江戸・東京庶民の楽しみ 187
変わりゆく大正時代の娯楽・レジャー
・レジャーとしてのスポーツ
大正時代のスポーツと言えば、野球であろう。子供たちの間では、野球も相撲と同じように遊びの一つとして日常的に行われた。しかし、大人となるとまだ観戦が主で、実際にプレーする人は非常に少なかった。また、スポーツ観戦と言っても、球場や国技館にわざわざ出かけ行く人は少数で、市民の一割にも達しなかったと推測される。ナマで見ることが少ないわりに人気があったのは、新聞の存在が大きかった。シーズン中は毎日のように記事を掲載し、市民の関心を高めることに貢献した。
また、新聞社は、話題を呼び、採算のとれそうなスポーツ競技大会を主催。さらに競技の一部始終を記事にした。それらによって、スポーツ観戦はかなり広がったと思われる。もっとも、新聞記事が盛況を伝えるほど観客が入ったとは思えない。入場料金などから導かれた人数ですら五割程度は水増しされており、無料の競技であればさらに何倍もに見積もるのはあたりまえのことであった。競技大会の観衆は、学生・生徒、それに競技関係者が大半であり、ウイークデーの昼下がりにスポーツ観戦ができるような市民は、当時はまだあまりいなかったはずである。
大正十三年、明治神宮外苑に本格的な運動競技場が完成すると、新聞は以前にも増してスポーツの紙面を拡大した。また、これまで個別の競技ごとの団体が取り仕切っていたところ、国が「明治神宮競技大会」を開催することによってスポーツ全体の主導権を握った。と同時に「国威発揚」となるスポーツ競技を奨励し、陸上競技を初め様々な競技が市民に注目されるようになった。ちなみに、この頃結成されたスポーツ組織には、十二年に日本軟式庭球協会、日本ホッケー協会、十三年に日本女子体育協会、日本体育連盟、十四年に全日本陸上競技連盟、全日本スキー連盟、財団法人大日本相撲協会、東京六大学野球リーグ、十五年に日本女子スポーツ連盟、日本ラグビー蹴球協会などがある。
では、小僧さんなど民衆が行っていたスポーツにはどのようなものがあったのだろうか。野球やテニスを行う人もいたが、むろんこれはごく少数。本格的なスポーツを行う環境は整っておらず、あるのはプールや弓矢、ビリヤード、ローラースケートなど有料の遊技場程度。工場などに運動場が備えられている例もあるが、ハードな練習をする利用者は限定されていた。当時本当に人々に受け入れられたスポーツとは、納涼を兼ねて年々盛んになった水泳ように、国が薦める方向とは異質のものであった。
水泳は、大正三年には「この頃の水泳・自慢のお若い姐さん」(七月二十四日付讀賣)と、女性が泳いでいるだけで即ニュースになったくらいであった。それが、八年には「婦人の水泳者 近頃滅切殖えて来た」(八月九日付讀賣)と。関東大震災以後は市内の河川で泳げなくなったこともあり、大正時代に海水浴は年中行事化していく。
また、ローラースケートが市民に認められたのも大正時代である。「スケートローラの大流行」(二年四月二十一日付報知)と、ごく一部ではあるが毎日のように訪れる“愛ゴロ家(愛好家)”もいたようだ。市内20余のスケート場のなかで最も注目されたは、有楽町(麹町区)の東京スケートリンク。当時の利用状況(十二月七日付讀賣)はというと、華族の黒田、松方、西郷諸氏や俳優の尾上菊五郎、帝劇の森律子などのほか、外国大使館員や学生、藝妓……と、様々な人々が滑っていた。一方、約11m四方のスケートリンクの階上では、一杯五銭のコーヒーを飲みながら他の人がスケートするのを見物していた。
作家・有島武郎の「観想録」には、大正五年七月十五日に二人の子供を連れてローラースケート場に出かけたことが書かれている。といっても彼らが実際にすべったわけではなく、最初、日比谷公園に出かけたところ、子供達がまったく元気がなくなったため、急きょスケート場に連れて行った。そこ(東京スケートリンクか)にはボウリング場、射的場、ビリヤードなどがあって、子供達が大喜びしたというもの。
・関東大震災以後に目立った娯楽・レジャー
