があるような気持ちを満たした。多数を占める庶民は、繰り返される博覧会に、全て見学でなきなくてもそれで満足したのであり、それが庶民の心情というものであろう。
 多くの市民が興味を持ち続けたのは、なんだったのだろうか。新しいものに憧れる東京市民に博覧会は、もってこいのイベントであった。実生活は、とても恵まれた時代であったとは言い難く、大正七年には米騒動が起き、庶民の懐具合は決して潤っていなかったと思う。毎年のように絶え間なく開催されることに加えて、自主的に参加できたことであろう。昭和になっても博覧会のようなものは、開催されるも、上からの動員が興味を減少させていった。さらに、何かにつけての規制、取締、市民の自主性や自由が締めつけられていく。
 明治・大正・昭和と続く中で、大正時代は、明治と昭和の間のごく短い期間であるせいか埋没してしまって注目されることは少ないようだ。しかし、庶民にとって、人々が輝きを持っていたという意味では、明治や昭和初期よりも格段と勝っていた時代である。それは、第一次世界大戦の特需による好景気で、一部の人々に偏っていたものの、ムードはまるで社会全体が享受していたように感じさせたからである。世間は、インフレの後押しもあって蓄財はさておき、好景気に酔って消費に走り、悲壮感が表面化しなかった。そして、大正時代は、近代文明の恩恵により便利で物質的に豊かな生活が少しずつ浸透していったことも事実である。
 特に東京は、富が集中し浪費に近いような消費が進み、外見的には近代的な都市となり、市民の多くが流行の先端を謳歌できるように感じさせた。それは、大正時代特有の都市文化といえるものが成立し始めた。大正時代を特徴づける“デモクラシー、ロマン、モダン”などといった言葉は、当時の東京から発信されたものである。
 さて、この大正から昭和へと移る様相、現代に類似して見える。緊迫した世界情勢、武力による戦争へとは展開しないと願いたいが、経済戦争としては悪化の事態が進みつつある。また、21世紀のデジタル化の進行による社会の急激な変化や富の偏在などから派生する現象も始まっている。ただ、それらは問題が表面化するまでに時間がかかることから、大局的にはメリットの方が取り上げられている。そのような中で、コロナ禍で始まった制約や規制、誰もがその中にいて、本当に有効なのか、判断できないということが先行きの不安を感じさせる。

・東京人の楽しみと苦悩
 大正時代は、明治から昭和への掛け橋の時代で、その境目が関東大震災といえる。また、大正時代は、明治時代を完成させた時代でもある。文明開化といえば明治時代を思い浮かべるが、一般市民に浸透したのは大正時代である。電気、電車、バスなどが珍しいものではなくなり、無ければ生活できないようになった。洋服、パンや牛乳などの生活様式が大きく変化し、自由や平等などの欧米思想が理解できるようになったのも大正時代の方が著しい。
 人々は、新しい文明の利器を積極的に取り入れ、利点だけに目を取られていた。確かに、便利なもや楽しいものが次から次に紹介され、生活が豊かになったと感じた。しかし、新しいものを得ることによって失うものもあるということに気づかなかった。
 汽車や電車ができた当時は、それに乗るだけで楽しいことであった。それが、出かけるには、電車に乗って遊びに行くことが当たり前になった。そして、発車時間に合わせて行動しなければならないことになり、遊びに制約が生じた。それでも、計画的に行動する時の緊張感は、人々の行楽での解放感を一層盛り立てるのに効果的であった。プラス面から考察することが、時代の主流になり、異論を発言するような人は変人扱いとなる。
 しかし、全行程を歩いていた時代の楽しみが無くなったことには思いも及ばない。「大名の『定年後』江戸の物見遊山」柳沢信鴻が江戸を歩き楽しんだような、自宅から全て徒歩で巡り回った、遊び心はそこにはない。歩いて出かけた時にあった、のんびりした気分が失われ、気持ちを伸びやかにすることを享受できないだろう。だんだん、気晴らしのレクリエーション、さらには「気損じ」「憂さ晴らし」をする人たちの増加を導くだろう。
 またその他にも、明治時代なら入場料だけで済んでいたものが、電車賃を払うことによってレジャー費用を圧迫していたことにも、気にならなくなっていた。逆に、出かけた場所などあちこちで、お金を使うことに快感を感じ、それが生活を豊かにするものと感じる人も多くなる。大正時代は、「消費の時代」の始まりである。ただ、人々の意識としては、遊びにも効率化、無駄のないようにする、浪費ではないと思っていただろう。さらに、「消費は美徳」というような感覚はなく、まだ堅実であったと弁解したい。

変わりゆく大正時代の娯楽・レジャー

江戸・東京庶民の楽しみ 187

変わりゆく大正時代の娯楽・レジャー
・レジャーとしてのスポーツ
 大正時代のスポーツと言えば、野球であろう。子供たちの間では、野球も相撲と同じように遊びの一つとして日常的に行われた。しかし、大人となるとまだ観戦が主で、実際にプレーする人は非常に少なかった。また、スポーツ観戦と言っても、球場や国技館にわざわざ出かけ行く人は少数で、市民の一割にも達しなかったと推測される。ナマで見ることが少ないわりに人気があったのは、新聞の存在が大きかった。シーズン中は毎日のように記事を掲載し、市民の関心を高めることに貢献した。
 また、新聞社は、話題を呼び、採算のとれそうなスポーツ競技大会を主催。さらに競技の一部始終を記事にした。それらによって、スポーツ観戦はかなり広がったと思われる。もっとも、新聞記事が盛況を伝えるほど観客が入ったとは思えない。入場料金などから導かれた人数ですら五割程度は水増しされており、無料の競技であればさらに何倍もに見積もるのはあたりまえのことであった。競技大会の観衆は、学生・生徒、それに競技関係者が大半であり、ウイークデーの昼下がりにスポーツ観戦ができるような市民は、当時はまだあまりいなかったはずである。
 大正十三年、明治神宮外苑に本格的な運動競技場が完成すると、新聞は以前にも増してスポーツの紙面を拡大した。また、これまで個別の競技ごとの団体が取り仕切っていたところ、国が「明治神宮競技大会」を開催することによってスポーツ全体の主導権を握った。と同時に「国威発揚」となるスポーツ競技を奨励し、陸上競技を初め様々な競技が市民に注目されるようになった。ちなみに、この頃結成されたスポーツ組織には、十二年に日本軟式庭球協会、日本ホッケー協会、十三年に日本女子体育協会、日本体育連盟、十四年に全日本陸上競技連盟全日本スキー連盟、財団法人大日本相撲協会東京六大学野球リーグ、十五年に日本女子スポーツ連盟、日本ラグビー蹴球協会などがある。
 では、小僧さんなど民衆が行っていたスポーツにはどのようなものがあったのだろうか。野球やテニスを行う人もいたが、むろんこれはごく少数。本格的なスポーツを行う環境は整っておらず、あるのはプールや弓矢、ビリヤード、ローラースケートなど有料の遊技場程度。工場などに運動場が備えられている例もあるが、ハードな練習をする利用者は限定されていた。当時本当に人々に受け入れられたスポーツとは、納涼を兼ねて年々盛んになった水泳ように、国が薦める方向とは異質のものであった。
 水泳は、大正三年には「この頃の水泳・自慢のお若い姐さん」(七月二十四日付讀賣)と、女性が泳いでいるだけで即ニュースになったくらいであった。それが、八年には「婦人の水泳者 近頃滅切殖えて来た」(八月九日付讀賣)と。関東大震災以後は市内の河川で泳げなくなったこともあり、大正時代に海水浴は年中行事化していく。
 また、ローラースケートが市民に認められたのも大正時代である。「スケートローラの大流行」(二年四月二十一日付報知)と、ごく一部ではあるが毎日のように訪れる“愛ゴロ家(愛好家)”もいたようだ。市内20余のスケート場のなかで最も注目されたは、有楽町(麹町区)の東京スケートリンク。当時の利用状況(十二月七日付讀賣)はというと、華族の黒田、松方、西郷諸氏や俳優の尾上菊五郎、帝劇の森律子などのほか、外国大使館員や学生、藝妓……と、様々な人々が滑っていた。一方、約11m四方のスケートリンクの階上では、一杯五銭のコーヒーを飲みながら他の人がスケートするのを見物していた。
 作家・有島武郎の「観想録」には、大正五年七月十五日に二人の子供を連れてローラースケート場に出かけたことが書かれている。といっても彼らが実際にすべったわけではなく、最初、日比谷公園に出かけたところ、子供達がまったく元気がなくなったため、急きょスケート場に連れて行った。そこ(東京スケートリンクか)にはボウリング場、射的場、ビリヤードなどがあって、子供達が大喜びしたというもの。

