大正時代の余暇事情と娯楽レジャー

江戸・東京庶民の楽しみ 184

大正時代の余暇事情と娯楽レジャー
・大正期の人口と余暇事情
 大正時代は15年あるものの、実質14年であった。その間の娯楽の変化は明治期より大きく、また、続く昭和戦前までよりも見るべきものがあった。市民が積極的に楽しむ娯楽は、大正ロマンとでも言えるような活気と変化が感じられる。ただ、すべての市民が共通して享受したかといえば、否、必ずしもそうではなかった。目新しいレジャーやスポーツ、大正ロマンを感じさせる活動の主な担い手は、中流以上の階級の人々がになっていた。それでも、大正ロマンの雰囲気は世間に浸透しており、時代に明るさを提供していた。                                東京市の人々、約200万人を上中下に区分すると、納税額から、選挙権のある人々、それ以下で大きく分けられる。まず、大正前期の選挙権のある納税額10円以上、約5万人とその家族(約20万人)を上流と判断する。中流は、その後大正十年に選挙権を得た納税額2円以上(15万人弱)の家族で約60万人。そして、残りの市民120万人以上、つまり全体の約六割が下層に相当する。この割合は、明治以前からあまり変わらないようで、庶民とか大衆と把握されるのは、下層階級の人々が大半を占めている。そのため、下層階級をさらに区分すると、恩賜財団済世会の調査(万朝報四年八月二十六日付)によると細民(最貧層、下層の下)と呼ばれる人々が約20万人いる。そのため、下層はさらに二つ分けられ、下層の上が100万人以上、下層の下(細民)が約20万人とになると考えられる。

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東京の人口の推移

 一口に市民の娯楽レジャーと言っても、階層によって大きく異なっていた。例えば、「例年よりも早い雪 スキーにはどこへ 鉄道省客を呼ぶ大宣伝に着手」(十五年十二月十三日付讀賣)などの記事を見ると、一般市民の間で広くスキーが流行していたと思いがちだ。しかし、アイススケートやゴルフはもちろん、今ではごく一般的な野球やテニスですら、それを行えることがすでに一種のステータスであった。大正時代の中流以下の市民(民衆)は、21世紀の現代人が週休二日が当然のことになっているようなレジャーをしていなかった。
 では、娯楽レジャーを行うのに必要な余暇時間はどの程度だったか。東京市の就労時間を見ると(『東京市統計年表』)、10人以上使用者がいる工場で働く人々の一日平均就業時間は、11~12時間程度。比較的恵まれた近代的な産業でも、中には1日16時間という工場もある。ましてや、零細な町工場では朝起きるとすぐに仕事をし、食事の時間以外はひたすら働き続けるという生活だっただろう。そのため、下層階級は、休日を除けば、余暇時間のほとんどない人が多かったと推測される。
 休日はどのくらいあったかというと、一年の平均就業日数が310~320日だから、平均すると7~10日に1回休みがあることになる。が、正月は連続して休むということを考えると、通常の月は、月に4日休めればよい方だろう。もっとも、統計のサンプルになるような人々は、労働者として比較的恵まれた部類なわけで、町場の職人や店員などの休みは一日と十五日、月に2日のみという状態であった。
 第一次世界大戦後、ILO条約によって1日8時間・週48時間という労働システムが浸透した欧米では、ゆったりとバカンスに出かける人々が増え、労働者にとって休日はなくてはならないものになった。それにひきかえ、東京の下層の人々は、自宅と仕事場の往復をくりかえし、帰宅後もテレビはもちろん、ラジオさえもなく、ただ食べるためだけに働くような生活が続いていた。なお、ラジオの事情は、大正14年で、ラジオ視聴者、東京府9万8千、市内5万6千である。大正15年4月、ラジオ聴取者が二十万人を突破したという記事(二十七日付讀賣)がある。ちなみに料金は一ヶ月1円で、誰もがラジオを持つことが出来ず、まだ市民の半数には達していない。

