大正八年後期、庶民の遊びは続いている

江戸・東京庶民の楽しみ 163

大正八年後期、庶民の遊びは続く
 景気の落ち込みを目前にした大正八年の後期、景気の良いのは上流階級を相手とするもの。ただ、庶民の遊びは景気の後退、生活苦になっても直ちに減ることはないようだ。  

・九月「罠に引掛った観劇客」七日付讀賣
 この年は九月に入っても暑かったらしい。永井荷風は一日の日記に、「この日より十五日間帝国劇場にてオペラを演奏する・・・この夜の演奏は伊太利亜歌劇アイダなり。余は日本の劇場にて、且はかゝる炎暑の夕、オペラを聴き得べしとは曽て想像せざりし所なり。」と。二日の夕方「トラヰヤタ」の演奏を聞いたと書いているが、その時の劇場は温室にいるようだったとある。かってニューヨークで聞いた時は雪の中だったので、何だか別の曲を聞いたような気がするとも書いている。三日は「フオースト」を聞いたのだが、残暑ますます甚だしと。四日に「カルメン」。五日には「ボリスゴトノフ」の演奏を聞いて、厳しい暑さに疲れ、翌日は寝込んでしまった。
 この年の春に、帝劇で「イントレランス」を特等5円・四等50銭という破格の料金で興行し大当たり。そこで五月にも支那から名優・梅蘭芳を呼び、特等10円という驚くばかりの見物料を吹っ掛けた。ところが、観劇客は、高ければ素晴らしいものだという罠にまんまと引っ掛かり、巨額の利益を得た。これに味をしめた興行主は、九月はロシアから大歌劇団を招いて十五日間の興行。料金も特等12円・一等10円・二等7円・三等3円・四等1円と設定したので連日満員だと15万円を超える収入になる。当時、日本より遥かに物価の高かったロンドンでも最高で5円50銭程であり、ベルリンでは4円、米国ならさらに安いはず。いくら遠い国から招いて高級ホテルに泊めたとしても、物価が高騰するなか10円以上の観劇料を喜んで払う上流社会・成金社会の贅沢趣味・虚栄心には全く驚かざるを得ない、これは社会問題であると、結んでいる。
 永井荷風は、十五日に再び帝国劇場へ出かけ「ボリスゴトノフ」の演奏を聞いた。二十一日の日記は、「我国亡命の歌劇団、この日午後トスカを演奏す。余帰朝以来十年、一度も西洋音楽を聴く機会なかりしが、今回図らずオペラを聴き得てより、再び三味線を手にする興も全く消失せたり。此日晩間有楽座に清元会あるを知りし徃かず」と。西洋音楽に圧倒された様子、邦楽にはないスケールの大きな魅力にとりつかれたのは荷風だけでないだろう。
 彼岸の入りが日曜ということで、子供連れで外出する人が多く青山・谷中・染井・雑司ヶ谷などをはじめ市内各所に参詣の人が賑わった。上野や浅草はいつもの通り人出が多かった。また、川崎大師や西新井大師は、正五九の二十一日ということでというわけで人出が多く、混雑を極めた。
・十月「大繁盛の日曜 帝展とべったら市」二十日付讀賣
 十二日のお会式は、空前の人出だった。あまりにも混雑したため、大森駅では信徒たちが院線の線路に押し出され、そこへ電車が進入するという事故。死傷者十数名という惨事が起きた。
 十九日の日曜日は晴天で、日比谷公園や浅草、近郊はどこも大変な賑わい。わけても帝展は、朝早くから上野界隈の人出を吸い込んでいた。帝展の入場者数は1万5千余、前年より2千人少ないというものの大混雑。午後二時から早大グランドで、早稲田対満州倶楽部の試合が行われ10対1で早軍の大勝。新聞に観衆2万と書かれているが、帝展の入場者数よりおおかったとは思えず、実際には1万人にも満たなかっただろう。夕方からはベッタラ市が開かれた。非常な人出で堀留署は付近各署に応援を求め往来の安全に力を尽くしていた。日本橋小伝馬町一帯に並んだ露店には、数万の人が押し寄せて賑わった。
・十一月「帝展の入場者は二万人から減少」七日付讀賣
 この年の帝展の開催より二十四日間で16万6千人余、入場者数は前年に比べて2万人も減少した。最高記録が十月十九日の約1万5千人、最も少なかった日が1,945人であった。入場者が減ったのは、雨が多かったのももちろんだが、何といっても不景気の影響だろうと。もっとも、期間中の作品の売上額は4万3千円と前年より6千円多くなっている。これはつまり、作品を購入する層の所得は伸びたが、見物する層の生活は確実に苦しくなっているものと推測される。なおその後は、多少持ち直したと見えて、会期末の二十日までの層には約23万人に快復した。
・十二月「押詰った歳暮の街 景気の良いのは料理屋と芸妓許り」二十五日付報知
 例年、新聞紙上を賑わせる酉の市や歳の市に関する記事は、この年はなぜか減少気味。これに変わって、歳暮や百貨店に関する記事が目立ってきたようだ。例えば、三越白木屋高島屋などの店頭が、歳暮を買うために来た小口切手を持った人々で賑わっているとか、百円もする羽子板が例年なら浅草だろうが、この年は日本橋白木屋で四枚売れたとのこと。また、二十五日、上野精養軒が1円50銭の会費で開いた聖誕祭(クリスマス)には、着飾った令息令嬢で立錐の余地もないほど。築地精養軒も同様。霊南坂教会・九段教会・富士見教会などの少年少女の合唱や芝居、唱歌劇、映画など各々趣向を凝らしていた。むろん、デパートに行ったり、クリスマスとはいえ、教会に足を運んだ人などは、市民の1%にも満たないごくわずかな人々であることは言うまでもない。
 産業界の景気は良いものの、その恩恵を受けたのは中流以上の人々、下層階級の人々の多くは諸物価の値上がりに苦しめられていた。歳末の買い物は、公設市場にたよる人が多く、それも年の瀬のギリギリまで待っていた。三十日の新聞(万朝)に、低所得者向けの公設市場(州崎・富岡門前等19ヶ所)が大晦日は徹夜で営業すると。また、31ヶ所の公設市場は、年内一杯の十二時まで営業。翌年の二日に売り初め、三日は休業するが四日からは平常通りの営業になると。下層階級の人々は正月の用意は三日までしか持たなかった。