関東大震災以後に目立った娯楽・レジャー
 関東大震災の後、市民レジャーに現われた変化として、ビリヤード(分類上球技)と麻雀等が急激に増加する。また、郊外開発にともなって谷津遊園と多摩川園などの遊園地も開園している。これらのレジャーの増加傾向は震災前にもあったが、ハッキリと目立ってきたのは震災以後で、昭和になるとより顕著になる。
 

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遊技場の変化


 ビリヤードについては、読売新聞が大正十五年から大々的に取り上げ、四月には日本橋劇場において第一回撞球全日本選手権大会の開催など撞球界の動向を伝えた。当時、市内には撞球場が660軒あったことから、少なくとも年間100万人以上の利用者があったものと推測される。
 裏付けとなる具体的なデータはないが、同様に麻雀も増えている。また、碁会所も十四年に2百ヶ所以上も増加しているので、囲碁・将棋の愛好者も急激に増えたものと思われる。
 東京市郊外の宅地開発は、関東大震災以後著しく増加。郊外住宅が増えるに従ってガーデニングも盛んになった。森鴎外ガーデニングについては以前触れたが、永井荷風は鴎外よりもさらに熱心で、毎年のようにチューリップやサフランなどの植え替えを行っている。ガーデニングは大正時代にも盛んだったらしく、新聞には毎週のように園芸記事が載せられている。また、行楽シーズンにはあちこちの花の名所が紹介され、大勢の市民が訪れて、苗や球根を購入していた。大正時代に人気のあった花は、江戸時代からあるボタンや野草に加えて、欧米から入ったダリアやチューリップなどであった。
 大正時代には、郊外型の遊園地が成立した。まず、大正三年六月に新装披露した鶴見の花月園が多彩な催し物とリニューアルによって成功。以後、大正十一年(1922)五月の荒川遊園の開園などがある。これらの遊園地は、浅草の花屋敷的な雰囲気を残していた。しかし、大正十四年(1925)京成電鉄によって開園された谷津大遊園地になると、本格的な郊外遊園地となる。谷津大遊園地は、本所押上から約40分(運賃36銭)、谷津海岸下車、入園料は大人20銭・小人10銭、夏期は連日数千人の入場客によって賑わった。名称が谷津海浜遊園とあるように、潮干狩りや海水浴場を中心にした海浜の自然公園で、約100haの敷地に、宮島式の大回廊、海水プール、演芸館(太神楽、映画、手品等の余興)、大滑り台等の遊具が整備されており、将来は温泉や大劇場も建設予定という。
 同じく十四年の十二月に開園した多摩川園は、まさに「東の宝塚」ともいうべき遊園地。蒲田から目黒蒲田電車(現在の目蒲線)で約15分、丸子多摩川駅(現在の多摩川園駅)の東側にあった。駅を出ると左手にまるで夢のお城が出現したという印象。入園料は大人も子供も同額で30銭。多摩川園の売り物は、まるでプールのように大きな浴場。イタリア大理石を張りつめ、湯が溢れ出る滝、トルコ風呂、化粧室、休憩室など、ぶるぜいたくな作りであった。風呂から廊下続きの二百畳の子ども遊戯室があり、雨天でも子どもが遊べるだけの運動場や遊び道具が揃っていた。その他、園内の遊具には、陸上波乗り、飛行灯、動物園、音楽堂、パノラマ館などがあった。なお、乗物の利用は10銭。開業後、半年間の平均入園者数は288人とかなりの人が訪れていた。夏には花火が打ち上げられ、夜間も営業、25mを越える鉄塔のライトから照らされた多摩川園はまるで不夜城のようであったという。
 大正十五年(1926)には、藤田好三郎が演芸施設と体育施設を一体化した約30haの遊園地として、豊島園を開園。この場所は元々豊嶋氏によって築かれた練馬城の跡地の一部であることから、「豊島園」と名付けられた。当初の豊島園は遊園地とは言うものの、花見の名所として自然公園のようなものであった。ただし、これらの遊園地は、大正時代に生まれた画期的なレジャー施設であることに間違いないのに、なぜか開園に関する記事を見つけることができない。現代なら開園と同時に、大勢の子供たちが殺到し、一大ニュースになるはずだが、これはどういうことなのだろう。当時の子供たちは、遊園地の存在を知らなかったかのだろうか。いずれにしても、休日、遊園地に家族そろって出かけるというスタイルは、まだ中流以上の市民にしか普及していなかったようだ。

大正時代に衰退する娯楽・レジャー

江戸・東京庶民の楽しみ 186

大正時代に衰退する娯楽・レジャー
・娯楽の盛衰
 時代の変化を感じさせるのは、衣食住であるが娯楽も同様である。その変化は、娯楽の方が早く展開し、顕著であるように思う。生活様式は、なかなか保守的であり、住宅などは耐久年数が長いことから変化が遅い。早いのは、やはり衣服の方であろう。後の人たちが見ると、衣食住の形がアンバランスを感じるのだが、当時の人たちはそれが自然であった。
 娯楽の変化は数年で進むことがある。映画の浸透は著しく、娯楽全体に及ぼす影響が大きく、大正時代ならではの現象であろう。映画は、明治後期、のぞき見式活動写真(キネトスコープ)として始まる。当時の活動写真は、まだストーリーのあるドラマではなく、断片的な映像を見せるものであった。そして、活動弁士という日本ならではの特異な興行が行なわれた。多くの人々を映画に誘った「日露戦争の活動写真」、天然色活動写真の興行、フランス活動写真「ジゴマ」を上映と、映画は娯楽のメジャーとなる。そして、発声活動写真の放映、連鎖劇の興行と、目まぐるしいくらいの、それも日本ならではのスタイルで展開した。映画の浸透は、人々の娯楽に大きな影響を与え、それによって衰退する娯楽も出てきた。

・衰退するレジャー
 明治時代には一世を風靡した寄席は、そこそこの人気を得ていたものの大正期にはかつての勢いを失った。見世物や祭、川開き(花火)なども、どちらかといえば大正時代には停滞気味のレジャーである。
 参詣(参拝)や縁日に出かける人も、時代が進むに連れて少なくなっていった。また、明治時代には参詣(参拝)のついでに縁日を見て回ることは一連の行動となっていたが、大正になると別個の活動として行う人が出てきた。歳の市は、暮れの買い物の場ではあったが、公設市場や商店街の歳末売出しに客を奪われてしまった。明治神宮参拝は、神聖なムードが先行し、出かけたついでに露店を冷やかすような人が少なくなった。従って、江戸時代のように信心に託つけて遊ぶ人が減り、開帳も本来の宗教活動としてのウエートが高くなった。
 大正時代の見世物は、サーカスなどそこそこの人気を保っていたが、江戸時代の名残をとどめた大道芸、明治時代に流行ったジオラマや菊人形などは衰退した。それらに変わって飛行ショーや自動車競走など新しい趣向の興行が登場した。そうなると、国技館樺太展のように納涼園に入場したものの、展示を見るだけではなく自らアイススケートもするという、見世物とは明らかに性格の異なるものに変わっていった。
 祭もレジャーとして大きく変わった。「祭」は、季節の変わり目にあたる日に、神霊を迎え奉る、神に奉仕するところに原義があった。明治時代から徐々に宗教色が薄れ、大正時代には本来の意味すら問われなくなった。明治時代には、「釈迦降誕會」「涅槃會」「彼岸會」など、寺の催す「會(会)」もすべてが祭であった。ところが、大正時代の祭と言えば、浅草三社祭や富岡八幡祭など神社の神輿を担ぐものとの認識が強くなった。また、変わったのは、人々の祭への取り組みかたである。祭にかけるエネルギーは、江戸時代はもとより明治時代に比べても明らかに低下、参加する祭から見るだけの祭に移行している。さらに、外国から入ってきた「労働祭」「復活祭」「巴里祭」などの言葉が生まれた。そして、読み方も、「まつり」ではなく「さい」となった。
 川開きもの花火も、夏のレジャーとしての盛り上がりを欠く年が出てきた。明治時代、川開きの期間は、花火だけでなく舟遊びなどの納涼を行う人々で賑やかであった。特に川開きの最初に催す花火は盛大で、その花火大会を「川開き」と言うようになった。しかし、隅田川の水質悪化で舟遊びは廃れ、花火にしても当日の天候不順などもあって、市民の関心度はそう高くないようだ。明治時代の新聞記事と見比べると、紙面の取扱いが小さくなっているのがわかる。また、川開きに、632も喧嘩があり370人もの酔っぱらいが保護されたというような大盛況ぶり(明治四十二年)を伝える記事も少なくなった。
 市民の関心度が変わったレジャーのなかでも寄席は、その変化が最も顕著である。明治時代のピーク時には年間約500万人もの観客を動員していたが、大正四年(1915)には約250万人と半減。そのため、席数(寄せ場)も減少し、明治の末には、160近かったのが大正十一年(1922)には84箇所に減少している。人気低迷の理由は、映写技術や表現内容が日進月歩する映画に観客を奪われたからである。また、下層階級の余暇が大きく変化し、夕方から寄席に出かける時間だけでなく心のゆとりもなくなったためでもあろう。

