江戸時代の並木

江戸時代の並木
 
松並木道は、江戸城「松の廊下」へと続く
 江戸時代、東海道五十三次の松並木や日光の杉並木などをはじめとする並木は、世界でもっとも素晴らしかった。それは、途方もないくらいの長さや見た目の美しさという観点からだけではなく、保護や管理の面から採点してもヨーロッパの並木よりもはるかに優れていた。元禄三年(1690)に日本を訪れた博物学者ケンペル(ドイツ人)や安永四年(1775)に来日した植物学者C.P.ツュンベリー(スウェーデン人)らは、皆、一様に日本の並木や街道に注目し、的確な評価を残している。
 並木が優れていたということは、街道の往来が絶え間なく、しかも道路および街道利用が西欧より優れていたという証拠でもある。ゆえに江戸時代の街道は、文化的な面からもっと評価されて良いと思われるが実際にはあまり関心が集まらない。当時の街道の素晴らしさをいうと、たとえば、上りの旅をする者は左側を、下りの旅をする者は右側を行くという暗黙のルールがあった。つまり旅人がすれ違う際に、相手を不安がらせたり、邪魔したり、害を与えたりすることがないよう、そこまで配慮されているとツュンベリーは書いている。こうした状況は、本来なら文明が進んでいた、ヨーロッパでこそ実現されていてしかるべきである。ところが実際のヨーロッパでは道を旅する人は礼儀をわきまえず、気配りを欠くことがしばしばあったようだ。
 そもそも、日本では、道をだいなしにする車輪のついた乗物がないため、道路は良好な状態で、より長期間保たれることが可能だった。さらに街道をより快適にするために、道の両側に灌木が植えられた。このような生垣に使われるものに茶の灌木もある。里程を示す杭が至る所に立てられ、どれほどの距離を旅したかを示すのみならず、道がその先どのように続いているかも記している。日本の街道では、「自慢も無駄も華美もなく、すべてが有益な目標をめざしている」と、ツュンベリーは感心している。
富嶽三十六景より
イメージ 1 江戸時代の道路及び並木の整備は、天正三年(1575)に織田信長が命じたからこと始まったと見てよいだろう。その内容は、街道の道幅を決め、曲がった道は真っ直ぐに直し、牛馬のために転石を除いた上で、松や柳の植栽を命じている。江戸時代になると、幕府は慶長九年(1604)、東海道をはじめ街道に一里塚を整備し、松並木を植えさせている。並木用に選んだ樹種として、杉ももちろんあるが、松の多いことに注意したい。松は、高木になると移植が難しいが、活着すれば日照りや踏圧に堪え、維持管理の楽なこと、寿命の長いことなどが長所である。また、花好きで知られた秀忠や盆栽(はちうえ)好きであった家光など歴代の将軍らの好みも無視できなかったのではないか。                                                                             草木錦葉集より
イメージ 2 寛永三年(1626)、家光二度目の上洛に際しては、松の補植や枯れ木の取り払いが行われている。その時、街道は儀式の晴れ舞台にふさわしく、道の端には芝生が張られ、三間置きの立砂には竹が挿されていた。この松と竹は、秀忠の幼名「長松」、家康の幼名「竹千代」に因んだものであり、松の不老長寿のイメージが「松平家」の繁栄につながるものとして重用されたと見られる。こうして江戸・京都・大坂を結ぶ並木道は、「将軍の道」となり、松や竹を飾ることで、将軍の通行を祝い、徳川家の繁栄を祈念する街道景観を見事に演出した。さらに、この松と竹の並木道は、江戸城における「松・竹の廊下」へと続くものであった。
 
並木の管理も江戸時代の文化
 後に、将軍の上洛が絶えてからも、並木は「公儀の道」の象徴として維持管理の徹底が申し渡された。たとえば、五人組条目に並木植継の義務があげられ、代官や給人には並木保護と植継が命じられた。朝鮮使節通行に際して、特に松並木の植継が命じられたことでもわかるように、並木は幕府の威信を見せつけるためのものでもあった。したがって、幕府の力が低下した幕末期には、並木の枯損や枝折れなどが目立ち、街道景観も見劣りするようになってしまった。
 ところで、街道の並木は、通行人や周辺の住民たちに必ずしも歓迎されるだけのものではなかった。現代でも並木をめぐるトラブルは決して少なくないが、江戸時代にはもっと深刻であった。なかでも、並木による日影の存在は、田畑の収穫に大きく影響したが、ほとんどの場合、農民は泣き寝入りをする他なかった。しかし、享保十一年(1726)並木の影になるとされた農地は、石盛を軽減する措置がなされ、再度同二十年にもそうした措置が徹底された。これは、街路樹となった唐楓(トウカエデ)を、世間に広めよと申し渡した八代将軍吉宗の意向が反映されてのことかもしれない。
 また、並木を傷つける人は江戸時代にもやはり存在したと見え、取締りの高札が建てられている。植えつけたばかりの苗の側を踏みつけたり、枝を折ったり、さらには焚き火をしたりと被害は多かった。幕府は、道幅や並木敷きの問い合わせに対し、文政七年(1824)、道幅は二間以上、並木敷きは九尺以上と答えている。もっとも、この幅は最低限の数値を示すもので、日光道では並木敷きだけで片側二間、合計十間になっている。このように設置基準を示すと同時に、幕府の御庭番が現地に出むいて並木の点検をしていた例もあり、幕府による取締りはきびしかったようだ。
 当時、並木の管理は厳しく言い渡されており、勝手に枝下ろしや故損木処理をすることは難しかった。特に、立ち枯れや倒木の処分は、道中奉行の支配下にあり、たとえ領主といえども勝手に手をくだすことはできなかった。並木の処分量が多い場合には入札が行われ、払い下げ代金の内、天領分は「道中筋並木御払代」として幕府金蔵に納められた。そしてこの金は、道中筋関係費用として使用された。
 
