現代より遊んでいる明治十一年の庶民

江戸・東京庶民の楽しみ 107
現代より遊んでいる明治十一年の庶民
五月大久保利通暗殺/七月都区町村編成法公布/八月竹橋事件

・庶民の遊びはさらに盛ん
 正月の三箇日は雨にたたられた。年始回り、初荷、鳥追い、お宝売りもみな雨に濡れて難渋したと新聞に書かれている。五日は好天に恵まれ、水天宮が参拝人で活気づき、凧揚げや羽根つきも盛んであった。三月、鉄道運賃値下げで川崎大師に出かける人が増加し、周辺の食べ物屋が盛況になった。また、コイに懸賞をつける釣り堀が橋場にでき、当たりの番号を釣れば絹地などの景品をもらえるという趣向が評判を得た。四月の芝・出世弁天の祭礼は、甘酒の接待や神楽が催されて賑わったが、矢場の女が目当ての客が多かったのではという記事がある。五月には、深川と佃島の漁師が船祭を催し、品川の台場近くまで漕ぎ出して飲めや歌えの大騒ぎであったとか。
 七月の川開きは、大量の花火が打ち揚げてれ、涼しいわりに賑わった。また、隅田川の川施餓鬼が再興、都鳥の灯籠を百余り浮かべ小舟に結んで漕ぎ流し法会とした。当時の花火は、今日のように一日だけ催されるのではなく、七月の初旬から八月の下旬頃まで続き、その間、船宿や茶屋は様々の催しを企画して客を迎えた。水神祭には、灯籠流しとともに、龍宮場を模した船をうかべて酌人の乙姫を乗せた。遊覧船は、肌を見せて女船頭が漕ぐというので、朝から晩まで客が絶えなかったとある。二十日を過ぎても、風船花火の打ち揚げて多くの人が出て、乗合船は大繁昌であった。
 明治改元から十一年を経た東京(15区、昔の江戸市中)の人口は、前年より7万人増えて約81万人。幕末期の人口(約百万人)よりは少ない。しかし、東京の町は、年を追って庶民の遊びが活発になっていたらしく、江戸時代よりむしろ賑わっているようだ。当時の東京に暮らす人々がどの程度遊んでいたかを、東京府統計表から示すと、寄席の観客が約380万人、諸見世物が約61万人、芝居が約56万人となっている。その他、統計に表れない遊技場や祭などの催しもあり、現代人よりもはるかに多くの人が遊んでいた。
・寄席と見世物はいつも満員
 明治二年(1869年)の人口は約50万人であった。慶応二年(1866年)の窮民調査などをもとに人口構成を推測すれば、上層階級が2割、中間層が約3割、下層が残りの5割となる。上層は名主や地主階級で、下層とは、困窮時には三度の食事のうち二食を粥にしなければならなかった層のことである。当時の上層と下層との生活程度の格差は、容易に縮めることができなかった。約十年経過して人口が増加しても、生活格差を変える社会的変化はなく、東京の人口構成の割合は変わらなかっただろう。芝居を見るのは上・中間層、見世物や寄席は中・下層と分かれ、レジャー形態にも階層の違いがハッキリ現れていた。
 寄席は、落語、講談、手品、写し絵、義太夫など芸事のすべてを演じる場であった。テレビはもちろんラジオもない時代にあって、寄席が庶民の最大の娯楽であったことは、観客数を見ると容易に察しがつく。約380万人ということは、平均すると東京市民が一人当たり一年に約五回訪れたことになる。おそらく寄席がかかっている日は、連日のように通っていた常連が大勢いたのだろう。いうまでもなく客の大半は庶民であり、仕事が終わった後にほっと一息つく、恰好のレジャーとして庶民の間にかなり浸透していた。
 次に、見世物の観客数についてだが、臨時の興行や大道芸のようなものも含めると、実際には61万人を優に超えるだろう。市民が見世物を見る回数は、平均しても年一回程度はあったと考えられる。この年の二月、浅草公園で、水のからくり人形が興行された。見世物興行は、往来の邪魔になるとか見苦しいとかいう理由で、許可される場所が江戸時代に比べて少なくなっている。そのため見世物は、浅草、下谷、本所、深川などに20ヶ所程度が常設され、他に開帳や祭礼などが臨時に催されるという状態になっていた。そして六月に、亀井町亀甲亭で、矮人(小人)の見世物が出たことでもわかるように、江戸時代と変わらぬいかがわしい出し物も、まだ時折行われていた。珍奇なもの、醜悪なものを見たいという庶民は、まだまだ多かった。しかし、猥雑なもの、見苦しいものどを気嫌いする政府によって、江戸時代と比べると見世物はかなり制約されていた。
・新装の新富座をモースが見学
 二月、新富座で前年起きた西南戦争を題材にした「西南雲晴朝東風」は、市川団十郎西郷隆盛役で公演して80日余の大入りが続いた。以後、西南戦争狂言が大流行、また浅草奥山では支那劇(三国志)が催されるなど、芝居に関する話題が新聞紙上を賑わした。しかし、芝居は、観客数こそ年間50万人を超えていたものの、観客数380万人の寄席とは一桁違い、所得の高い層をターゲットにした娯楽であった。八月、新富座が観客層を広げようと、それまで早朝から上演していた芝居の慣例を改め、夕方からの夜間興行を開始した。とはいえ、芝居は、市民の誰もが見ることのできるものではなく、見世物を見る層と寄席へ通う層とは共通しても、芝居を見る層とではやはり隔たりがあった。
 モースは、六月に新装オープンした1,500人収容の新富座に子供連れで出かけた。舞台の内外にガス灯を設置し、座席の前売りを行いなど近代的に造られた新しい劇場をつぶさに観察している。玄関は、日本人の身長に合わせているため、天井が低く、モースは垂木に頭を打つくらいの高さであった。中に入ると、靴は合札をつけられ、大きな切符を手渡された。壁に履物が何百と並んでいるのは奇妙な光景だと書いている。モースが芝居を最後まで見たかはわからないが、この時の芝居は朝六時に始まり、幕間を含めると十五時間、晩の九時に終わるというものであった。
 このように、当時の芝居は、場合によっては前日から出かけるほどの時間の余裕と、4円程度の入場料に加え芝居茶屋の飲食代が必要で、金持ちでなければ気軽に楽しむことはできなかった。モースは、そんな観客についても観察している。客席は、薄暗い巨大な納屋の広間とでもいうような感じで、椅子も腰掛けるベンチもない、升席で区切られた桟敷であった。そこでは、母親が赤子に乳房をふくませたり、子供たちは芝居を見ないで居眠りをしたりしていると。また、桟敷の火鉢には湯が温められ、老人が煙草を吸っていた。芝居の観客の態度は、すべての人が静かで上品、礼儀正しく座っていたと、褒めている。