関東大震災の後、市民レジャーに現われた変化として、ビリヤード(分類上球技)と麻雀等が急激に増加する。また、郊外開発にともなって谷津遊園と多摩川園などの遊園地も開園している。これらのレジャーの増加傾向は震災前にもあったが、ハッキリと目立ってきたのは震災以後で、昭和になるとより顕著になる。
ビリヤードについては、読売新聞が大正十五年から大々的に取り上げ、四月には日本橋劇場において第一回撞球全日本選手権大会の開催など撞球界の動向を伝えた。当時、市内には撞球場が660軒あったことから、少なくとも年間100万人以上の利用者があったものと推測される。
裏付けとなる具体的なデータはないが、同様に麻雀も増えている。また、碁会所も十四年に2百ヶ所以上も増加しているので、囲碁・将棋の愛好者も急激に増えたものと思われる。
東京市郊外の宅地開発は、関東大震災以後著しく増加。郊外住宅が増えるに従ってガーデニングも盛んになった。森鴎外のガーデニングについては以前触れたが、永井荷風は鴎外よりもさらに熱心で、毎年のようにチューリップやサフランなどの植え替えを行っている。ガーデニングは大正時代にも盛んだったらしく、新聞には毎週のように園芸記事が載せられている。また、行楽シーズンにはあちこちの花の名所が紹介され、大勢の市民が訪れて、苗や球根を購入していた。大正時代に人気のあった花は、江戸時代からあるボタンや野草に加えて、欧米から入ったダリアやチューリップなどであった。
大正時代には、郊外型の遊園地が成立した。まず、大正三年六月に新装披露した鶴見の花月園が多彩な催し物とリニューアルによって成功。以後、大正十一年(1922)五月の荒川遊園の開園などがある。これらの遊園地は、浅草の花屋敷的な雰囲気を残していた。しかし、大正十四年(1925)京成電鉄によって開園された谷津大遊園地になると、本格的な郊外遊園地となる。谷津大遊園地は、本所押上から約40分(運賃36銭)、谷津海岸下車、入園料は大人20銭・小人10銭、夏期は連日数千人の入場客によって賑わった。名称が谷津海浜遊園とあるように、潮干狩りや海水浴場を中心にした海浜の自然公園で、約100haの敷地に、宮島式の大回廊、海水プール、演芸館(太神楽、映画、手品等の余興)、大滑り台等の遊具が整備されており、将来は温泉や大劇場も建設予定という。
同じく十四年の十二月に開園した多摩川園は、まさに「東の宝塚」ともいうべき遊園地。蒲田から目黒蒲田電車(現在の目蒲線)で約15分、丸子多摩川駅(現在の多摩川園駅)の東側にあった。駅を出ると左手にまるで夢のお城が出現したという印象。入園料は大人も子供も同額で30銭。多摩川園の売り物は、まるでプールのように大きな浴場。イタリア大理石を張りつめ、湯が溢れ出る滝、トルコ風呂、化粧室、休憩室など、ぶるぜいたくな作りであった。風呂から廊下続きの二百畳の子ども遊戯室があり、雨天でも子どもが遊べるだけの運動場や遊び道具が揃っていた。その他、園内の遊具には、陸上波乗り、飛行灯、動物園、音楽堂、パノラマ館などがあった。なお、乗物の利用は10銭。開業後、半年間の平均入園者数は288人とかなりの人が訪れていた。夏には花火が打ち上げられ、夜間も営業、25mを越える鉄塔のライトから照らされた多摩川園はまるで不夜城のようであったという。
大正十五年(1926)には、藤田好三郎が演芸施設と体育施設を一体化した約30haの遊園地として、豊島園を開園。この場所は元々豊嶋氏によって築かれた練馬城の跡地の一部であることから、「豊島園」と名付けられた。当初の豊島園は遊園地とは言うものの、花見の名所として自然公園のようなものであった。ただし、これらの遊園地は、大正時代に生まれた画期的なレジャー施設であることに間違いないのに、なぜか開園に関する記事を見つけることができない。現代なら開園と同時に、大勢の子供たちが殺到し、一大ニュースになるはずだが、これはどういうことなのだろう。当時の子供たちは、遊園地の存在を知らなかったかのだろうか。いずれにしても、休日、遊園地に家族そろって出かけるというスタイルは、まだ中流以上の市民にしか普及していなかったようだ。