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園芸観客の変化

  大正期の寄席は、明治時代と同じように、講談、落語、浪花節義太夫、奇術、音曲など様々な芸が演じられていた。観客は座敷に座って見る(聞く)というスタイルで、観客が少なければ横になっている人もいた。寄席の衰退は落語が顕著で、噺家「オットセイ」こと柳亭左楽の死去(明治四十四年)に続いて、元年(1912)には、当時の第一人者であった、俗に「住吉町」と呼ばれた四代目橘家圓喬が48才という若さで、肺結核で亡くなった。大正三年には、初代三遊亭遊三や二代目蝶花楼馬楽などの人気噺家がなくなり、落語の人気は徐々に下降線をたどっていく。
 そのため、噺家たちは危機感を持ち、勉強会や業界の刷新に取り組んだ。まず寄席の沈滞ムードを是正しようと、三代目柳家小さんや四代目橘家圓蔵などが月給制の「東京寄席演芸株式会社」を発足した(大正六年)。また、小さんが「落語協会」、五代目柳亭左楽が「落語睦会」を結成したものの、仲間同士の離合集散に明け暮れた。落語界は、「落語研究会」のような意欲的な試みをしていたにもかかわらず、効果はあまりなかった。
  低迷する寄席の観客を支えていたのは、むしろ浪花節義太夫の人気によるところが大きい。特に浪花節は、明治末頃から次第に民衆の心を捕らえ始め、浪曲師・桃中軒雲右衛門は、大正元年歌舞伎座で独演会を興行するほどの人気を得た。浪花節が流行し、大正五年(1916)、寄席の観客が底を打つなか、桃中軒雲右衛門は、四十才半ばで亡くなった。にもかかわらず、浪花節の人気は続き、天中軒雲月などの名人を輩出。また、人気の底堅い義太夫の竹本綾昇なども観客を集めた。

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東京市の寄席・映画館の営業数の推移

 寄席の観客数はようやく持ち直し、大正八年(1919)には年間300万人程度に回復した。ただ、観客数の増加は好景気を受けた影響もあって、必ずしも寄席の人気が戻ったわけではなかった。それを証明したのが関東大震災後の寄席人気であった。震災の後、芸能関係で最初に興行を始めたのは、四谷の「喜よし」、牛込の「演芸館」などの寄席。「四谷の喜よしは七時にならぬうちに便所へかよう障子まではずす程大入り客留……」(十二年十月二十日付東日)と、再演まもない寄席は、会場に観客が入りきらないくらいの大入りだった。大正十一年(1922)の入場者数は286万人と下降気味だったが、「このぶんなら・・・」と震災後の大幅な観客増加も期待された。だが、実際には十三年の観客数は、それまでの最低をさらに20万人も下回る233万人であった。震災直後に賑わったのは、災害によって娯楽に飢えていた人々が一時的に殺到したためで、何も寄席の人気が回復したからというわけではなかった。

 

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大正時代の景気を反映するレジャー

江戸・東京庶民の楽しみ 185

大正時代の景気を反映するレジャー
 人々の遊び心は、景気によって大きく左右される。逆に、景気の善し悪しを、市内のレジャー動向から読みとることもできる。なかでも劇場入場者数は、景気の変化を最も反映しているようだ。
 大正初期の観劇には、着飾って出かけ、芝居を見ながら飲んだり食べたり、桟敷ならではの社交を楽しむという江戸時代から続く、のんびりした優雅な観賞形態がまだ残っていた。また、芝居の一部分しか観ない「一幕限り」の切符も用意されていて、お金や時間の少ない人たちにも芝居を楽しむ機会を提供していた。この人たちの割合は、大正元年では実にこの切符で見た観劇客数が三割以上も占めていた。
 大正時代になると、旧来の観劇スタイルに変化のきざしが見えてきた。それは、帝国劇場が全席椅子席にして、切符の前売りや茶屋の廃止を行ってからである。演劇界が旧習を改めようとした背景には観客の減少があり、特に一幕限りの中流以下の観客減少が顕著であった。その原因は、芝居から映画観賞に向かったことが大きい。また、大正二年(1913)に、松竹は歌舞伎座を入手し、直営案内所を設置、席券はたとえ一人でも場所割表を見せて前売りするという近代的な興行へと移行も進めた。なお、その効果はすぐには現われなかったが、演劇を取り巻く環境は徐々に変化していた。

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劇場入場者数と劇場数の変化

 観客数の増加がハッキリとわかるようになったのは、第一次世界大戦の特需効果が出始めた大正四年(1915)頃からである。この時に観客を動員したのは、伝統的な歌舞伎や小難しい新劇ではなく、喜歌劇とか浅草オペラと呼ばれる新しいスタイルの演劇であった。増えた観客の多くは、それまで演劇とさほど縁のなかった下層階級であった。その演目は、「女軍出征」「サロメ」などの大半が初演というようなものであった。それは、当時の民衆は本物のオペラを知らないから、彼らでも理解できる喜歌劇を「浅草オペラ」として楽しんだ。当時の流行歌に「コロッケの歌」というのがあるが、これなども浅草オペラで歌われていたものである。好景気による観客の増加は、以後大正七年(1918)まで四年間も続き、その数は大正三年の観客数のなんと2.3倍、653万人にも達した。

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貸座敷利用者数の推移

 また、新聞の情報が少なかったので、これまであまり取り上げなかったが、貸座敷(日本大百科全書(ニッポニカ)によれば、「遊女屋の公称。1872年(明治5)の娼妓(しょうぎ)解放令以後、娼妓が営業するための座敷を貸すものとして遊女屋を貸座敷と改称した。」)の客数も景気を大きく反映している。貸座敷利用者数は、景気がよくなる五年頃から急激に増加、八年をピークに景気の後退と共に徐々に衰退傾向を示している。なお、九年以降の利用者数の減少割合が演劇よりも少ないのは、料金のダンピングがあったからである。大正十五年の貸座敷利用数は、九年と比べて11%しか減らないが、金額では28%も減少。また、一人当たりの利用金額は、四円六十八銭から三円七十五銭に、8%も下落している。つまり、ダンピングによって客数を辛うじて保っていたことがわかる。
 料金ダンピングのしわ寄せがどこにいったかというと、それは主に娼妓に向けられた。利用者数は八年から九年には4.4%減少したにもかかわらず、娼妓の人数は逆に12.1%も増加。地方の不景気を受けて、娼妓の数は九年から増えている。娼妓の増加が、また利用料金をダンピングさせることになり、利用者数の減少を鈍らせた。芸妓の数についても、同じような傾向が見られる。芸妓は、遊興者の増加とともに大正六年頃から増え、景気が後退し始めても関東大震災までは増加し続けている。

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娼妓と芸妓の推移

  もう一つ、景気を反映するものとして、飲食店数の変化がある。当時の飲食店は、景気のよい時には他の仕事に就き、景気が悪くなると零細な食べ物屋を出して何とか生計をたてるという傾向が見られる。飲食店数の推移から見ると、景気のピークは大正七~八年頃であろう。なお、関東大震災後に急激に増加したのは、バラック建ての飲食店が雨後の竹の子のようにできたからである。その数は約4千7百軒、七年と比べて六割近くも増加。零細飲食店者の景気状態は、以後も改善されなかったためかその数は減少しなかった。

