プラントハンター その1

プラントハンター その1

江戸時代に訪れたプラントハンター
 アサガオ、ウメ、キク、ボタンと聞けば、江戸園芸を彩る最も日本的な花と思いがちである。しかし、これらの植物は、もともとわが国に自生していたのではなく、何百年も前に中国などから入ってきたのである。長い間栽培されているうちに、わが国の自然に順化して日本的な様相に改良されたため、いつのまにか外来植物とは感じなくなってしまったのである。
イメージ 1 さて、近年流行しているハーブについても、西欧の植物だと思っている人が多いのではなかろうか。また、チューリップ、カーネーショングラジオラスなども西欧ならではの花だと疑わない人がいる。実は、原産地を調べると、意外にもその大半はガーデニングの盛んな西欧地域以外から持ち込まれたものである。それは「プラントハンター」と呼ばれる人たちが、世界中を渡り歩いて植物を集めたものである。
 プラントハンターは、金やダイヤモンドなどを探しに出かけた人たちと同じように、未開の地への危険な旅にも臆することなく、むしろ積極的に訪れた。このようなプラントハンターは、江戸時代の日本へも何人かが植物を求めて来た。その中で、最も注目すべきは、ケンペル、ツュンベリー、シーボルト、フォーチュンの四人であろう。なお、ケンペル以前にも、ドイツ人のクライエルが1682年に日本を訪れ53種の日本植物を紹介するなど、プラントハンターの歴史は意外に古い。
 ケンペル、ツュンベリー、シーボルト、フォーチュンの四人は、日本の植物学、ひいてはガーデニングに大きな影響を与えている。そして彼らは、江戸期の園芸を総覧するように、17世紀末、18世紀中頃、十九世紀初期、そして幕末に訪れている。そこで、四人がどのように江戸時代の園芸を見たかを紹介したい。
 
ケンペルが気づいた植物の美しさ
  1690年(元禄3年)9月23日、ドイツ人であるケンペルは、オランダ人になりすまして、長崎から入国している。当時、日本は鎖国しているため、外国人が自由に入国することはできなかった。そこでケンペルは長崎・出島のオランダ商館付きの医者という身分を得て、国籍を偽って入国した。医者であることによって、商館長の江戸参府旅行に同行でき、むろん制約はあるものの日本国内での植物探しも可能となった。
 ケンペルの植物探しは、二回の参府旅行の行程、長崎から江戸までの間で行われた。江戸への旅行は、陰暦の1月15日頃(現在の2月末)に出発し、大村、佐賀、小倉、下関より瀬戸内海を渡り大阪に入り、そこからまた、京都、大津、四日市、名古屋、浜松、箱根、鎌倉を通り江戸へ到着した。ケンペルは、この間に植物を探し求め、著書『廻国奇観』の第五部「日本の植物」には523もの植物名があげられている。その本には、美しい一ページ大の図が28点も示されている。彼が最も関心を持ったのは、カジノキなど紙の材料と茶であった。この書は、後に日本を訪れたツュンベリーが、座右の書として携行していたことからもわかるように、以後の日本植物研究に多大な影響を与えた。
 彼が見た植物は、街道周辺、都市内の庭園が中心になっているが、その非凡な観察力に注目したい。概してプラントハンターと呼ばれる人々は、食料や香辛料、美しい植物を探しだすことだけに主眼をおいた人たちが多かった。そのなかで、ケンペルは、日本の植物を美しい図で西欧に紹介しただけでなく、美しい植物をさらに美しく見せる技法についても高い関心を示した。
 それは、彼が関心を寄せた生け花や作庭は、植物本来の持っている美しさをより際立たせる日本独自の様式である。元禄時代の植物を観賞する文化は、西欧を凌いでいたことを認めていたのだろう。『江戸参府旅行日記』(斎藤信訳)に「築山や岩がつり合いよく技術の粋を尽くしてうまく配置され、庭は自然の山のような眺めである」とか「大きな森を感じさせるような植栽技術をもっている」などといった興味深い記述が見られる。さらにケンペルは、元禄時代に完成された「わび」「さび」についても、ある程度の理解力があり、好んで鑑賞していたことが推測できる。
 