・庶民の労働事情と娯楽
 当時の下層の人々、なぜ人々は、これほど少ない休日で精神や肉体に異常をきたさずに、働き続けることができたのだろうか。現代では、過労死、精神障害、等々と様々な支障が発生し、社会問題になっている。その理由は以下に示すが、本当のところは理解しがたいものである。
 日本人の労働感から考えてみたい。下層の人々に限らず、賃金増加のためなら残業も厭わないという生真面目いて、間違っても労働時間短縮による余暇時間の増加の道は選ばなかった。その理由として、一つは、あまりにも貧しく、家族を養っていくにはお金を稼ぐことが先決で、余暇のことなど考える余地がなかったということ。もう一つは、確かに労働時間が長く休日も少なかったが、その代わり一日の時間もゆったりと流れており、四季の移り変わりに応じた生活スタイルの変化によって、適当にストレスを発散させる土壌があったとも考えられる。
 大正時代の東京には、江戸時代からの様々な年中行事が存続していて、すべてに参加できなくてもけっこう自身でやったような気分を味わうことができた。また、都市生活といっても、大半の人々は夜更かしなどとは縁のない規則正しい日常生活を送っていた。民衆の時間の使い方は昔から合理的でないと言われているが、反面あちこちに息抜きをする時間と場所が残されていた。また、労働にしてもすべての人が単純で過酷な仕事をしていたわけではなく、仕事の中に遊びの部分が残されていた。これは、気概のある職人(工場労働者を含む)の中には、欧米においてバカンスを要求したり、休まなければ働けないという労働者のいることに疑問を感じる人がいたことからも理解できる。
 東京の下層階級は、地方から流入する人が大半を占め、様々な労働形態の人々によって構成されていた。もっとも産業が発展するためには、住民の入れ替わりの激しいほうが好都合であった。特に関東大震災による人口の変化は著しく、流動的な人々を輩出した。大正時代のレジャーが初期と末期では変化するのも、こうした社会変化の影響を少なからず受けていたからである。
 大正時代はせいぜい15年程度の短い期間ではあったが、その変化を見てみよう。変化を生じさせたのは、行動範囲の拡大、人口の増加による地域事情と嗜好の変化が影響したと考えられる。行動範囲は、交通機関の発達によって、行動半径が拡大し、日常的な活動から一日がかりのレジャーが増大した。これも、人口増加に起因する部分が多くあり、より加速されたといえる。人口増加は、地域社会の構成を変化させ、地域と結びついたレジャーが減って、個人的なレジャーを増加させた。また、娯楽レジャー人口の増加と共に、人々の活動量も全体的に増加させた。これらの変化を、レジャーの参加率を中心に見ると、次のようになる。
  活動の割合は5段階に区分する。①非常に多い、②多い、③普通、④少ない、⑤非常に少ないである。
1.非常に多い
 「非常に多い」は、「初詣」のように誰もが出かける、東京の半数以上の人々が行う活動である。
 多いといっても、市民の半数以上が行なう活動は案外少ない。例えば、観客が200万人を超えると言われた寄席は、一人の愛好者が一年に数回聴きに行くことから、全市民の参加割合にすると案外低くなる。
 逆に、季節が限定される花見のような活動は、延べ数は少なくても、全市民の参加割合として見ると高くなる。
 そもそも、大正時代の市民レジャーの参加率を見ると全般的に低い。これは現代でも言えることで、誰もがやっていると思われるレジャーでも、実際は半数程度かそれ以下でしかないということが多い。実際、日本人の50%以上が行ったレジャーとなると、現代でもわずかに四つしかないというのが実情である。
2.多い
 「多い」は、観劇のような活動、自分が行わなくても、家族の誰かが行っているものを示す。四人に一人以上の参加率がある。
 大正初期と後期の違いがあるのは、見世物である。江戸時代から続く見世物人気は、明治後期から減少傾向が見られた。
3.普通
 「普通」は、花火のように自分が出かけなくても、両隣の家で誰かが行っている活動を示す。参加率は10%以上。
 ここで増えたのは、交通機関の発達により、紅葉狩りなどの行楽、海水浴や水泳などが容易になったためである。逆に減少したのが博覧会。
4.少ない
 「少ない」は、野球や相撲のように町内の誰かが見ている程度の参加率(1%以上)の活動であ  る。地域や所得階層などによって偏りがあり、東京の一部の人々が行う活動になった。
5.非常に少ない
 「非常に少ない」は、スキーのように東京のごく一部の人、特定な階層の余暇活動である。新聞 のニュースとしては価値があるものの、実数としては人口の1%に満たないものと考えられる。

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 注:現代のレジャー活動は、自由時間デザイン協会「レジャー白書」を参考にする

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