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飲食店の営業数の推移

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大正時代の三大レジャー

江戸・東京庶民の楽しみ 184

大正時代の三大レジャー
・大正期を代表するレジャー
 大正時代に最も楽しまれた娯楽・レジャーは、映画・博覧会・花見である。これらは、大正期に最も多くの東京市民が楽しんだ三大レジャーといえる。その規模は、市民の半数以上(延べ100~1000万人)が参加又は動員されている。また、レジャーという意識はあまりないものの、心身のレクリエーションに非常に効果があったと思われる参詣・参拝も大勢の人々が行なっていた。
 博覧会、様々な珍しい物品を展示するイベントは、明治時代から催されていた。人々に科学技術や芸術文化などを示し、一般社会の知見を高め、産業の振興に資することを目的とした。官主導であったことから、教育的な色彩が強く、娯楽的な見世物とは一線を画していた。しかし、訪れた人々が感じたのは、江戸時代の開帳や物産会の延長であり、好奇心を誘う見世物的な娯楽的性格であった。
 大正時代のビッグイベントを追うと、元年の大喪、天長節(二年)、大正博覧会(三年)、戦捷博覧会と即位の奉祝(四年)、海の博覧会と婦人子供博覧会(五年)、東京遷都奉祝博覧会(六年)、電気博覧会(七年)、遷都五十年の祝祭と平和記念家庭博覧会(八年)、明治神宮鎮座祭(九年)、大正衛生博覧会(十年)、世界平和記念博覧会(十一年)、東宮御成婚の奉祝(十三年)、畜産工芸博覧会(十四年)などがある。博覧会はこの他にも頻繁に開催され、その意味では大正時代は「博覧会の時代」とも言えそうだ。これらのイベントは、官製色が強く多少窮屈なレジャーではあったが、大勢の市民が参加することによって、人々に遊ぶ気運を盛りあげるという効果があった。
 それに対し花見は、江戸時代から続く自然発生的なレジャーであり、楽しみ方は民衆の流儀で展開されていた。花見時の人出は、「東京が留守になるほど」と書かれたほどで、元日の初詣客を優に超えるくらいの人出があった。このように花見が異常なまでに盛り上がったのは、仮装が許されるなどの江戸時代からの慣習が続き、市民が比較的自由に振る舞えたからであろう。もっとも、上野や飛鳥山の花見で無礼講が許されたのは、あまりにも多くの人が出て、さすがの警察もコントロールできなかったというのが本音かもしれない。
 そして、明治から大正になったことで、大きな変化が起きたレジャーがある。もちろん、元号の変化したというだけで世の中が急に変わるものではないが、確かに1912年(大正元年)を境に大きく変化したレジャーがある。それは、東京の映画(活動写真)館の入場者数である。前年(明治)までは延べ三百万人に満たなかったのが、一挙に三倍、一千万人近くにまで増加したと推測される。
 明治時代の映画は、「写し絵」や「幻灯」と同じく見世物の一つにすぎない。写真が連続的に映されることで、かろうじて登場する人や物が動いているように見えるという代物であった。目黒の行人坂に日本初の撮影所ができた明治四十一年(1908)頃から、映画は大衆娯楽として人気を集め始めた。映画を見る人が劇場や寄席の観客数を超えたのは大正時代に入ってからだと推測される。
 具体的なデータとして、映画と見世物の観客数がある。映画観客数が「活動写真館入場人員」として統計(『東京市統計年表』)に載ったのは、浅草帝国館ではじめて映画プログラムが発売され、チャップリンの喜劇映画が上映され人気が沸騰した大正五年(1916)からである。大正五年の活動写真館入場人員(映画観客数)は、1,266万人に増加した。ちなみに見世物、観物場入場人員は348万人、劇場観客数452万人、寄席入場人員267万人。
 映画観客数は、社会状況によって変化していると推測できる。大正六年(1917)警視庁が定めた「活動写真取締規則」によって、フィルムの検閲や男女席の分離が実施されるなど、映画に対する規制が強くなった。また、この頃から物価が高騰、翌年には全国的な米騒動が起こり映画観客数は減少するが、その後はまた、関東大震災の年を除くと一貫して増加していった。大正十五年(昭和元年)には、1,469万人となる。東京市の人口が206万人だから、単純に計算すると一人当たりの入場回数は年に7回となる。
 大正時代は、いかに多くの市民が映画を見るようになったかがわかる。したがって、大正は「映画とともに始まった時代」といえそうだ。また、観客数の多さから、映画ほど大正時代を特色づけるレジャーはない。そして、映画は単なる娯楽としてだけではなく、人々に世界中の様々な情報や考え方、生きかた、楽しみかたなど、実に様々なことをスクリーンを通して伝えた。中でも、社会風刺の強いチャップリンの映画などは、かなり刺激的であったと推測される。それも、学校のような教訓的授業や警察の取締のような強制でもなく、映画を見ることを通して感化されていった。後世の知識人は、演劇や書籍がデモクラシーを広めたと評価しているようだが、民衆のデモクラシーは、実は映画から影響を受けたと感じ取れる。映画は民衆のレジャーであると同時に、彼らにデモクラシーを紹介する役割を果たしていたことも見逃せないと思う。もちろん映画は、デモクラシーを「民主・自由・平等」というようなハッキリした概念で伝えたとは思わないが、生活するために必要な権利があることを感じ取ったのは確かであろう。ただ、残念なことに、その自由や平等を多少なりとも民衆が享受できたのは、映画館の中や花見の時くらいでしかなかった。日本の民衆のデモクラシーは、西欧のようなハッキリとしたものではなく、それとはかなりずれていて、それがまた大正デモクラシーの特徴でもあったと言えよう。

