明治十年さらに強まる遊びの制約 

江戸・東京庶民の楽しみ 106
明治十年さらに強まる遊びの制約 
二月西南戦争勃発/六月万国郵便連合条約加盟/九月西郷隆盛自刃
・独楽や凧揚げまで禁止に
 明治十年(1877)になると、庶民の娯楽を制約したり、禁止したりする動きがさらに強くなった。二月、市街で凧揚げ、羽打ち、独楽等を行うと交通の障害になるという理由で禁止する布達が出された。楊弓店の増加に対しては、風紀の悪化を防止するため楊弓店取締規則が定められた。それは、楊弓店は表向き、大小様々な的を弓で射る遊び場であった。が、そこには「矢取り女」と呼ばれる化粧をした女がいて、客は弓よりそうした女たちを目的に訪れていたからであった。
 五月には、神田花岡町や飯田町の空き地で行われていた、木戸銭1銭から1銭5厘という見世物興行が閉鎖された。七月、水の事故を防止するため、許可されていないの場所での遊泳を取り締まる。八月、見世物の営業は日没までと定め、夜間の興行は禁止された。禁止や取締がこれだけ厳しくなると、一部の人だけではなく一般庶民も影響を受け、不自由な思いをする人が多くなる。しかし、上からの取り決めに表立って反論したり、不服を訴えるような者はいなかった。
 むろん、細かく見れば、すべてが禁止されたわけでない。二月、浅草公園内の揚弓店(揚弓70、大弓10)では夜間営業が認められているし、十一月に回向院の相撲興行の再興が許可されたりしている。ただ、それによって恩恵を受ける庶民の数はそれほど多くはなく、どちらかといえば興行者や経営者側が利益を受けるものであった。庶民の娯楽に対する政府の干渉は、はじめのうちは税収増加が目的であったが、後には風紀や治安の維持、さらに言えば政府そのものを守るために行われるようになっていった。
秋葉原が盛り場となる
 当時の東京には、江戸時代の火除地である「原っぱ」がいくつもあった。神田の佐久間町で見世物が行われていたのもその一例、明治三年(1870)、火伏せの神である秋葉神社がまつられ、「秋葉原」と呼ばれるようになる。この年の一月、秋葉原で話題となったのは、前年から人気を呼んでいた植木を使った「八陣の備え」という迷路であった。その他にも、活人形・ろくろ首・地獄を再現する操り人形・名鳥茶屋・菊人形・足芸・大阪相撲義太夫・新聞縦覧所・エレキテルなど数多くの興行が行われていた。秋葉原は、明治二十一年(1888)、駅及び鉄道用地になるまで、時には見世物小屋の取り払い命令を受けることもあったが、庶民の盛り場として栄えた。
 七月の川開き、帝国大学の動物学教授として来日していたモースは、この当時の一大イベントを知人三人とともに見物した。夜になって出かけたので、墨田川についたころには、広い川も見渡す限りボートや遊覧船で埋まっていた。一艘の船がお客を求めて岸に近よってきたのでそれに乗り、群衆の中に入っていった。色鮮やかな提灯がつるされた船には、敷物が敷かれ、その上には皿や酒徳利が並べられ、それを取り囲むように家族が友人とともに座り、芸者たちが三味線を掻き鳴らし歌っていた。すべての船に子供が乗っており、物静かな酒宴もあり、どちらを向いても、気のよさと行儀のよさが感じられた。モースたちは花火を打ち揚げている岸に近づこうと、船の迷路の中を行ったり来たり、衝突しながら進んだ。しかし、この大混雑の中でも、荒々しい言葉や叱責はなく、「ありがとう」や「ごめんなさい」との声が聞こえてくる。レジャーを楽しむ日本人は、みな優雅で温厚だと、モースは感心しきりであった。
・西欧の見世物、博覧会が大当たり
 第一回内国勧業博覧会は、八月に開催された。この大イベントで、市民レジャーに大きな変化があらわれた。博覧会は、上野公園で約三万坪(10ha)という広大スペースで、陳列館6館、出品数8万余、約百日間にわたって催された。表門に大時計をかかげ、アメリカ式大風車が飾られ、売店も37軒んだ。入場料は、大人が日曜日15銭、平日7銭、土曜日3銭で、連日物見高い見物客でにぎわい、期間中、約45万人もの入場者があった。それまでの庶民の娯楽は民間が提供していたが、内国勧業博覧会は政府主導、それも国策として興行された。また、博覧会のスタイルも江戸時代からの見世物方式と縁を切り、欧米の大博覧会を模倣して開催された。それにしても、東京の人口の半数を超えるほどの人が訪れたということは、夏から秋にかけての例年の娯楽を差し置いて出かけたものと推測される。そして、この博覧会は、以後のレジャー形態に少なからず影響を与えることになる。