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大正八年(1919年)後期のレジャー関連事象・・・                     ────────────────────────────────────────────
9月4永 荷風、帝国劇場でカルメンを聴く
  7読 帝国劇場、特等12円の大歌劇        
  9万 新富座曽我廼家五郎「うっかりもの」三日間大満員御礼
  15万 明治座明智光秀」他四日間満員御礼
  22読 彼岸、川崎大師や西新井大師なども賑わう
  25読 コレラの流行に付取締り厳重で、寂しい魚釣り 
  29読 観楓列車、一等客車十月末日まで連結
  29読 帝国劇場、自由劇場の「信仰」他6・7分の入り
10月5読 蜂須賀候邸の園遊会
  10永 荷風、歩みて目黒不動の祠に詣づ
  12森 鴎外、妻子と目黒植物園・芝公園で遊ぶ
  13万 お会式空前の人出、鉄道事故死傷十数名    
  18読 帝展三日目祭日で賑わう14,439人入場
  20読 大繁盛の日曜、帝展とベッタラ市が賑わう
  20読 早稲田対満州倶楽部野球戦、観衆2万
  20読 三友館「牡丹のお蝶」初日満員
  24万 葵館「復活」他連日満員御礼
11月5永 荷風、帝国劇場に立ち寄る。是夜初酉なり
  7読 明治座「傀儡船」二日目満員
  8万 富士館「柳生十兵衛」他連日満員
  16万 歌舞伎座「鎌倉図鑑」他満員続き
  16読 翌月1日より活動写真の甲種乙種制度撤廃
  19読 菊花拝観者範囲広まる
  20万 彌生座「忠臣蔵」初日以来満員
  21万 帝展の入場者数、十九日迄で22万7千人
12月2読 生活改善展覧会に入場者1万人
  11万 歌舞伎座の竹本越路太夫大入御礼で日延べ
  15万 深川八幡の歳の市
  15読 白木屋高島屋、下足番が汗だくだく
  20万 明治座の奈良丸満員御礼
  23読 白木屋で百円の羽子板が四枚売れる
  25報 景気の良いのは料理屋と芸妓許り 
  27万 相撲の観覧料を春から値上げ
  31永 表通には下駄の音猶歇まず。酔漢の歌いつつ行く声も聞ゆ