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映画と見世物の観客数

・映画演劇関連の記事
大正元年(1912年)
5月 金竜館「ジゴマ」日延べ
6月 新富座楽天会の「瓢箪池」連日大入り
   浅草国技館で南極実況活動写真、連日満員好
8月 十一日より浅草など映画・演劇興行の復活
   オペラ館「ジゴマ」連日大入り
   浅草福和館「ジゴマ」上映
9月 宮戸座、大入りに付き十日まで日延べ
    ジゴマの奇術を真似する人多く、死者まで出る
   オペラ館「ジゴマ」連日大入り
   新富座の勤皇劇大評判連日満員御礼
10月 有楽座で米国ハートマン一座の喜歌劇
   真砂座「灯」連日満員
   本郷座「真田幸村」の初日、満員
   福和館新派劇「高橋お伝」他上演
   帝国劇場、ロッシーの無言劇「犠牲」他上演
   ジゴマの最期、浅草六区など賑わう
   錦輝館「リニア」大好評
   有楽座「ヘッダ」日延べ、一等1円・三等40銭
   市村座「勇将の妻」評判
11月 歌舞伎座、切符制に改め、初日は大分景気付く
   富士館「忠臣蔵」好評
12月 帝劇、女優劇で相変わらず一杯の好景気
大正二年(1913年)
1月 演技座、三箇日は40銭均一で一杯
2月 オペラ館「絶壁の秘密」好評
   富士館「佐倉義民伝」上映、大好評
3月 富士館「三日月」連日大入
   帝劇「ファウスト」初日、新芝居にしては珍しい程の入り
4月 本郷座の曽我廼家、初日から大入
5月 有楽座でイプセンの「鴨」上演
6月 帝劇「トスカ」の初日、梅幸幸四郎で一杯の入り
   大勝館「銚子の五郎蔵」他大入御礼
   真砂座「弘法大治郎」大入日延べ
   帝劇「シーザー」初日から大入り
7月 富士館「新馬鹿大将ボビー」他大入り日延べ
8月 電気館「何が故」連日満員
9月 有楽座「内部」芸術座の初日満員
   電気館「宇良表」大好評
   帝劇「マクベス」空前の盛観
10月 常盤座の曽我廼家五九郎一座の喜劇が盛況
   キリン館、天然色活動写真、連日満員
   みくに座、小奈良、大入満員
11月 帝劇「千本桜」他森律子で初日大入り
   宮戸座「鎌倉山桜御所染」「神道水滸伝」好評大入り
   帝国館「白と黒」昼夜満員
12月 有楽座で初の発声活動写真、好評
大正三年(1914年) 
1月 本郷座・明治座等売切れ満員
    浅草公園みくに座、発声活動写真に楽燕の連夜大入り満員
   藪入り、浅草六区の映画館はいづれも大入り満員
2月 大勝館「クイン」上映大好評
     都座、露国女優ダンス又々日延
   浅草朝日館、洋画・空中の秘密等で連日満員
   第一福賓館「天馬」大入りにつき日延べ
   帝国館「軍神」満員盛況三日間日延べ
3月 市村座憲兵の娘」青年新派好評大入り
   キリン館「新四谷怪談」大好評
   新富座「渦巻」毎日売切れ
   トルストイの「復活」帝劇で初演
   電気館「アントニークレオパトラ」日延べ
5月 遊楽館の活動「冒険談猿が島」好評
   「クレオパトラ」葵館④第五福賓館⑩第三福賓館⑰明治座上映続く
6月 キリン館史劇「全勝」新派悲劇「女伯爵」盛況
7月 帝国館「リスク」大好評
   帝国館「天馬」満員に付早朝来館を
8月 浅草三友館の実録劇「女装探偵・電五郎」連日の満員
   日本館「カチューシャの唄」満員日延べ
9月 浅草電気館の活動「軍吏と曹長
   松井須磨子の復活劇、連日の大入り満員
   帝国館の大活劇「白墨」
    オペラ館、「女の一生」大好評
10月 大勝館「狸退治」大入り好評
   時雨降る日に満員、増井須磨子の本郷座
   有楽座の演芸大会大入り日延べ
11月 「カチューシャ」三友館・葵館・第三福賓館で連日満員
   日活の戦況映画、遊楽館・三友館・オペラ館等で一斉封切
   遊楽座、「天中軒雲月」上演
   浅草みくに座の活動「大決戦」
12月 帝国館「海の彼方」連日満員大好評
   遊楽館「越後騒動」好評
大正四年(1915年) 
2月 みくに座の連鎖劇、毎日大入満員
3月 浅草帝国館「吶喊」連日満員早い者勝ち
    上野みやこ座で「サタン劇」上演
4月 みくに座「恋ごろも」連鎖劇すこぶる好評
    三友館の連鎖劇実録「忠臣蔵」日延
   帝劇の芸術座劇「その前夜」「サロメ」他満員
   常盤座水野劇「役者の妻」連日大入
5月 金竜館の五九郎一座「サロメ」を出し評判
   大勝館上映の「柳生旅日記・天馬続編」初日来連日満員
    浅草帝国館上映「三碼」大入満員
6月 浅草電気館「大探偵ヂューブ」続編
   浅草オペラ館の「鳩の家」連日満員の盛況
   遊楽館新狂言「蜘蛛の名人」他好評
   富士館の教育写真「曾我兄弟」大入日延
   オペラ館「小ゆき」初日来大入満員
   三友館「盲芸者・快男子」好評上映
7月 演技座の近代劇協会の一番目に「金色夜叉」上演
   帝国館の「白鬼面」大入御礼
   三友館の盆興行「幽霊屋敷」上映
   本郷座の盆興行「荒木又右衛門」他
   金竜館の五九郎一座「男一匹」他好評
8月 帝国劇場「競伊勢物語」日延べ
   遊楽館「真田幸村」他を上映し盛況
   帝国劇場「競伊勢物語」日延べ
9月 みくに座の井上正夫一座、連日満員
   三友館実写「乃木大将一代記」上映
10月 電気館「続編マスターキー」上映
   オペラ館「娘一代記」大入り
   東京座の「鳩の家」日一日好況にて大入満員
11月 中央劇場、連鎖「潮」相変わらず満員
   みやこ館「ヂューブ大探偵」上映
   遊楽館「赤垣源蔵」他の連鎖、大好評
大正五年(1916年) 
1月 オペラ館新派大悲劇「洋妾(ラシャメン)の娘」他大好評
2月 本郷座「番町皿屋敷」初演
   大勝館「怪勇忍術太郎」好況
3月 富士館「大山道節」大入り満員
   本郷座「虎公」劇、大景気
    遊楽館実演連鎖「潮田又之亟」他連日満員
   オペラ館「うき世」劇、連日満員で日延べ
4月 大勝館「須磨の仇波」好評連日満員
    帝国劇場「先代萩」他売切れ満員
   有楽座の下山京子満員御礼
   常盤座の芸術座劇二日目須磨子好評満員
   神田劇場「鬼の悔悟」他上演大入
5月 オペラ館天覧「小騎手」他上映大盛況
6月 有楽館の連鎖又新派、好評
   新富座の山長連鎖劇大当たり
   有楽座無名会の「マクベス」上演
   帝国劇場「夜討曾我」他連日大盛況
   有楽館の新派悲劇「うき雲」好
7月 上野みやこ座「ガレルハマ」連日満員
8月 帝国劇場「いがみの源太」他連日満員御礼
9月 大勝館「忍術三銃士」上映大入御礼
   帝国劇場「江島生島」他初日満員
   大勝館「河童又助」他大入満員
   遊楽館「化銀杏」他大評判
10月 第一劇場、演技座、帝劇等初日満員
   オペラ館、新派悲劇「恋の仇波」好評
11月 キネマ倶楽部、大活劇「獅子吼・珍行列車」大評判
   遊楽館「河童の猿丸」好評
大正六年(1917年)
2月 大勝館の三大提供、連日満員
   市村座「女しばらく」他大入り続き
   観音劇場「柳生二蓋笠」他非常な人気
   新富座「神霊矢口ノ渡」他売り切れ
3月 オペラ館「つや物語」連日満員
   富士館、弦斎の「桜御所」連日満員
   電気館「赤輪」上映好評嘖々
4月 電気館「シヴィリゼーション」満員
5月 明治座で天外追善喜劇初日満員
    新富座有職鎌倉山」他初日から満員
6月 富士館「由良長者」上映、人気独占
   第二遊楽館、松之助の映画等大好評
   オペラ館、徳田秋声「誘惑」劇、大入日延べ
7月 チャップリンの映画、電気館・富士館で連日好評満員
8月 昨日から活動取締実施(男女区別等)・・何でもないと館員言う
   浅草キネマ護る影大会、大好評
   帝劇「魚屋宗五郎」他連日盛況
   帝劇、映画「潜航艇の秘密」満員だが、男女別席励行で混乱
9月 渋谷劇場初開場
   有楽座の少女歌劇、連日大入り
   富士館「仮名手本忠臣蔵」大好評
11月 キネマ「ジャン、ダアク」連日満員
12月 演技座、松旭斎天華の奇術、常盤座に続き大盛況
大正七年(1918年) 
1月 キネマ「マチステの義勇兵」大好評
    富士館「日本一雲月」満員御礼
    遊楽館の三大写真「名古屋山三」他連日満員
2月 遊楽館、松之助の「通力太郎」他盛況
   富士館「乗合馬車」大入り続く
   オペラ館「毒煙全編」他好評
   吾妻座、中村福圓七役好評湧が如し
3月 有楽座「十郎」満員御礼
   歌舞伎座「不如帰」連日満員
   オペラ館「二人娘」大好評日延べ
4月 新富座の喜劇楽天会一座、満員御礼
   オペラ館「金色夜叉」連日連夜満員の大景気
5月 帝国劇場「新鏡山」他満員
    オペラ館「続金色夜叉」盛況