元禄時代の街道景観
 では、元禄時代の街道景観がどのようなものであったのか、長崎から江戸まで旅したケンペルの『江戸参府旅行日記』(斉藤信訳 ㈱平凡社)から紹介したい。まず並木について、西海道の一部と東海道では、旅行者のための木陰となる松の木が、街道の両側に狭い間隔でまっすぐに植えてある。素晴らしいのは、並木だけでなく、街道のランドマークになるような大木が当時すでに存在したという事実である。日記によるとその木は、肥前の国彼杵(そのぎ)から約一時間進んだ二の瀬という村にある楠木(クスノキ)の大木である。
 この楠木は、百三十五年後に訪れた医者・日本学者シーボルト(ドイツ人)も注目している。楠木の幹には空洞があり、根元の太さは約17メートル(直径5.4メートル)、その大きいこと、なんと15人もの人間が入れるほどであった。この木は、弘法大師の杖から出現したと伝えられていて、さすがにシーボルト自身は信じていないようだが、それでも八世紀頃からあっただろうということは認めている。なお、この大楠木は、明治二十年(1887)頃惜しくも切り倒されたという。
 さらに、並木の脇には、簡単な排水口が作られていた。雨水は、低い畑地に流れるようになっていて、みごとな土堤が高く築かれていた。身分が高い人が旅行する場合には、街道は通行の直前に箒で掃かれ、また両側には数日前に砂が運ばれ小さい山が作られる。これは万一、到着時に雨でも降れば、この砂を散布して道を乾かすためであった。
 では、この街道の整備は、誰が行っていたかと言えば、近所に住む百姓たちである。当時の道路管理は百姓にとって無料の奉仕活動ではなく、大変有益なものだったようで、ケンペルの言葉を借りると「欲得ずくで不潔なものを利用するので、道路を清潔に維持することについては、ほとんど苦労することがない」ということになる。何がそんなに儲かるかのかと言えば、まず、道路の清掃は毎日落ちてくる松葉や松かさなど焚物として利用でき、薪の不足を補ってくれる。ところかまわず落とされる馬糞は、百姓の子どもが馬の後を追いかけ、まだぬくもりがあるうちにかき集め、自分の畑に運んでいく。すり切れて捨てられた人馬の草鞋なども拾い集められ、ゴミとともに焼かれ、灰(カリ肥料)とされる。
 馬糞についてはわかったが、人間の排出物はどのように処理されていたのだろうか。これについてもケンペルは街道で几帳面に観察している。まず、将軍の一族や身分の高い人の場合は、二、三里ごとに木葉葺きの小屋を路傍に設け、垣で仕切り目立たないようにする。利用者は街道からおり、その小屋で一休みするとか用便をした。
 一方、庶民のトイレはどうしていたのか。その疑問についてもケンペルは答えを用意してくれている。このトイレ、百姓が自費で作っていた。有料トイレでも作って儲けたらよさそうなものだと思うが、実は逆で、百姓たちはたとえ金をだしてでも旅人にトイレを使ってほしかったのだ。なぜなら、当時の旅人の糞尿は重要な肥料で、少しでも多く集めて、前述の灰などと混ぜ合わせ肥料として使ったからである。それに、これは推測だが、旅人が残していく糞尿は、今のグルメ旅行とまではいかなくても、普段よりはぜいたくをしていると思われ、百姓のものよりは肥料分が高かった。そのため、人より多くの糞尿を集めようと思えば、女性がさほど抵抗なく入れる程度にこぎれいなトイレを自費で提供したものと思われる。                                                富嶽百景より
イメージ 3 当時の街道には、毎日信じられないほど大勢の人が歩いていた、人出の多い季節には住民の多いヨーロッパの都市の街路と同じくらい、人が街道に溢れていた。なかでもケンペルが注目したのは、伊勢参りと巡礼。伊勢参りは、大抵歩いていたが、馬に乗っている人も少しはあり、時には一頭の馬に二、三人が乗っているのも見かけた。また、いろいろな乞食も目に入った。たとえば、表向きは伊勢参りを装って体が元気な間は、一年の大部分を街道で物乞いして過ごす者がいる。また、こっけいなやり取りで物乞い旅行をしながら伊勢参りをしたり、他人の眼を引くようなことをして、上手に銭を集める者もいた。さらに、街道の混雑に拍車をかけたのが大名行列である。大名行列は街道を頻繁に往き来し、大藩の行列ともなると、一日や二日では済まず数日間にわたって街道を占拠することになるからだ。