大正時代の景気を反映するレジャー

江戸・東京庶民の楽しみ 185

大正時代の景気を反映するレジャー
 人々の遊び心は、景気によって大きく左右される。逆に、景気の善し悪しを、市内のレジャー動向から読みとることもできる。なかでも劇場入場者数は、景気の変化を最も反映しているようだ。
 大正初期の観劇には、着飾って出かけ、芝居を見ながら飲んだり食べたり、桟敷ならではの社交を楽しむという江戸時代から続く、のんびりした優雅な観賞形態がまだ残っていた。また、芝居の一部分しか観ない「一幕限り」の切符も用意されていて、お金や時間の少ない人たちにも芝居を楽しむ機会を提供していた。この人たちの割合は、大正元年では実にこの切符で見た観劇客数が三割以上も占めていた。
 大正時代になると、旧来の観劇スタイルに変化のきざしが見えてきた。それは、帝国劇場が全席椅子席にして、切符の前売りや茶屋の廃止を行ってからである。演劇界が旧習を改めようとした背景には観客の減少があり、特に一幕限りの中流以下の観客減少が顕著であった。その原因は、芝居から映画観賞に向かったことが大きい。また、大正二年(1913)に、松竹は歌舞伎座を入手し、直営案内所を設置、席券はたとえ一人でも場所割表を見せて前売りするという近代的な興行へと移行も進めた。なお、その効果はすぐには現われなかったが、演劇を取り巻く環境は徐々に変化していた。

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劇場入場者数と劇場数の変化

 観客数の増加がハッキリとわかるようになったのは、第一次世界大戦の特需効果が出始めた大正四年(1915)頃からである。この時に観客を動員したのは、伝統的な歌舞伎や小難しい新劇ではなく、喜歌劇とか浅草オペラと呼ばれる新しいスタイルの演劇であった。増えた観客の多くは、それまで演劇とさほど縁のなかった下層階級であった。その演目は、「女軍出征」「サロメ」などの大半が初演というようなものであった。それは、当時の民衆は本物のオペラを知らないから、彼らでも理解できる喜歌劇を「浅草オペラ」として楽しんだ。当時の流行歌に「コロッケの歌」というのがあるが、これなども浅草オペラで歌われていたものである。好景気による観客の増加は、以後大正七年(1918)まで四年間も続き、その数は大正三年の観客数のなんと2.3倍、653万人にも達した。

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貸座敷利用者数の推移

 また、新聞の情報が少なかったので、これまであまり取り上げなかったが、貸座敷(日本大百科全書(ニッポニカ)によれば、「遊女屋の公称。1872年(明治5)の娼妓(しょうぎ)解放令以後、娼妓が営業するための座敷を貸すものとして遊女屋を貸座敷と改称した。」)の客数も景気を大きく反映している。貸座敷利用者数は、景気がよくなる五年頃から急激に増加、八年をピークに景気の後退と共に徐々に衰退傾向を示している。なお、九年以降の利用者数の減少割合が演劇よりも少ないのは、料金のダンピングがあったからである。大正十五年の貸座敷利用数は、九年と比べて11%しか減らないが、金額では28%も減少。また、一人当たりの利用金額は、四円六十八銭から三円七十五銭に、8%も下落している。つまり、ダンピングによって客数を辛うじて保っていたことがわかる。
 料金ダンピングのしわ寄せがどこにいったかというと、それは主に娼妓に向けられた。利用者数は八年から九年には4.4%減少したにもかかわらず、娼妓の人数は逆に12.1%も増加。地方の不景気を受けて、娼妓の数は九年から増えている。娼妓の増加が、また利用料金をダンピングさせることになり、利用者数の減少を鈍らせた。芸妓の数についても、同じような傾向が見られる。芸妓は、遊興者の増加とともに大正六年頃から増え、景気が後退し始めても関東大震災までは増加し続けている。

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娼妓と芸妓の推移

  もう一つ、景気を反映するものとして、飲食店数の変化がある。当時の飲食店は、景気のよい時には他の仕事に就き、景気が悪くなると零細な食べ物屋を出して何とか生計をたてるという傾向が見られる。飲食店数の推移から見ると、景気のピークは大正七~八年頃であろう。なお、関東大震災後に急激に増加したのは、バラック建ての飲食店が雨後の竹の子のようにできたからである。その数は約4千7百軒、七年と比べて六割近くも増加。零細飲食店者の景気状態は、以後も改善されなかったためかその数は減少しなかった。

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飲食店の営業数の推移

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