ガーデニングを楽しむ 2

ガーデニングを楽しむ 2
 
江戸時代に学ぶガーデニング                                  江戸名所図会より
イメージ 1 江戸時代の園芸は、上は将軍から下は長屋住まいの庶民にいたるまで幅広い層によって楽しまれていた。日本人の植物好きという特徴は、何も江戸時代に限ったことではない。記録にはっきりとは残っていないが、万葉以前からと考えてもよいだろう。なぜ、園芸好きになったかというと、身のまわりに色々な植物があり、四季折々に多彩な変化を見せてくれたために、自然に人々の向けられたのだ。また他の芸事には道具が必要であり、歌を詠むにも教養が必要とされるが、花や木を育てるのなら、金もかからず気楽である。つまり、貧富や身分の上下に関係なく、容易に楽しめることが、多くの人々を園芸好きにさせたのだ。
 園芸の楽しみは、植物の持つ様々な力に起因する。植物を育てているとなぜか気持ちが落ちつき、心もなごんでくる。このことは、江戸時代にあっても同様で、伊藤伊兵衛政武は、『広益地錦抄』の序文に「珍しい植物を庭に植えて観賞し、香りをかげば、気がまぎれて心を癒す効果がある」などと書いている。大半の植物が持つ緑色には、心を落ちつかせる働きがある。また、植物から発生する芳香物質には、様々な効用がある。神経を鎮める性質がよく知られているが、中には、殺菌効果や消炎作用などを持つものもある。
 近年、アロマテラピー(芳香療法)と呼ばれる、薬草や香料などによって、神経、呼吸器、循環器、消化器などの各系統を刺激して治療を行う医療方法が注目されている。また、ホーティカルチュラルセラピー(園芸療法)と呼ばれる、植物の育成活動を通じて、身体や心の状態の向上を促し、鍛練する療法も、行われている。植物には不思議な力があって、人の心を動かし、変えていく力を持っている。つまり、園芸によって、知らず知らずのうちに心が癒され、体調も整えられるのである。
 政武は、『地錦抄付録』の巻末に、「自分の育てた花を誉め、他人の花を貶すのは、本当に花を愛する人ではない、花を楽しむためには慢心は無益である」と書いている。また、キクを育てるには、清らかな気持ちが肝要、松平頼寛も『菊経』で述べている。江戸時代の園芸人たちは、植物を自分の意のままに育てようとはと思っていない。むろん、丹精はこめるが、できる限りのことをしたら、後は自然の力に委ねていたようだ。また、彼らの書物からは、植物を育てているというより、育てさせてもらっているというくらいの謙虚な気持ちが必要であるとの思いが伝わってくる。変化朝顔について調べていくと、園芸に携わった人々は、人の力の限界を知った上で、天の力、時の運に任せるといった非常に謙虚な一面を持っていたことがわかる。これは、現代でも同様で、この心構えだけは忘れたくない。
 今や、世の中全体が刺激過剰になって、感動することが少ない。草花を見ても美しさをあまり感じない人がふえている。植物の美しさは、植物自体にもあるが、それと同時に、その美しさを感じる人の心、美しいと思う心が十分に育っていなければ感動は薄くなる。ということは、園芸は、美しい植物を育てるとともに、美しいと感じる感性をも育て上げている。江戸の多くの園芸家は、植物から豊かな感性を育ててもらっていることに気づいていただろう。
 そのため、園芸家は育ててた植物を生き物として大切に取り扱った。たとえば、アサガオの変わりものを得るため、何千という種を発芽させ、数本の苗しか生育させない場合がある。現代であれば、工業製品と同じように必要以外の苗は、いとも簡単に廃棄してしまう。しかし、江戸時代には、朝顔塚をつくり供養するといった心遣いを忘れなかった。
 園芸を科学的に見ることから、バイオテクノロジーなどによる新種の開発や栽培技術の革新は必要であろうが、江戸園芸に培われた文化面、とりわけ精神面をもう一度見直すこともあってもよい。江戸時代の園芸植物は、ぱっと見のインパクトに欠けるが、長い間見ていても飽きない美しさがある。現代人に失われた感覚を、江戸の園芸植物と向き合い、じっくりと味わうことは、日本人の勤めではなかろうか。そして、日本ならではの園芸文化を、後世に正しく伝えていくことも大切なことである。