壺庭に魅せられたケンペル
 植物への関心は、単なる植物学的な研究にとどまらず、その扱いや使用法はもとより、果ては日本文化にまで及んでいる。特に、「生け花」や「壺庭」に対する関心は、ケンペルならではの深い考察を残している。彼は、旅行中にちょっと一休みするような所でも、周辺の植物や景観を丹念に観察し、低級の旅館・小料理屋・茶店などにおいても、日本人の自然観とでも言うべきことがらを観察している。たとえば「このような場所であっても、室内から花の咲いている植物や小高い遊園、さらさらと流れ落ちる小川、そういったもののある緑の裏庭が快く目に映る。また店先に置かれた花瓶には、花をつけた小枝(ケンペルには、ちゃんとした花の咲く植物はこうして使うにはもったいない気がしたらしい)が、大へん上手に活けてある」などと記述している。そして、このような美意識は、その日暮らしのちっぽけな料理屋や茶店でもごく普通に見られ、店は貧弱でも、通り過ぎる旅人に十分な安らぎを与えていることに、ケンペルはいたく感心している。
 また、旅館に滞在している時には、植物への関心は一層強いものになっている。たとえば、部屋の違棚の下を見ると、花瓶があり、季節の移り変りに応じて美しい花が咲く種々の小枝を挿しているのを見て、それが華道の規則に従って活けられていること、また、この花を飾る技法が、西欧の食卓で肉の切り方やナプキンのたたみ方を教えるのと全く同じように伝授されているというようなことまで、こと細かに解説している。
 坪庭については、接木したウメかサクラかアンズの老木が一本植えてあるというのがほとんどだが、その木は、古くて曲がりくねっていて、枝ぶりが変わっているほど上品で高価だと彼は書いている。さらに、これらの植木は、しばしば庭の長さだけ枝を水平に延ばし、たくさん花が咲くように、一本か二本の枝を残して他の枝は落としてある。そうすれば季節が来ると、この一隅にはピンクや八重の花々が信じられないほどに咲き揃って、非常にすばらしい眺めになると、ケンペルは、坪庭の演出効果にまで言及している。
 
植物愛好家の要請で訪れたツュンベリー
 ケンペルが日本を訪れてから85年後の1775年(安永4年)、スウェーデン人ツュンベリーは5回もの暴風雨に遭遇しながらようやく長崎にたどり着いた。来日にあたっては、日本の未知の植物に関心を持ったオランダの裕福な植物愛好家たちの要請と資金援助を受けている。ツュンベリーが日本を訪れた目的は、日本の植物誌を作成することと、日本の植物を西洋に持ち帰ることであった。
 植物愛好家が日本に注目したのは、オランダと同じく温帯に位置する日本には、まだ見ぬ珍しい植物が多く生育しているだろうと考えたためであった。ツュンベリーは、オランダに持ち帰って栽培する際に必要な気象データの入手も行っている。具体的には、1775年9月10日から翌年の10月31日まで、一年以上にわたって天候と気温(朝、正午、午後、夕方の計四回)の測定をしている。なお、この温度測定は、日本における初めての測定である。
イメージ 2 ツュンベリーも、ケンペル同様、オランダ商館の医者として日本に入国し、長崎周辺と江戸参府の道すがら様々な植物を採集した。滞在中には、蘭方医中川淳庵らと交流を深め、日本の医学や植物学の発展におおいに貢献した。中でも一番の業績は、日本の植物を812種紹介した『日本植物誌』を作成したことであろう。これは、近代日本植物分類学の基礎をなすもので、この中には新属26、新種390が含まれていた。また、伊藤伊兵衛の書いた『地錦抄』『草花絵前集』、法橘(橘保国)の『絵本野山草』などを中川淳庵からもらい受けて、それらの書を西欧に持ち帰った。
 
カエデの好きなツュンベリー
 ツュンベリーの書き残した『江戸参府随行記』(高橋文訳)の中の植物観察は、オランダでの栽培を前提にしていたためか、妙に詳しい。たとえば、三島(静岡県)で家の外に束ねられて吊るされているセキコクを見て、土中に根をおろさない寄生植物、水分や養分がなくても何年かはもちこたえ、しかもその間に花を咲かせると、書いている。また、イワオモダカが鑑賞用に鉢栽培されているのを観察して、ヨーロッパへ移植するのはむずかしいと判断している。
 記録にとどめている植物は、園芸植物にとどまらず農作物についてもふれている。さらに熱心なのは自然の中、箱根越えの時であった。名目は、急な坂道なので駕籠からおりて、駕籠かきの負担を軽くするとのことで、自由に歩くことができた。ツュンベリーは、かつてアフリカの山々で岸壁を駆け登って足腰を鍛えていたこともあって、山中の歩行は植物採集の絶好の機会となった。健脚な彼は、険しい山道になれば随行者の役人より自ずと先に進むことになり、追いつくまで時間に好きな植物にふれて楽しんでいた。そんな植物観察のなかで最も彼の心をとらえたのは、カエデであった。
 ツュンベリーは、三島から箱根へ向かう途中、チリメンカエデ、ハウチワカエデ、イロハカエデ、オオモミジ、イタヤカエデ、トウカエデなどを見つけた。気に入ったらしく、この地方特有のきれいなカエデ類は、優雅さにおいて他の植物に勝るものはないと述べている。季節が四月(旧暦)であったため、ようやく花が咲き始めたばかりであった。そのため、種子を取ることができず、非常に残念だったらしく、町で小さな鉢植えを注文し、大変な費用をかけてまで長崎に運んでいる。
イメージ 3 彼がアムステルダムに向けて送った植物は、カエデ属の他に、クコ属、ニシキギ属、スイカズラ属、ウメ属、ソテツ属、ヒノキ属、ミカン属等であった。ツュンベリーは、多くの植物を西欧に持ち帰ると同時に、日本には彼の名前(学名に)を多くの植物に残している。それらの植物には、カエデの他にも、「家に幸福をもたらすという」アオキ、ナンテンを採集して、Aucuba japonica, Nandina domesticaと学名を付けている。