    歌舞伎座東京市江戸城明渡」初日満員
   新富座「黒髪物語」満員御礼
   遊楽館「猿飛佐助」など好評
6月 吾妻座「吉原の大火事の塲」大好評
   オペラ館の特別写真「父の涙」すこぶる好評
   有楽座の近代劇、大入り満員
   新富座「都歌舞伎」他引続き満員
   公園劇場「四谷怪談」他連日満員
   電気館「世界の平和」他連日満員
   新富座「都歌舞伎」他連日満員
7月 歌舞伎座児雷也豪傑物語」他初日売切御礼
   新富座、楽燕「大石の山鹿護送」他満員
   歌舞伎座児雷也豪傑物語」連日満員
   本郷座大連鎖劇「仇波」大好評連日満員
8月 歌舞伎座「深川波の鼓」他連日満員
   明治座「黄金魔」他連日満員
9月 帝国劇場女優劇「露国舞踏」初日満員
   三友館「乃木大将」初日以来連日満員
   観音劇場新劇「残されし人」他大人気
   富士館、早川雪州・青木ツル子共演「火の海」他連日大入り御礼
10月 キネマ倶楽部「護国の少女」連日満員
12月 常盤座「不如帰」素晴らしい景気
   新富座天一坊」他売切満員
大正八年(1919年) 
1月 三友館の東屋楽燕、空前の盛況
2月 新富座曽我廼家五郎一座「御前角力」連日満員
   明治座「路傍の花」他昨日満員御礼
   有楽座のベーリンデー「カルメン劇」
3月 有楽座「肉屋とカルメン」初日満員
   明治座「羅馬の使者」他満員
4月 千代田館「八犬伝」大好評
   御国座「博多仁輪賀」盛況
   新富座乳姉妹」満員盛況
5月 浅草帝国館「イントレランス」連日満員日延べ
6月  遊楽館「稲生武太夫」大好評の盛況
   歌舞伎座「一日嫩軍記」満員御礼
7月 帝国劇場の女優劇、初日満員
8月 帝国館「曲馬団の囮」大受
9月 帝国劇場、特等12円の大歌劇
   新富座曽我廼家五郎「うっかりもの」三日間大満員御礼
   明治座明智光秀」他四日間満員御礼
   帝国劇場、自由劇場の「信仰」他6・7分の入り
10月 三友館「牡丹のお蝶」初日満員
   葵館「復活」他連日満員御礼
11月 明治座「傀儡船」二日目満員
   富士館「柳生十兵衛」他連日満員
   歌舞伎座「鎌倉図鑑」他満員続き
   彌生座「忠臣蔵」初日以来満員
大正九年(1920年) 
1月 三友館「梅咲く宿」大入り満員
2月 明治座「生命の冠」他満員御礼
   新富座曽我廼家五郎初日以来満員
    上野みやこ座「若き血潮」他大好評
3月 明治座「国光」他好評満員
   御国座「伽羅千代萩」他連日満員御礼
   本郷座「白鳥の歌」他初日満員御礼
   新富座で当彌生興行好評連日大入り
   公園劇場「野崎村」他連日大満員日延べ上演
   演技座「引貫筒真田入場」他満員御礼
4月 明治座「遠山桜天保日記」他満員御礼
   本郷座若手歌舞伎「新古劇八番内佐倉宗吾」他連日満員
5月 常盤座「生命の冠」他連日大満員五日まで日延べ
   遊楽館「神稲水滸伝」他連日大入り
6月 明治座「狂い咲き」他連日満員音楽
7月 歌舞伎座「井伊大老」前例なき大入満員御礼
   麻布南座、初開場の初日は満員御礼
8月 本郷座の新星歌劇団三の替わり好評連日満員
   御国座、福圓の水中飛込みと冒険劇満員続き
9月 帝国劇場「新カルメン」満員御礼
   キネマ倶楽部「世界の心」連日満員御礼
10月 南座「源平布引瀧」他初日二日目満員
   辰巳劇場、訥子一座大人気大入り満員
   帝国館「戦争と平和」他満員御礼
   オペラ館「恋ごろも劇」好評に付上映一週間日延べ
11月 三友館「決死の勇」他連日満員御礼
   市村座「南部坂雪の別れ」他初日満員御礼
12月 オペラ館「妹の死」不拘異例の大入り
   神田劇場、二大名画と三大喜劇連日満員御礼
   新富座「鉱山の秘密」日延べ大入御礼
大正十年(1921年) 
1月 常盤座「天眼通後編川徳」他二日まで日延べ
2月 本郷座「堀川」他初日から満員続きの盛況
   金春館「猛虎の如き女」他満員御礼
   明治座「絵姿」他昨日もまた満員
   葵館「恐怖週間」他連日満員
3月 観音劇場「男心女心」他相変わらず昼夜一杯の入り
   明治座俊寛」他連日満員
5月 歌舞伎座「菅原伝授手習鑑」他大入
   新富座「鎌倉心中」他満員御礼
   遊楽館、仇討物や豪傑物など松之助延一郎一座の傑作揃いで毎日満員
6月 新富座「醍醐の春」連日満員御礼
   明治座「かれーの市民」新国劇澤田一座大好評連日満員
   駒形劇場「不魔殿」満員御礼
10月 常盤座「仇花実花」他連日大々満員御礼
大正十一年(1922年) 
1月 金竜館・常盤座・東京倶楽部の開館式、喜劇や歌劇で大賑わい
2月 本郷座「海の極みまで」初日満員御礼
3月 三友館「松風村雨」大入り日延べ
   有楽座「研漠新舞踏研発表会」満員御礼
   金竜館「カルメン」他連日満員
5月 本郷座「加茂川堤殺人」連日満員御礼
6月 明治座「悪魔の鞭」初日満員
7月 千代田館「腕白少年」他満員御礼
8月 オペラ館「女訓導」連日満員で日延べ
9月 千代田館「シーフ」他連日満員御礼
   神田劇場旭大歌劇団の「バンドゥラ」他満員御礼
   明治座「謎帯一寸徳兵節」連日満員
12月 本郷座「大親鸞」一週間満員の盛況
   キネマ倶楽部「阿修羅の如く」他空前の大好評連日満員
大正十二年(1923年) 
1月 常盤館「夜討曾我」満員御礼
2月 公園劇場「大菩薩峠澤田正二郎新国劇満員御礼
   芝居改善の第一日、観客は幕間の早いのに大喜び
3月 富士館「豊公一代記」満員御礼
   公園劇場「次郎吉懺悔」連日満員
   金竜館「オセロ」満員御礼
4月 松竹館「噫無情」大入り日延べ
   水天館「欧州大戦争」満員御礼
5月 公園劇場「出家とその弟子」満員御礼
   キネマ倶楽部「オーバー・ゼ・ヒル」連日満員一週間日延べ
   金竜館「天国と地獄」大喜歌劇、満員御礼
   日比谷公園で夜間、東京朝日新聞社主催の極東大会写真盛況
   武蔵館「ファラオの恋」満員御礼
6月 有楽座の曽我廼家十郎の二の替御披露満員御礼
9月 関東大震災が起こる
10月 日比谷音楽堂で大盛況の野外劇「勧進帳」演劇に渇した2万人の見物
   上野公園で天勝一座の野外慰安舞踏大盛況
   本日より日比谷音楽堂で菊五郎一派の野外舞踏
11月 まっさきに明く仮小屋の宮戸座
12月 浅草の野外劇 お堂を取巻く幾万人
   予想外の人気に活気立つキネマ界
大正十三年(1924年)
1月 天幕劇場、新国劇で満員御礼
   興行界記録破りの大景気
   オペラ館「ベッスリア女王」他満員御礼
2月 オペラ館「金色夜叉」満員御礼
3月 電気館「嬰児殺し」他大好評満員に付日延べ
   大東京「清水次郎長」他満員御礼
   演技座、澤正の「松永弾正」他連日満員御礼
4月 演技座澤正の「松永弾正」連日満員御礼
5月 帝国館「大乱舞劇舞姫悲し」他満員御礼
   新富座「正チャンの冒険」他満員御礼
   遊楽館「乃木将軍」大好評連日満員御礼
6月 米国より独・伊の映画がおもしろい
   築地小劇場白鳥の歌」などオープン公演
   米国映画ボイコットの足並みくずれる
8月 常盤座、沢村源之助等の「女団七」他連日満員御礼
   浅草松竹座新声劇「血染の瀑布」好評満員
9月 演技座「五九郎劇」連日満員
11月 千代田館「ユイタバ・ラ」他連日連夜満員
   帝国劇場「伽羅先代萩」他連日満員
12月 本郷座「忠臣蔵」連日満員御礼
大正十四年(1925年)
1月 築地小劇場ジュリアス・シーザー」他連日満員の盛況で日延べ
   ホクホクの芝居大国 歌舞伎も市川も帝劇も満員続き
2月 神田南明座「巴里の女性」満員御礼
   神田シネマパレス「アルト・ハイデルベルヒ」満員御礼
   歌舞伎座「尼将軍」他連日売切れ
3月 歌舞伎座と邦楽座、入場料は高くても大入り
5月 本郷座「堀川」他各等全部売切
9月 大久保キネマ「犠牲」他満員御礼
   富士館「鞍馬天狗」他大好評日延上映
   新橋演舞場伊井蓉峰一座満員御礼
   帝国劇場「オペラの怪人」連日満員御礼
10月 帝国劇場「日蓮上人」他熱狂的大盛況
11月 三友館「覇者の心」満員御礼
   富士館「荒木又右衛門」連日連夜大満員
   キネマ倶楽部「禁断の楽園」他満員御礼
   大東京、阪妻の「雄呂血」大満員
12月 三友館「人間」たちまち満員
大正十五年(1926年) 
2月 本郷座「松竹梅湯島掛額」他連日売り切れ御礼
3月 大東京「修羅八荒」満員御礼
   市村座「大山と家光」他満員御礼
5月 市村座「半七捕物帳」他満員御礼
8月 歌舞伎座「大盃七人猩々」初日満員御礼
   帝国劇場「月形半平太」他満員を続ける
9月 新橋演舞場吉野山道行」他連日大入り御礼
   東京市民の約二割が毎月芝居を見る
12月 歌舞伎座森有礼」連日満員御礼