 明治十年といえば、二月に西郷隆盛西南戦争を引き起こした年である。東京では、三月ごろから西南戦争を題材にした講談などが庶民のあいだで人気を博していた。徴兵制の効果をいかんなく発揮した政府軍の勝利は、二年後のさらなる徴兵令の改定へと向かうことになる。しかし、西南戦争は東京から遠く離れていたこともあって、戊辰戦争に次ぐ大規模な内戦にもかかわらず、博覧会は戦争中であっても予定どおり開催された。しかも博覧会が大盛況であったところを見ると、戦争とはいえ大半の庶民にとっては、自分たちの生活に影響を与えるほどの大きな事変だという認識はなかったものと思われる。

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明治十年(1877年)の主なレジャー関連の事象
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1月Y秋葉原鎮火社境内に植木迷路の「八陣の備え」人気、浅草五重の塔傍にも開業/東京曙+読売
1月Y藪入りで市内の盛り場は、大賑わい/読売
1月Y初卯に屋根船10艘の大一座を組み、隅田川で芸者遊びする者あり
1月Y九段招魂社、大相撲と競馬で賑わう
1月○浅草北馬道の花月、天ぷらお茶漬けを開業
2月Y回向院で、大無尽が行われ、八千本の籤、墓場から門前まで立錐の余地なし
2月○飛鳥山公園で、春時に茶店を許可、10ヶ所付近の住民に清掃の課役で借料は無料の慣例とする
2月Y東京府、市街でタコ揚げ、羽打ち、独楽等を交通妨害とるため、まかりならぬと布達
2月○警視本署、楊弓店取締規則を布達
2月○警視本署、浅草公園内の揚弓店の夜間営業が認可
2月Yまだ旧弊な稲荷祭が盛ん
2月C柳橋の榎本亭の入場料2銭5厘/朝野
3月K春木座、不景気でも安芝居は大入り/かな
3月K芝の太神宮の正遷宮、説教と倭舞
3月K両国の立花屋の寄席、大阪の竹本綱太夫が語りはじめてすぐ桟敷が落ちる
3月Y府は、小学校に子供の戦争ごっこをやめさせるよう通達
4月Y上野・向島には花見、洲崎・品川には潮干狩りに人出
4月C神田花岡町の見世物、龍宮城に五丈五尺の乙姫人形、中に入り登り目玉から景色俯瞰
4月E新富座仮普請落成開場、「富士額男女繁山」上演し好評/日本演劇史年表
4月Y芝の東照宮、押すな押すなの人出
5月神田花岡町、飯田町の見世物興行を閉鎖
5月Y浅草の居合抜き興行が大人気
5月C築地で、気球を飛ばし、見物人多数でる
5月Y牛込のバラ園は花盛り
6月Y春木座が忠臣蔵で大当たりし、休演なしで興行する
6月K目黒祐天寺開帳
6月K上野東照宮祭典、大層賑わう
6月Y北品川で大和杖興行、剣術の稽古が盛んに
7月Y招魂社大祭が大賑わい、着物切りや窃盗などの被害あり
7月Y高輪海岸の無料休憩所、涼風と冷水で好評
7月○東京府、不許可の場所での遊泳を取り締まる(溺死事故のため)
8月Y見世物の夜間興行を禁止、日没を限って閉場すべしと布達
8月Y富士山は登山参詣人が急増する
8月○上野公園で第1回内国勧業博覧会が開催(約3ヵ月間)、入場者総数45万4668人
8月H王子滝野川の滝、涼を求めて群集する/郵便報知
9月Y浅草奥山で大器械(カラクリ)活動人形の見世物興行
9月Y芝の長応寺境内で毎月相撲を興行、素人の飛び込みも歓迎
9月Y風流な行楽地では人出減る
10月Y団子坂の菊人形が、清元浄瑠璃長唄常磐津などを題材に作られる
10月H王子滝野川の紅葉、今を盛りとして賑やか
10月Y築地海軍操練場で外国人が運動会
10月Y横浜の相撲、いつものように盛況
11月Y招魂社の祭、競馬・奏楽があり賑わう
11月Y内国勧業博覧会、提灯・花火で華やかに終わる
11月○東京府、回向院の相撲興行再興を許可
11月C牛肉屋がぐんぐん増え、558軒
11月Y四谷の桐座が幕数を増やし見物料を半額に
11月Y一の酉、熊手は前年の倍値、人出は多いが財布の紐は堅い
12月Y相撲見物に全日、女性の見物を公認
12月Y愛宕の歳の市、人出がある