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明治十一年(1878年)の主なレジャー関連の事象
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1月Y三箇日は雨、年始回り、初荷、鳥追い、お宝売りも難渋/読売
1月Y両国の大相撲、十日間で観客1万人余
2月C浅草公園で、水のからくり人形興行/朝野
2月○東京府、市街における子供の竹馬遊びを禁止
2月○東京警視本署が相撲関係の取締規則を布達
2月C新富座、日本一の規模で落成⑩
3月E新富座で「西南雲晴朝東風」を初演、80日余の大入り/日本演劇史年表
3月N浅草広小路に馬車待合所設置願い/東京曙
3月Y橋場にコイに懸賞をつける釣り堀、絹地等の景品を出す
3月Y川崎大師、鉄道運賃値下げなどで食い物屋満杯の賑わい
3月L深川猿江町の寄席富山亭で、奇術の順天斎正一が警察に拘引される/東京絵入
3月Y蒲田の梅屋敷、巣鴨の群芳園のウメ盛り
4月Y芝の出世弁天祭礼、甘酒や接待や神楽で賑わう、矢場の女目当ての客も
4月C西南戦争狂言が流行⑨
4月K上野と芝の東照宮祭礼賑わう/かな
4月K新井薬師開帳で大賑わい、延長を申請
5月Y深川と佃島の漁師が船祭、品川の台場近くまで出て飲めや歌えの騒ぎ
5月Y横浜根岸競馬場で外国人が競走、観客多数
5月Y築地海軍操練場で外国人が運動会
6月L亀井町亀甲亭で、矮人(小人)の見世物の興行/東京絵入
6月Y浅草浅間神社祭礼、麦藁の蛇売れず
6月Y水泳場、浜町と合引橋は例年どおり、石原町は看護人を置き無料
6月Y新富座が近代設備で新装開場
6月Y高輪泉岳寺の開帳、日延べに
6月Y人力車が新聞を備えてサービス
6月Y回向院の相撲興行、10日間で2万6467人
7月Y王子、滝と製紙工場の見物で賑わう
7月T東京鎮台に水泳場を設置/東京日日
7月T揚弓、麦湯店などの客引きを禁止
7月Y隅田川の川施餓鬼再興、灯籠百余を浮かべ小舟で漕ぎ流す
7月Y招魂社の花火大会が大賑わい
7月Y浅草奥山で支那劇(三国志)を催す
8月E新富座で、はじめての夜間興行が行われる/日本演劇史年表
8月Y両国の花火、流灯会に押され気味
8月Y越前堀で草刈吉五郎の大曲馬長期興行
8月Z東大の学生たちが隅田川新大橋より千住まで遠泳する/真砂新聞
8月N水泳場二軒で客を引く女がでる/東京曙
9月Y新吉原の俄踊り、蜘蛛男の道化などで好評
9月Y兜町の稲荷祭と芝の不二講社、彼岸で賑わう
9月Y講武稲荷社の祭礼、芸者の地踊りで賑わう
9月H芝土橋から比丘尼橋までの間の見世物興行が許可/郵便報知
10月Y深川の手踊り興行場で桟敷が落ちケガ人
10月L下谷金杉村の初音座、綱の上の踊り興行、芝居類似のかどで出頭を命令
10月Y上野寛永寺の中堂棟上げ式、餅や銭を撒き盛大九段招魂社、かなりの人出で賑わう
11月Y築地本願寺報恩講、白連社中も参拝し賑わう神田の歳の市が賑わう
11月Y天長節、日曜と重なり行楽地が賑わう、浅草の酉の市は大混雑する
11月C根津裏門より駒込団子坂の菊人形、上等1銭~下等3厘
11月C演劇類似の所作は興行差し止め⑳
12月Y神田の歳の市が賑わう
12月K好天に恵まれた浅草歳の市、大勢の人が繰りだし賑わう