 

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大正時代の余暇事情と娯楽レジャー

江戸・東京庶民の楽しみ 184

大正時代の余暇事情と娯楽レジャー
・大正期の人口と余暇事情
 大正時代は15年あるものの、実質14年であった。その間の娯楽の変化は明治期より大きく、また、続く昭和戦前までよりも見るべきものがあった。市民が積極的に楽しむ娯楽は、大正ロマンとでも言えるような活気と変化が感じられる。ただ、すべての市民が共通して享受したかといえば、否、必ずしもそうではなかった。目新しいレジャーやスポーツ、大正ロマンを感じさせる活動の主な担い手は、中流以上の階級の人々がになっていた。それでも、大正ロマンの雰囲気は世間に浸透しており、時代に明るさを提供していた。                                東京市の人々、約200万人を上中下に区分すると、納税額から、選挙権のある人々、それ以下で大きく分けられる。まず、大正前期の選挙権のある納税額10円以上、約5万人とその家族(約20万人)を上流と判断する。中流は、その後大正十年に選挙権を得た納税額2円以上(15万人弱)の家族で約60万人。そして、残りの市民120万人以上、つまり全体の約六割が下層に相当する。この割合は、明治以前からあまり変わらないようで、庶民とか大衆と把握されるのは、下層階級の人々が大半を占めている。そのため、下層階級をさらに区分すると、恩賜財団済世会の調査(万朝報四年八月二十六日付)によると細民(最貧層、下層の下)と呼ばれる人々が約20万人いる。そのため、下層はさらに二つ分けられ、下層の上が100万人以上、下層の下(細民)が約20万人とになると考えられる。

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東京の人口の推移

 一口に市民の娯楽レジャーと言っても、階層によって大きく異なっていた。例えば、「例年よりも早い雪 スキーにはどこへ 鉄道省客を呼ぶ大宣伝に着手」(十五年十二月十三日付讀賣)などの記事を見ると、一般市民の間で広くスキーが流行していたと思いがちだ。しかし、アイススケートやゴルフはもちろん、今ではごく一般的な野球やテニスですら、それを行えることがすでに一種のステータスであった。大正時代の中流以下の市民(民衆)は、21世紀の現代人が週休二日が当然のことになっているようなレジャーをしていなかった。
 では、娯楽レジャーを行うのに必要な余暇時間はどの程度だったか。東京市の就労時間を見ると(『東京市統計年表』)、10人以上使用者がいる工場で働く人々の一日平均就業時間は、11~12時間程度。比較的恵まれた近代的な産業でも、中には1日16時間という工場もある。ましてや、零細な町工場では朝起きるとすぐに仕事をし、食事の時間以外はひたすら働き続けるという生活だっただろう。そのため、下層階級は、休日を除けば、余暇時間のほとんどない人が多かったと推測される。
 休日はどのくらいあったかというと、一年の平均就業日数が310~320日だから、平均すると7~10日に1回休みがあることになる。が、正月は連続して休むということを考えると、通常の月は、月に4日休めればよい方だろう。もっとも、統計のサンプルになるような人々は、労働者として比較的恵まれた部類なわけで、町場の職人や店員などの休みは一日と十五日、月に2日のみという状態であった。
 第一次世界大戦後、ILO条約によって1日8時間・週48時間という労働システムが浸透した欧米では、ゆったりとバカンスに出かける人々が増え、労働者にとって休日はなくてはならないものになった。それにひきかえ、東京の下層の人々は、自宅と仕事場の往復をくりかえし、帰宅後もテレビはもちろん、ラジオさえもなく、ただ食べるためだけに働くような生活が続いていた。なお、ラジオの事情は、大正14年で、ラジオ視聴者、東京府9万8千、市内5万6千である。大正15年4月、ラジオ聴取者が二十万人を突破したという記事(二十七日付讀賣)がある。ちなみに料金は一ヶ月1円で、誰もがラジオを持つことが出来ず、まだ市民の半数には達していない。

・庶民の労働事情と娯楽
 当時の下層の人々、なぜ人々は、これほど少ない休日で精神や肉体に異常をきたさずに、働き続けることができたのだろうか。現代では、過労死、精神障害、等々と様々な支障が発生し、社会問題になっている。その理由は以下に示すが、本当のところは理解しがたいものである。
 日本人の労働感から考えてみたい。下層の人々に限らず、賃金増加のためなら残業も厭わないという生真面目いて、間違っても労働時間短縮による余暇時間の増加の道は選ばなかった。その理由として、一つは、あまりにも貧しく、家族を養っていくにはお金を稼ぐことが先決で、余暇のことなど考える余地がなかったということ。もう一つは、確かに労働時間が長く休日も少なかったが、その代わり一日の時間もゆったりと流れており、四季の移り変わりに応じた生活スタイルの変化によって、適当にストレスを発散させる土壌があったとも考えられる。
 大正時代の東京には、江戸時代からの様々な年中行事が存続していて、すべてに参加できなくてもけっこう自身でやったような気分を味わうことができた。また、都市生活といっても、大半の人々は夜更かしなどとは縁のない規則正しい日常生活を送っていた。民衆の時間の使い方は昔から合理的でないと言われているが、反面あちこちに息抜きをする時間と場所が残されていた。また、労働にしてもすべての人が単純で過酷な仕事をしていたわけではなく、仕事の中に遊びの部分が残されていた。これは、気概のある職人(工場労働者を含む)の中には、欧米においてバカンスを要求したり、休まなければ働けないという労働者のいることに疑問を感じる人がいたことからも理解できる。
 東京の下層階級は、地方から流入する人が大半を占め、様々な労働形態の人々によって構成されていた。もっとも産業が発展するためには、住民の入れ替わりの激しいほうが好都合であった。特に関東大震災による人口の変化は著しく、流動的な人々を輩出した。大正時代のレジャーが初期と末期では変化するのも、こうした社会変化の影響を少なからず受けていたからである。
 大正時代はせいぜい15年程度の短い期間ではあったが、その変化を見てみよう。変化を生じさせたのは、行動範囲の拡大、人口の増加による地域事情と嗜好の変化が影響したと考えられる。行動範囲は、交通機関の発達によって、行動半径が拡大し、日常的な活動から一日がかりのレジャーが増大した。これも、人口増加に起因する部分が多くあり、より加速されたといえる。人口増加は、地域社会の構成を変化させ、地域と結びついたレジャーが減って、個人的なレジャーを増加させた。また、娯楽レジャー人口の増加と共に、人々の活動量も全体的に増加させた。これらの変化を、レジャーの参加率を中心に見ると、次のようになる。
  活動の割合は5段階に区分する。①非常に多い、②多い、③普通、④少ない、⑤非常に少ないである。
1.非常に多い
 「非常に多い」は、「初詣」のように誰もが出かける、東京の半数以上の人々が行う活動である。
 多いといっても、市民の半数以上が行なう活動は案外少ない。例えば、観客が200万人を超えると言われた寄席は、一人の愛好者が一年に数回聴きに行くことから、全市民の参加割合にすると案外低くなる。
 逆に、季節が限定される花見のような活動は、延べ数は少なくても、全市民の参加割合として見ると高くなる。
 そもそも、大正時代の市民レジャーの参加率を見ると全般的に低い。これは現代でも言えることで、誰もがやっていると思われるレジャーでも、実際は半数程度かそれ以下でしかないということが多い。実際、日本人の50%以上が行ったレジャーとなると、現代でもわずかに四つしかないというのが実情である。
2.多い
 「多い」は、観劇のような活動、自分が行わなくても、家族の誰かが行っているものを示す。四人に一人以上の参加率がある。
 大正初期と後期の違いがあるのは、見世物である。江戸時代から続く見世物人気は、明治後期から減少傾向が見られた。
3.普通
 「普通」は、花火のように自分が出かけなくても、両隣の家で誰かが行っている活動を示す。参加率は10%以上。
 ここで増えたのは、交通機関の発達により、紅葉狩りなどの行楽、海水浴や水泳などが容易になったためである。逆に減少したのが博覧会。
4.少ない
 「少ない」は、野球や相撲のように町内の誰かが見ている程度の参加率(1%以上)の活動であ  る。地域や所得階層などによって偏りがあり、東京の一部の人々が行う活動になった。
5.非常に少ない
 「非常に少ない」は、スキーのように東京のごく一部の人、特定な階層の余暇活動である。新聞 のニュースとしては価値があるものの、実数としては人口の1%に満たないものと考えられる。

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 注:現代のレジャー活動は、自由時間デザイン協会「レジャー白書」を参考にする

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大正十五年後期 大正時代終焉の娯楽

江戸・東京庶民の楽しみ 183

大正十五年後期 大正時代終焉の娯楽
 この年は、景気の低迷を反映してか正月の人出が少なく、十二月になっても回復しなかった。地域の祭りや縁日などにも以前ほど参加している様子が見られず、人出はあってお金は落ちず、不景気が浸透していた。市内で活発に遊んでいるのは学生で、野球などスポーツ関連の活動が盛況である。とは言っても、人数は学生野球はお会式の一割である。景気づけなのだろうか、新聞は、下層の市民には関係ない学生スポーツを取り上げていた。そして、天皇陛下の病状が悪化は、ラジオ放送は演芸番組を中止をはじめとして、人々が楽しむことにもブレーキをかけた。
・九月「撞球場荒らしの氏名を全球場に掲示」八日付讀賣
 九月は、夏バテが出たのか、市民のレジャーに盛り上がりが少ない。ただ、ビリヤードの記事(撞球界、撞球消等)は連日のように讀賣新聞に掲載され、ブームは一向に衰える気配がない。中にはセミプロ級の猛者も現われ、賭ゲームで稼ぐ撞球場荒らしが徘徊するようになった。そのため、警視庁は、「札付き」の氏名を全球場に掲示し、ゲーム料金や競技会の方法などについて指導した。また、讀賣新聞が優勝者に金時計を提供するなど賞品も高価になっていったため、射幸心を煽ることを防ぐために賞品は三十円以内と定められた。
 月末の讀賣新聞演劇欄には、市民がどのくらい芝居を見たかを五・六・七月の警視庁の統計から紹介している。その数値から見ると市民の一割六分から二割強が毎月芝居を見ていることになる。が、実際はそれ以上いるだろうとも書いてある。また、地域別では浅草の劇場の入場者数が多い。その理由は、料金が安いことと地方からの来訪者が多いことによると書かれている。
・十月「行楽の人に恵まれた郊外の秋 各駅とも大賑い」四日付讀賣
 十月に入り市民の行楽活動は活発になった。最初の日曜は、朝からカラリと晴れて散歩日和、郊外へ向かう駅は大賑わいだった。七日、商工奨励館で催された図書市は、大入り満員で売上げもよかった。恒例、国技館の大菊花園も満員続き。
 十二日の池上本門寺のお会式は、前年より人出が多く30万人になるだろうと。ただ、不景気を反映してか賽銭泥棒が多く、午後九時までに十八人も捕まった、ということはそれ以降もいたのだろう。迷子は5人。
 十四日の上野は、愛玩動物鑑賞会などあって午前中に3万人も詰めかけ賑やかであった。二十三日からは靖国神社大祭で朝から大混雑。二十四日は秋晴れの日曜ということもあって、郊外に出かける列車は満員。三十一日は大祭、朝からすがすがしい観兵式日和となり、明治神宮周辺の乗降客は29万人、上野公園は約10万人の人出、郊外へも臨時増発の電車が満員となるなど、行楽の人は方々に出かけていった。
・十一月「慶応惜しくも敗る 三万の観衆戸塚球場を埋む」九日付讀賣
 スポーツは盛んと見えて、新聞各紙を毎日賑わせているが、観客数はあまり正確には示されていない。十月に明治神宮外苑野球場が完成、神宮競技第三日目の試合は「五万の観衆群衆を吸い 火蓋を切った早慶戦」(一日付以下讀賣)という具合。試合の解説記事には「3万の大観衆」という記述があり、どちらが本当なのか不明。七日の新田球場での早慶戦でも、「午前中に万余のファン」と書かれているが、どうも実際より多めに書く傾向があったようだ。十四日に終わった根岸競馬は、観客数にはふれず馬券の総売上げ額200万円とあるのみ、盛況ではあったのかもしれないが、入場者数はさほど多くなかったのではないか。二十一日の目黒競馬では、「万に近いファン」とあるが、これも実際は数千人程度であろう。
 一方、行楽客については、鉄道の乗降客数を基礎に算出していれば大きな間違いは避けられる。十四日の人出は、上野公園が省線利用7千人、日比谷公園2千人、井の頭公園5千人などとある。上野公園へは市電やバス、徒歩で行く人もいることから1万人を超えていると考えられる。また、日比谷公園についても同様で、子供大会が開かれていることから少なくとも数千人以上である。この日は朝から散策日和であったから、市民の二割程度が公園や郊外に出かけたとすれば、40万人は超えていそうだ。なお、鉄道局は秋の人出を次の日曜日までと読み、臨時列車もその日で終了する方針。
・十二月「浅草も人足減った中、祈願に賑わう明治神宮」十五日付東朝
 酉の市や歳の市について、永井荷風はこまめに日記に記しているが、新聞の方では、銀座のグランドセールや丸ビルで十日夜からオープンする大売出しなどに注目している。また、スキーは実際には学生などほんの一部の人しか行っていないにもかかわらず、「例年より早い雪 スキーにはどこへ 鉄道省客を呼ぶ大宣伝に着手」(十三日付讀賣)などと大きな見出しが出ている。年の瀬を迎えた多くの市民は正月を迎える準備で忙しく、レジャーはよほど暇とお金を持てあました人しか係わりがなかった。東京朝日新聞社の「同情週間」は風物詩化して、暮れの押し迫まりを強調した。
 浅草も師走に入ると客が少なくなるが、この年は天皇陛下の病状が悪化しさらに減った様子。逆に例年なら参拝客が減少する明治神宮は、天皇の病状回復の祈願に訪れる人が日に追って増えた。月半ばを過ぎると、ラジオ放送は演芸番組を中止。十九日付の新聞(以下東朝)は「市内の大劇場休み、映画各館は午後中止か」と、市民の娯楽を差し控えるよう勧告。二十四日付で「宮城前につどうて涙する市民の群」とある。二十五日崩御改元して「昭和」元年となった。永井荷風の日記には「歳末雑踏の光景毫も諒闇の気味なし。銀座通の夜肆も亦例年の如し。太訝に登るに酔客楼に満つ」と書かれている。ただし、大晦日に向けて時間が慌ただしく過ぎているためか、街中でも厳粛なムードはあまり強くない。ラジオの演芸放送は翌年の三日まで中止になるなど、レジャーの自粛ムードは続いた。

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大正十五年(1926年)後期の主なレジャー関連事象・・・12月大正天皇崩御
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9月7読 林間・臨海学校が70校以上に増加、来年から取り締まる
  8読 乃木将軍記念展                        
  8読 撞球場荒らしの氏名を全球場に掲示、ゲーム料金競技会方法決まる、賞品は30円以内
  15朝 新橋演舞場吉野山道行」他連日大入り御礼
  16朝 上野で産業文化博覧会開会式        
  21永 帝国劇場、十日間露国オペラ、初日「アイダ」
  30読 東京市民の約二割が毎月芝居を見る
10月4読 行楽の人に恵まれた郊外 各駅とも大賑わい
  8読 国技館の大菊花園 満員続きの盛況     
  13読 池上のお会式 人出30万人、賽銭泥18人 
  15読 上野の秋 愛玩動物鑑賞会など午前中3万人 
  24読 靖国神社大祭、能楽・映画などで朝から雑踏 
  24永 荷風浅草観音に賽す。公園内甚寂寞   
  24朝 神宮外苑に野球場完成し開場式、中学選抜 チームに2万5千人入場
  25読 秋晴れの日曜に各列車満員         
  26永 荷風、帝国劇場で米国人舞踏を看る
  30読 新装の神宮外苑に技を競う6千の若人
11月1読 五万の群衆を吸い 火蓋を切った早慶戦 神宮競技第三日
  1読 日曜と大祭日、方々へ押し出た人40万
  4永 酉の市なり
  8読 早慶戦、新田球場に万余のファンを集める
  15読 根岸競馬、馬券200万円で終わる
  15読 晩秋の日曜に押し出た人波
  20読 銀座グランドセール二十日から三十日まで
  22読 目黒競馬、万に近いファン熱狂、2百円の大穴違反者続々
12月10朝 歌舞伎座森有礼」連日満員御礼
  11読 浅草気分を丸ビルで、十日の夜から夜間開場の歳の市
  13読 例年より早い雪 スキーにはどこへ 鉄道省客を呼ぶ大宣伝に着手
  15朝 浅草も人足減った中、祈願に賑わう明治神宮
  17朝 ラジオ、演芸放送中止
  19朝 市内の大劇場休み、映画各館は午後中止か
  23永 荷風愛宕下の歳の市を見る
  24朝 宮城前につどうて涙する市民の群れ
  26朝 本日より改元して「昭和」元年
  27永 丸内日比谷の辺拝観者堵をなす

 

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